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2010年06月30日

君の心が一番に和む時はどんな時?

君の心が一番に和む時はどんな時?

長い年月をやり過ごし、馬齢を重ねるとつい、「お前に取って心が一番和むときはどんな時だ?」等と自問をしてみたくもなります。

仕事をしているとき、
仕事から解放されたとき、

家庭にいるとき、
子供達と共にいるとき、

孫と遊ぶとき、
友人と語るとき、

胸襟を開き飲んでいるとき、
運動をしているとき、

野山の散策のとき
スナックなどで飲んでいるとき、

カラオケでも歌っているとき、
映画を見ているとき、

ドライブで出かけているとき、
旅行に出かけているとき、
趣味に没頭しているとき、



様々な場面がありますが、一番はやはり家内と一緒の時でしょうかね。

私に取っての「至福の時」、一番心が落ち着いて、しかも心が和むひとときは約40年連れ添った家内との時間です。

そんな馬鹿なとか、嘘だろうとか、社交辞令では?、表向きだけだろうと思われる方がおられるのかも知れませんが決してそんな事ではありません。

惚気(のろけ)でもありませんし、妻に対するゴマすりでもありません。

だって家内がブログを見ることは決してありませんし、ましてや私の口からそんな事を言うわけもありません。

でも、どなたででもそうですがこの人といると、極めて心がなごむ、そんな存在の人がいるといいですね。

どんなに多忙な日々であっても、その人とのひとときが最大最良のものであって疲れも吹き飛んでしまうような。

書いていても照れくさい話ですが珠にはいいですね。


『私の人生最初の成功は1957年。
この年、私は妻のバーバラに出会ったから…。ゴルフの帝王ジャックニクラウス』


『君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。ソクラテス』


『家を買う時は梁を見る。妻をとる時はその母親を見よ。中国のことわざ』
  


Posted by misterkei0918 at 18:05Comments(0)

2010年06月30日

米粒の見当たらないお粥

米粒の見当たらないお粥

最近の若い方々はお粥と言ってもピンとこないかも知れませんね。

今どき上品に言えば、何とかスープ等と言うのかも知れませんね。

また、「白いご飯」等の表現も怪訝(けげん)に思われるかも。

戦後は裕福な家庭やお米農家ならいざ知らず、白いご飯を満足に頂けるなど想像に難いものでした。

お米を作っている農家でも、貴重でしたから自分の口に入れる前に現金に変える事が大事だったのです。

私が幼い頃は、母と離れて祖父母の家庭で育ちました。

田畑も多く所有し山間の木材や椎茸栽培、或いは漁業もしていましたので周りよりは比較的恵まれていましたし、お米も作っており脱穀精米まで自家で処置していましたので、当時としては貧しい思いをしたことはなかったような気がします。

その後、祖父母と離れて以降は、母との二人暮らしになりましたが記憶の中には満足に白いご飯を見た記憶はありません。

病弱な母は入退院を繰り返し、私一人でご飯を炊き、具のない味噌汁を作って寂しく一人で食事をしていたものです。

小さい頃は当然、上手に食事など作れるわけがありません。
隣の大家さんが、時々は不憫に思われて様子を見に来てくれたものです。

それでも寂しい時には母の病院に出かけ、母のベットの下に寝かせていただきました。

当然、許されていないことでしたので看護婦さんが気を利かせて内緒にしてくれていましたし、しかもお目こぼしをしてくれていたようです。

その病院から小学校へ通学したのを今の事のように記憶しています。

当然。生活保護の世帯でしたので満足な生活は出来ません。

その生活保護費の金額も当時は極めて少ないものでしたし、貰うにも恥ずかしい、悔しい思いもしたものです。

当時は、受け取るのに市役所?か福祉事務所の前の道路に向いた入り口に列んで受領をしていました。

友達や知人が傍を通りますので、子供ながらに悔しかったものです。

当然、自宅でのご飯はお粥。
ご飯粒がどこにあるのだろうかと思うほどのお粥でした。

それでも一人美味しく頂いたものです。
おかずはありませんから、醤油をお粥に掛けたり、お味噌と食べたり。

今であれば、とんでも無い食事でしょうね。

当時は生活保護を受けると、テレビも置けない、高校にも進学できない状況でした。

私の高校進学にも一悶着ありましたので、またの機会に。

でも、当時はそれが当たり前だったんです。
三食食べられるだけでも良かったんですから。

懐かしい思い出です、時代はそんなに昔ではないのですが。
  


Posted by misterkei0918 at 09:38Comments(0)

2010年06月29日

愛は過ぎると憎しみに変わる

愛は過ぎると憎しみに変わる

子育てで最も困るのは、過剰な愛情を注ぎすぎることではないでしょうか。

所謂、溺愛・過干渉というもの。

放任もいけませんが、むしろ溺愛、過干渉から比べればまだましと思えます。

子供は親から見放されても、或いは私のようにノー天気な親父であっても逞しく健気けなげ)に生きてゆくものですが世の中で様々なトラブルや想像を超えた事件を犯す人間の多くが、哀しいかな幼児の頃の教育や家庭環境、子育てに象徴されるようです。

過ぎた愛情は、時として形を越えてとんでもない行動や犯罪をも誘発し、世間を驚かせる事態もしばしばです。

ストーカー行為なども、最初から犯罪的な行動ではなく愛情の発露として結果的には嫌われる行動になってしまうものが大半でしょう。

「可愛さ甘って憎さ百倍」などといいますが、事実そんなところがありますよね。

殆んどの皆さんが経験しているのではないでしょうか。

愛するが故に求めるものも大きいですし、期待も大きく膨らんでしまいます。

それだけに、思うようにならない歯がゆさや、もどかしさが、攻守形(こうしゅ、かたち)を変えた時の反動の大きさはどうにもならないほどに、感情を揺さぶってしまうものです。

こんな事を考えてみますと、余りにも過度な気持ちの入れ込みは決して良くはなさそうです。

日常の色んな事でも言えることがあるのかも知れませんね。

余りにも気を入れこみすぎるとか。足元を見失うほどに没頭してしまうとか。

修羅場や憎悪に満ちた関係は、修復は不可能ですし、例え戻ったとしてもそれはどこかに傷跡を引きずっているものです。

愛情もそうですが、深みに入りそうな予感ってあるものです。

そんな時のために、余り過度の執着をしない訓練や人間の尊厳、人の心の痛み・・・など、また人を愛する多くの機会を持つことも大事なのではないでしょうか。

そうですね、
人を愛したり、愛されたりの経験や心のキャッチボールをなるべく多く経験することが良さそうです。

そんなところから、健全な人との関わりの大切さや相手の心への踏み込み方を学ぶのかも知れません。

「過ぎたるは、及ばざるが如し」
私も明日から心して、日常を過ごしたいものです。


『どんなにその人を愛していても、その人のためにすべてを犠牲にしてはならない。
なぜなら、必ず後で、その人を憎むようになるからだ。曾野綾子』
  


Posted by misterkei0918 at 18:52Comments(0)

2010年06月29日

人一倍の努力をするしか方法な無いんだね

人一倍の努力をするしか方法な無いんだね

人には決して平等に力は備わっていません。

生まれ方、育ち方にもよるでしょうし、環境、親の力、知的能力や先見力、経済状態・・・・・自分にはどうしようもないものだって存在します。

或いは存在しない人もいると言ったほうが正しい場合もありそうです。

本人の意識の問題や、努力の程度、真剣さや吸収力・・・・・

素晴らしい師に出会ったか、そうでなかったか・・・・・、
後押ししてくれる人物が存在したかしなかったか・・・・・、

存在してもそれを有効に活用、利用したのかしなかったのか。

差がつく要因は詮索すればきりがありませんし、能力のない私のような人間は出来なかった理由や弁解を並べ立てる能力につけては人を寄せ付けません。

考えてみましたら、物事に対峙したときにどれだけ真剣に前向きに、継続的に取り組んだのかの差が大きいような気がします。

私のように行動力の乏しい人間や、記憶力の無い人間は人の力を頼りにすることにも遠慮があったり、余計な深謀が働き結果を事前に図り、実践に移すことに躊躇が激しいものです。

どうも、悔しいけれど人一倍努力をする以外に方法はなさそうです。

自らの努力が果たして人一倍なのかの判断も、実は主観的、曖昧なもので人一倍頑張っているつもりが案外人の半分程度かも知れませんし、ただの自己満足でしかなかったりもします。

しかも人は自己の評価には甘いもので、過大評価だったり、自己満足だったりいい加減なものでもあります。

でも、それ以外に秀でる術(てだて)は無いことを知らないといけませんよね。

「どうせ頑張ってもたかが知れている」
最初から「無理!!」、「能力が無い」などと諦めていること事態が折角の成長や成功の芽を摘むことになってしまいますし、極めて残念なことです。

人はどこから芽吹くか分からないものです。

ほんの小さなきっかけや思いつき、ひらめき、人との関わりがとんでも無い結果を作り出したりするものです。

努力しない理由、努力できない理由・・・・・いくらでも存在するものです。
その事で満足の域に達する人は、それでもいいかも知れませんね。

「成功は努力の賜物(たまもの)」と言います。
伴った努力は多くの副産物を残してくれますし、これからも与え続けるものです。


『おおよそ完全無欠な仕事というものは、多くの小さな注意と、小さな仕事とが相集って成る。
故に大事を完成するものは、細心の注意と努力。ミケランジェロ』


『オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである。
人生で大切なことは、成功することではなく、努力することである。クーベルタン』


『機会は努力する者を訪れ、怠ける者からは去っていく』


『幸福になりたいと思い、幸福になろうと努力を重ねること、これが幸福への一番の近道である。トルストイ』


『偶然とは、努力した人に 運命が与えてくれる橋です』
  


Posted by misterkei0918 at 13:02Comments(0)

2010年06月28日

成功したければ成功した人に、幸せになりたければ幸せな人に

成功したければ成功した人に、幸せになりたければ幸せな人に

人は他人からの影響を無視しては、前進はありません。

或いは後退も他人から学んでいるものです。

考えてみましたら、他人の成功体験は極めて参考にもなりますが、失敗体験は余り参考にもなりません。

逆に自らの行動で学ぶのは、むしろ失敗からでしょうか。

自らの成功体験を大事にする人、成功体験に酔いしれている人はその事に埋没し、心を奪われ、いつの日か足元を掬(すく)われ、守勢に立ち、時には大変な失敗をしでかしたりするものです。

過去に犯した自らの失敗体験は、様々なことを浮き彫りにし、今後に大いに役立つ情報を提供してくれます。

友人たちの多くもそうですが、
成功体験に浸るまもなく、早々に次への挑戦を試みる人に限って再び成功の陽の目を見ているような気がします。

他人の成功体験に学び、自らの失敗体験に学ぶ。

どうも他人の失敗体験を聞いたりはしますが、事の本質を見抜けませんし学ぶべき失敗体験は余り教えて頂けないというのが本当のところでしょう。

失敗した本人は、それからかなりのものを得ているはずなんですけどね。

よく言います。
「成功したければ成功した人に近づき、幸せになりたければ幸せな人に近づきなさい」

「成功したければ、成功した人のようにしなさい」とも言います。

ある著名は方、
アメリカ出身の方ですが、今はシンガポールにお住まいですが世界をリードする立場になり、今では日本の若者たちからも羨望に眼差しで見られる方がいます。

世界中の著名な方々とも交わっておられる方です。
其の方曰く、
「自分は、著名な方々がどうして成功したかを徹底的に調べ、分析し、その通りにした」と言います。

この理屈で言えば、
幸せになりたい人は今幸せになっている人との接点を持てばいいのです。

でも、近づいたからいいという訳ではありませんよね。
近づくだけなら誰にでもできることですから。

やはり、つぶさに研究をし、真似を徹底し、継続的に努力を重ねることなんでしょうね。

私が存じ上げている通販会社の経営者は、自分がやりたい事業で成功した先駆者に近づき、今や年商600億の企業トップになっています。

以前は一介のサラリーマン、うだつの上がらない自営業者だったのですが。

いい結婚がしたければ、自分が希望するような結婚を果たした友人に近づくことでしょう。

人生は不思議なもの。

ただ、何となく惰性で日常を過ごすのか、一歩でも前進を望みながら工夫を重ねて行動に移すのか、その差は途轍もない差になって現れるようです。

私も若い頃からそんな事を分かっていたら良かったのですが、今頃分かったのではね。
  


Posted by misterkei0918 at 18:18Comments(0)

2010年06月25日

貴方の前には素晴らしい未来が横たわっている

貴方の前には素晴らしい未来が横たわっている

「素晴らしい未来が横たわっている」というと無条件に、なにもしないでも素晴らしい未来が飛び込んで来るような気がしますが人生はそんな楽なことではありませんよね。

そうだとしたら、誰も努力や苦労、辛酸を嘗める様なことには関わりたくありませんし、「果報は寝て待て」状態になってしまいます。

果報という言葉が出てきましたが、果報は「因果の報い」のことですからやはり努力をした結果、しなかった結果ということですからやはり果報を得るにもそれなりの努力が伴うということです。

逆に努力の足らない人、しなかった人にはそれなりということでしょう。

難しいのは努力の報いはすべて素晴らしい結果として出てくればいいのですが、無駄な努力であったり、徒労だったり、酷い時には努力をしたにもかかわらずとんでも無い結果が舞い込んでくることもしばしばです。

でも一般的には、いい結果を齎(もたら)すのが殆んどではないでしょうか。
でないと人類はあくせく頑張ることが大切であることを学ぶこともなかったでしょうし、人間としての今の存在などあり得ないでしょう。

人生の途中、失敗の洗礼を何度も受けることもあります。
ですが、その失敗の事実はより深い喜びや素晴らしさを成就させるため、或いは人間性を高めるために重要なことのように思われます。

未来は苦しいもの、幸せなどあり得ない、待っているわけがないと考える人と幸せの存在を信じ、弛まない努力を重ね、挫折を勇気を持って乗り越える人。

その差は言葉に言い尽くせないほどの差が生じるものです。

試してみるといいです。
「幸せなどあるわけがない、人生など所詮つまらないもの、苦難と奈落の底が口を開けて待っている」と唱えてみることです。

果たしてどんな人生になるか、自らが実践してみるといいでしょう。

こんな事を唱えているだけで背筋が寒くなります。

素晴らしい未来は「未だ来てない所」ではなく、貴方が信じて飛び込んでくるのを待っている所こそ未来なのです。

過去もそうですが、未来も自分の引き寄せの力によって呼び込まれるものだることを信じてみることです。


『未来は明日つくるものではない。
今日つくるものである。
今日の仕事との関係のもとに行なう意思決定と行動によって、今日つくるものである。
逆に、明日をつくるために行なうことが、直接、今日に影響を及ぼす。PFドラッカー』


『未来への希望を失うと、人生は退屈になってしまう。ベティデイヴィス(女優)』


『未来の幸福を確保する最上の方法は、今日できうるかぎ幸福であろうとすることだ。チャールズWエリオット』


『一般的に悪魔の誘惑は、未来の事柄に関しては、いつも安全が保証されているかのように思わせる。イグナティウスデロヨラ(イエズス会創設者)』
  


Posted by misterkei0918 at 22:14Comments(0)

2010年06月25日

口は災いの元、人の心の動きは不可思議?

口は災いの元、人の心の動きは不可思議?

余りにも無口すぎるのも困りものです。
何を考えているのかも理解できません。

そう言う私もどちらかというと無口なほうかもしれません。

逆に雄弁すぎるのも困ったものです。
「巧言令色、鮮(すく)なし仁」とも言います。

巧な言葉使いや弁舌爽やかなのは、時には人間性を疑ったり、下心の存在を気にしたりも致します。

おしゃべりでも、人を引きつける方がいます。
何時までも聞いていたいような。

やはりそれぞれに、心の問題なのでしょうね。
本当に気持ちのこもった言葉には引きつけられますし、温かみを感じるものです。

或いは、話の内容がより切実なことや人生に取って意義深いこと、社会活動や経営にとってより訴える内容であれば人々は充分に耳を傾けるものです。

と言うことは、訴える言葉は話す人・聞く人の心のあり方と内容と表情ですかね。

口をついて出る言葉は不可思議なものですね。

「決して口外してはいけないよ」
「あなたにだけ言うよ」
「内緒だけどね」

等と言われると確実に他の方へ伝播しています。

「あのお菓子は食べてはいけないよ」
「大事なものだから、開けてはいけません」
「貴重なものだから、大事に取り扱ってね」

こう言われると、食べたくなりますし、覗きたくのなります。
却って逆の事をしたくなります。

行動を唆(そそ)られるような、否定されることがむしろその方向への言動を誘ってしまいます。

それが人間の自然な行動なのかも知れませんね。

いずれにしても、口は災いの元。
言葉に惑わされない、しっかりした芯を持たないといけないのかも知れませんね。


『わずかしか知らぬ者は多くを語り、多くを知る者は言葉少ない。ルソー』


『やさしい言葉は、たとえ簡単な言葉でも、ずっとずっと心にこだまする。マザーテレサ』


『優しい言葉で相手を征服できない人は、いかつい言葉でも征服はできない。チェーホフ』
  


Posted by misterkei0918 at 10:30Comments(0)

2010年06月25日

恥をかくことは極めて大事、恐れないで!!

恥をかくことは極めて大事、恐れないで!!

若い頃の嫌な事の一つに、人前に出ることも嫌でしたが、ましてや人前で恥をかくことは最も嫌な事でした。

顔は火が出るほどに真っ赤になるし、耳たぶは溶けるほどに熱くなるし、どこにも居場所、逃げ場所が見当たらないような状況になってしまいます。

最近の方が「頭が真っ白」と言う表現も近いかも知れませんね。

それが講じると、大勢のところで発言もしたくありませんし、名指しされる事なども嫌なものです。
事前にそのようなことを想像するだけで、逃げ出したくなるものです。

しかも、人にものを訪ねるなども出来ればしたくなかったものです。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」

でも漸く今頃になって、恥は大いにかくべきであることに気づいたのです。

恥をかくということは、結局は自分の姿のありのままをさらけ出すことであって、実は避けるべきことではなかったようです。

知っていること、知らないこと。
物事の考え方、
人柄、
言動、
趣味嗜好・・・・・

全てではありませんが、さらけ出すことで信頼信用を築き、多くの人を呼び寄せるのです。

「胸筋を開く」と言う言葉がありますが、人との深い関係の構築にはそれぞれが心や自分の姿をさらけ出すことから始まり、信頼が作り上げられるものです。

恥をかくことに拘る人は、負けず嫌いだったり、正直者だったり、真面目な人が多いように思われます。

だから、人前で自らの不足な部分が出てきたり、指摘をされたりや異なった解答、ちょっとした行き違いにも反応をしてしまいます。

また、そんな方は想像が逞しい方が多いですから結果を早くから予想をしてみたりして、逆に決断をすべきことについては比較的に石橋を叩くような人生を送ったりするものです。

私がそうでしたから。

でも、恥はかき始めると心地よいものだと言うことを覚えるといいと思います。

人前で自分をさらけ出すことの喜びを味わってみて下さい。
慣れて来ることもありますが、結構な快感を経験するものです。

いいんです、恥は大いにかくべし。
強くなっていく自分を見つけることができます。
そうなるとしめたものです。

気づかれる人もいると思いますが、それを逆手にとって恥をかくことを得意とする人がいます。

世の中、打算ではいけません。見透かされてしまいます。


『他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。
しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは立派な恥だ。
ラポック(イギリスの探検家)』


『恥ということを打ち捨てて世の事は成るべし。坂本竜馬』


『恥は一つしかない。すなわち、なんの恥も感じないということだ。パスカル  


Posted by misterkei0918 at 08:50Comments(0)

2010年06月22日

教えることは自らの気付きに通ず

教えることは自らの気付きに通ず

何でもいいから、人に教えられるものを持つことは素晴らしいことです。

素晴らしいというと、人より優位に立てるからとか、注目をされるからなどの軽い理由に寄るものではありません。

他人に教えることが出来るほどに知識を持つ、あるいは経験を積むということは人並みではいけませんよね。

何処か少しでも優れているところや知識、経験があればこそ、人に教えることが出来るのであって同じ程度であれば教えてもらうまでもありませんし、却って無駄な時間を費やすことにもなり、相手の無知さ加減を確認し、侮蔑の眼差しを向けることにもなり、決して良いことには繋がりません。

人に教えようとすれば、伴って努力も必要ですし人よりも優るものが備わっていなくてはいけません。

学びや経験は、重ねるほどに自らの知識の浅さや経験の不足を知る結果となり、加速的に深まっていくものであります。

しかも、それらを教えることで有り難いのは自らの知識の浅さや経験の不足を知るだけではなく、人に理解させることの難しさやその要領を体得することではないでしょうか。

それは、自らに人生においても多くの人間関係に醸成に際立って意義深く役立ってくれるものであり、人を説得したり、諭(さと)したりする上で大きく貢献してくれるものであります。

出来れば、何か一つ人に教えてあげられるもの。
あるといいですね。

今からでも遅くないような気もします。


『人に教えることによって、もっともよく学ぶ。セネカ』


『学ぶとは心に誠実を刻むこと。
教えるとはともに希望を語ること。ルイアラゴン』


『教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく貴重な贈りものだと感じられるようなことであるべきです。アインシュタイン』
  


Posted by misterkei0918 at 23:37Comments(0)

2010年06月22日

教えて頂くことは有り難い

教えて頂くことは有り難い

先生に指導を仰ぐことは、当たり前ですし抵抗はないものです。
先生は教えるのが仕事ですし、年齢的にも上ですし、それなりの人格を備えた人物だと踏んでいますから。

ですが、後輩、私よりも年端のいかない人間から物事を教えてもらうなど、抵抗したくなる何ものでもありません。

でも、最近馬齢を重ねたんですね。
人から、とりわけ若い方から物事を教えていただくことに抵抗が少なくなってきました。

むしろ微笑ましくもあり、頼もしさを感じたり。

或いは、観念したと言うか、気が弱くなったと言うか、人間的に丸くなったと言うべきか。

考えてみましたら、やはり世の中が変わったんですよね。

一人の人間の知恵や知識だけでは、到底覚束(おぼつか)ない時代になりましたし、歳を重ねた人々が未だに経験したことの無い先進的な観念や技術が出てきて、その事については若い吸収力のある人間から学ばねばならない時代になったと言うことでしょう。

良く平成維新と言われますが、そういう意味では勝手の明治維新の様な姿が再現されているのかも知れませんね。

明治維新は今とは比較にならないほど、大変だったでしょう。

新しい時代の波のうねりを創るのも乗りきれるのもどうも若さが必要なようです。

歳を重ねても、若いものに混じって切磋琢磨を怠っては取り残されてしまいます。

相手が若造であっても最近は抵抗なく教えてもらうことが出来るようになってきました。

時代の波を若いもののように上手には乗り切れなくても、追いすがって行こうとすることは決して無駄ではなさそうです。

昔から「老いては子に従え」、
「負うた子に道を教えらる」と昔の方々は言ったものです。

つまり自らの身の程を知って、頑なに自らの考えや経験だけに捕らわれず若い人々の力を借りなさいと言うことでしょう。

教えて頂けることは本当に有難いことです。


『人は成熟するにつれて若くなる。ヘッセ』


『始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若くある。マルチンブーバー』


『学ぶことをやめた人は誰でも老いている。
二十才であっても八十才であっても、学びつづける人は誰でも若い。
人生で最も偉大なことは、心を若く保つことだ。自動車王:フォード』


『青春とは心の若さである。
信念と希望にあふれ、勇気にみちて、日に新たな活動を続けるかぎり、青春は永遠にその人のものである。京都真々庵 訓言』
  


Posted by misterkei0918 at 23:09Comments(0)

2010年06月21日

失敗への道は自らが誘導している

失敗への道は自らが誘導している

どうも私の過去がそうであるように、失敗への道筋は私自身が敷設していたような気がします。

失敗やしくじりを犯したくないと思う反面、心の奥には「どうも成功しそうにない」とか、「頑張っても先は見えている」とか、「そんな能力は無い」、酷い時には「成功するはずが無い」などなど、

失敗を示唆するかのごとき、心の動きが渦巻いているのに気づきます。

如何にも成功するのがいけないような、失敗が当然であるかの如き言動です。

そうであれば、成功するのが可笑しいとまで感じますし、それでいて却って成功したら可笑しなことにもなってしまいます。

自らを、成功してはいけませんと戒めているも当然です。

逆を言えば、「成功への道は自らが誘導している」。

何回か書きましたがまさしく「引き寄せの法則」の具現化です。

失敗は恐れるものではなく、次へのヒントを与えてくれる絶好の機会であり、堂々巡りの同じ失敗を繰り返さないための教訓であります。

また、成功は失敗の賜であり、次のレベルの失敗を招くための儀式のような気がします。


『成功への道は、自らの手で未来をつくることによってのみ開ける。PFドラッカー』


『成功できない多くの人は、不確実性(Uncertainty)から逃げ、確実性(Certainty)を求めようとする。ピーター・セージ』


『失敗や否定といった消極的確信を持つことをやめなさい。
持つなら成功、幸福といった積極的確信にしなさい。
この表面上のちょっとした差が、長い年月にかかると人の境遇において天地の開きがでてきます。マーフィー』


『自分で泣き言を言って絶望しているのは、成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。野口英世』


『失敗を気にしていては革新はできない。
打率3割といえば強打者だが、それは10のうち7までが失敗だったということなのだから。Aスローン』


『大多数の人間が失敗するのは、失敗した計画に勝る新しい計画をたてるだけの粘り強さに欠けるからである。ナポレオンヒル』
  


Posted by misterkei0918 at 23:28Comments(0)

2010年06月21日

やれば出来る!!・・可能性は誰にでも潜んでいる

やれば出来る!!・・可能性は誰にでも潜んでいる

高邁な理想を掲げることを悪いとは言いませんが、余りにも実現不可能な壮大な夢は余り持たない方がいいかも知れませんね。

実現しようとする意気込みや努力が伴えばまだいいのですが。

決していけないとは言いませんが。

日本からも多くの日本人宇宙飛行士が誕生しています。
殆んどの方が言います。

小さい頃からのあこがれであり、是非実現したい夢でした。

それでいて、人並み以上の懸命な努力をしているようです。

しかも途中でぶれること無く、ただ宇宙飛行士になる夢を追い求めて。

と言うことは、夢を叶える可能性は誰にだって備わっていると言っても過言で話さそうです。

言えることは、夢見る夢子さんではいけませんし夢だけ描いて何の努力もしない人では元より実現はしないでしょう。

むしろ、夢を貪(むさぼ)ることに終始していては人生そのものもそんな風になってしまうものです。

如何にも夢を見ていれば、いつかは実現するような、夢が自分から歩み寄ってくるような錯覚に陥ってしまってはいけません。

一番悪いのは、何の努力もしていないのに、たまたま運が良くて夢がかなったり、偶然に恵まれたり、タナボタで叶う夢を経験すると人生をそんなものと錯覚してしまうものです。

まだ増しなのは、夢ではなかったのに実現した事の方がまだいいかも知れませんね。

自らが夢を持ち続け、継続的な努力を重ねたものに対しては喜びも一入(ひとしお)ですし、また先を求めて努力を重ねます。

周りから見ると、「どうしてあの人は?」等と羨ましがられたりしますが、それには当然それなりの理由が存在するのです。

だって、人並み以上の努力や精進を重ねているのですから。

人は決して、カケッコのスタート地点のように一斉に走り始めるものではありません。

最初から人より秀でて走り始めている人、
どう見ても人より遅れてスタートする人、
走り初めから、荷物を背負って走らねばならない人・・・・・

様々です。

でも、それが到達地点でどうなのかを補償するものでもありませんし、有利に働くとも思えないでしょう。

むしろ、荷物を背負って走り始めた人のほうが到達も早かったなどと言うことだって起こり得るのです。

それが世の中って言うものではないでしょうか。

自らの可能性を信じるのか、
尚且つ、真摯に努力を重ねるのか、それが人生の勝負の分かれ目のような気がします。

人を羨まず、妬まず・・・・・


『情熱がなければ、人は単なる潜在力と可能性にすぎない。アミエル』


『一個の人間の持つ可能性というものは、本人の常識レベルで考えているよりも、はるかに高いところにあるということを理解しなさい。マーフィー』


『可能性に対して心を閉じていると、人生の本当の恵みを見極めることはできないのです。稲盛和夫』
  


Posted by misterkei0918 at 13:38Comments(0)

2010年06月18日

あなたは変わる事が出来る!!

あなたは変わる事が出来る!!

世の中は刻々と変化を遂げますが、それに連れて変われないのは自らに責任があるものです。

変われないのは世の中の責任だなどと転嫁しても何の解決にもならないものです。

むしろ変われない自分を眺めることに終止し、そこに安住の地があるが如き錯覚に陥っているものです。

変われない自分の生傷を舐めることでしか、自分の存在価値を実感出来ないのかも知れません。

きついことを書いてしまいました。

若い頃の自分がそうでしたから、私自身の体験として書いてみました。

むしろ変われないことに快感を感じたり、同情を買うことに自らの慰めにしていたことも認めるところです。

本来、地球上の歴史において人間ほど変化を遂げてきた動物はいないのではないでしょうか。

急激な変化にも耐えるように出来ていますし、その為に人類は知恵や知識を蓄え、精神作用を備えたのでしょう。

「強かったから生き延びたのではなく、変化したから生き延びた」という言葉に象徴されるように人間は変化に耐えるように出来ているものです。

例えば、赤道直下でも北極でも生きている動物を知りません。

日常的な中でも本来は刻々と変化をしているものです。

変化は楽しいもの、変化の先には幸せが待っている、変化こそが自らの道を切り開く唯一の方法である・・・・・等と自分を鼓舞することで新しい展開を試みることです。

ちょっとした工夫、少しの勇気、行動が素晴らしい未来へと誘(いざな)ってくれるものです。

変化の激しい現代、
そのままで置いてきぼりを食うか、一歩を踏み出すか。
その差は大きいものです。


『人生とはその時々に自然に変化し、移りゆくものです。
変化に抵抗してはなりません。それは悲しみを招くだけです。老子』


『変化に早く適応すること。
遅れれば、適応できなくなるかもしれない。
最大の障害は自分自身の中にある。
自分が変わらなければ好転しない。スペンサージョンソン』


『変化への抵抗の底にあるものは無知である。
未知への不安である。
しかし、変化は機会と見なすべきものである。
変化を機会としてとらえたとき、初めて不安は消える。PFドラッカー』


『生き残る種とは、もっとも強いものではない。
もっとも知的なものでもない。
それは、変化にもっともよく適応したものである。ダーウィン』
  


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2010年06月18日

人はそれぞれにいいのかも

人はそれぞれにいいのかも

私共はあの人はどうだの、この人はこうだの・・・よく言います。

それはあくまでも私の基準であって、普遍的なものでもありませんし、誰が見ても同じ判断になることは決してありません。

先日、こんなことがありました。
私が数十年前から存じ上げている方です。

私のこの方への評価は、人格、識見共に素晴らしく、足元にも及びませんしいつも尊敬の眼差しで拝見しています。

また、弁舌爽やかで、物事をはっきり表現され、表情にも人を引きつける魅力を持っておられます。

つまりこれは私の独りよがりな、しかも私だけの一面からの見方なんですね。

友人とその方の話になりました。
本人がおられない処で人の評価の話など失礼千万の事ですが。
ましてや先輩のことを。

私がその方の事を上記の如く話すと、
彼曰く、
「そういう評価もする人がいない訳ではないけど、むしろ逆の評価をする人が多いんですよ」と言うのです。

では私が今まで数十年に亘って持っていたその方への評価を羨望の眼差しは何だったのか?

つい、思い悩んでしまいました。

私が間違いを犯していたのか、人を見る目が備わっていなかったのか。

どうもそうではないようですね。
自分を慰めながらの考察ですが。

私も実は良く評価いただける方と、逆に「あいつはつまらない」と評価される方が存在すると言うことでしょうね。

神様ではないわけですから、万人から同じような見方、評価を受ける人間など存在しないかも知れません。

自分自身を思い起こしてもそうですが、人は裏表、多面性があってここが良くてもあそこが悪いとか気にくわないとか。

私を見る相手の精神模様、状況、曲折、印象・・・・・などのよっても左右されるものですから私の本来のあり方や姿勢、人間性とは異なった捉え方をされる場合も少なくないものです。

事件が起きたときに「えっ!!あの人が?」などもそうでしょうし、他の人が「あの人だったらそんな事もあるかもね」などに評価が分かれるのもそうですね。

人の事は一言では評価出来ない、難しいものです。

人の父親を「あの父親のもとで育つ子供は大変ね」が、子供からしたら「この父親の元に生まれて良かった」などもそうです。

と言う事は、やたらとしかも知ったかぶりで人の評価などを簡単にすべきで無いということでしょうね。


『人びとからよい目でみられることにいかに強い欲望をもつか、
人間性のうちでこの欲望ほど顕著なものはない。ジェームズミル』


『人への批判のその奥には、自分に対する自信の無さや、不安の故に優越感を持ちたい自分がいるものです。聖書の中の「互いに人を自分より優れた者としなさい」という言葉が絡まった人間関係を解く鍵となります』
  


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2010年06月16日

三年早く、二年ほど遅い

三年早く、二年ほど遅い

やはり自らの評価は誰しも大きく、正しく、早いと思っています。
つまり過大評価で、尊大で、誰よりも正しいと。

他人の評価は厳しく、辛く、過小評価。

こんな言葉の発見です。

『少年は親たちが思っているより三年早く大人になっている。
しかし、自らが考えているよりは二年ほど遅い。ルイスハーシー』


多感な中学生時代、つまり第2の成長期、第2の反抗期と昔は表現していたものです。

子供扱いする大人たちに何につけ反抗を試みていた時代です。
今、振り返ってみると滑稽にさえ思えます。

子供達の過去を振り返ってみてもまさしくそうです。
子供扱いする私に反抗することが、彼らが大人に脱皮する瞬間だったのですね。

子供達は自分が既に大人なんだと認識していますから、ぶつかって当然です。

ちぐはぐな発言や的外れの行動をしますが、本人たちは当たり前、認知される言動と思っていますから当然、周りの大人との軋轢は当然です。

大人の方は、まだまだ子供と思っていますから余計に拍車がかかってきます。

子供にとっても、対する大人にとってもそんなやりとりは貴重でお互いの人生にとっても無駄ではなさそうです。

大人だって何時まで経っても決して完全にはならないわけですし、子供にとっても対する大人の感情や言動は彼らの成長に極めて大切なものです。

或いは、今でも日常的に繰り返されていることかも知れませんね。


『少年は親たちが思っているより三年早く大人になっている。
しかし、自らが考えているよりは二年ほど遅い。ルイスハーシー』
  


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2010年06月16日

こんなに強い人がいるんですね

こんなに強い人がいるんですね

最近、存じあげた人です。

ある企業の社長でした。
数年前から、資金繰りの悪化などから倒産の危機を感じてはおられたようです。

残念ながら、現実の問題として会社の倒産が起こってしまいました。

多分、その心労や疲れからでしょうが奥様が脳梗塞に見舞われ、
事のついでに倒産の後を追う様に創業時から右腕として頑張ってくれた専務が癌でこの世を去ってしまいました。

葬儀で出会った家族からは癌に罹ったのも死亡したのも社長や会社の精であるかのようにさんざんに罵られたようです。

給料もボーナスも滞ること無く支払っていた筈の社員からは、厳しい、何とも言えない冷たい視線を浴びさられ、未だに残念でならないと呟かれます。

逃げ惑い、家を追われ、車も取られ、財産の全てを失ったと言われます。

今は清算も終わり、これからの人生のあり方を模索をされているご様子です。

私であれば、多分耐えきれないでしょうね。

ただ倒産するだけでなく、奥様の突如のご病気や片腕の専務、全財産を失い、意気消沈の極みと言っても過言ではないでしょう。

最後に言われたのは、やはり人の有り難さと発言をされました。
多くの友人から、励まされ、勇気を与えられ、それは心の髄まで染み込んだとおっしゃいます。

人は強くなるものです。
「強くなくてはいけない」と思う意志が働けば、本人が思う以上に強くなれるような気がします。


『人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。
いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ。本田宗一郎』
  


Posted by misterkei0918 at 18:59Comments(0)

2010年06月16日

愛される理由と嫌われない理由

愛される理由と嫌われない理由

言葉を変えて、
好かれる理由と嫌われない理由、
選ばれる理由と嫌われない理由・・・・・

愛されるには、好かれるには、選ばれるには、
理由がありますよね。

あの人が好きだと思うには、優しいところが好きだとか、背が高いとか、高給取りだとか、顔が好きだとか・・・・・

選ばれるにもそうです。
人を選ぶにもそうですが、お店を選ぶ、あなたの企業が選ばれるのもそれなりに理由が存在します。

お店であれば、入りやすいとか、安くて新鮮だとか、
店員の女性の応対に惹かれるとか、ご主人の親切さが身に染みるとか・・・・・

企業であれば、信頼が置けるや納期が確実、メンテナンスや指導が親切、経営の姿勢が素晴らしいとか・・・・・

人は不思議なものですよね。
重大なことや大きなことで好きになったり、選んだりするのでは無いことに気づきます。

お店で商品を買ったときに交わした一言の言葉でお気に入りのお店になったり、電話の応対に出た女性の雰囲気や声一つでそうなるものです。

昔から「痘痕(あばた)もえくぼ」と言いましたし聞きました。
まさしくそうですよね。

ちょっとしたしぐさ、それと無い言葉の端々、わざとらしくない笑顔、そんなところで人の気持は揺れ動くようです。

そうです、むしろ大きな出来事やアピールよりも心の襞を擽るような事の方がむしろ心に残るものです。

好かれない、選ばれない、愛されないではなくて、
嫌われない理由。

好かれない、選ばれない、愛されないにはやはり最もな理由が存在するものです。
でも、嫌われない理由となるとはたと困ってしまいます。

つまり理由のはっきりしないこと。
これが問題なんですよね。
好かれない、選ばれない、愛されないには対処の方法を考えることもできますが。

結局はどうでもいい、無視されている、相手にされてもいない・・・・・
ということに繋がってしまいます。

自分が、自分の会社が果たしてどうなのかを検証してみると面白いかも知れませんね。

果たして私は?私の会社は?
  


Posted by misterkei0918 at 17:56Comments(0)

2010年06月14日

誉められること、誉めること

誉められること、誉めること

ほめるという漢字も色々ですね。
辞書を引いてみましたら幾つも出てきました。

日本の漢字は表意文字ですから当然それなりに意味が存在するのでしょう。

誉める、褒める、賞める、讃める、称る、頌る・・・・・

それぞれに意味合いがあるのでしょうが私共が一般的に使用するのは「誉める」でしょうか。

言の字が入っていますから「言葉でほめる、ことばで表現」するということでしょうね。

誉められることは、嬉しいことではありますが、

誉められることに慣れきってしまうこと、
誉められることで有頂天になること、
誉められて自己過信、自信過剰に陥らないこと、
誉められて慢心にならないこと、
誉められて人を見下げるようなことをしないこと・・・・・

却って気持ちを引き締めた方が良さそうです。

疑心暗鬼になりすぎてもいけませんが、
誉めることで、気持ちを緩め陥れようとする人も散見されるものです。

「褒め殺し」等という物騒な方法が世の中には存在することを知っておかないといけません。

ゴルフなどてそうでもないのに、必要以上に誉めることに終始したり、そんなに美人でも無いのに「美人、美人」と言っては褒めたたえる人がいるものです。

本来の気持ちは他にあるのでは?などと時には考えてみたら思わぬ収穫があるかも知れません。

子供だってそうです。
「褒めて上手に育てなさい」ということ事態が、ちやほや褒めてあげれば調子に乗って勉強やスポーツに勤しむということですが、これが過ぎるととんでも無い子どもが育つことを知らないといけません。

叱ることと誉めることが両輪になってこそ、上手な子育てになるのであって片方だけでは人間性が欠如した人格が育ってしまいます。

大人でも栄誉欲しさに、奔走する人がいるものです。
出来れば、栄誉は生きているうちに欲しいなどという人もいますがそうでなくてもいいのでは無いでしょうか。

また、難しいことですが本心から人を誉められる人間になれると嬉しいですね。

どうしても人を誉めるには心の底に、嫉妬やヤッカミが入ったり、むしろ自分の方が・・・・・などの思いが錯綜して困ったものです。

精進が足りませんね、
修行がまだまだですね。

『賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ。
仕事を続けることである。
人は立ち止まって賞賛に耳を傾けがちであるが、
唯一なすべきことは、賞賛から目をそらし、仕事を続けること。
それ以外の方法はない。アインシュタイン』

  


Posted by misterkei0918 at 13:47Comments(0)

2010年06月12日

出迎え3歩、見送り6歩

出迎え3歩、見送り6歩

今日の講演会で教えて頂きました。
日本の言葉でありながら知らない事が殆んどですね。

教えて頂けることは有り難いものです。

「三方良し」という言葉はよく耳にします。
近江商人の経営理念として伝わっている言葉のようです。

つまり、「商売は自分だけが儲かってもいけない、適正な利益を確保しながら、またお客さんにも喜んで貰いなさい。そして世間様にもお役に立てるようでないといけません」。

「売り手よし、買い手よし、世間によし」のこと。

商いは自らの利益追求だけでは永続性を失ってしまいますし、信用を損ない、ただ単なる守銭奴になってしまいます。

商いは文字通り「飽きられない」と言うことでしょうからね。
また儲かるという字は人扁に信者と書きます。
つまり「お店の信者を作り、信用で商いをして適正な利益を与えてもらう」というのが本来でしょう。

その源泉がお客様への施し、
今の言葉で言えば「サービス」、或いは良質のコミュニケーションを作り上げるということでしょう。

製造業と言えども、ただ熱心にモノ作りに勤しめばいい時代では無くなりました。

お客様の立場にたった視点で考えることの出来ない製造業はやがて立ちゆかなくなりますし、市場からも受け入れられなくなってしまいます。

今日教えて頂いた「出迎え3歩、見送り6歩」もやはりお客様を如何に大切にする事が重要なのかを教えてくれる言葉のようです。

聞いて一瞬閃いたのがガソリンスタンドや美容室の事でした。
お店を出たお客様の姿が隠れるまで、お辞儀をしている姿。

一般的な企業ではそこまでは必要ありませんが、如何にお客様を大切に思うかということですよね。

注文を貰うときにはにこにこ、納めた後は知らん振り、酷い時には何かあるとお客さんの精にして悪口を叩くなど。

充分なコミュニケーションの大切さを忘れ、お客様との信頼を損なうような言動は慎まないといけませんよね。

担当営業が自分のお客様のことを会社の同僚に陰口を叩いたり、悪口を言うなどは慎むべきでしょう。

むしろ、お客様を庇(かば)うくらいの配慮があってもいいものです。

上っ面だけの言動はいつしか化けの皮が剥がれ、しっぺ返しの原因ともなるものです。

心掛けたいものです「出迎え3歩、見送り6歩」
  


Posted by misterkei0918 at 19:14Comments(0)

2010年06月12日

突如として不測の事態、不幸に見舞われたとき

突如として不測の事態、不幸に見舞われたとき

人生いつ不幸が襲ってくるかは誰にも予想はつかないものです。

物事は何の前触れも無く、唐突として襲いかかって来ることもしばしばです。

突然の事故、事件などがそうです。

中には大よそそうなるであろうとの前兆が伴うものもあります。
企業が資金ショートなどを起こしての倒産などはその部類でしょうか。

数ヶ月前、或いは数年前から売上不振などが続く等の兆しが見えているものです。
自転車操業などと言われるものがそうですよね。

一般的な離婚騒動なども事前には浮気騒動や性格の不一致など、そうなるであろうと想像される事態が存在するものです。

経済の停滞がこのように長続きをすると、業績の悪化や不振をついつい景気の精にもしたくもなります。

或いは営業の努力が足りないだの、販売する商品に問題があるだの、経営者の無能さなど揚げへつらうときりがないほどです。

でも、どんな事態が襲ってこようとも動転すること無く、気持ちをしっかり持ってゆとりを忘れずに対処したいものです。

「火事場のバカ力」ではありませんが、逆にそんな時にこそ不断以上の判断や見かけ以上の人間力を発揮してみたいものです。

現実には難しいことでしょうが、時々はそんな事も頭の片隅にでも置いておいて、小さな出来事が起こったときにでも思い起こす癖を身につけておけばいいのかも知れません。

激高しやすい人や冷静さを失う人を時々見かけますが、そんな方ほど物事の解決を遅らせ、却って拗(こじ)らせてしまったりもするものです。

反面教師ではありませんが、やはり心落ち着いて、物事を見極めて、冷静な判断には負けてしまいます。

それには、やはり取るに足らない問題の解決でも冷静な客観的判断をする癖を練習していた方が良さそうです。


『自分が不幸なとき、
他の人たちを非難するのは無教養者、
自分自身を非難するのは教養の初心者、
そして他人をも自分をも非難しないのが本当の教養人である。
セオドアルーズベルト』
  


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