しーまブログ 日記/一般福岡県 ブログがホームページに!しーま新機能のお知らせ! さばくる~イベント情報受付中!~

2010年05月29日

知らん振りをしない、見過ごさない・・・その2

知らん振りをしない、見過ごさない・・・その2

昨日だけで終われば良かったのですが、馬齢を重ねるとどうも話の整理を上手につけることさえもたどたどしくなってしまいます。

でも、人生は人との関わりなしでは上手に生きてはいけません。

人生の達人だっていますし、未熟な人も数が知れません。

達人は達人として学ぶことは多いものですし、未熟な方はそれなりに学べるものを多く携えているもの。

そんな事であれば、聞きたくない、読みたくないと言う方もおられることは承知の事です。

1、 当然のことですが、人にお会いする機会を自ら創る。
2、 打算や物欲しさ、取り入ることを目当てにして人に会わないこと。
3、 笑顔を忘れず、飾らない自分である事。
4、 頭(こうべ)を垂れることを忘れない。

5、 姿勢や服装を整え、胸を張らず、相手の目を見て会話を。
6、 多くを語らず、相手の話に耳を傾ける事。

7、 名刺など、自分の足跡を残す心がけを。
8、 挨拶が押しかけ、無理強いにならないように。

9、 高い声、低い声は嫌なもの。ソフトでありたいもの。
10、 初対面は時間を掛けず、お互いに余韻を残すくらいに。

11、出来れば顔と名前を覚える努力を。
12、機会があれば、その人を自分の大事な人に紹介する。


色んな事が考えられますが、最後には、
また、その方に再びお会いする機会があった時が大事です。

人を虫眼鏡で見ること無く、関係を打算で測ってはいけません。
どんな人であれ、自らの人生の指針となったり、モデルとなったり、時には反面教師にだって成り得ます。

「知らん振りをしない、見過ごさない・・・」
先日あったから、それで関係は終りではないのです。
終りにしたいなら別ですが。

『さり気なく、爽やかにお声を掛けてみる。
見過ごすことをしない』

相手の方も、先日会った私が近くにいることを察知されているはずです。

改めて挨拶することが迷惑かもしれないような状況であれば、近くに寄ってそれとなく会釈の一つくらいは大事な所作です。

人の関係を長く続けることは、大変なことですがでも、それは人生において大変な財産ですしその事だけでも心豊かになるものです。

人はその方の姿を拝見するだけでも学ぶものがある事を知ることは大事です。

また、万人と深い人間関係を構築するのは不可能に近いものです。
凡人であれば尚更のこと。

深い関係の方、さり気ない付き合いの方。
色んな付き合い方がありますが、せめて後ろ指を指される様な人間関係にはなりたくないものです。

そんな中で商業的な話しに発展したり、極めて深い人間としての関わりに発展することは大いにある事です。

人の関係が極まると「刎頚(ふんけい)の友、刎頚の交わり」、身近には生涯の親友などとの表現がそれでしょうね。  


Posted by misterkei0918 at 12:13Comments(0)

2010年05月29日

知らん振りをしない、見過ごさない・・・その1

知らん振りをしない、見過ごさない・・・その1

先日の守護霊の話のように、どうも今度も長くなりそうですので、その1と明日のその2に分けるようにしました。

あなたは「色んな方をよく知っているね」とか「どうしてそんなに人を知っているのですか」と訪ねられます。

別に極めて近い関係でいたいとか、より深く知ろうと思っているわけではありません。

私自身が人を引きつける力や魅力、注目されるべき何かを保有しているわけでもありません。

親が著名で、その七光りとか際立った経営や社会活動をしているわけでもありませんし、人を引きつける人徳が備わっているわけでもないのです。

そういう意味では、周りの方々からすると「あいつはどうして、あんなに人を知っているのか」とか「親しい人が多いのは何故なのか」と不思議に思われるのは私自身も納得するところです。

私の友人たちの中には、既に大きくなっている企業や著名や人であった親の後継として、その七光りのお陰もあって多くの人間関係を構築している人も多く存在します。

だからと言って、その方々がどうということではないのです。
それはそれで、それなりの苦労を重ねながらのことですから。

所謂、お聞きになる方々は元来、そんなに多くの人を知る得る立場や環境にも無いはずなのにどうして?ということだと思います。

そこまでは言う事はありませんが。
不思議に思う、訝ると言うことでしょうか。

私個人の事ですから、全ての方に当てはまるとも思っていませんので自分なりの方法を考えてみるといいかも知れませんね。

また、人を知るということはそれだけで、事業が成功への道のりを辿るとか、商売に繋がるとか、何か良い事が起こるとかそのように考えてはいけませんよね。

そういうこともある事は否定をするものではありませんし、その為に人の関係を作る人もいるものです。
それも決して悪いことではありませんし、日常的な商業活動や営業にも大事なことではあります。

ですから、私自身の事として書いていることをご容赦下さい。
  


Posted by misterkei0918 at 12:01Comments(0)

2010年05月29日

『肥えてゆく豚は幸福なのではない』

『肥えてゆく豚は幸福なのではない』

こんな言葉の発見です。


『欲するものがすべて手に入りつつある時は警戒せよ。
肥えてゆく豚は幸福なのではない。Cハリス』


最近のアメリカでの議論です。
清涼飲料水に税金を掛ける話です。

所謂、肥満の傾向が強くなってきたアメリカではこれを防ぐためも対策として打ち出されてきたようです。
自国民の健康の維持と高騰する医療費に対抗するために政策というところでしょうか。
健康であれば、国の活力の向上にも繋がりますし、労働力の確保や失業対策、人口対策にも効を奏することにもなりますしね。

人間が肥えていくことは決して歓迎することではなさそうです。
体重が増えることだけではなく、

お金に恵まれすぎること、
物の豊かさに溺れてしまうこと、

心が傲慢で溢れかえってしまうこと、
などなど。

体がそうであるように政治も国家も経済も余りにも膨れ上がった状態は決して感心したものではありません。

破綻への道筋を歩み始めたようなものです。

健康診断でも、そうです。

振切れる体重計、
血糖値が上がりすぎ、

尿酸値の上昇、
体脂肪率の異常、

コルステロール値、
中性脂肪、

r-GTP、
血圧の高騰、
はち切れそうな腹回り・・・・・

上がって良いものはなさそうです。

『欲するものがすべて手に入りつつある時は警戒せよ。
肥えてゆく豚は幸福なのではない。Cハリス』

幸せの絶頂にある時のことを考えてみると、理解できます。
何となく不安が過ぎったりするものです。

「こんなに幸せでいいのだろうか」などがそうでしょう。

そんな時ほど、油断は禁物。
足元を見つめ直し、心を引き締めることを忘れてはいけないようです。

慢心や満ち足りた思い、若しそこに傲慢さや人間性を失うような言動が見え始めたら坂道を下り始めたと思わないといけません。

下り始めはブレーキも聞きますが、いざスピードが出始めると加速をすることはあってももう止まることはないのです。

肝に命じて、『肥えてゆく豚は幸福なのではない』
  


Posted by misterkei0918 at 00:53Comments(0)

2010年05月29日

自らの縁(えにし)は自らの手で創る

自らの縁(えにし)は自らの手で創る

人の縁ほど築くのが難しくて、損なうのが簡単なものはありません。

また、人生の大半が縁で決定されているのも確かです。


自分ひとりで世の中を生きているような錯覚や傲慢な態度、
人を寄せ付けない行動や態度、

人を見下したような言動、
自己過信や自信過剰に満ちあふれた人間、

人を許すことを知らない人間、
自らの保身にのみ走る傾向の強いひと・・・・・


そんな人は余り好きではありません。
私はそうですが、そうだからこそ好きだと言う方もいるかも知れませんね。

私からはそのように見える人間でも、また見方を変えたり、自分の利得や損益が働くと人の見方は攻守ところを変えて、素晴らしい人に見えたりもするものです。

でも、人は縁に守られてこそ豊かで安寧で幸せな日々を過ごせると思っています。

素晴らしいかけがえの無い縁の多くを抱える人ほど、様々に満ちあふれた人生に恵まれるような気がするのです。

私の周りにも多くの縁に恵まれた人々、
言い換えれば多くの縁の創造に、努力を重ねた人々と言い換えた方が正しいようです。

そんな方々は、決まって私共よりは優れた人生を歩んでいるように見えます。

様々な人生の苦難や葛藤がないというのではありません。

むしろ多くの縁を抱えるがために私共以上にそうであるように思いますし、見ていても確実にそうです。

その深さもどうも私共以上でしょう。

ですが多くの縁を大事にする方々は、そのハードルの高さを怖がること無く毅然として乗り越える姿を見せるのです。

私共のように鋸の波状の様な、小さな苦難で日常を費やすのではなく、大波のような高くて広く深い苦難にも関わらず悠然と乗りこなす術を手に入れているかのようです。

それこそ人の縁の様な気がします。
多くの縁を自らの手で創造し、自らの労力でそれをより深いものとし、絆を強固なものにしているようです。

互いの縁は、より結びつきを強め、お互いに知恵と力を授けあい、縁が縁を呼び合うがごとく関係を広げ人間性を高め合っているように見えます。

縁の大切さやその役割の大きさ、もたらす結果の偉大さに早くから気づき、一点集中的に努力重ねた人こそ、人生における勝利者と言えると思われます。

私も早く気づけば良かったのですが、
今からでも決して遅くはないようです。
  


Posted by misterkei0918 at 00:14Comments(0)

2010年05月27日

気丈に振舞う

気丈に振舞う

「病は気から」とよく聞かされました。

風を引いても、お腹が痛くても気持ちを強く持っていれば痛みも和らぐし、治りも早い等と。

昔は、色んな病気にかかってもはっきり効くとされる薬もなかったことや医者にかかるお金もない、ましてや近くにお医者さんなどもいないところだって存在してました。

所謂、無医地区と言われ、日本中至る所にお医者さんのいない所があったものです。

今でこそ、日本中何処に行ってもクリニックや病院が存在し、医療制度や保険制度が充実していますので、むしろ医者にかかれない状況は殆んど無いでしょう。

私のように病院へ行くのがどうしても気がすすまない人間がいるのはどうしようもないことです。

昔ならそうでもなかったのですが、今時病気で悩んでいる人に「病は気から」などと言うと却ってしかられてしまいます。

「そんな事はない!!気持ちはしっかり持っていても病気には罹るもの」
「気持ちを強く持てば、病気にならないなんてそんな事はない!!」

確かに、忍んでくる病原菌はなかなか防御できませんし、体に入ってきた病原菌や症状は気力だけでは直せません。

また人間を蝕もうとする最近の病原菌は、攻撃力も強く、人間に戦いを挑んでいるようでもあります。

所が、いろんな人の話を聞くと負けまいと気丈に振舞うことで症状を和らげたり、病原菌を退散させたなどと言う話をよく聞きます。

気丈に振舞うということが、気持ちを強く堅持する事にあわせ、どうも体を元気にする秘訣を持っているのではないでしょうか。

定年を迎え、無職、浪人になった途端に気力が萎え、緊張感を失った人が、気が抜けたようになり体力が落ち、人が変わったような姿になることを良く見聞きします。

結局は、病原菌にも負け、脳の働きは衰え、心臓は逞しさを失い、血管はまさしく老化の一途を辿り、骨はそれこそ気骨を亡くし、消化器官は従来の躍動を損なって、体には老廃が溜り、耳目は遠のくばかりであります。

気を確かに持って、その気の力を借りて体力の温存を図ることが一番の健康法であり、様々な病原菌から身を守り、退散させる方法のようです。

「病は気から」だけでは無いことは十分承知してますが、まずは緊張感を持って前向きで逞しく勇気を奮って日々を過ごすことが、心身を健康に保つ一番の秘訣のようです。

衰えに逆らえないところもありますが、
今日一日、「気丈に振舞う」事を心の片隅に持って戦っていきましょう。
  


Posted by misterkei0918 at 08:33Comments(0)

2010年05月25日

最低でも・・・・・

最低でも・・・・・

親が子供に「最低でも月に1000円はあげるね」とお小遣いの約束したとします。

子供にとって、こんな嬉しいことはありません。
ねだったわけでもないのに、子供の為と思って親が気を利かせるのですから。
親の有難味を身にしみて感じてしまいます。
だから、大切に使うことを学ぶものです。
子を思う気持ちに誘われて、子供の思いも磨きがかかってきます。

夫が妻から今月から「最低でも3万円は差し上げますね」と約束されたとします。

嬉しい限りです。
だって、妻は主人の少ない稼ぎの中から、小遣いを増やしてあげようと切り詰めてくれるのですから。
だから、夫も大事に使うことを学びますし、そのお金は自分だけの為に使おうとはしません。
夫婦の仲睦まじさと夫婦愛がより深まることは間違いがありません。

社員の採用時に「最低でも25万円は保証する」と約束をしたとします。

こんな時代、企業にとっても苦しい時代です。
会社の経営者は新しい社員に限りない期待をかけて、できるだけ多くの給与を払ってあげようと約束をしたのです。
社員もそんな会社に信頼を置き、忠誠心に磨きをかけて懸命に頑張ってくれるものです。

「最低でも」ということは、どんなに間違ってもこれだけは守ると言うことです。
それも、日本の最高権力者、政治の頂点に達人の発言です。

自らが期限を切った3月、次は5月・・・・・・それも反故にされそうで。

時の総理が、基地の7割を抱える沖縄の方々に「県外、国外」、最低でも「県外」と明言しました。
それも繰り返すこと数え切れない位に。


私もそれならと、選挙で応援した一人ですが、若しかすると出来ない、実現不可能なことと認識していたのではないでしょうか。

今、言動を振り返って思い出してみたり、今年になってからの発言や行動を見ているとどうもそのような気がしてなりません。

今になって、沖縄の基地の抑止力の大きさを勉強したとか、最近の隣国の一触即発の事態を考えるとやはり基地は動かせないとか、可笑しな発言が続きます。

ニュースを見る度に虚しい、悲しい思いが湧き出てくるのは私だけではなさそうです。

沖縄の方々のここまで来た心をまさしく踏みにじるものでした。
それは謝っても謝っても謝り足りないのではないでしょうか。

余りにも大きな期待を持たせてしまいました。
それだけ罪は深いものと思います。

マニュフェストにしても然り。
お金にしても然り。

日本国民が約束は簡単に破ってもいいものと理解しました。
自分の立場の確保に、我が身のことは棚において、他人の非難に集中することも厚顔無恥になってしまいました。

日本人は何処に行ったのでしょうか。
こうではなかった筈なのです。

世界から置いてきぼりを食いそうな気さえします。
  


Posted by misterkei0918 at 17:46Comments(1)

2010年05月23日

繰り返し、繰り返し!!これでもか、これでもか!!

繰り返し、繰り返し!!これでもか、これでもか!!

記憶力のない私であればこそ、
知的能力の貧しい私であればこそ、

ましてや行動力に乏しい私であればこそ、やはり解決出来るのは、「繰り返し、繰り返し!!これでもか、これでもか!!」しかないようです。

人は、それほど自信がなくても行動に移せる人、片や自信があっても行動に移せない人がいるものですが、私は最悪の状態です。

つまり、自信もなくて行動にも移せない。

そこで思いつき、行き着いたのが「繰り返し、繰り返し!!これでもか、これでもか!!」。

人は真剣に、身の程を知ってたゆまず努力を重ねるとなんとかなるものです。

歩みは遅いのですが。

でも確実です。

行動に移せても信念のない人、
行動に移せても途中で挫折しやすい人、
物事が成就するのを確認せずに諦めのすこぶる早い人、
行動に移せても真摯でない人・・・・・

行動に移すのが遅くても、自信がなくても「これでもか、これでもか」と辛抱強く、我慢強く続けることが物事が確実に成功する早道のようです。

ですから、怖いのは自分の能力がないとか、どうせ駄目だとか何もしない内から自らの力を蔑(さげす)み、何も努力をしないことであります。

それは、自分の自信をますます失わせ、折角の機会を失うことであって自らを奈落の底へ陥れる最悪の行為であります。

私どもはどうも一歩を踏み出すのを躊躇ったが為に、幸福の女神の前髪をつかみ損ねているのではないでしょうか。

実はその一歩だったのです。
あの時に踏み出さなかった一歩の結果が今なのでした。

自らの能力が足らないと認めるのなら、尚更のこと、自らを鼓舞することを忘れずに「繰り返し、繰り返し!!これでもか、これでもか!!」。

亀の歩みこそが大事だと思いませんか。
兎と亀の話にも出てきます。
地味でも、遅くても。
  


Posted by misterkei0918 at 22:22Comments(1)

2010年05月23日

先日はホテルの三ヶ所詣(もうで)

先日はホテルの三ヶ所詣(もうで)

先日、18日は午後から福岡市内のホテルを駈けずり廻っていました。

12時からは福岡市中央区のニューオータニ。
調理師の皆様方の懇親会。
約500名くらいでしょうか。

ご挨拶で目立っていたのはやはり景気の余波を受けていること、
若い方々の就職希望が比較的多くなってきたこと。

でも昔は数年掛けてじっくり修行をさせ、技術を習得させたのに、今は即戦力として彼らを見ており、そういう使い方をするから可哀相だとのご挨拶が気になりました。

それは私どもの会社でも同じような状況です。
職人として育てるのではなく、明日にでも戦力であって欲しいと望んでしまいます。

余興はマジックショー。


二つ目は、福岡市博多区のキャナルシティにあるグランドハイアット。
経営者団体の総会です。

今月から6月にかけていくつかの総会に参加します。
多分、20~30位。
総会馴れしてしまいます

どの企業においても厳しい経営環境ですが、拝見しているとやはり社長が率先して勉強や研究に余念のない会社や社員教育に熱心な企業が業績を上げているようです。

だって「景気が悪い、景気が悪い」等と言っていても何も進展しませんし、仕事が言う度に転がってくる訳でもありません。

むしろ言えば言うほど、置いてきぼりを食い、ますますもって泥沼に陥ってしまいます。

明るく能動的に、しかも建設的に頑張ることこそが新しい展開を切り開く早道のようです。


三つ目は私が最も大事にしているかいです。
福岡市博多区の都ホテル。
最上階の大きなラウンジです。

人数は150名くらいでしょうか。
参加をはじめて30年を経過しました。

何が目的かと問われても困ってしまうような会ですが、素晴らしい雰囲気と素晴らしい諸先輩立ちのお元気な姿に触れることが私の最大の喜びです。

どんなに落ち込んでいてもこの会に出た明日は、すこぶる元気な自分を発見します。


走り回る一日ですが、それであればこそますます元気になりそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 21:51Comments(0)

2010年05月21日

トヨタが車を作らない時代が来るかも

トヨタが車を作らない時代が来るかも

昔、私どもが小さい頃、まだテレビも無い時代のことですがラジオでさえも高価で手に入らない時代がありました。

所が、少し知識を膨らませてみたら自分でラジオの製作が出来る事を覚えたのです。

確か五球スーパーとか、シャーシーに真空管を並べてボリュームとチューニング機能とアンテナ機能をを備えて。

それでもしっかりとラジオとして使えたものです。
深夜放送も幾らか雑音は混じっていましたが、充分勉強の役には立ちました。

最近でなパソコンがそうですよね。
安くでキットが揃いますから、ちょっと勉強すれば充分すぎるパソコンが完成します。

食べ物でも手作りのパンダとか。

最近、車を町工場で作り始めたとか、ブティックの店頭において販売を始めたとか従来の車の製造や販売の概念を超えたところで供給が始まったようです。

個性的で全くオリジナル、しかも私しか持ち得ない車が登場することは間違いありません。

むしろそんな時代になると身軽な企業のほうが、電気自動車等の製造には向いているかも知れませんね。

却って、極めて大型の工場やヘビーな既存の設備を抱えているところほど、転換は難しいでしょうし若しかすると町の整備工場みたいなところで組み立てが始まることでしょう。

しかも、車を発注した本人がボディの色や内装の様子などを我が目で見ながら組み立てを見学することも可能になってきます。

そうなると車に対する愛着が益々深くなるかも知れませんね。

電気で走る車ですから、町の電気屋さんなども多く参入するでしょう。

より性能が良くて、より環境にも良い車の組み立てに競いあって努力をすることでしょう。

そうなると当然部品の製造や供給にも今までと違ったルートが出来たりして、車が出来上がるまでのあり方が従来とは異なった産業や物流が出現するかも知れませんね。

部品点数も従来の車が約3万点、電気自動車は10分の1と言いますからメンテナンスや車検も楽になりますね。

車検制度も法改正されることになるかも。

大量に作って、安価な車を提供するには従来のカーメーカーでしょうが、よりインパクトの強い個性的な私だけの車は町工場でいいのかも。
  


Posted by misterkei0918 at 15:08Comments(0)

2010年05月20日

何か不気味な足音がする

何か不気味な足音がする

夏が近づいてきましたから、怪談話に終始しようと思ったのではありません。

何か不気味な気配を感じませんか。

日本の経済と財政。

今の政府でも俄に国債未達問題や消費税の議論を早急に議論しないといけないと言う発言が飛び交います。

今まで消費税の議論もまだ早い、その前にやるべき事がある、それで大丈夫といって政権を取った方々が政権半年を経験した頃から、つまり舌の根も乾かない内から消費税論議を急ごうと言う話になってきました。

あの消費税嫌いとまで言われていた財務大臣が今年になって先頭を切って発言を始めました。

最近の新聞、週刊誌、書籍、メルマガ・・・・・
破綻論議に花が咲き始めたのです。

郵便貯金の1000万円から2000万円への引き上げ。
日本国債の海外への宣伝活動。


最近のギリシャの問題、ポルトガル、スペインも危ないと聞きます。
それ以上に危機的状況なのは日本ではないでしょうか。

最近のニューヨーク株の記録的な下落、金価格の異常な暴騰、また最近の原油価格の上昇・・・・・本当に世界の経済は順調に推移するのでしょうか。

我々国民は為す術も持たず、ただ不安に慄いている、或いは聾桟敷(つんぼさじき)に置かれ事の真相さえも知らない人間が大部分でしょう。

本年度の予算の国家予算は92兆円、うち租税収入は37兆円、国債発行が44兆円。
国債の償還が21兆円、今までの政府債務が870兆円(2009・12末)、2010・3月末には970兆円と予想(財務省)。

上記のような国家予算は企業の経理や家計であれば、とっくに倒産の憂き目か一家離散状態です。

ある大臣が、日本は外国から借金をしているわけでもなく、家計金融資産が1450兆円あるから心配はいらないと発言していましたが、大変な勘違いでこのお金は政府のものではなく日本国民が汗水たらして積んだ貴重なお金と分かっていないようです。

つまり、いざ財政や国家破綻の危機に直面したら国民のお金を多分封鎖するかして利用するつもりとしか思えない発言です。

しかもこの資産の多くは既に国債を購入しているのではないでしょうか。

2002年2月14日の衆議院予算委員会で明らかにされ、当時の竹中平蔵金融担当大臣も答弁したネバダ・レポート(IMFの日本再建委員会)の内容を調べてみました。

  1、 公務員の総数および給料の30%カット。ボーナスはすべてカット。
  2、 公務員の退職金は100%カット。

  3、 年金は一律30%カット。
  4、 国債の利払いは5~10年間停止。

  5、 消費税を15%引き上げて20%へ。
  6、 課税最低限を年収100万円まで引き下げ。

  7、 資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の5%を課税。債権・社債については5~15%の課税。株式は取得金額の1%を課税。
  8、 預金は一律、ペイオフを実施するとともに、第2段階として預金額を30~40%カットする。

恐ろしいレポートです。
外のIMFから指摘されないと現実が直視出来ない日本、或いはノー天気ということでしょうか。


2005年1月20日に開かれた経済財政諮問会議の席上で政府は、「構造改革が進まなければ」日本は5年後に財政破綻すると発表したとも言われます。

いよいよ今年になって様々なことが現実味を帯びてきたと感じるのは私だけでしょうか。

今日のニュースです。

『国際通貨基金(IMF)は19日、財務省や日銀幹部らと経済政策について意見交換する対日経済協議を終え、声明を発表した。その中で、日本の公的債務残高について、「前例のないレベルに膨らんでいる。2011年度には財政再建を開始し、消費税を徐々に引き上げる必要がある」と指摘し、11年度から消費税上げに踏み切るべきだと提言した。』


庶民の私どもは何を考え、どのような備えをすればいいのですか。
ただ、狼狽えることしか成す術はないのでしょうか。

今するべきは、少々の我慢は伴っても国民全体で危機を乗り切る覚悟のようです。
  


Posted by misterkei0918 at 07:18Comments(0)

2010年05月19日

検閲の理不尽さと恐怖

検閲の理不尽さと恐怖

私ども戦後の生まれは検閲などと言う言葉とは大よそ無縁な時代で育ちました。

時の政治権力が、国家権力を傘にきて、国民の信条や思想を封じ込めようとする手段であって、また自由な言論や人々の自由な交わりを制限しようとするものであります。

生まれて此方、自由奔放な世界で生まれ育ち、自由と責任を履き違えている私どもにしてみれば大よそ想像さえも及ばないものです。

それであればこそ、奔放な自由の恐ろしさや責任の所在の大事さを学んできたものです。

逆に、若し検閲などと言う理不尽な行為に出くわしたならそれこそ暴動や狂乱の渦が沸き上がってしまうかも知れませんね。

ネット上で今日の出来事を見ていましたら、
2009年の5月19日はネット上の検閲を始めると中国当局が国民に通達した日とのこと。

私ども日本人にはとても理解できない出来事です。
個人としては、そんな事もあり得るのかなとか思う時もありますが、国や政治、社会的な規制としてあってはいけないことでしょう。

国を守る、国民を守るとの大義名分を掲げ、如何にもそれが正当であるかのように論じるのはいけません。

その事が人権を無視したり、人命を危険に陥れたり、尊厳を損なうようなことは慎まねばいけませんが。

その事は情報化社会で生きる国民の権利や情報収集の自由を奪うもので、言論の自由さえも束縛するものになってしまいます。

ソフトの名前は、
緑壩・花季護航(リューパー・ホワチーフーハン、りょくは・かきごこう)。
中華人民共和国で開発されたコンテンツ・フィルタ。

英語名はグリーン・ダム・ユース・エスコート (Green Dam Youth Escort) 。

『2009年7月1日から、中国情報工業化部が、中華人民共和国国内で販売されるパソコン(輸入品を含む)には、緑壩をプリインストールすることが義務付けられている。

ただし、義務付けられるのは新たに販売されるパソコンだけで、既存のパソコンへのインストールは任意である。アンインストールするのも自由であるとされている。

公式見解では、政治的な意図はなく、青少年を性的なコンテンツから守ることが目的であるとされている。ソフトの名称も、その見解を反映している』

民主主義に向かう国であろうとするならば、もっと考えることは他にあったようにも思えます。

時の権力に、自由に物が言える環境。
自己責任をわきまえられる国民の資質を養うには、権力で抑えるのではなく自らが体得できるような環境を作ってあげることではないでしょうか。

お上からの押さえつけは結局は自らの破滅を招いてしまいます。

幾つもの歴史が証明しています。

最近のgoogle問題もそうですよね。
北朝鮮では今でも、手紙の検閲がなされているとも聞きます。

身近な例で言えば、子どもがそうです。
抑圧された子供は、いじけた性格になり易く、何事も自信が持てず、しかも性格的には弱い筈なのですが自分の子供や弱い他人を抑圧することに罪悪感を感じないことが多いものです。

親から虐められた子供に限って、自分に生まれた子供の虐待に走ったりするものです。

また、こんな事もよく見受けます。
自分が幼い頃に出来なかったことは、子供にもさせない傾向が強い。
逆だと思うでしょう?

自分が幼い頃に出来なかったことは、せめて子供には経験させたいと思いがちですが。

出来れば、自由で豊かな社会に何処の国でもなって欲しいものです。
  


Posted by misterkei0918 at 22:32Comments(0)

2010年05月18日

空から紙コップが落ちてきた

空から紙コップが落ちてきた

朝七時半頃、15日土曜日の事でした。

早朝のウォーキングを済ませ、車で自宅へ戻っていた時のことです。

信号待ちをしている私の車の目前に上から紙コップが落ちて来ました、
どうも中はからっぽの様です。

街路樹の上から落とした気配です。
まさか早朝から、しかも街路樹に登る人はいないでしょうし、下は車が走っているのですからコップを落としたら、傷ついてしまいます。

お陰さまで車のボンネットに落ちることはありませんでしたが。

数年前、福岡では滑走路から上昇する飛行機が、機体の一部を市内に落下させた事がありました。
空港から僅か数キロの所。
福岡空港は市街地の中に空港がありますから。

その時は、工場地帯で人気(ひとけ)が少なかったことや落ちたところが公園だったので良かったのですが、子供達が遊んでいたり、建物を直撃したら大変なことでした。

世の中、思いがけないことが起こるものです。

先日は、福岡のある著名な方の本を頂きました。
「空からお星様が降ってきた」のタイトルです。

美しい装丁、感激的な内容ご本で瞬く間に読んでしまいました。

幸福もお空から降ってくるようだといいですね。

それも善行のあった人だけに。
当然、打算や目論見が入っていては駄目ですよ。
そんな事はお空はお見通しですから。


空から、紙コップだからまだ良かったのですが、これが金属で出来ているものとか、重いものでしたら事件ですね。

よく見たら、カラスなんです。
不届きな奴です。

多分、その付近のゴミ箱からでも加えて木上から落としたのでしょう。

先日の新潟のコウノトリの卵をつついたのもカラス。
何か人の役に立つことを一つでもしてくれるといいのですが。

だったら、免じて上げたりもするんですけどね。
今となっては憎らしいだけになってしまいます。

以前、カラスに襲われたことがありました。
多分、想像ですがカラスの子供でもいたのでしょうね。

私をその敵だとでも思ったのでしょう。数匹の大きいカラスが追いかけてくるのです。
あの太いくちばしでつつかれては大変なことになってしまいます。

嫌な思い出です。

数日前は、路上でカラスがカラスをつついて食べている様子を見ましたが気持ちのいいものではありませんでした。

カラスの漢字は烏。
鳥の一画を取った様な字です。

鳥の1点を欠いて、黒くて目の見分けがつかない事から烏の字が出来ているようです。

黒い、欲深い、紛らわしい。
烏合の衆・・・・・規律の無い集まり。
烏雲・・・・・・・女性の黒く美しく豊かな髪。
烏の雌雄・・・・・黒くてオスメスの区別がつかない事。物の是非善悪がつかない事。


豊臣秀吉が朝鮮征伐の時に持ってきたとされる「カチガラス・・・鵲(かささぎ)」
佐賀県北部でよく見受けますが、最近は生息地域が広がっていろんな所で見るようになりました。
電柱や高い木の頂上に作る巣をよく見ます。

その巣を守るために九電さんが、細かい配慮をされているようです。

烏の一種、鵲はこんな伝説があります。
「陰暦七月七日の夜に、牽牛と織姫の二星が天の川で会うとき、かささぎがその翼で天の川に橋をかけると言う話・・・その橋を「烏鵲橋(うじゃくきょう)」

烏の仲間の鵲は、こんな素晴らしい事をしているのに。
  


Posted by misterkei0918 at 09:36Comments(0)

2010年05月17日

守護霊の話、その5

守護霊の話、その5

四日がかりで書いてもつきない話になってごめんなさい。

守護霊の話を書いていましたら、実はこれは生身の人間との付き合いと全く変わらないことに気づきました。

数日前に守護霊のことを書いたときにこんなコメントを頂きました。


『神懸かりではなく、だれにでもいらっしゃるのです。
訳はご先祖さまは私たちを子として愛しみてくださる。

それに気づかない人にたいして悲しんでおられます。
気づくひとには喜び、愛を下さるのだと思います。

そのほうが自然でしょう。
実感足りない方も、うれしい時もひたすら感謝を伝えたらいいなと思います。
ありがとうございます』


最後にお書きなってますが、やはり感謝の気持ちの大切さをおっしゃっています」

私は数年前から、ある方に教えて頂いて「ありがとう百万遍」を実践ししています。
いつ終わるとも知れない「百万遍」ですが。

自分が変わることを実感出来ます。お試しあれ!!

それまでの私の口癖は「すみません」
なんでもかんでも「すみません」

本当は「ありがとうございます」と言うべきところも。

守護霊に対しても常に「ありがとう」の連発です。
口を開いて言うことも要りませんから、いつでもどこでも感謝する気持ちが出てきた時には「ありがとう」です。

最後に、
あくまでも私の話として申し上げますと、

極めて身近だった人の中で、自分を最も知っている人、
そして愛してくれていたであろう人を選び、
常に思い浮かべ、「あなたが私の守護霊です」と宣言することです。

何か成功したことや、喜びごとが生じたときに、
常に此の人が私を守っていてくれると思うことから
始まると思うのです。

また、この守護霊に常に接点を持ち、心のなかでも
つぶやきでもいいのですが、色んな報告をしたり、感謝の気持ちを伝えること。

つながっていると言う態度や言動を常に発信することです。

私の経験では、前記のように身近だった人がいいと思います。

福沢諭吉、坂本龍馬・・・・・
などになると尊敬出来る人、刺激をくれる人ではありますが、心が通じていませんよね。
ましてや相手はどうにも思ってはくれませんし。

一方通行の片道切符、片想いのようなものです。

ここらで守護霊のことは辞めておきます。

いずれにしても、経験して見るといいですよ。
余りにも信奉し過ぎて、入れ込みすぎても守護霊は喜びませんし嫌なものです。

まずは自分の心のあり方が大事ですし、自分の存在や正しい思いが守護霊を存在させるものですから。

また、守護霊を大事にしすぎて、例えば他の神仏を大事にしないのもいけませんし、他の多くのご先祖を忘れてはいけません。本末転倒ですよね

なによりもかによりも大事にすべきは、身近に存在する家族や社員、友人たちを置き去りにしてはいけません。

それは結果的に自分を損なうことになり、守護霊からも相手にされない結果を生み出すものです。

長くなりました。
お詫びします。
  


Posted by misterkei0918 at 07:56Comments(0)

2010年05月16日

守護霊の話、その4

守護霊の話、その4

三日がかりで書いても終わりませんでした。
ごめんなさい。

それだけ私に取っては、大事なことですしその事なしでは人生はなかったと思っています。

心の拠り所が宗教であったり、駆け込み寺であったりするものですが私に取っての守護霊はまさしくそれであろうと思われますが、それ以上に大事なことは相手が祖父であるが故により身近で実像的、しかも実感として祖父の肌のぬくもりを知っていると言うことでしょう。

だって、私は雨の日も晴れの日も農作業に行く時も、陸が見えない程の遠くの漁業でも祖父が手で漕ぐ小舟に乗って連れていってくれていましたし、なによりも夕方のお風呂(当時は五右衛門風呂)も背中を流していただきましたし、湯船の中で遊んで頂きました。

労働の大切さや人に接する態度、家族への思いやりや社会に尽くすことがどんなに大事なことか・・・・・

笑顔の素晴らしいおじいさんでした。

地域の纏め役で、リーダシップを兼ね備えて人であったようです。

守護霊は、常に私と喜びを共にしようと望んでおられます。

悲しませる言動は、当然守護霊の悲しみを呼ぶことであり、つまりは私に対する守護霊の力を弱めることにも繋がるような気がします。

過大な負担は自分が負うべきであって、守護霊に責任を押し付けたり、腐心や不信を抱くようであれば守護霊を持つことはやめた方がいいかも知れませんね。

却って、逆効果やとんでも無い結果を産むかも知れません。

アメリカの本で「シークレット」という冊子が話題を読んでいます。
「引き寄せの法則」が書かれていますが、結局は今は自分が引き寄せた現実ということです。

私の持論で言えば、自分の未来を創りだすために守護霊に見守っていただきながら感謝の気持ちを忘れること無く、真摯に継続的に努めること・・・・・

不思議なことを数多く経験しました。
願っていたことが向こうから歩み寄ってくれたり。

ですから実は多くの方には教えたくないのです。
嘘です。
特に若い方々に知って欲しいのです、早くから。


自分は天涯孤独、
自分だけ世の中から見放されている、

自分には世の中を切り開く勇気が備わっていない、
自分だけ置いてきぼりを食っている、

この世に自分は必要とされていない、
自分だけ人と違う・・・・・


それぞれの自分が飛び抜けて際立った能力を備えているのではないと思うのです。

殆んど均一で、育った環境や地域、親の考え方、本人の努力や刺激や偶然、それと人との関係や関わりの中で複雑に絡みあって醸成されていくもののように思います。

それに一つ、守護霊を加えてみたら大きな力になって頂けることは賛同される方がおられると思っています。

嘆き節や愚痴、愚弄が決して問題解決はしてくれません。
私がそうでしたから。

* *******
また、あす続きを書かせて頂きます。
  


Posted by misterkei0918 at 08:06Comments(0)

2010年05月15日

守護霊の話、その3

守護霊の話、その3

文章を短く纏める力のない私ですので三日がかりになってしまいました。

でも、私自身の大事な部分を纏める機会を頂いたのですから中途半端に終わらないで纏めることにしました。

そういう意味では、貴重なコメントを頂いた方に感謝です。

若い頃は勢いで生きていますし、自分の事で精いっぱい、身の回りの事を収集するのに全ての時間を集中してしまいます。

そんな大事な祖父が私をどんなに大事に思い、遠く離れた地から高年齢にも関わらず思いの丈を発信されていたことに気づいたのは、漸く人間的にも落ち着き、社会的にも様々な活動を始める時期に差し掛かった時でしょうか。

祖父がなくなった時は、高齢でしたから体調は幾らか悪かったのでしょうが所謂大往生とのことでした。

最後を迎える祖父にお会いすることは出来ませんでしたが、祖父は確実に私にお別れを言いにあの日、あのようにして私の枕元にお見えになったのでした。

そんな事は誰も信じては頂けないでしょうが、まだ息を引き取る前の人がその直前に1000キロも離れた場所の私の夢枕にどうして立てたのでしょうか。

多分、40歳くらいの頃からでしょうか。

私の人生が少しづつ変化を遂げ始めました。

どうも私以外の力が働いているような気がするのです。
私自身は、知識も能力も人並み以下と思っていますから、自分の力でないことは充分に分かっています。

その頃、皆さんもそうでしょうが40歳頃は男は厄年に近づいてきることもありますし、また「四十にして惑わず」という言葉があるように社会的にも家庭的にも自立を求められ、自分の立つ位置を確保する時でもあります。

つまり、これからの人生を決める時期であり、この時期をどのように意義深いものに出来るかで今後の精神的に豊かなものに出来るかの瀬戸際でした。

幼い頃は両親と生活が出来ず、青春時代は自分の精神的な欠陥や弱さ、身体的にも悩み多きものに埋没し惨憺たるものでした。

人生において好転の兆しが見え始めたのが、24歳の結婚とか、25歳での一軒家の建設、子供達の誕生、29歳の起業・・・・・

振り返ると前記のようにどうも誰かが後押しをしてくれているのです。

始めました。
何か、大事なことに当たるときには「よろしくお願いいたします。お守り下さい」

他力本願的な「なんとかしてください、助けてください」などは決して口にしません。
何事も事に当たるのは、解決の糸口は自分で見つけるものですし、行動は自分がするべきものだから。

結果の殆んど失敗や悪い方向へいくことはありませんでした。

当然、感謝の気持ちを忘れてはいけません。
心で呟きます。「有難うございました」

感謝は「お陰様を感じ、行動や心のあり方に現す」ことではないでしょうか。

感謝は、心の結びつきを深め、お互いの感謝の響きあいを呼び起こすような気がします。

私は、守護霊との結びつきを深めるために色んな事を思いつきました。
打算では無いのですよ。
祖父とより身近にありたいと願うのです。

先程のお守りの依頼や感謝もそうですが、両手を胸の前で合わせることでコンタクトを取っていることも。

今では、両手を合わせることで首筋から背中にかけて何かしら不思議なものが走るのを感じるようになりました。

これは多分、お分かりにならないと思います。

大事な会議や重要な案件を抱えたときに臨む前にかならずその行動をします。
当然、人目につかない場所、例えばトイレとか車の中とか。

* ******
今日も長くなりました。
また、明日に続きます、ごめんなさい。
  


Posted by misterkei0918 at 10:46Comments(0)

2010年05月15日

守護霊の話、その2

守護霊の話、その2

昨日のブログで守護霊の話をしましたら、幾つかご質問などを頂きましたので改めて書くことにしました。

昨日の申し上げましたが、私自身は霊能者でも宗教家でも無く信心を極めている人間でもありません。

従って専門家の方から見たら色んな異論があり、又間違った理解や勘違いがあるのかも知れません。

若しかすると、望むところですが、或いは私が述べている事に真実が転がっているかも知れません。

守護霊は右肩におられるとか、120年を遡る人でなければ守護霊でないとか言いますが、私に取ってはそれはどうでもいいことで、

自分の人生で家族と同じように一番信頼が出来て、私の成長や順調な人生の歩みを見届けてくれて、時には叱咤、時には一緒に涙し、常に私から離れること無く見守っていただける方。

それでいいのです。

始まりは、長男が生まれた頃ですから27歳の頃でしょうか。

明け方4、5時頃。
夢枕に立った祖父は、私ににこやかに穏やかに何やら話しかけておられたのですが、途中から亡くなったという夢に変わってしまいました。

私は、自分の恩人ですからそれは仰天の出来事で布団から飛び起きたのです。

家内に「今、祖父が亡くなった夢を見た」と慌てる私は如何にも現実の問題のごとく話したのです。
家内曰く「夢だから心配はいらないよ」。
それで安心し、再び床についたのです。

その夢の事をすっかり忘れて出勤し、お昼の食事を社外で済ませ社内に戻ったところ、「奥様から緊急の電話が入っていました」との事。

取って返しすぐ様、自宅へ電話です。お昼1時前。

電話の向こうの家内から「田舎のおじいちゃんが亡くなったとの事よ」、
それでも私は夢のことを全く思い出しません。

家内が続けて言います「そう言えばあなたは今朝の早朝に亡くなった夢を見たと言っていたよね」
この言葉で、背筋に冷たいものが走る思いをしたのです。

死の病に直面していた祖父は、誰よりも不憫に思い、大切にしていた私の枕元にお見えになられていたのです。

生まれたから、両親と生活の出来なかった私を、我が子以上に大切にしてくれた恩人です。
別れたのは、6歳の頃。

遠隔地に住む母親の元へ私を手放すことになったのです。
見送る祖父の様子は今でも脳裏から離れませんが、それは可哀想なものでした。

その後、病弱になられすっかり憔悴しきってしまった人のことでした。
多分、生きがいを失ったが如く、気力をなくされたのでしょう。

私の成長を誰よりも望み、喜び、期待をしてくれました。

* ****
長くなりましたので、明日に廻しますね。
ごめんなさい。
  


Posted by misterkei0918 at 10:40Comments(0)

2010年05月13日

守護霊を持つことの勧め

守護霊を持つことの勧め

守護霊の話は過去数度に亘ってブログに記載したことがあります。
タイトルは守護霊の文字はついていないかも知れませんが。

宗教人でもありませんし、取り立てて熱心に宗教を信心しているわけでもありません。

日本人ですから、仏教の影響を色濃く受けているのは事実ですが。

私の家系は(家系を言えるほどの家柄でもありません・・・ということ事態が守護霊様に失礼なことですが)、どちらかと言うと神道です。

例えば、今時の考えでいけば、リアルとバーチャルかもしれませんね。

多分、青春時代の不思議な体験がなければ守護霊に考えも及ばなかったかも知れません。

私自身の守護霊は、母方の祖父。
生まれてすぐに母親と暮らすことの出来なかった私は祖父母に育てられることになりました。

私を不憫に思う祖父母はそれはそれは大事に、育ててくれたのです。
大事にと言うのは、自由奔放とか我儘にとか言う意味ではありませんよ。

その時でも私自身は、厳しい思いをしながらの生活であったことは今でも脳裏に焼き付いています。

その祖父がなくなって以降、私の守護霊でいらっしゃるという思いが始まったのですが。色んな体験をしました。

どうして守護霊と思うようになったのか、
どんなことが現実に起こったのかは過去書いてきたような気がしますので割愛をします。

人は色んな問題や悲しみが襲ってくるものです。

かと言ってこれらに負けているわけにもいきませんし、克服したからと言って驕るわけにもいきません。

そんな時には守護霊に「ありがとう」
「お陰さまで」

厳しい状況に立ち向かったときには、「助けてくれ」等と他人に弱音は吐けませんし、その時点で既に負け犬になっているも同然です。

そんな時に「見守っていて下さい。必ずや克服してみせます」

不思議なことに勇気百倍です。

人はそんな事はあり得ない、神がかり的なことは滑稽だと訝るのです。
そのように人はそれでいいんです。
信じないことは個人の勝手ですし、また信じない人に勧めることでもありませんから。

重大な事に直面したら、
「見ていて下さい、お願いいたします。全力投球します」

様々な現象に直面します。
所謂、心の置処とよく言いますが、その事によく似ているかも知れませんね。

或いはもっと心の奥深い問題かも。

今では両手を合わせて、拝むと背筋に何かが走る体感があります。

ここまで書きましたら、如何にも神がかり的になってきましたので筆をおきます。
  


Posted by misterkei0918 at 19:11Comments(0)

2010年05月13日

高ぶる感情こそ大切に

高ぶる感情こそ大切に

私などの性格はどうしても他人に感情むき出しな様子や悲しんだり、心配に暮れる姿は決して見せたくないと考える方です。

男の癖に涙を見せるな的な考えかもしれませんね。

ですから、家族や友人にも焦った姿やとまどい、情に溺れたり、流されたり、ましてや激怒する姿など見せることはありません。

既に亡くなった先輩で、それはそれは感情むき出しの方がおられました。
決して見たくない姿でしたし、冷静な心を持った人間としての行動とは思えないほどでした。

私も被害にあった一人ですが。
亡くなった後に奥様にお会いする機会がありました。
「ご主人が亡くなられて大変でしたね。気を落とされないで元気で頑張ってください」の私の言葉に、

「ほっとしました」。

多分それが正直な奥様のお気持ちだったであろうと簡単に推測できる先輩の言動でした。

人は感情の動物ではありますが、形振(なりふ)り構わない言動や場所や相手をわきまえない姿はその方の品性を疑われますし、信頼を損なうことになってしまいます。

一度失った信頼は、もう取り戻すことは出来ないと思っていた方が良さそうです。
先程の奥様ではありませんが、死人に鞭打つ結果を作ってしまうものです。

「死人に口なし」と言いますから逝ってから弁解は出来ませんが、生きているうちから不信感を買うような行動や心の絆を切るようが事は避けた方が良さそうです。

でも、そうではなくて極めて人間的な姿、
涙を流したり、
正義のために体を張って頑張ったり、

真理を守るために感情がむき出しになったり、
自身の真摯な行動を貫くために理性を失ったり、

あまりの悲しみの表情を隠すことが出来なかったり、
苦しみや心配のあまり、弱々しい姿を露呈したり・・・・・

恥ずかしいと思わないで、大切にすべき感情かもしれませんね。
より人間的で。

私などはそんなところが損をしているところでしょう。
揺れ動く自分をできるだけ隠そうとしたり、見せまいとやせ我慢をしたり。

高ぶる感情を大切に出来る人であればこそ、極めて人間的で心を感じるものです。
信頼の絆をより深いものに出来る人もそんな人かも。
  


Posted by misterkei0918 at 17:23Comments(0)

2010年05月13日

親子の情愛は何処に忘れてきたのでしょうか

親子の情愛は何処に忘れてきたのでしょうか

愛情の中で最も崇高で深いのは親子の情愛であろうと思います。

動物だって、本能的に自分の親や子は分かりますし、それを守るには命を張り、命を賭けた筈です。

ましてや感情の動物と言われる人間であれば、言を待たないでしょう。

最近の親子犯罪、
とりわけ親の子に対する尊属犯罪は、若しかすると社会を根底から揺るがしかねない事態を招くのではないでしょうか。

物が豊かになると、心を失うとも言います。
物を追い求めることに一生懸命で、人間関係は希薄になり、打算的になり、猜疑的、懐疑的、ややもすると自分の立場だけを有利にするために家族をだって、犠牲にしてしまいます。

自分の幸せ、自分の身の回りだけに執着し、相手の立場や幸せをこそ優先させる事が自分を幸せにする最短の道であることを忘れてしまいました。

親が子に対する虐待や暴力、ひいては命さえ奪う行動は、最早人間の顔をした鬼畜生と呼ばねばなりません。

地域がどうとか、学校がどうとか、お役所がどうだとか言いますが1番は家庭における親子関係をどのようにして構築するか、改めて問い直す時代が来ているようです。

そして、1番は教育なのではないでしょうか。
学校や家庭における教育。
私どもは「人間として生きていくべき道」、つまり道徳を忘れている、若しくは教育されていないのではないでしょうか。

ある、著名な知事は道徳は簡単に言うと「自己犠牲」だと言われました。

まさしく、自分を犠牲にして、自分の事は置いといて子供の為に尽くす、全力投球する親として当たり前の行動を失ってしまいました。

本来、学ばなくても良かったのです。
だって、人間は本来的に体の中に子供を幸せにしようとする遺伝子が存在していたはずなんです。

それが時代の変遷とともに、それにも増して悪い方向に変遷してしまいました。

最近はこの類のニュースに事欠かなくなりましたし、「もう聞きたくない」と言いたくもなります。

私のように親不孝な子供もいるものですが、まずは親の方から自らの子に対する言動を改めて見つめ直す事が必要なようです。

「自分は親足り得るのか!!」。


『親であるということは一つの重要な職業だ。
だがいまだかつて、子供のためにこの職業の適性検査が行われたことはない。バーナード・ショウ』


『世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される。ルソー(仏・思想家)』


『母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛。日本船舶振興会会長・笹川良一』


『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』


『愛情には一つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ。スタンダール(フランスの作家)』


『愛情をケチってはいけない。元手は使うことによって取りもどせるものだ。ジークムントフロイト』
  


Posted by misterkei0918 at 16:27Comments(0)

2010年05月11日

健康で生涯を送るためにも

健康で生涯を送るためにも

人にはそれぞれの寿命があるものです。

DNAにそんな事が書かれているかは分かりませんが、どうも誰も知る由のないところで決められているような気がしますが、如何ですか。

そうでなくても人として寿命を全うするまでは気を抜くこと無く、熱心に真摯に迷惑や心配をかけること無くスムースに、出来れば気を楽にして行きたいものです。

出来れば、逝くときも周りの方々に余計や心配や負担を掛けないで、
また、苦しまず、未練を残すこと無く、
天寿を全うするがごとく、大往生といきたいものです。

それまでは健康でいきたいものですね。

所が、人間生身(なまみ)の体や心ですから、そういうわけにもいきません。
だからこそ、お医者さんが存在しているのでしょうし、神代の昔からの漢方医学だって存在したんですよね。

少なくとも健康でいる内は?
不思議な言い回しですが、これが1番しっくりいく表現に思えます。

暴飲暴食や不規則極まりない生活、好き嫌いやタバコ、
また、精神的に思い悩む事の多い生活習慣や、厳しい仕事のあり方は慎まないといけません。

こんな事は、多くの方々が口にしますし当然のことと思われます。

1番問題なのは、ストレスなのではないでしょうか。
とは言いながら、なかなか節制には難しい状況だって存在するものです。

例えば、時には厳しい仕事を抱え、へとへとになるまで働かないといけないことなどがそうでしょう。

仕事を放り投げてしまうわけにもいきませんし、回避策は講じないといけませんがそれから逃げてばかりの姿は決していいものではありませんし、評価も落ちてしまいますし、それが共同作業であれば信頼関係まで崩してしまいます。

やはり仕方のないことであれば、できるだけストレスを貯めこまない自分なりの方策を講じておくことではないでしょうか。

「これをするとストレスが和らぐ」
「こんな行動をするとストレスから開放される」・・・・・

時間を作って、家族と行動することが最大の解消方法であるという事にしておくとか、友人と杯を傾けると大いなる解消になる・・・・・

私は実は私なりの方法を作っているんです。
眠れない時だって時にはありますが、考えるときは徹底して考える癖、
もうここまでと決めたら、ある所作をすることですぐにでもイビキをかいて寝てしまう・・・

案外、身近な方法でストレスから開放される方法が見いだせるものです。

癖と言ってもいいかも知れませんね。

私の方法はいつか又、機会を作って記載してみたいとも思います。
「何だ、そんな事なのか」と笑って頂けるかも。
  


Posted by misterkei0918 at 00:33Comments(0)