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2011年03月31日

義と利

義と利

任侠の世界のことの様に思えますが、実は私どもの日常でも義と利は深く係わっていますよね。

鹿児島では「義を言うな」と良く言います。

義は、象形で言うと「羊をいけにえとして刃物で殺すさま。厳粛な作法にかなったふるまい」

正しい、
道にかなっている、
人のふみ行うべき正しい道、
五常の一つ(仁・義・礼・智・信)
実物の代わり(本物ではないけど同じとみなす。義父、義足・・・)

義理人情の義が代表的なものかもしれませんね。
人間としての根源的な話ですよね。

人に言わせると、義は相手や他人に対する行動の規範と言う人もいます。


孔子は、義について
『子曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり、義を見て為(せ)ざるは勇なきなり)
「自分の先祖でも無いのに祭るのは媚諂う事だ、正義を行うべき時に行動しないのは臆病者だ。」


『子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る』
「人格者は正しさを求め、つまらない人間は利益を求める。」


利は、調べてみましたら
象形としては、稲に手をかけ、鋭いすきで土をすき起こすさま。
するどいとか、
役に立つ、
こうじて、為になる、切れる、儲け、賢い・・・・・
自分が周りに対してどういうスタンスなのか。
利己、利他と言う言葉もあります。

孔子は、利について
『子曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し』
「もし自分の利益のためだけに行動すれば、人々の恨みを買うだろう。」


『利を見ては義を思い、危うきを見ては命(いのち)を授(さず)く、久要(きゅうよう)、平生(へいせい)の言を忘れざる、亦以て成人と為すべし』

「もし利益より正義を優先し、危険に身命をなげうつ覚悟があり、昔交わした小さな約束までも忘れないようにするならば、完成された人物と言って良いだろう。」


義は、社会や他人、周囲を優先する想い、
利はどちらかと言うと自らの事を優先する想い。

両方とも、象形としては鋭い刃物が出てくるから不思議です。
日本の漢字に対する想いがますますつのりそうですね。
  


Posted by misterkei0918 at 17:03Comments(0)

2011年03月31日

お星様への誘(いざな)い

お星様への誘(いざな)い

最近、月や星への関心が強くなってきました。
その分、お日様・太陽への興味が薄れてきた?

むしろ、天照大神や仏教、古寺・・・等に興味が移ってきました。
これも年の精なのでしょうかね。

お日様への関心が薄れたというよりも興味の対象が変化してきたというのが本当でしょう。
お日様と言えば、中でも気を引くのは日の出ですよね。

一日の始めに拝むお日様は何か特別なものが存在します。
所謂、神道的な精神構造が働いているのでしょう。

或いは、私が勝手に守護神として尊敬している母方の祖父が毎朝、お天道様に両手を合わせている後ろ姿を拝見していた事にも由来するものでしょう。

初日の出を見るとつい両手を合わせて頭を垂れてしまいます。

月や星への関心の始まりは、一つには夜のウォーキングが多くなったことも一つの原因でしょうし、毎年大晦日に家族で出かける温泉宿での想いでも大きな要因の一つのようです。

ウォーキングの時には何故かしら天上を仰ぐ癖があります。
幼い頃、南国で生まれ育った私は、今にも落ちてきそうな星々を眺めながら過ごした記憶があります。

また、年の瀬の慌ただしさから解放される大晦日。

大分県の山間の温泉宿が毎年恒例の年越しになっていますが、ここで見た夜空の星の多さに圧倒された経験がどうもそんな関心を呼び起こしているようです。

そうですね、馬齢を重ねてセンチメンタルな気分、或いは少し精神的に衰えを見せてきたのか、はたまた挙句の果ては夜空のお星様にでもなろうとでも思っているのか。

近いうち、星やの天体の観測もしたいとも思いますし、福岡市中央区の福岡市立少年科学文化館でも訪ねてプラネタリュームの見学の実現をしたいとも思います。

多分、子供たちが殆どでしょうがそれでも賑やかな勉強の方が楽しいでしょう。

以前、福岡県星野村の天文台を訪ねた事がありますが、この時には天気に恵まれず空振りになってしまいました。

いずれにしても私どもの生活だけではなく、体のリズムを始め或いは構造的にも天体の影響なしでは存在しないでしょうから、少し勉強を始めるのもいいかなと思っております。

それで、少しでも人としての深みや幅が出てくれると、もっと嬉しい事ではありますが。

  


Posted by misterkei0918 at 10:23Comments(0)

2011年03月30日

「ありがとう」の言葉に心は入っているのか

「ありがとう」の言葉に心は入っているのか

「ありがとう百万遍」の旅を始めてから、そうですね、6年位にはなったでしょうかね。

尊敬する名古屋のある方からご指導を頂いて始めたことですが、不思議や不思議、人生が好転するのを実感いたします。

出来れば皆さんにも実践して頂きたいものです。

声を発しての「ありがとう」だけではなく、メールや他人のメッセージのコメント等あらゆる所で「ありがとう」の連発です。

「ありがとう百万遍」ですから、中途半端な気持ちでは生涯実現は不可能ですし、或いは心が伴わなくては何にもなりませんよね。

ただの繰り返しでは却って実践しない方がいいかもしれません。

下心や利益誘導の「ありがとう」は当然見透かされてしまいますし、却って心を疑われる結果を招き自身の人間関係を損なう結果を招くことは言わずともがなです。

「ありがとう百万遍」を続けていると、惰性になることだってありますよね。

心の伴わないありがとう、
口先三寸のありがとう、
出まかせのありがとうになってしまいます。

出来れば笑顔を添えてあげられるといいですよね。

自分の心にいつも問い直す必要があります。
お前は本当に心の底からありがとうの言葉を発しているのか?

気持ちの乗らない日もありますし、体調の悪い時・・・・・
或いは「ありがとう」どころではない時だってあるものです。

「ありがとう」の全てがそうでなくても大半は心のこもった「ありがとう」を発したいものですし、常に自分の胸に問い直す必要がありそうです。

こんな文章を頂きました。

『高知県に「ありがとう駅」ができました。ちなみに隣の駅は「ごめん(後免)駅」。「ありがとう」と「ごめんなさい」。何気ない言葉ですが、相手が分かっていると思っても言わなくてはいけない言葉です。しかも繰り返し言わなくてはならない言葉です。家族が仲良くなるコツは、この大切な言葉をお互いに口にし合うことです』


『大規模な災害がおこりました。夜の12時過ぎ、避難所にわずかですがおにぎりが届きました。二人に一つ。ある夫婦は「こんな中、ありがとうございます。二人で半分ずついただきます」。でもある夫婦は「ワシら、朝から何も食っておらん。こんな夜更けに握り飯一個だけか」。試練の時こそ、どう生きてきたかが試されます』
  


Posted by misterkei0918 at 18:06Comments(1)

2011年03月30日

今年の桜は何故かしら悲しく見える

今年の桜は何故かしら悲しく見える

とんでもない震災が起きたものです。
悲しい限りです。

直接ではなくても身近に、震災に遭遇された方々がおられたのではないでしょうか。

今は気付かなくても或いは過去に関わった方、若しくは存じ上げている方が犠牲になっている事もありますよね。

将来になって、ある時音信が途絶えている事を知ることになるやもしれません。

福岡地方は桜の開花宣言が日本で3番目になされました。

確か高知が一番、2番目が熊本。

今年は桜が悲しげに見えます。

いつもでしたら、華やかで躍動的で自然の摂理の有難さを噛みしめ、心も体もうきうきと沸き立つものを感じるものです。

しだれ桜も何かしら、気分が落ち込んでうなじを垂れている乙女のような、物悲しさを伝えます。

咲きかけたソメイヨシノのつぼみも遠慮がちで、躊躇っているようなそんな感じです。

ほろと落ちる花びらを見るにつけ、こちらまでついほろりと目に涙さえ浮かべてしまいます。

震災に遭われた方々の目に、桜の花はどのように映る事でしょうか。

いつもでしたら、花に誘われて浮かれ気分になるのですが。

そうですね、
今はただ悲しみの中ではありますが、輝かしい春は必ず再び戻ってくる事を信じて、力強い歩みを始めて欲しいものです。

日本の国民、一人残らず皆様の為に心を一つにしている事を信じて欲しいものです。

今年の桜の姿は確かに、物悲しい姿に見えます。
私どもの心の姿が鏡のように映っているかのようです。

再び、以前のように心浮き立つ季節の花として蘇ってくれることを信じています。

それは私どもの心の中にこそ潜んでいるようです。
頑張りましょう。
  


Posted by misterkei0918 at 17:26Comments(0)

2011年03月30日

心穏やかな日々が過ごせますように

心穏やかな日々が過ごせますように

余りにも喜怒哀楽の激しい人生は嫌なものです。

出来れば、穏やかな平穏な日々でありたいと望みます。
所が人生にそんな穏やかさをなかなか与えてはくれません。

御釈迦様も一生は「生病老死」と説き、苦しみから逃れる事の出来ないこと、厳しい人生である事を教えておられます。

授けて頂いたのは、そんな中にあっても穏やかな心を持てる瞬間を作る知恵を人間に授けて頂きました。

喜怒哀楽のない人生は、どちらかと言うと怠惰で退屈極まりない人生であって、喜楽だけを選んで人生を歩むことは難しいですし、怒哀だけでは悲しい人生になってしまいます。

その全てを享受することで、人生は意義深く、満足するように出来ているようです。

怒哀は喜楽を得るための助走位に考えてもいいのではないでしょうか。

穏やかな日々を過ごすという事は、怒哀の日々を乗り越えた証であって、それなしには訪れないもののように思えます。

逆に喜楽は、次に或いは交互に訪れるであろう怒哀の為のつかの間であって、心の充電期間のような気がします。

喜楽の時に、安堵することなく修練を積み重ね、自己鍛錬に勤しむ事が出来る人にのみ喜楽に繋がる怒哀を準備してくれているようです。

心穏やかな日々を過ごすという事は、次なる怒哀に向けての歩みが既に始まっている事でもあります。

それは決して恐れる事でもなく、悲しむべき事でもないようです。

人生の機微はそのようにして幾度も幾度も繰り返しながら、より深い穏やかさや安堵の日々を享受できるように造られているような気がします。


『心を平にし、気を和やかにす。これ身を養い、徳を養うの工夫。貝原益軒』
  


Posted by misterkei0918 at 00:09Comments(1)

2011年03月29日

何でも出来そうな気がする

何でも出来そうな気がする

最近、なんでも出来そうな気がします。
今までが、自信喪失の年月でしたから。

だからと言って自信がみなぎっている訳でもありませんし、奢り高ぶっている訳でもありませんが今ここまで来たら、全てが旨く出来そうな気がするのです。

それは積み重ねの結果であったり、経験の賜物のような気がします。

自分には出来そうもないことや無理だと考えていた事を少しづつ、少しづつ実践、経験をしてきましたのでそんな気持ち、境地になったのかもしれませんね。

言わば、馬齢をかさねてきたということに尽きるのでしょう。

人は自信過剰でもいけませんし、かといって委縮した人生も悲しいものです。
中庸を求めるのですが、そんなに旨くは出来ていないのです。

殆どの人が中庸の人生でしょうが、私のように歪(いびつ)で卑屈で、引っ込み思案な人生を送っている方は多いものです。

でも、人生は旨く出来ているものです。
自らの人生をより新しい展開を求めて、能動的に働き掛ける人には味方をしてくれるものです。

良く「天が味方をしてくれる」
「天が運を授けてくれる」等がそうですよね。

努力や行動が伴う事によって、引き寄せられるのかもしれません。
人生はそんなものです。

回り始めた歯車には、常に回転しようとする動力と潤滑剤が必要なように、人生の歯車は好転を始めると何かしら全てが引きずられて望む方向に進み始めるものです。

時として「好事魔多し」などと言う事もありますし、突発的な災いも飛び込んでくるもの。

そんなときでも、慌てることなく冷静な心を保ちながら対応する事が大事なようです。

また、有頂天や偉ぶった態度は坂道を下り始める原因であって、慎まないといけませんよね。
謙虚で、穏やかの心持こそ大事でしょう。

人生は訓練そのもの。

今が過酷であっても、人を大切にし、希望や夢を失うことなく真摯な行動に終始することで人としての修練の道筋を歩むことになるのでしょうから天から与えられた使命を全うすることになると思われます。

何処か窮屈な怠惰な人生と思えがちですが、それが決してそうではないことに気づくことこそが重要と思われます。
  


Posted by misterkei0918 at 16:21Comments(0)

2011年03月26日

今、この瞬間が大事

今、この瞬間が大事

歴史も大事、過去も大事ですが、その時の流れの話の中で最も大事なのは今なのではないでしょうか。

過去、現在、未来の話で言えば、現在でしょう。

今の自分の考え方、行動や実践、努力が自分の未来を作っているであろうとする想い。

オーバーな言い方をすれば、未来は今の自分の在り方が決める、
今の自分の行動が未来の自分を決定づけていると。

そのように考えて自分の過去を振り返ってみるとどうも確実な理論のような気がするのです。

途中には想像もしない出来事や突発的な現象で、過去の自分の結果でないような事態が生じる事もないではありませんが、それとて若しかするとそうであるかもしれませんよね。

でも、どうも今が大事だとか、
今、真摯に人生を捉えるとか、
社会が求める自分を作るために努力するとか、
そんな想いが大事だと思われます。

日々の一生懸命さが、将来に繁栄すると言う事なのでしょう。

例え、涙の今日であっても明日を信じて乗り切ろうとする想いは通じるものです。

因果応報等も言葉を使わなくても、自らの過去を振り返ってみたら何故かしら不思議と理解できるものです。


『現在の自分は、今までやってきたことの結果であり、将来の自分は今やっていることの結果である。ブッダ』
  


Posted by misterkei0918 at 12:02Comments(0)

2011年03月26日

経営とは「心の在り方の追及」

経営とは「心の在り方の追及」

あるベンチャ企業のカリスマ的な存在のトップが、「人の心はお金で買える?、お金でどうにでもなる?」と発言したことが話題になったものです。

確かに、そんな側面がないとは言えませんが、実際にお金で人の心を揺り動かす、或いは惑わすことはいけませんよね。

じゃ、ヘッドハンティングはどうなるかと言われそうですが、経済は馬の目を抜くような側面もないではありませんのでお互いの合意の上で、そんな割り切った関係が存在する事も仕方がない側面もあるような気はします。

でも経営は、経営する人の「心の在り方の追及」のような気がするのです。

ただ、数字並べに終始するのでもなく、

社会にどのように対峙するのか、
向き合うのか、
お客様、ユーザーとの繋がり、
社員の幸せ、福利厚生、希望、夢をどうして実現するのか、
社員の人間性を高めるためにどうするか、」
関係業者との関わり方をどうするのか、


色んな事が想い浮かびますが、一言でいえば、
経営は経営者自身の「心の在り方の追及」のだと私は解釈します。

企業は適正な利潤追求の場ではありますが、こと経営は?と自分に問いかけてみるとそんな答えが返ってきます。

経営学、経営理論とか言うと、それは学問的な裏付けの事であって、明らかに経営とは異なる事のような気がするのです。

経営の「経」の字は、私自身の勝手な解釈としては「まっすぐな心」であって、
経営の「営」は、その具現化、実践化であろうと。

そういう意味で言えば、経営者にとっての経営は、一種の修行、練磨、修錬、精進と言う言葉を羅列しても可笑しくはないのではないでしょうか。

人によると、それは考えすぎとか、そんなことまで考えなくてもいいとか、利益追求、売上至上主義、企業拡大こそが経営と言う言い方をする人もいるかもしれませんね。

それはそれで、その人の経営の在り方でしょうから私がとやかく言う事ではありませんが。

経営は色んな事を教えてくれます。
多くの気付きを頂けます。
それに答える勇気や叡智、多くの人との関わりの大切さを教えてくれます。

「心の在り方の追及」、この事を忘れずに頑張らばないといけませんね。
きつい時もありますが。


『経営者がなさねばならぬ仕事は学ぶ事が出来る。
しかし、経営者が学び得ないが、どうしても身につけていなければならない資格が一つある。
それは天才的な才能ではなく、実にその人の品性である。ピーター・F・ドラッカー』
  


Posted by misterkei0918 at 11:38Comments(0)

2011年03月26日

相変わらず走っています

相変わらず走っています

「時には休んでは?」
そんな言葉が聞こえます。

或いは、もうそろそろ走り続けるのを止めるか、半分程度に抑えてしまうか、
それとも補完、補佐をしてくれる人、例えば秘書的な人をお願いするか。

やはり性格的に駄目なんですよね。
なんでも自分でやろうとする性格。

人にお願するとか、任せるとか、しないといけませんね。
分かっているのですが。

それも、本人の器量なんでしょうが、幼い頃から自分の身の回りの事は自分でやってきましたし、親兄弟もそういう意味での存在ではありませんでしたから全て自分で解決しようとする性格。

ましてや、人に物事をお願いすることが下手な性格が災いしているのでしょうね。

神経はすり減らすためにあって、しかもすり減らす度合いが多ければ多い程それ以上の再生をするような気がして・・・・・

昨年の日赤への救急外来への飛び込みみたいな事態にまだ懲りていないというか、身の程知らずというか。

考えてみたら、人の一生は何処まで頑張ればどうとか、終わりがそろそろ見えてくる頃とか、そんな事がありませんよね。

どうもこのまま頑張り続けて終わるような気がします。

そんな際限のない人生だからこそ人を生きていこうとするのかもしれません。

この度の震災を受けられた方々も、これからがまた大変な道のりを歩まれることと思いますが、人は人の中にいてこそ人である訳ですから、勇気を振り絞って、励まし合って頑張って頂きたいものです。

走り続けているとは言っても、被災を受けた方々すると微々たることかもしれませんね。

人生は、走り続ける課題に直面すればこその所もありますしね。

気を取りなして、頑張りましょう!!

今日は、
午後2時から、歴史の勉強会
6時から、ある地方の行政トップの方々との懇談会
明日は朝から、大牟田へのお墓参り
夕方、福岡へ戻って
6時から、先ほどの地方の商工会議所のトップの方々との交流会

準備万端、いざ出発です。
  


Posted by misterkei0918 at 10:57Comments(0)

2011年03月24日

多くの経営者たちにも頑張って欲しい

多くの経営者たちにも頑張って欲しい

大変な事態になってきました。
まさか、この度の地震や津波が原発の事故にまで及ぶとは。

私どもの業界の仲間たちも多く失ってしまいました。
人的な損害だけでなく、在庫品、材料、社屋や機械設備、経営の機会、商売のチャンスまでも。

経営者は、法人個人に関わらず、社員の福利厚生や日常的な生活の保障、また法人としての社会的責任や税負担に加えて、自己の生活を守る責任を一手に背負っております。

災害の規模は、25兆円を超えるとも言われ、GDPを0.5%押し下げるとも言われます。
復興に掛るお金は10兆円でも不足すると言われます。

当該地方の経済、生活もずたずたになってしまいました。
復興と言っても10年20年かかる事でしょう。

ですが市民生活回復はそんなに待てるものではありません。
待ったなしの状態ですが、政府、自治体がどんな復興計画を打ち出すのでしょうか。

贅沢な事を望む訳ではありませんが、せめてこれからの生活を維持するにふさわしい程度の復興は1日も早く遂げて欲しいものです。

とりわけ、生活の基盤を支えているのは経済活動であり、言わずとも企業活動が活力を取り戻さないと決してもとには戻らないでしょう。

その為にも、従来の経営者たちが、もう一度力を振り絞って立ちあがって欲しいものです。

仕事が眼前にあり、労働の確保が出来れば、笑顔も戻り生活の糧が出来ると言うものです。

政府の補助金、助成金も早く目途を立ててあげて、早い立ち上がりを支えてあげて欲しいものです。
銀行を始めとして、金融機関もあと少し門戸を開いてあげて大いなる支援をして差し上げて欲しいですね。

経営者が、気力を失い、挫折の日々を送っていては社会全体の活力を削いでしまいます。
小さな商店や零細企業でもそうです。

今一度勇気を振り絞って立ちあがりましょう。

マスコミなどの報道をみていると、個人の事に終始することが多いようですが、実は多くの人々に希望を与え、働くことで生活資金の確保ができ、多くのお客様や社員仲間との交流や触れ合いを通じて、今一度賑やかで活性化の道を歩み始めるのは早くお店や企業が立ちあがることです。

経営者たちよ頑張れ。
全国の経営者が応援しています。
  


Posted by misterkei0918 at 09:04Comments(0)

2011年03月22日

「謙虚であればあるほど美しい」

「謙虚であればあるほど美しい」

福岡市南区にある学校の近くを車で走っていましたら、電柱の掲示にこのような言葉が出ていました。

謙虚になるのもなかなか難しいものですよね。

何処までが謙虚で、何処からがそうでなくなるのか。

以前のブログでも謙虚のタイトルで書いたような気がしますが、どんな内容だったのかも忘れてしまいました。

意味を調べてみました。

謙虚の謙:
へりくだる、ゆずる、自分をおさえて人にゆずる(人の下につく)、みちたりる、こころよい、満足のさま、つつしむ、正しく整った言葉づかい・・・・・

謙虚の虚:
存在しない、中にものがない、から、内容がない、才能・欲望などがない、うつろ、はかない・・・・・

謙虚:
へりくだる、心をむなしくして、高ぶらないこと。

では、謙虚とはどういう事なのでしょうかね。
大勢で行動している、話し合いをしている状況を思い浮かべると理解しやすそうです。

普段の言葉として、
出しゃばるとか、逆に引っ込み思案とかを思い浮かべます。

出しゃばるは、自らが勝手に先んじるとか、
人の感情や行動に細かい配慮や想いが働かないとか、
能力もないのに、勢いだけが先走る様子が浮かんだり、
場合によっては人の神経を逆なでする、
過ぎると人間関係まで可笑しくなる・・・・・

引っ込み思案は、
自分の能力を過小評価している、
遠慮が過ぎる、
性格的に、人をリード出来ない、
恥ずかしさが先に立つ、
端でみていて、じれったくなる・・・・・

やはり謙虚は、
思慮深さを感じる、
人としての器量が大きい、
度量の深さを感じる、
「能ある鷹は爪を隠す」が如き、
深謀遠慮、
心の広さを感じさせる、
人間が出来ている、
いざという時にこそ力を発揮する、
ふところの深さ、
心の温かさ、
人を思いやり大切にする・・・・・

そんなイメージですかね。

本当に謙虚さからくる言動なのか、
引っ込み思案なのか、面倒くさがりなのか、人嫌いから来るのか、難しい判断が伴いそうですが、人の本来の姿はやはり滲み出るもののような気がします。

彷彿とした人柄や、温厚な態度など、端でみていると人間は大よそ見抜けるものです。

でも、謙虚が過ぎると困ったものですよね。
謙虚もあり、率先する時もあり、大いにリーダーシップを発揮する時もないと困るものです。

「謙虚であればあるほど美しい」と言う事ではなく、やはりバランス感覚がものを言うような気がします。
  


Posted by misterkei0918 at 19:57Comments(0)

2011年03月22日

5歳の頃の事を忘れなさい!!

5歳の頃の事を忘れなさい!!

人はどうしても離れる事の出来ないトラウマに捕えられている事があるものです。

或いはそれに気づかないでもがき苦しんでいる事も少なくありません。

自分の悩みや苦しみの根源、言動の数々がそのようなことに左右されているとは普段では気づく由もありません。

私も色んな事で悩みましたが、克服するには大変な労苦が伴ったものです。
今でも、完全に克服したとは思えませんが。

昨日は家内と二人で映画へ出かけました。
「英国王のスピーチ」

一場面で聞いた言葉ですが、少し表現が異なっているかもしれません。

悩まされる吃音を克服する物語。

ご覧になっていない人の為になりませんから多くを記載しませんが、幼い頃に受けた様々の仕打ちによって人間がどんなに困難な状況を抱え込むことになってしまうのか。

偉大な父親を失い、英国王になった長男の不測の事態によって王位につかざるを得ない「ジョージ6世」の吃音(どもり)との戦いの物語。



トラウマを調べてみました。

*****************************
『1917年心理学者フロイトが説いたもので、
物理的な外傷が後遺症となると同じように、過去の強い心理的な傷がその後も精神的障害をもたらすとするもの。

トラウマとは心理的に受けたひどいショックや生命に関わる体験、体験時に心に受けた精神的、心的外傷のこと。

トラウマは、本人がうけた体験のことだけを言うのではなく、事故や事件を目撃したり、身近な人が傷ついたり、自殺を目撃したりすることも含まれる。

死への恐怖や絶望感、不安などが心に深い傷をつけるのだと考えられています。

「トラウマ」という言葉そのものはギリシア語で“外傷”という意味ですが、体に負った傷(怪我)が後遺症になることがあるように、心に受けた傷も後遺症として精神的障害をもたらすと心理学者のフロイトによって「精神的外傷」という意味で定義付けられ、一般に広がっていきました。

トラウマは、いじめにおける無視や仲間はずれ、人前で非常恥ずかしい思いをしたりなど、何気ない日常が原因になることもあります。

トラウマの症状は、トラウマを抱える本人の身体や社会生活に多大な影響を与えるだけではなく、気持ちや不安、行動が周囲に理解されにくいという面があり、受けた傷に拍車をかけることもあるようです。

また、家族や身近な友人、同僚たちもどう接すればいいのかがわからず、とまどうことが多いと考えれています。

トラウマには、災害や自己などによる急性トラウマと、家庭内の虐待やいじめなど慢性的なトラウマがあります。』
*****************************

特に小さい頃に、親や兄弟、周囲から受ける精神的な苦痛は大人になってから様々な形で現れてみたり、本人を原因の分からない苦しみに追いやるものです。

最も信頼を寄せねばならない人からの言動が特に衝撃が多いように感じます。
この映画からも多くの事を学びました。
  


Posted by misterkei0918 at 06:24Comments(0)

2011年03月19日

一人ひとりはみんなの為に

一人ひとりはみんなの為に

私どもは誰の為に何のためにこの世に来たのでしょうかね。

青春時代は、なぜ自分はこの世に生まれてきたのか?
生んでくれなくても良かったのに!!
いっその事、いなくなりたい!!
とか強く考えたものです。

人は必ず必要とされる時があるような気がするのです。
だからこの世に生を受けているのでしょうからね。

必要だからこそ、この世に生まれてきていると思うのです。

最近は子供が出来たから結婚するとか、
行きがかり上、ついつい子供が出来てしまったとか・・・・・

でもそのことを問う事はしたくありません。

それでも必要とされて生まれてきたのです。
必ずやそこに必然性、必要性があったのです。

なぜなのでしょうかね。

当然、そこに生命がある事だけでも自然界においては大事なことでしょうし、遺伝的にも多くの個体が存在することが優生的な遺伝、DNAを作る意味でも大切なことである事は間違いがありません。

生物学的に言えばそんなことでしょうが、極めて高度な知識を持って極めて複雑な精神作用を持つ人間としてはもっと高度なことなのではないでしょうか。

当然、身近な家族を養うとか、
支えるとか、
安心の確保や、
命を支えるための努力、
社会を支える為・・・・・

色んな役割を帯びていると思いますが、最大の理由は人間としての支えあいの為に生れてきているような気がするのです。

人間は一人では生きて行けないように仕組まれています。
二人以上、或いは大勢であればこそ、楽しく生きがいを甘受しながら生きていけるように出来ているのです。

この度の震災は、これまでも幾多の困難を乗り越えてきた日本人に敢えて困難を与えているようなな気がしないでもありません。

お亡くなりになった方々、被災を受けられた方々には大変に気の毒なことでありますし頑張って頂きたいと思っています。

もう起こってしまいました。

後はどのように助け合い、立ち直り、お互いがどのように助け合うかを考えるしかないのです。

イギリスのBBC放送のコメンテーターが言っていたようです。
「日本人が有史以来、大変な時期をいくつも乗り越えてきている。
今回の出来事も見事に乗り越えて、また新しい繁栄に向かって歩み始める」と。

私どもが、想いを一つにして被災されている方々の為に何ができるのか。

「一人ひとりはみんなの為に」
いまこそ、日本人の真骨頂であった思いやりの気持ちを奮い立たせ、自分はみんなの為に生れてきた実感を共有したいものです。
  


Posted by misterkei0918 at 09:44Comments(0)

2011年03月18日

日本人の美徳「譲り合い、互譲の精神」

日本人の美徳「譲り合い、互譲の精神」

「強きを挫(くじ)いて、弱きを助ける」
昔は良くこのように諭されたものです。

子供、
お年寄り、
女性、
弱い立場の人・・・・・

片や、
理不尽な権力者、
弱い者いじめをする奴、
他人に迷惑を掛ける者・・・・・
「長いものには巻かれろ」などと言うように強いもの、権力にはなかなか逆らいにくいものです。

ですが、命を脅かすもの、人権や尊厳を蔑(ないがしろ)にするものには力を合わせてでも抵抗、戦わないといけませんよね。

昔から、日本人の美徳を語られますが、その一つが「譲り合い、互譲の精神」と言われます。

それは世界中どこでも同じじゃないかと言われそうですが、日常ではそうなんです。

極端な恐怖政治や抑圧された状態もそうですが、自分の命や尊厳が正常に保たれている世の中、公平さや民主が保たれている社会では本来の国民性は表面化しませんが、一旦緩急あった時に表面化してくるものです。

この度の震災で、日本人の際立った行動が注目を集めていること。
それが「譲り合い、互譲の精神」ですよね。

端的に言えば「この落ち着きは何処から来るのか」でしょうか。

以前、藤原先生の「国家の品格」の中にも記載されていたような気もしますが同じ日本国民として見ていても不思議な感じですよね。

多分、DNA的に備わっているのでしょうね

また、内面的にも強いのでしょうか。

昔から、災害と戦ってきた国という見方もあるのでしょうが、宗教的なこと、道徳面でも裏打ちされたものがあるものと思われます。

「自分の主張をはっきり言わない」
「何を考えているかわからない」なども「譲り合い、互譲の精神」の表れかもしれませんし、

片や、
「纏まる、集団になると力を発揮する」等は悪い意味で使われますがこれもそうかもしれませんね。

ですが、例えそうであっても誰がどう言おうと大事にしたいものです。
「譲り合い、互譲の精神」
相手の立場を尊重することにも繋がるのですから。

救援物資の不足にも関わらず、慌てず騒がず、落ち着き払った日本人。

背負いきれない過度の悲しみや苦しみに遭遇しても、自らの利益のみを尊重せず「譲り合い、互譲の精神」。

やせ我慢でなく、心の底から意識することなく滲み出る「譲り合い、互譲の精神」
いつまでも大切にしたいものですね。
  


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2011年03月17日

辛酸を舐めた間柄であればこそ

辛酸を舐めた間柄であればこそ

人の関係は、長く続いてこその物のようです。

短期間、短時間であればどこにでも人間関係は存在しますが、お互いが絶対的な信頼に裏打ちされた関係はそんなに簡単に構築できるものではなさそうです。

「袖すりあうも多生の縁」などと言いますが、只袖を擦りすだけで多少の縁が作り上げられるならそれは人生の話ではなく、行きがかりの話に過ぎないものです。

袖すりあうは、きっかけであって全てではありません。

このたびの歴史的な震災は、大変不幸なことではありますが人々が自然発生的により深い繋がりや人間関係が様々な形で、様々な場所で作り上げられていくものと信じています。

震災に遭遇したもの同志、
助けた人、助けられた人、
支援をする人、される人・・・・・

やはりつらい悲しい体験は人の距離を短くし、より深い関係へと誘ってくれるもの。

喜びの共有体験よりも、悲しみや辛さは涙を伴うだけに人の関係をただの関わりだけに済ませないものが存在します。

辛酸を舐めた間柄であればこそであります。


『辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。星野富弘』


『どんな幸運な人間でも、一度は死にたい程悲しくて辛いことがある。井上靖「月光」』


『苦労人というのは、ややこしい苦境を優雅に切り抜ける人のことである。サマセットモーム』
  


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2011年03月16日

想いは熱いうちに・・・支援物資、義捐金

想いは熱いうちに・・・支援物資、義捐金

「鉄は熱いうちに打て」と言います。
高ぶった気持ちも熱いうちに燃やさないと、時間とともに静まっていくものです。
人の心は不思議ですよね。

あんなに、情熱を持って語っていたのに後かけらもなく忘れてしまったり。

東北関東大震災は大変な惨状を呈しております。
津波の恐ろしさを見事に見せつけられた感じです。

また、福島の原子力発電所も予断を許さない、緊張した事態です。
大惨事にならねばいいのですが。
この始末次第では、今後の電力開発に大きな影響を及ぼすとともに禍根を残すこともあり得ますよね。

追い打ちを掛けるように、長野県での地震、
昨日は静岡県での震度6強の地震。

日本列島はどうなったのでしょうか。
昔、日本沈没という映画がヒットしたことがありますがまさしくそれを彷彿とさせます

被災された方の悲痛な思いや姿に涙した方々も多いと存じます。

世界が色んな意味で日本を注視しています。

どのような立ち直り方をするか、どのようにして以前の日本に戻って行くのか、あるいはそれ以上に逞しい日本として蘇って行くのか。

国民の全てが、何かのお役に立ちたい、少しでも支えになりたい等と心の底から考えているものです。

その思いも時間の経過とともに、薄れて行くのが一般的であります。
行動に移すなら、時期や時間を選ばず即行動に移すことではないでしょうか。

人の様子を伺ってから、他人がどのような行動をするのか考えているようでは薄れる気持ちに勝てないかもしれませんね。

やるなら今。
行動に移すなら、心が熱く燃えている時に限ります。
若い頃の恋愛を考えてみたら分かりますよね。

燃え上がっている内に行動にしないと、気持ちは伝わりませんし、相手にも伝わらず決していい結果は生まないものです。

「急げば回れ」ではいけません。
「思いが熱いうちにこそ価値がありそうです」
  


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2011年03月14日

「強い国」日本・・・歴史がつくる?

「強い国」日本・・・歴史がつくる?

大変な事態が発生したものです。
どうしても、個人でしか解決の出来ない事、
みんなで力を合わせれば、解決できること・・・・・
があります。

このたびの歴史的な震災は、みんなで力を合わせれば解決できる部分がたくさん存在します。
周りの方々を巻き込んで、支援の輪を少しでも大きくしなくてはいけません。

それが今までの日本の姿であって、所以であると思います。

歴史的にも何処の国よりも多くの大きな災害にも遭遇する日本ですが、何度も何度も乗り越えてきたのです。

それが長い歴史の中で育まれてきました。
涙をぬぐいながら、耐え忍びながら、力を寄せ合って、心を一つにするすべをDNAとして受け継いで大事に育ててきたのです。

それは世界に類例のない日本国の歴史が作り上げてきた物に他ならないのです。

悲しみを乗り越える事は、時間を要することですし、想像を超える苦しみ、葛藤を伴います。
ましてや肉親や友人知人を失った悲しみ、
汗水垂らして積み上げた財産を失った挫折、
社会の絆や構造を失う事は、極めて耐えがたい状況です。

日本国民は、こぞって力を合わせる心根を失ってはいないのです。
みんなで声を掛け合って、同胞の為にこの時こそ頑張らないといけませんね。

力を振り絞って、乗り越えた暁の事を国民みんなで描きながら。
きっと世界に冠たる日本の姿が再び見えるような気がします。

先日、日本での災害に遭遇した中国の知人の話を記載しましたが、
今朝のネット上の記事にこんなものがありました。


『「怒鳴り合いもけんかもない」「本当に強い国だけがこうした対応ができる」。
ベトナムのメディアは、東日本大震災での日本人の冷静な対応ぶりを、在日ベトナム人らが驚き称賛する声を伝えた。

「防災訓練を受けていても怖いはずなのに、誰もパニックに陥る人はいない。自分の仕事に集中し、連絡を取り合っていた」。日本で働くある女性はインターネット新聞に「われわれが学ぶべき多くのことが分かった」と語った。

ある留学生は、長い列をつくってバスや公衆電話を我慢強く待つ光景などを挙げ「皆が冷静に秩序だって行動していた」と称賛。別の留学生は、教師が子どもたちを誘導する姿など、行政当局者から民間人までの素早い対応ぶりに驚いたという。

さらに「こうした強さゆえに、日本人は世界で最も厳しい条件の国土で生き抜き、米国に並ぶ経済レベルを達成できたのだ」とたたえる声も伝えられた。(共同)』
  


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2011年03月12日

恐怖ともどかしさ・・・東北・太平洋沿岸地震

恐怖ともどかしさ・・・東北・太平洋沿岸地震

昨日の午後、3時頃からの地震のニュースには釘付けになってしまいました。
まるで映画の一シーンさながらの出来ごとに唖然とするばかりです。

自然の猛威の前には人間など脆いものですが、人の命や暮らしを失う事は何にも増して悲しいことです。

我が身に置き換えて考えれば当然分かる事ですが。

丁度学生たちが春休みに入っていますので。ボランティアとしてその力を発揮して頂きたいと思います。
以前の新潟や神戸の時の。ボランティア活動が十分に生かすことができることを願っています。

折角の若い方々の力を存分に発揮して頂くためにも。
当然、激甚災害に指定されるものと思っていますが、金銭的な意味も含めて十分な手当てと復興を願って止みません。

支え合いの心、共生の思いこそが日本人が持ってる最大の国民性のような気がします。

今までも数度の極度の災害に見舞われた日本ですが、私の友人である中国の女性たちも言います。

「日本人は素晴らしい」
「この場に及んだ日本人のこの優しい行動は何なのか」
「自分の事は後にして、譲り合う姿に感銘する」
「整然とした、落ち着いた行動は何故?」


日本に留学などで来ていた子供たちが中国のネットで日本の印象を書いてくれていますが称賛の言葉のオンパレードです。

マグニチュード8.8という最大の地震規模になっています。
その後も余震も続いていますが、また違う場所・長野や新潟などでも新しい地震が発生しているようです。

国際的にも様々な問題を抱え、国内政治は悲しい限りのみっともない状況、中小零細企業にとって経済的には景気回復等と言う事はもうあり得ないような事態に陥っています。

でも日本人。
多分、国際的な協力も仰ぎながらも必ずや復興の道を逞しく歩んでいくものと信じています。

今一人ひとりが何ができるのか。
真剣に考えるときでしょう。

お金で出来る人、
体で出来る人、
祈ってくれる人、
時間を割いてくれる人、
知恵を絞ってくれる人、
政治の力を存分に発揮する人、
行政人として賭して頑張る人、
医者として、命と心のケアに心を砕く人、
物を提供する人、


私の心の中で「恐怖ともどかしさ」が交錯しています。

今回の事態は、大変に悲しい不幸なことではありますが、日本人としての志を発揮し、見せつける時が来た!!こんな思いに駆られます。

頑張って下さいませ。
  


Posted by misterkei0918 at 10:23Comments(0)

2011年03月11日

父親と兄弟?・・・戦争の悲劇

父親と兄弟?・・・戦争の悲劇

父親とは親子であって、兄弟と言う事は決してありませんよね。
世間の常識だし、あり得ないことです。

所が現実にあるんです。
ただ、親子が「俺たちは兄弟だ」とたわごとを言っているのではないのです。

戸籍上で親子に記載されている。
父親が長男で、子供のある筈の私が末の弟。
初めて自分の戸籍を見た時は、我が目を疑ったものでした。

「そんな事があるの?」
「どうして?」


高校時代までは、母と二人の暮らしでしたから当然戸籍はそのようになっているものと思っていたのです。

想像をした事もありませんでしたし、ましてや戸籍がどうなっているなどと考えた事もありませんでした。

遡ること数十年になりますが、つまりは父親と母親が私を身ごもりながら結婚が出来なかったんですね。

その事が引き金で、母は私の元から遥か遠くに旅立ってしまったのです。

多分、取り残された私を廻って、両方の親同志が話し合ったのでしょうね。
確認をした訳ではありませんから事の真実は分かりませんが。

その結果、私の戸籍は父親の両親の戸籍に入れることとなったのでしょう。
つまり父親と兄弟に。

私の体は、母親の両親、つまり私の母方の両親に育ててもらう事になりました。

話せば大変長い物語になりますから、ここでは省きますがそれはそれは大変な長い道のりを通ったものです。

その後、母親と初めて再開を果たすのですが、既に6歳を過ぎていたのです。
ここからがまた新たな葛藤を繰り返すことになってしまいました。

と言う訳で、父親が兄弟。
あり得た話なんです。

これも戦後の混乱の賜物であり、戦争が生んだ悲劇とでも言いましょうか。

悲劇と言っても、私自身の性格はそのようにして構築されたものですから決して恨み辛みを申し上げる訳ではないのです。

むしろそれが幸いしたとでも言いましょうか。
負け惜しみではないのです。
  


Posted by misterkei0918 at 23:21Comments(0)

2011年03月11日

あなたの奥さまは大丈夫ですか?

あなたの奥さまは大丈夫ですか?

他人の奥さまの事にまで、口を出さないでくれと言われそうです。

今回の「第3号被保険者」の話です。

お役所は申請主義ですから、自ら進んで申請をしてくる人には優しいのですが、申請を忘れていたり、怠った人には厳しい処置がなされるものです。

今、問題になっている「第3号被保険者」の救済策の話は、最初から不公平で可笑しい話なのですがどうしてこんなことになったのでしょうかね。

少なくとも、これほど大事でお金もたくさん必要とされる救済策が表で十分に議論されることなく、厚生労働省の内部で短絡的に処置されており、拙速に過ぎたのではないでしょうか。

手続きを怠った人がたったの2年間さかのぼって支払えば、全ての期間支払ったものとして年金を支給するとしたものですが、当然、当初から申請をし、真面目に支払ってきた人と同じであれば誰だって不公平に思いますし、腹立たしくもなるものです。

誰が考えても、単純に分かる事だと思うのでうが優秀だと思われる官僚がこんな結論を出すものでしょうかね。

或いは大臣級の人間からの指示が働いた事は間違いがないでしょう。

脱サラをされたあなたの奥さまの場合は如何ですか。

マスコミなどで、年金は破たんするから払わなくてもいい、或いはかなり減額されて生活費にもならないなどと報道されます。

その事に惑わされて、年金を払わない、滞っている人がいるのではないでしょうか。

私は、自分の国の事ですから信じることにしています。
正直に真面目に払う。

若し国がどうにかなった時は、私も国民ですから一蓮托生だと思っています。
また、そうならないように政治家の選択も真剣にならざるを得ないものです。

「その国の政治のレベルは、国民のレベル」と言います。

私も若い頃、脱サラを致しました。
私の妻は当然「第3号被保険者」だったのです。

私自身には、年金の知識などありませんでしたがある時、申請をしておかないと妻は将来年金受給の資格がなくなると言う事を偶然に知ったのです。

すぐ国民年金に加入をさせましたので、今ではその事が結果的には幸いしているのです。

会社等に勤めていますと、年金などは余り勉強もしませんし詳しく知らなくても大事には至りませんが何か大きな変化などがあった時には、やはり情報を集めて将来困ったことにならないように努めなくてはいけませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 09:09Comments(0)