2010年09月30日
テレビは罪深い!!
テレビは罪深い!!
テレビ業界の方々に知人がおられますので、お叱りを請いそうですが多分お読みいただけばお許しを下さると思っています。
「物事には功罪相半ば」と言う言葉がありますから片方からだけの物の見方では全体像が掴めず、一方的な偏って判断になってしまいます。
当然、テレビが果たしている役割は、十分分かっていますし過大とも思えるほどの期待も持っています。
私自身がテレビ大好き人間ですから。
考えてしまうのです。
マスコミの力や存在の意味を。
テレビも文明が生み出した利器ですから、私どもが使い方を工夫する事が必要なんでしょうね。
中国や北朝鮮を見ていたら、テレビを上手く使っていますよね。
やはり、体制側にとって非常に大切な伝達手段ですし、上手に使えばこんなに便利なものは無いような気がします。
都合の良い情報だけを流しておけば言い訳ですから。
国民の思想や信条までも左右する事が十分可能ですよね。
私どもの、同じ番組や同じ局の放送のみを見るのではなく、出来れば満遍なく、時にはテレビだけに集中するのではなく新聞や雑誌、ラジオなどの多用なマスコミに触れる事が大事だと思われます。
それと大事なのは、常に「本当にそう?」、「若しかすると裏が?」・・・・・
などと疑念や懸念を持つことも大切でしょう。
小さい子供にも、番組を見ながらも反論をしてみたり、意見を述べてみたりする大人の行動を見せてあげることも重要な気がします。
つまり、迎合しない態度。
アメリカでは、子供たちにマスコミに対峙する教育も存在すると聞いたことがあります。
押し付けの報道や番組に押し流される事なく、自らの意見や判断が働くようにならないといけませんよね。
そうしないと、いつの間にか人の意見に左右される、自分の主義主張の無い人間にならないとも限りません。
反目するばかりでもいけませんが、お仕着せの人間にならないようにしなくてはいけません。
振り返ってみたら、戦前戦時中がそうだったのではないでしょうか。
画一的な情報や、限られた情報しか与えられなくて、如何にも正しい間違いの無い情報と信じていたために多くの悲劇は生じました。
与えられる情報は、出来れば自分の頭の中で一度租借をする癖をつけるといいかもしれませんね。
マスコミの中でも、様々な自主規制はしているようですが。
テレビ業界の方々に知人がおられますので、お叱りを請いそうですが多分お読みいただけばお許しを下さると思っています。
「物事には功罪相半ば」と言う言葉がありますから片方からだけの物の見方では全体像が掴めず、一方的な偏って判断になってしまいます。
当然、テレビが果たしている役割は、十分分かっていますし過大とも思えるほどの期待も持っています。
私自身がテレビ大好き人間ですから。
考えてしまうのです。
マスコミの力や存在の意味を。
テレビも文明が生み出した利器ですから、私どもが使い方を工夫する事が必要なんでしょうね。
中国や北朝鮮を見ていたら、テレビを上手く使っていますよね。
やはり、体制側にとって非常に大切な伝達手段ですし、上手に使えばこんなに便利なものは無いような気がします。
都合の良い情報だけを流しておけば言い訳ですから。
国民の思想や信条までも左右する事が十分可能ですよね。
私どもの、同じ番組や同じ局の放送のみを見るのではなく、出来れば満遍なく、時にはテレビだけに集中するのではなく新聞や雑誌、ラジオなどの多用なマスコミに触れる事が大事だと思われます。
それと大事なのは、常に「本当にそう?」、「若しかすると裏が?」・・・・・
などと疑念や懸念を持つことも大切でしょう。
小さい子供にも、番組を見ながらも反論をしてみたり、意見を述べてみたりする大人の行動を見せてあげることも重要な気がします。
つまり、迎合しない態度。
アメリカでは、子供たちにマスコミに対峙する教育も存在すると聞いたことがあります。
押し付けの報道や番組に押し流される事なく、自らの意見や判断が働くようにならないといけませんよね。
そうしないと、いつの間にか人の意見に左右される、自分の主義主張の無い人間にならないとも限りません。
反目するばかりでもいけませんが、お仕着せの人間にならないようにしなくてはいけません。
振り返ってみたら、戦前戦時中がそうだったのではないでしょうか。
画一的な情報や、限られた情報しか与えられなくて、如何にも正しい間違いの無い情報と信じていたために多くの悲劇は生じました。
与えられる情報は、出来れば自分の頭の中で一度租借をする癖をつけるといいかもしれませんね。
マスコミの中でも、様々な自主規制はしているようですが。
Posted by misterkei0918 at
19:44
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2010年09月28日
成功しそうでなくても一先ずは頑張ってみる
成功しそうでなくても一先ずは頑張ってみる
成功しそうでないから、
お金になりそうに無いから、
評価されそうに無いから、
きつそうだから、
徒労に終わりそう、
取り越し苦労になりそう、
成功しなかったら、周りに笑われる、
・
・
・
努力しない理由、一肌脱いでみようとしない理由は簡単に見つけることが出来ます。
特に私の特筆すべき性格の成せる技でしょう。
ですが、成功しそうでなくても努力するにはそれなりの訳が存在します。
努力しない事と比べれば、それは雲泥の差がやがてつく事をしみじみと味わう事となるものです。
努力しないと言う事は、所謂後退を意味し、やがては退廃的、消沈の憂き目を見ることになります。
人生はこつこつ、
人生は一歩一歩。
その努力を重ねた人に確実に果実をもたらすように出来ています。
嘘と思うなら、自分の過去を振り返る事をしてみてください。
他人の人生を聞いても、それは誇張されていたり性格に掴むことは出来ませんが、自らの過去や人生であれば、嘘は物語らないでしょう。
振り返っても、そんな形跡は見当たらないと言うのならそれは自分の心の一部始終が「人生を否定的、ネガティブに見る」癖を背負っているのです。
どうしても嘘だと、また否定的、ネガティブに語るなら、ここで後一度、人生をかけて努力をして見ませんか。
それも成功しないと心の片隅に持っていては、また元の木阿弥になってしまいます。
或いは、従前より悪い結果を引き起こすことにもなってしまいます。
人は信じる事、正しく見つめようとする心、真摯に継続的に取り組む姿勢が必要であって、「その人はその人が思うようになる」と言われる所以です。
そんなに大きな成功を夢見る事も必要ないような気がします。
ほんの少しの成功や、小さな光でも弛まぬ努力が大きく花開くものです。
最初から大きな成功などありませんし、若しあるとしたらそれは慢心につながり、人心を荒らす狼が潜んでいる事が多いものです。
鳴り物入りで、一挙に成功した色んな人々がどのような結末を迎えているか枚挙に暇がありません。
いいんです。
少しづつ、少しづつ、焦らず、弛まず・・・・・
成功しなくても得るものは山ほどありますし、それこそ貴重なことを!!
『百の事を行なって一つだけが成ったとき、成らなかった九十九に目を向け力を落とすか、成った一つに目を向け希望を抱くか、成功か失敗かの分かれめがこんなところにもある。松下幸之助』
『有能な人間は失敗から学ぶから有能なのである。成功から学ぶものなどたかが知れている。ウィリアムサローヤン』
『以前にも成功をおさめたからといって、今度も以前と同様の仕事のやり方をし続ける経営者というものは、必然的に失敗する運命にある。ドラッカー』
成功しそうでないから、
お金になりそうに無いから、
評価されそうに無いから、
きつそうだから、
徒労に終わりそう、
取り越し苦労になりそう、
成功しなかったら、周りに笑われる、
・
・
・
努力しない理由、一肌脱いでみようとしない理由は簡単に見つけることが出来ます。
特に私の特筆すべき性格の成せる技でしょう。
ですが、成功しそうでなくても努力するにはそれなりの訳が存在します。
努力しない事と比べれば、それは雲泥の差がやがてつく事をしみじみと味わう事となるものです。
努力しないと言う事は、所謂後退を意味し、やがては退廃的、消沈の憂き目を見ることになります。
人生はこつこつ、
人生は一歩一歩。
その努力を重ねた人に確実に果実をもたらすように出来ています。
嘘と思うなら、自分の過去を振り返る事をしてみてください。
他人の人生を聞いても、それは誇張されていたり性格に掴むことは出来ませんが、自らの過去や人生であれば、嘘は物語らないでしょう。
振り返っても、そんな形跡は見当たらないと言うのならそれは自分の心の一部始終が「人生を否定的、ネガティブに見る」癖を背負っているのです。
どうしても嘘だと、また否定的、ネガティブに語るなら、ここで後一度、人生をかけて努力をして見ませんか。
それも成功しないと心の片隅に持っていては、また元の木阿弥になってしまいます。
或いは、従前より悪い結果を引き起こすことにもなってしまいます。
人は信じる事、正しく見つめようとする心、真摯に継続的に取り組む姿勢が必要であって、「その人はその人が思うようになる」と言われる所以です。
そんなに大きな成功を夢見る事も必要ないような気がします。
ほんの少しの成功や、小さな光でも弛まぬ努力が大きく花開くものです。
最初から大きな成功などありませんし、若しあるとしたらそれは慢心につながり、人心を荒らす狼が潜んでいる事が多いものです。
鳴り物入りで、一挙に成功した色んな人々がどのような結末を迎えているか枚挙に暇がありません。
いいんです。
少しづつ、少しづつ、焦らず、弛まず・・・・・
成功しなくても得るものは山ほどありますし、それこそ貴重なことを!!
『百の事を行なって一つだけが成ったとき、成らなかった九十九に目を向け力を落とすか、成った一つに目を向け希望を抱くか、成功か失敗かの分かれめがこんなところにもある。松下幸之助』
『有能な人間は失敗から学ぶから有能なのである。成功から学ぶものなどたかが知れている。ウィリアムサローヤン』
『以前にも成功をおさめたからといって、今度も以前と同様の仕事のやり方をし続ける経営者というものは、必然的に失敗する運命にある。ドラッカー』
Posted by misterkei0918 at
09:18
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2010年09月27日
象と鼠と人間
象と鼠と人間
日本では100歳以上の方々の消息不明が問題になっています。
悲しい事です。
親子の繋がりや情愛、本来極めて親しくあるべき縁者が消息さえ分からない時代になってきました。
興味深い話がありますので拝借しました。
*************************
動物の寿命について、東京工業大学の本川達雄教授が、「ゾウの時間、ネズミの時間」と言う本の中で、興味深いことを書いています。
「哺乳類の場合、いろんな動物の寿命を、心周期(心臓が1回ドキンと打つ時間)で割ってみますと、15億という数字が出ます。
つまり、哺乳類の心臓は一生の間に、15億回打つという計算になるわけです。
ハツカネズミは、心臓がドキンとするのに、0.1秒しかかかりませんから、15億回打ち終わるのに、2−3年しかかかりません。つまりネズミの寿命は2~3年です。
それに対して、インドゾウは、1回ドキンとするのに3秒かかるので、15億回、脈拍を打つのに、70年近くはかかります。
ゾウはネズミよりずっと長生きなのですが、心拍数を時間の単位として考えるなら、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ、生きて死ぬことになるわけですね」
人間の場合は本川教授の計算だと、26.3年になります。
しかし80才まで生きる人がたくさんいるのに、これは納得いかない数字ですよね。
でも彼は、こうも言っています。
「人間も、もし、煮炊きする技術もなく、入れ歯もなかったら、人間だって50歳を過ぎたら、食べられるものがなくなってしまいます。
もちろん、入れ歯だけで80年、というわけではないですよね。
安定した食料供給、安全な都市や医療の発達等が、飛躍的に人間を長寿化させた要因です」 「実は、縄文人の寿命は31年だったという推測値があります。
本来の人間の寿命はそのくらいなのかもしれません。15−16歳で子供をつくって、ある程度子育てして、次の世代にバトンタッチしていくという循環だったんでしょう」
*************************
或いは、人間の寿命を延ばすことにのみ執着していますがそれが本当に幸せな人々を増やしているのでしょうか。
寿命では図れないものがあるような気がしますね。
日本では100歳以上の方々の消息不明が問題になっています。
悲しい事です。
親子の繋がりや情愛、本来極めて親しくあるべき縁者が消息さえ分からない時代になってきました。
興味深い話がありますので拝借しました。
*************************
動物の寿命について、東京工業大学の本川達雄教授が、「ゾウの時間、ネズミの時間」と言う本の中で、興味深いことを書いています。
「哺乳類の場合、いろんな動物の寿命を、心周期(心臓が1回ドキンと打つ時間)で割ってみますと、15億という数字が出ます。
つまり、哺乳類の心臓は一生の間に、15億回打つという計算になるわけです。
ハツカネズミは、心臓がドキンとするのに、0.1秒しかかかりませんから、15億回打ち終わるのに、2−3年しかかかりません。つまりネズミの寿命は2~3年です。
それに対して、インドゾウは、1回ドキンとするのに3秒かかるので、15億回、脈拍を打つのに、70年近くはかかります。
ゾウはネズミよりずっと長生きなのですが、心拍数を時間の単位として考えるなら、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ、生きて死ぬことになるわけですね」
人間の場合は本川教授の計算だと、26.3年になります。
しかし80才まで生きる人がたくさんいるのに、これは納得いかない数字ですよね。
でも彼は、こうも言っています。
「人間も、もし、煮炊きする技術もなく、入れ歯もなかったら、人間だって50歳を過ぎたら、食べられるものがなくなってしまいます。
もちろん、入れ歯だけで80年、というわけではないですよね。
安定した食料供給、安全な都市や医療の発達等が、飛躍的に人間を長寿化させた要因です」 「実は、縄文人の寿命は31年だったという推測値があります。
本来の人間の寿命はそのくらいなのかもしれません。15−16歳で子供をつくって、ある程度子育てして、次の世代にバトンタッチしていくという循環だったんでしょう」
*************************
或いは、人間の寿命を延ばすことにのみ執着していますがそれが本当に幸せな人々を増やしているのでしょうか。
寿命では図れないものがあるような気がしますね。
Posted by misterkei0918 at
22:11
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2010年09月27日
やはり季節は廻ってきました
やはり季節は廻ってきました
25日と26日は久しぶりの鹿児島となりました。
高校時代のクラス会ですが、何年経っても高校時代のあの頃に戻るから不思議です。
人間は、記憶の何処かに昔のことは必ず思えていて、引き出す動機やスイッチ、或いはキーワードさえ見つかれば思い出すのかもしれませんね。
半世紀ぶり?に会った忘れていた友人でも、話している数分のうちに思い出してしまいます。
「三つ子の魂、百まで」とも言いますから。
今年も夏は壮絶な、猛暑に見舞われました。
若しかすると秋も来ないかも、
或いは冬が無くて、秋からいきなり春になるのではないかとさえ思ったものです。
ですが、秋分の日、23日頃から確実に変化を見せ始め、もうすっかり秋です。
幾らか残暑が残ったりはしましたが、朝夕は秋の気配ではなくて秋1色です。
27日は正午に福岡を出発、
えびの高原のパーキングエリアが4時頃。
もうすっかり秋です。
しっかり紅葉もしていますし、吹く風の爽やかさもそのものです。
服装や出で立ちも、秋支度です。
お店に並ぶ果物もそうでした。
やはり台風の発生はインパクトが大きいようですね。
例年でしたら、二百十日前後から台風が発生し、それを機に季節の動きが現れるのですが。
そして、台風の発生も可笑しい可笑しい年でしたね。
例年の台風は、フィリピンの太平洋側で発生し、力を増幅しながら北上、沖縄付近で猛威を奮いながら、本土上陸の道筋を辿るのですが、
今年は発生の位置も、辿るコースも不思議でした。
地球の長い歴史から考えれば、こんな事は大きな出来事ではないかもしれませんが、たった100年ほどしか生きられない私どもにとっては大きな打撃であったり心配の種であったりするものです。
でも、ほっとしましたね。
確実に秋も来て、当然次は冬が来るでしょうから。
25日と26日は久しぶりの鹿児島となりました。
高校時代のクラス会ですが、何年経っても高校時代のあの頃に戻るから不思議です。
人間は、記憶の何処かに昔のことは必ず思えていて、引き出す動機やスイッチ、或いはキーワードさえ見つかれば思い出すのかもしれませんね。
半世紀ぶり?に会った忘れていた友人でも、話している数分のうちに思い出してしまいます。
「三つ子の魂、百まで」とも言いますから。
今年も夏は壮絶な、猛暑に見舞われました。
若しかすると秋も来ないかも、
或いは冬が無くて、秋からいきなり春になるのではないかとさえ思ったものです。
ですが、秋分の日、23日頃から確実に変化を見せ始め、もうすっかり秋です。
幾らか残暑が残ったりはしましたが、朝夕は秋の気配ではなくて秋1色です。
27日は正午に福岡を出発、
えびの高原のパーキングエリアが4時頃。
もうすっかり秋です。
しっかり紅葉もしていますし、吹く風の爽やかさもそのものです。
服装や出で立ちも、秋支度です。
お店に並ぶ果物もそうでした。
やはり台風の発生はインパクトが大きいようですね。
例年でしたら、二百十日前後から台風が発生し、それを機に季節の動きが現れるのですが。
そして、台風の発生も可笑しい可笑しい年でしたね。
例年の台風は、フィリピンの太平洋側で発生し、力を増幅しながら北上、沖縄付近で猛威を奮いながら、本土上陸の道筋を辿るのですが、
今年は発生の位置も、辿るコースも不思議でした。
地球の長い歴史から考えれば、こんな事は大きな出来事ではないかもしれませんが、たった100年ほどしか生きられない私どもにとっては大きな打撃であったり心配の種であったりするものです。
でも、ほっとしましたね。
確実に秋も来て、当然次は冬が来るでしょうから。
Posted by misterkei0918 at
17:46
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2010年09月25日
苦しいこと
苦しいこと・・・・・平成16年9月11日
世の中楽しいことばかりはありません。
当の私だって家庭のこと、身体的、精神的、会社のこと、地域のこと、お世話ごとのこと等数えたらきりが無いほど多くの心配事や苦しみ、劣等意識を持っています。
中には楽しいこともありますがむしろ考えねばならないことや決断を迫られること、苦渋の選択をせねばならない時、心臓がキリッと痛むことが多くあります。
人間として生まれて社会生活を営んでいる以上どうしても人間関係の軋轢や葛藤、業績のこと際限なく苦しむ事が多々あります。
人間は不思議なもので幾つかのハードルを越えていく内に少しずつ高いハードルになってもクリアーできることが判ります。
若い頃あんなに悩んだ同じことが今となっては悩みではなく日常的なことして解決できています。
辛い事でも辛いと思わずに解決できていることに気づきます。
それが培われた勇気や英知、知恵、経験というものなのでしょうか。
昔、「苦労は買ってでもしなさい」とか忙しくしている人にこそ難しい仕事は頼みなさいと言われてましたがまさしくこの事ではないでしょうか。
悩みや自分の弱点、ハンディを克服しようと思ったときには却って火中に積極的に飛び込んでみるといつの間にか解決できていることがあります。
私自身、精神面、身体的、家庭的に恵まれていませんでしたので特に高校生時代と就職して結婚するまでは将来にも悲観的でいつも劣等意識に取り付かれ消極的で悶々とした生活を送っていました。
あるとき(大きな転機は結婚)から、急転直下自分改造の為の積極策に転じることにしました。
当然恥じもかいたり苦しかったり怒られてみたり。
それを数年間続けていくうちに少しずつつ変化が出てきました。
本来消極的な性格ですから積極策に転じたといっても幾らか控えめ。
これが却って幸いするのです。
巷で言う逆療法かな?。
結局はあの時の自分は何処に言ったのだろうと思うほど変わってきました。
考えてみると本来の姿は今にあったのです。
負けず嫌いでも競争して勝ちたいと思う人と、私の様に人との競争は嫌いで避けたい人。
一見矛盾してますが案外こういう人は多いものです。
引っ込み思案に見えるけど本心は表舞台に上がりたい人、その狭間でジレンマに陥る。
一度、清水の舞台から飛び降りる思いでやってみると新しい世界が開けてきます。
それには飛び込む勇気と多くの勉強や体験が伴います。
それがやがて知恵や社会性を養う結果と成り生まれ変わった貴方がそこに誕生します。
そうすることで50センチのハードルがやっとだったのに1メートルのハードルを軽くいなす自分を発見します。
そういう体験を重ねる事が一つの心地よさを感じるまでに高まることを覚えるとしめたものです。
オリンピックが物語っています。
思い出してください、小学校の頃、跳び箱がどうしても飛び越せず恥ずかしい悔しい思いをした頃を。
先生や友人から促されてやっと飛び越せた時の爽快感。
達成感や感動が大きな原動力となってまた牽引力となって動き出せば後はしめたものです。
「井の中の蛙、大海を知らず」
カラを破って初めて外に出たひよこの如く、新たな喜びや社会に求められる自分、新しく生まれ変わった己の姿や引き出された能力に出会うこと間違いありません。
お試しあれ。いつかもっと具体的に日記したいと思います。
学者でも先生でも研究者でもありませんので上手には説明できませんが。
世の中楽しいことばかりはありません。
当の私だって家庭のこと、身体的、精神的、会社のこと、地域のこと、お世話ごとのこと等数えたらきりが無いほど多くの心配事や苦しみ、劣等意識を持っています。
中には楽しいこともありますがむしろ考えねばならないことや決断を迫られること、苦渋の選択をせねばならない時、心臓がキリッと痛むことが多くあります。
人間として生まれて社会生活を営んでいる以上どうしても人間関係の軋轢や葛藤、業績のこと際限なく苦しむ事が多々あります。
人間は不思議なもので幾つかのハードルを越えていく内に少しずつ高いハードルになってもクリアーできることが判ります。
若い頃あんなに悩んだ同じことが今となっては悩みではなく日常的なことして解決できています。
辛い事でも辛いと思わずに解決できていることに気づきます。
それが培われた勇気や英知、知恵、経験というものなのでしょうか。
昔、「苦労は買ってでもしなさい」とか忙しくしている人にこそ難しい仕事は頼みなさいと言われてましたがまさしくこの事ではないでしょうか。
悩みや自分の弱点、ハンディを克服しようと思ったときには却って火中に積極的に飛び込んでみるといつの間にか解決できていることがあります。
私自身、精神面、身体的、家庭的に恵まれていませんでしたので特に高校生時代と就職して結婚するまでは将来にも悲観的でいつも劣等意識に取り付かれ消極的で悶々とした生活を送っていました。
あるとき(大きな転機は結婚)から、急転直下自分改造の為の積極策に転じることにしました。
当然恥じもかいたり苦しかったり怒られてみたり。
それを数年間続けていくうちに少しずつつ変化が出てきました。
本来消極的な性格ですから積極策に転じたといっても幾らか控えめ。
これが却って幸いするのです。
巷で言う逆療法かな?。
結局はあの時の自分は何処に言ったのだろうと思うほど変わってきました。
考えてみると本来の姿は今にあったのです。
負けず嫌いでも競争して勝ちたいと思う人と、私の様に人との競争は嫌いで避けたい人。
一見矛盾してますが案外こういう人は多いものです。
引っ込み思案に見えるけど本心は表舞台に上がりたい人、その狭間でジレンマに陥る。
一度、清水の舞台から飛び降りる思いでやってみると新しい世界が開けてきます。
それには飛び込む勇気と多くの勉強や体験が伴います。
それがやがて知恵や社会性を養う結果と成り生まれ変わった貴方がそこに誕生します。
そうすることで50センチのハードルがやっとだったのに1メートルのハードルを軽くいなす自分を発見します。
そういう体験を重ねる事が一つの心地よさを感じるまでに高まることを覚えるとしめたものです。
オリンピックが物語っています。
思い出してください、小学校の頃、跳び箱がどうしても飛び越せず恥ずかしい悔しい思いをした頃を。
先生や友人から促されてやっと飛び越せた時の爽快感。
達成感や感動が大きな原動力となってまた牽引力となって動き出せば後はしめたものです。
「井の中の蛙、大海を知らず」
カラを破って初めて外に出たひよこの如く、新たな喜びや社会に求められる自分、新しく生まれ変わった己の姿や引き出された能力に出会うこと間違いありません。
お試しあれ。いつかもっと具体的に日記したいと思います。
学者でも先生でも研究者でもありませんので上手には説明できませんが。
Posted by misterkei0918 at
11:09
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2010年09月25日
結婚前は両目でしっかり、結婚したら片目をつぶって
結婚前は両目でしっかり、結婚したら片目をつぶって・・・・・平成16年7月18日
私の経験から言っても結婚前は出来るだけ自分の評価を高めておきたいもの。
持ち合わせのないお金でも何とか工面をし、デートの時に恥はかかない様に、或いはつましい貧しい自分ではないところを見せておかねばならない。
食事もなるべく質素を避け、プレゼントは出来るだけリッチさを感じさせるように。(実は私は食事は頓着なし、プレゼントなどそんな洒落た事には気が利かない。おおよそ女性にとって退屈な男性の一人であることには間違いがない)。
殊には女性本能をくすぐるような所作も必要かも。
それは女性にとっても同じこと、優しくかいがいしい女性を演じ乍ら、時には男性の本能をくすぐるような行動も必要だし弱弱しい姿もときに見せることも必要でしょう。
私の知人の女性(容姿は十人並み以上の美人で賢明な方)は結婚まではそれこそ真面目さを絵に書いたような男性と恋愛から結婚。
それまではこんなに私のために尽くしてくれる男性はこの世に存在しないとまで思ったことらしい。
結果は結婚した途端、一度たりとも遊びにも食事にも連れて行かない、自分の遊びには熱心、浮気はする、子供の面倒は見ようとしない。
結局は結婚数年で破局。
彼女曰く「表面的なカッコよさやプレゼントなど、見てくれに目がくらんだ」とのこと。
反対に彼にとっての彼女がどうであったかは聞く良しがないので判断のしようがない。
だから、急がず慌てず相手を見つめる心のゆとりが必要。
人間の本性なんてそんなに簡単に見抜けるものではないけどその幾らかでも解っていれば納得できるもの。諦めもつくという物です。
両目でしっかりお互い見詰め合って、一時の感情に走らないで。
恋愛に関する友人や知人、親の体験談なども耳を大きくして聞いておくのもいいのかもしれません。
そして結婚したら出来れば片目をつぶる努力を。
自分に多くの欠点が存在するように相手にも欠点は存在するもの。
価値観や境遇、知識や教育によっても物事の考え方、行動は自ずから違うもの。
お互いを認めつつ、許しつつ、高めつつ、学びつつ、いいとこ見っけ、ではないでしょうか。
長い人生、苦あり、楽あり。
そんなに簡単な道程ではありません。
苦だけの人生もいけませんが楽だけの人生も決していいものではありません。
苦楽があるから、苦楽を共に出来るお互いの人生こそ貴重なもの。それが味な人生。
私の経験から言っても結婚前は出来るだけ自分の評価を高めておきたいもの。
持ち合わせのないお金でも何とか工面をし、デートの時に恥はかかない様に、或いはつましい貧しい自分ではないところを見せておかねばならない。
食事もなるべく質素を避け、プレゼントは出来るだけリッチさを感じさせるように。(実は私は食事は頓着なし、プレゼントなどそんな洒落た事には気が利かない。おおよそ女性にとって退屈な男性の一人であることには間違いがない)。
殊には女性本能をくすぐるような所作も必要かも。
それは女性にとっても同じこと、優しくかいがいしい女性を演じ乍ら、時には男性の本能をくすぐるような行動も必要だし弱弱しい姿もときに見せることも必要でしょう。
私の知人の女性(容姿は十人並み以上の美人で賢明な方)は結婚まではそれこそ真面目さを絵に書いたような男性と恋愛から結婚。
それまではこんなに私のために尽くしてくれる男性はこの世に存在しないとまで思ったことらしい。
結果は結婚した途端、一度たりとも遊びにも食事にも連れて行かない、自分の遊びには熱心、浮気はする、子供の面倒は見ようとしない。
結局は結婚数年で破局。
彼女曰く「表面的なカッコよさやプレゼントなど、見てくれに目がくらんだ」とのこと。
反対に彼にとっての彼女がどうであったかは聞く良しがないので判断のしようがない。
だから、急がず慌てず相手を見つめる心のゆとりが必要。
人間の本性なんてそんなに簡単に見抜けるものではないけどその幾らかでも解っていれば納得できるもの。諦めもつくという物です。
両目でしっかりお互い見詰め合って、一時の感情に走らないで。
恋愛に関する友人や知人、親の体験談なども耳を大きくして聞いておくのもいいのかもしれません。
そして結婚したら出来れば片目をつぶる努力を。
自分に多くの欠点が存在するように相手にも欠点は存在するもの。
価値観や境遇、知識や教育によっても物事の考え方、行動は自ずから違うもの。
お互いを認めつつ、許しつつ、高めつつ、学びつつ、いいとこ見っけ、ではないでしょうか。
長い人生、苦あり、楽あり。
そんなに簡単な道程ではありません。
苦だけの人生もいけませんが楽だけの人生も決していいものではありません。
苦楽があるから、苦楽を共に出来るお互いの人生こそ貴重なもの。それが味な人生。
Posted by misterkei0918 at
10:50
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2010年09月25日
子供たちこそ大切に
子供たちこそ大切に・・・・・平成16年7月15日
今の大人の子供時代と現在の子供たち、どんなところがどの様に違いがあるのでしょうか。
おかれた環境が余りにも違い過ぎるのも事実、教育のあり方や先生方の教育に対する考えや情熱、思い入れ、人を育てているのだという意識、機械的な授業、すべてが今と昔では余りにも格段の差があることも周知の事、情報の量、速さ、内容共に比較にもならないでしょう。
伝達の手段だって全く違います。
一番違うのは私ども、所謂親でしょう。親が子供に対する思い、情熱、期待、ほとんどが変化してしまいました。
しかも急激に。
子供は授かり、預かり物でなく造るもの、要らないなら捨てるものに変わってきました。
昔は極貧の中でも子供の生涯に親は掛けたものです。
何物にも代えられない、掛け替えのない、自分の命をなげうっても大切にしてきたもの、それが授かった子供に対する親の態度であったはずです。
この世に生を受けた子供の生命や尊厳など何処に行ったのでしょうか。
貧しく明日の生活にも事欠く後進国のドキュメンタリー等を見て親子の情愛の深さに心打たれるのは私だけではないでしょう。
素晴らしい先生や感動的な親子関係を築いている人々が数多くおられるのも事実。私自身がそんな親子関係に枯渇していたこと、自分の子供たちとの十分で豊かな関係が作れたのか未だに疑問が払拭できていない、そんなことが時に脳裏をかすめます。
マスコミのあり方、先生方、地域社会が何でもありの世界になってしまいました。
過保護、過干渉ということではなく子供のためには防ぐものがあるとするなら体をはって守る、そのためには親同士が連帯感を持ってことにあたる事も必要かもしれません。
未来を作るのは私どもであって子供たちではありません、今は私どもが作ったのではなく私どもの親が作ってくれたのです。
今の子供たちの未来は私どもが作っているのです。
だから子供を大事にする環境は我々が作らないといけません、
そこで過ごすのが彼らですから。
子供が逃避をしなければいけない社会、伸び伸び出来ず萎縮した社会、屈託のない笑顔を忘れた子供の多い社会や家庭。
私も今頃気づいては手遅れですが子供たちが安心で安全で親の懐に顔をうずめながら生活できる社会や家庭を作れたのか疑問です。
溺愛や過保護があらぬ方向に子供たちを走らせたのも社会の現象や事実が証明してくれました。
何が正しくて何が間違いなのか、幼いころからの躾や教育が如何に大切なのかを今の世相の流れがわれわれにさまざまなことを教えてくれています。
今の大人の子供時代と現在の子供たち、どんなところがどの様に違いがあるのでしょうか。
おかれた環境が余りにも違い過ぎるのも事実、教育のあり方や先生方の教育に対する考えや情熱、思い入れ、人を育てているのだという意識、機械的な授業、すべてが今と昔では余りにも格段の差があることも周知の事、情報の量、速さ、内容共に比較にもならないでしょう。
伝達の手段だって全く違います。
一番違うのは私ども、所謂親でしょう。親が子供に対する思い、情熱、期待、ほとんどが変化してしまいました。
しかも急激に。
子供は授かり、預かり物でなく造るもの、要らないなら捨てるものに変わってきました。
昔は極貧の中でも子供の生涯に親は掛けたものです。
何物にも代えられない、掛け替えのない、自分の命をなげうっても大切にしてきたもの、それが授かった子供に対する親の態度であったはずです。
この世に生を受けた子供の生命や尊厳など何処に行ったのでしょうか。
貧しく明日の生活にも事欠く後進国のドキュメンタリー等を見て親子の情愛の深さに心打たれるのは私だけではないでしょう。
素晴らしい先生や感動的な親子関係を築いている人々が数多くおられるのも事実。私自身がそんな親子関係に枯渇していたこと、自分の子供たちとの十分で豊かな関係が作れたのか未だに疑問が払拭できていない、そんなことが時に脳裏をかすめます。
マスコミのあり方、先生方、地域社会が何でもありの世界になってしまいました。
過保護、過干渉ということではなく子供のためには防ぐものがあるとするなら体をはって守る、そのためには親同士が連帯感を持ってことにあたる事も必要かもしれません。
未来を作るのは私どもであって子供たちではありません、今は私どもが作ったのではなく私どもの親が作ってくれたのです。
今の子供たちの未来は私どもが作っているのです。
だから子供を大事にする環境は我々が作らないといけません、
そこで過ごすのが彼らですから。
子供が逃避をしなければいけない社会、伸び伸び出来ず萎縮した社会、屈託のない笑顔を忘れた子供の多い社会や家庭。
私も今頃気づいては手遅れですが子供たちが安心で安全で親の懐に顔をうずめながら生活できる社会や家庭を作れたのか疑問です。
溺愛や過保護があらぬ方向に子供たちを走らせたのも社会の現象や事実が証明してくれました。
何が正しくて何が間違いなのか、幼いころからの躾や教育が如何に大切なのかを今の世相の流れがわれわれにさまざまなことを教えてくれています。
Posted by misterkei0918 at
10:41
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2010年09月23日
敬虔な想い
敬虔な想い
背筋が寒くなるような想い、
人間としての根源的な想いに浸る想い・・・・・
夏が終わりましたので、その筋の事ではなくて、つまり怖い系のことではありません。
例えば、お坊さんのお説教を真剣に聞いていたときに経験する、
著名な、しかも尊敬する先生の話、
歴史深い宗教行事に触れたとき・・・・・
敬虔とは、何なのでしょうか。
辞書を引いてみました。
「敬」は敬う、尊ぶ、慎む、礼をつくす、慎む、真心を込めて努める・・・
象形は髪を特別な形にして、体を曲げ髪に祈る様。
「虔」は厳かに慎む、正しい様、片方には殺す、損なうの意味もあるようです。
根源にある「敬う、慎む」は、やはり「神仏に誓って」の意味があることが感じられます。
「本来」とか「身命」とかそんな意味も感じます。
あわせて、自らが謙虚になる、原点の立ち返る・・・なども想いが駆け巡ります。
時には喧騒の都会の中で奔走、翻弄される日常だけではなく、心の琴線に触れるような、揺さぶられるようなそんな機会を持つことも大事なようです。
「敬虔な想い」・・・時には心を洗われるような、あるいは純粋無垢な心境にも立ち戻ってみたいものです。
神仏に両の手を合わす行為からであったり、
極めた人からの示唆的な言葉、
様々な歴史的行事、
人も寄せ付けないような大自然であったりするかもしれませんね。
そんな機会が多く作れる人になってみたいものですね。
背筋が寒くなるような想い、
人間としての根源的な想いに浸る想い・・・・・
夏が終わりましたので、その筋の事ではなくて、つまり怖い系のことではありません。
例えば、お坊さんのお説教を真剣に聞いていたときに経験する、
著名な、しかも尊敬する先生の話、
歴史深い宗教行事に触れたとき・・・・・
敬虔とは、何なのでしょうか。
辞書を引いてみました。
「敬」は敬う、尊ぶ、慎む、礼をつくす、慎む、真心を込めて努める・・・
象形は髪を特別な形にして、体を曲げ髪に祈る様。
「虔」は厳かに慎む、正しい様、片方には殺す、損なうの意味もあるようです。
根源にある「敬う、慎む」は、やはり「神仏に誓って」の意味があることが感じられます。
「本来」とか「身命」とかそんな意味も感じます。
あわせて、自らが謙虚になる、原点の立ち返る・・・なども想いが駆け巡ります。
時には喧騒の都会の中で奔走、翻弄される日常だけではなく、心の琴線に触れるような、揺さぶられるようなそんな機会を持つことも大事なようです。
「敬虔な想い」・・・時には心を洗われるような、あるいは純粋無垢な心境にも立ち戻ってみたいものです。
神仏に両の手を合わす行為からであったり、
極めた人からの示唆的な言葉、
様々な歴史的行事、
人も寄せ付けないような大自然であったりするかもしれませんね。
そんな機会が多く作れる人になってみたいものですね。
Posted by misterkei0918 at
10:01
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2010年09月23日
勉強は楽しい
勉強は楽しい
勉強する世代の時にこのような心境であったならば、今は劇的な違いを見せていたはずなんです。
「老いらくの恋」ではありませんが、今頃になって勉強に目覚めてどうするのでしょうか。
今朝は早朝の7時から勉強会でした。
ここ数年、自分の知識の浅さや人としての修練の度合いに未熟さを感じる日々でした。
出来るだけ、経営の合間やお世話ごとの隙間を縫って、時間を割くように努める事にしています。
労働時間というか、活動時間と言うか、その分時間を必要としますので、心休まる時は余り持てませんが、それが或いはゆとりであったり私にとっての癒しの時間であったりするようです。
また、勉強の成果が形となって現れることも嬉しいものです。
人との会話にもそうですし、経営や人間関係にも努力の成果が出ているような気がします。
本来なら、もっと早くに気付いて精進を重ねていたら今頃になって真剣にならなくても良かったでしょうにね。
逆に、今だからこそと言う事もあります。
同じ勉強をしていても、どうも理解の仕方が深いような気がするのです。
物事を覚えたり、理解する力は若いに越した事は無いのかもしれませんが、今まで得てきた知識や経験と新しい知識がお互いに溶け合う事によって新しい情報になって私の脳裏に蓄積されていくような気がします。
案外、まんざらでもないようです。
「もうこの年になって」と諦めない、
若い人々と混じってでも恥ずかしがらずに、気後れしないで頑張ってみると、また若い方々と違った学び方や味が出てくるようですよ。
成果を急がず、マイペースで。
でも、本来の自分の仕事を置き去りにしてはいけません。
時間が必要であれば、朝の4時でも5時でも起きて本来の仕事をこなしてからでなければいけません。
支障の無いように周りをチャンと整備して、滞りのないようにしてからの勉強で無いとそれこそ本末転倒ということにもなってしまいます。
急ぐ必要もありませんし、どうせ焦ってもやれることは高が知れているものです。
勉強する世代の時にこのような心境であったならば、今は劇的な違いを見せていたはずなんです。
「老いらくの恋」ではありませんが、今頃になって勉強に目覚めてどうするのでしょうか。
今朝は早朝の7時から勉強会でした。
ここ数年、自分の知識の浅さや人としての修練の度合いに未熟さを感じる日々でした。
出来るだけ、経営の合間やお世話ごとの隙間を縫って、時間を割くように努める事にしています。
労働時間というか、活動時間と言うか、その分時間を必要としますので、心休まる時は余り持てませんが、それが或いはゆとりであったり私にとっての癒しの時間であったりするようです。
また、勉強の成果が形となって現れることも嬉しいものです。
人との会話にもそうですし、経営や人間関係にも努力の成果が出ているような気がします。
本来なら、もっと早くに気付いて精進を重ねていたら今頃になって真剣にならなくても良かったでしょうにね。
逆に、今だからこそと言う事もあります。
同じ勉強をしていても、どうも理解の仕方が深いような気がするのです。
物事を覚えたり、理解する力は若いに越した事は無いのかもしれませんが、今まで得てきた知識や経験と新しい知識がお互いに溶け合う事によって新しい情報になって私の脳裏に蓄積されていくような気がします。
案外、まんざらでもないようです。
「もうこの年になって」と諦めない、
若い人々と混じってでも恥ずかしがらずに、気後れしないで頑張ってみると、また若い方々と違った学び方や味が出てくるようですよ。
成果を急がず、マイペースで。
でも、本来の自分の仕事を置き去りにしてはいけません。
時間が必要であれば、朝の4時でも5時でも起きて本来の仕事をこなしてからでなければいけません。
支障の無いように周りをチャンと整備して、滞りのないようにしてからの勉強で無いとそれこそ本末転倒ということにもなってしまいます。
急ぐ必要もありませんし、どうせ焦ってもやれることは高が知れているものです。
Posted by misterkei0918 at
01:16
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2010年09月23日
普通であることが一番難しい事
普通であることが一番難しい事
世の中は普通である事を、蔑(ないがし)ろにする風潮があります。
本当は普通である事が尊重され、大事にされなければいけないのに。
世界が広くなり、マスコミが発達?すれば当然マスコミ受けする情報や人間が持て囃されるものです。
マスコミ受けすると言う事は、極めて突出した事や人気を得られそうな事、スポンサー受けするネタ、視聴率を稼げそうである事、人々が驚嘆の目を持って関心を示しそうな事であります。
例えば、殆どがそうですが我が家は普通以下であったり、我が家の父親も普通である事が疎(うと)ましく思われ、蔑(さげす)まれてしまうことにもなってしまいます。
誇張されたり、特別な例でもあるにも拘らず、目に飛び込んでくる事が全て世の中の普通になってしまう状態。
ですから、政治も普通日常の事になってしまいましたし、特別に選ばれたしかも優秀な人々がやっていることではなくなってしまいました。
国民総評論家になりました。
世界ップクラスの日本経済も、比較的近くのおじさんたちが動かしているような錯覚に陥っています。
スポーツの世界だって、隣のお兄ちゃんが世界記録を作ったような錯覚。
イチローだって、そんなに遠いところに存在するスーパースターではなくなってきました。
極めて身近な存在です。
本当は、一番身近にいる父親、母親が世の中で最も尊敬すべき人間であるはずなのに、「うちの父親は、うちの母親は」と蔑(さげす)みの対象と化してしまいました。
子供だって、元来は自分の子供が一番可愛くて、大事な筈だったのに比較対象が多すぎて、自分の子供の欠点ばかりが目に付く時代です。
虐待や親としての義務の放棄、失われた母性、世の中どこに行こうとしているのでしょうか。
普通で良かった筈なんです。
普通こそが尊重され尊敬される世の中だったと思っていたのですが。
何処かで踏み誤ってしまいました。
秀でた人、秀でた技術や現象を否定する必要もありませんが、普通であることがより大事にされる時代に戻りたいものです。
「普通でいいんだよ、そのままでいいんだよ、自然のままでいいよ」って、言える時代。
それは、同じ目線で物事が判断され、共通の土壌でお互いを認識し、尊重できる世の中です。
『正直とか親切とか、そんな普通の道徳を堅固に守る人間こそ、真の偉大な人間というべきである。
アナトール・フランス』
世の中は普通である事を、蔑(ないがし)ろにする風潮があります。
本当は普通である事が尊重され、大事にされなければいけないのに。
世界が広くなり、マスコミが発達?すれば当然マスコミ受けする情報や人間が持て囃されるものです。
マスコミ受けすると言う事は、極めて突出した事や人気を得られそうな事、スポンサー受けするネタ、視聴率を稼げそうである事、人々が驚嘆の目を持って関心を示しそうな事であります。
例えば、殆どがそうですが我が家は普通以下であったり、我が家の父親も普通である事が疎(うと)ましく思われ、蔑(さげす)まれてしまうことにもなってしまいます。
誇張されたり、特別な例でもあるにも拘らず、目に飛び込んでくる事が全て世の中の普通になってしまう状態。
ですから、政治も普通日常の事になってしまいましたし、特別に選ばれたしかも優秀な人々がやっていることではなくなってしまいました。
国民総評論家になりました。
世界ップクラスの日本経済も、比較的近くのおじさんたちが動かしているような錯覚に陥っています。
スポーツの世界だって、隣のお兄ちゃんが世界記録を作ったような錯覚。
イチローだって、そんなに遠いところに存在するスーパースターではなくなってきました。
極めて身近な存在です。
本当は、一番身近にいる父親、母親が世の中で最も尊敬すべき人間であるはずなのに、「うちの父親は、うちの母親は」と蔑(さげす)みの対象と化してしまいました。
子供だって、元来は自分の子供が一番可愛くて、大事な筈だったのに比較対象が多すぎて、自分の子供の欠点ばかりが目に付く時代です。
虐待や親としての義務の放棄、失われた母性、世の中どこに行こうとしているのでしょうか。
普通で良かった筈なんです。
普通こそが尊重され尊敬される世の中だったと思っていたのですが。
何処かで踏み誤ってしまいました。
秀でた人、秀でた技術や現象を否定する必要もありませんが、普通であることがより大事にされる時代に戻りたいものです。
「普通でいいんだよ、そのままでいいんだよ、自然のままでいいよ」って、言える時代。
それは、同じ目線で物事が判断され、共通の土壌でお互いを認識し、尊重できる世の中です。
『正直とか親切とか、そんな普通の道徳を堅固に守る人間こそ、真の偉大な人間というべきである。
アナトール・フランス』
Posted by misterkei0918 at
00:48
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2010年09月20日
お墓に行きながら、涙目になってしまいました
お墓に行きながら、涙目になってしまいました
今日は秋のお彼岸の入り。
漸く秋の風情を感じます。
今朝も早くから、6時前から大濠公園のウォーキングへ行ってきました。
日増しに人が増えているように感じます。
特に若い女性が。
最近、マスコミでウォーキングの良さを繁く伝えていますのでその影響も大きいのでしょうね。
お化粧のりのテレビでは、やはりウォーキングの効果を専門家が話しておられました。
効果抜群のようです。
23日は秋分の日です。
その前後三日間がお彼岸の期間で、20日が彼岸の入り、26日が彼岸明け。
そんな事も若い頃は関心がありませんでしたし、興味も取り立てたなかったものです。
日常で一生懸命でしたから。
23日は満月。(ですが中秋の名月は22日)
この日は、お月見をする予定にしています。
ススキの穂陰から見る月の姿を想い浮かべます。
先程はお墓へ行って来ました。
行く道すがら、母のことを思って涙目になってしまいました。
やはり、一人で行くと駄目ですね。
私の親不孝振りが過ぎるために、そのことを思うとつい、ほろっとしてしまいます。
いつか機会を作って、その理由を書いてみたいとも思いますが、今はその時期ではないと思います。
いけませんね、やはり親孝行はチャンとしないとね。
昔から「親孝行したい時には親はなし」とも言います。
しなくてはいけないときには、しっかりしておかないと。
自分に言い聞かせています。
今日は秋のお彼岸の入り。
漸く秋の風情を感じます。
今朝も早くから、6時前から大濠公園のウォーキングへ行ってきました。
日増しに人が増えているように感じます。
特に若い女性が。
最近、マスコミでウォーキングの良さを繁く伝えていますのでその影響も大きいのでしょうね。
お化粧のりのテレビでは、やはりウォーキングの効果を専門家が話しておられました。
効果抜群のようです。
23日は秋分の日です。
その前後三日間がお彼岸の期間で、20日が彼岸の入り、26日が彼岸明け。
そんな事も若い頃は関心がありませんでしたし、興味も取り立てたなかったものです。
日常で一生懸命でしたから。
23日は満月。(ですが中秋の名月は22日)
この日は、お月見をする予定にしています。
ススキの穂陰から見る月の姿を想い浮かべます。
先程はお墓へ行って来ました。
行く道すがら、母のことを思って涙目になってしまいました。
やはり、一人で行くと駄目ですね。
私の親不孝振りが過ぎるために、そのことを思うとつい、ほろっとしてしまいます。
いつか機会を作って、その理由を書いてみたいとも思いますが、今はその時期ではないと思います。
いけませんね、やはり親孝行はチャンとしないとね。
昔から「親孝行したい時には親はなし」とも言います。
しなくてはいけないときには、しっかりしておかないと。
自分に言い聞かせています。
Posted by misterkei0918 at
14:18
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2010年09月20日
人は望むようになる!!
人は望むようになる!!
嘘だと思う人は、近くに老人や出来れば成功者に聞いてきるといいと思います。
そりゃ、世の中には全く逆になった人、法外な夢を語りすぎたために大ほら吹きと周りから馬鹿にされた人。
様々だと思います。
ところが、実は方々が案外に多い事に気付くはずです。
こんな人もいますよね。
「心配性のために、その方向へその方向へ来てしまった」などという人もいるものです。
人の心は様々なことが交錯します。
先まで楽しい事で浮き足立っていたのに、次の瞬間は悲しみにくれています。
人生は楽しいばかりでも、楽しくないものです。
変な表現になりました。
そんな気がしませんか。
時には厳しい現実に翻弄されたり、悲しみのどん底に突き落とされたり・・・・・
一喜一憂の連続です。
それでいいと思うのです。
どうしてなら、それが誰にでも当たり前だから。
自分の望むところが、不幸であるわけはないですよね。
常に幸せを望む心を持ち続けることを忘れないで、
その方向へ向かって努力を重ねる。
一心不乱でもなくていいと思うのです。
自分の方向性を常に見失わないように、常に思い起こす事が大事。
過大過剰、法外であって、人心を無視したようなことはいけませんよね。
そんな希望や夢も或いは望んでいて努力したら叶ってしまうかもしれませんよね。
反社会的な望みの方がむしろ可能性は高いかも。
ですが、社会的制裁を受け、やがては奈落の底へ追いやられるでしょうが。
廻りをよく観察すると案外そのようになっています。
「人生は自分が望んだ方向へ進んでいく」と。
『あなたが 幸福を望むならばいつ いかなる時にも,幸福を感じる心根を枯らしてはならない。櫻木健古』
『英雄は、自分のできることをした人だ。凡人は出来ることをせず、できもしないことを望む。ロマンロラン(フランスの小説家)』
『あなたが明日会う人々の四分の三は、「自分と同じ意見の者はいないか」と必死になって探している。この望みをかなえてやるのが、人に好かれる秘訣である。デールカーネギー』
『恋が芽生えるには、ごく小量の希望があれば、十分である。スタンダール』
嘘だと思う人は、近くに老人や出来れば成功者に聞いてきるといいと思います。
そりゃ、世の中には全く逆になった人、法外な夢を語りすぎたために大ほら吹きと周りから馬鹿にされた人。
様々だと思います。
ところが、実は方々が案外に多い事に気付くはずです。
こんな人もいますよね。
「心配性のために、その方向へその方向へ来てしまった」などという人もいるものです。
人の心は様々なことが交錯します。
先まで楽しい事で浮き足立っていたのに、次の瞬間は悲しみにくれています。
人生は楽しいばかりでも、楽しくないものです。
変な表現になりました。
そんな気がしませんか。
時には厳しい現実に翻弄されたり、悲しみのどん底に突き落とされたり・・・・・
一喜一憂の連続です。
それでいいと思うのです。
どうしてなら、それが誰にでも当たり前だから。
自分の望むところが、不幸であるわけはないですよね。
常に幸せを望む心を持ち続けることを忘れないで、
その方向へ向かって努力を重ねる。
一心不乱でもなくていいと思うのです。
自分の方向性を常に見失わないように、常に思い起こす事が大事。
過大過剰、法外であって、人心を無視したようなことはいけませんよね。
そんな希望や夢も或いは望んでいて努力したら叶ってしまうかもしれませんよね。
反社会的な望みの方がむしろ可能性は高いかも。
ですが、社会的制裁を受け、やがては奈落の底へ追いやられるでしょうが。
廻りをよく観察すると案外そのようになっています。
「人生は自分が望んだ方向へ進んでいく」と。
『あなたが 幸福を望むならばいつ いかなる時にも,幸福を感じる心根を枯らしてはならない。櫻木健古』
『英雄は、自分のできることをした人だ。凡人は出来ることをせず、できもしないことを望む。ロマンロラン(フランスの小説家)』
『あなたが明日会う人々の四分の三は、「自分と同じ意見の者はいないか」と必死になって探している。この望みをかなえてやるのが、人に好かれる秘訣である。デールカーネギー』
『恋が芽生えるには、ごく小量の希望があれば、十分である。スタンダール』
Posted by misterkei0918 at
13:51
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2010年09月20日
八方美人ではいけない?
八方美人ではいけない?
「八方美人ではいけない」とはよく言いますよね。
その理由は、
どっちつかず、
あっちこっちにいい顔をする、
自己主張しない、
へらへらしている、
自分の考えを持たない、
優柔不断、
人の尻についていく
他人に意見に左右される、
どこにでも顔を出す、
出しゃばり、
・
・
こんな事が思いつきます。
私は過去2度ほど、「○○君は八方美人だね」と言われた事があります。
言った方も「決して悪い意味で言われたのでもない」と思っています。
この解釈もいけないのですよね。
応えていないというか、自分の都合に言いように解釈をしている。
私は、性格なのでしょうが八方美人的的なところはあると思っています。
ですが、上記のような事は殆どありません。
あるとすれば、「どこにでも顔を出す」ところはあると思っています。
それは意識的に。
その理由は、
自分の知識の足りなさに愕然としており、遅ればせながら出来るだけ勉強の機会を増やしている。
出来るだけ多くの人に出会いたい、若い頃できるだけ人に会いたくないと思った時期もありますのでそれを取り戻す必要があること。
考えてみたら、八方美人ではいけないと言いますが、
全ての人と付き合うというのは並大抵のことではありません。
時には自分を殺す事も大切、
出しゃばらない事も、
自己主張が過ぎないこと、
時にはリーダシップも要求される、
胸襟を開く事を忘れてはいけない、
自分よりも他人優先でなければいけない、
出来れば、人として穏やかでないといけない、
・
・
などなど。
多くの団体や社会で幾らかの自分を出しながら、そこそこに貢献もし、長く所属する事は実は大変な努力を伴うもの。
八方美人でもいいと思っています。
実はそれが出来なくて、挫折を繰り返している人や自分の殻や主張に閉じこもっている人もいるものです。
どこにでもいい顔をする「八方美人」ではなく、どこにいても重宝されそれでいて適度な自己主張が出来る「八方美人」であれば大いに結構だと思います。
「八方美人ではいけない」とはよく言いますよね。
その理由は、
どっちつかず、
あっちこっちにいい顔をする、
自己主張しない、
へらへらしている、
自分の考えを持たない、
優柔不断、
人の尻についていく
他人に意見に左右される、
どこにでも顔を出す、
出しゃばり、
・
・
こんな事が思いつきます。
私は過去2度ほど、「○○君は八方美人だね」と言われた事があります。
言った方も「決して悪い意味で言われたのでもない」と思っています。
この解釈もいけないのですよね。
応えていないというか、自分の都合に言いように解釈をしている。
私は、性格なのでしょうが八方美人的的なところはあると思っています。
ですが、上記のような事は殆どありません。
あるとすれば、「どこにでも顔を出す」ところはあると思っています。
それは意識的に。
その理由は、
自分の知識の足りなさに愕然としており、遅ればせながら出来るだけ勉強の機会を増やしている。
出来るだけ多くの人に出会いたい、若い頃できるだけ人に会いたくないと思った時期もありますのでそれを取り戻す必要があること。
考えてみたら、八方美人ではいけないと言いますが、
全ての人と付き合うというのは並大抵のことではありません。
時には自分を殺す事も大切、
出しゃばらない事も、
自己主張が過ぎないこと、
時にはリーダシップも要求される、
胸襟を開く事を忘れてはいけない、
自分よりも他人優先でなければいけない、
出来れば、人として穏やかでないといけない、
・
・
などなど。
多くの団体や社会で幾らかの自分を出しながら、そこそこに貢献もし、長く所属する事は実は大変な努力を伴うもの。
八方美人でもいいと思っています。
実はそれが出来なくて、挫折を繰り返している人や自分の殻や主張に閉じこもっている人もいるものです。
どこにでもいい顔をする「八方美人」ではなく、どこにいても重宝されそれでいて適度な自己主張が出来る「八方美人」であれば大いに結構だと思います。
Posted by misterkei0918 at
13:06
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2010年09月17日
あなたの救いの神は?
あなたの救いの神は?
人生は、荒波の中に小さな船で漕ぎ出しているようなものです。
安寧の日々を送らせてはくれないものです。
出来事の全てを、課せられた問題や苦痛、悲痛な苦難と捉えると人生は面白くありませんし、何のために人生を頂いたのか、悶絶の日々になってしまいます。
そんな中にあるからこそ、人生にしかない妙味があったり、人間にしかない喜びも存在するものです。
それを見つけることが出来るのか、出来ないのか、ただの日常に溺れきってしまうのか、上手く泳ぎきってしまうのか。
人生はそんなもののように思われます。
問題や課題が出てきたら、逃げないで真摯に立ち向かい、妙に手練手管を使ったり、ごり押しや自分だけが有利な立場に立とうとしないで、感情に押し流されず長い目の解決に心掛ける事が大切なようです。
出来れば、自らの胸襟を開き、隠し事を嫌い、正直な胸の内を見せ合うことが。
心休まる時間は自分ではなかなか見出す事は出来ません。
大切なのは、自分の周りに誰かの存在が大切なのではないでしょうか。
或いは相手は趣味や自然、宗教でも良いでしょうが一番はどう言っても人だと思われます。
中には人間は煩わしいとか、面倒などという人もいるかもしれませんが、そんな方は一方的な言い方をすれば人との上手はあり方を追求していない方ではないのでしょうか。
私にとってはやはり妻や家族でしょう。
多忙な日常です。
思い煩う日々です。
問題山積、葛藤の日々です。
自分との戦いの連続でもあります。
そんな時、私にとっての最大の救いの神は妻や家族。
長い人生を振り返ると、それはそれは大変な曲折の日々でした。
その節目節目には必ず大切な役割を果たす人々が存在するものです。
その筆頭が間違いなく、妻や家族であります。
明日への勇気、時には戒めをくれるときもあります。
人生は関わり深い身近な人々と、幾重にも重なる交誼を大切にしながら支えあう事が寛容なようです。
人生は、荒波の中に小さな船で漕ぎ出しているようなものです。
安寧の日々を送らせてはくれないものです。
出来事の全てを、課せられた問題や苦痛、悲痛な苦難と捉えると人生は面白くありませんし、何のために人生を頂いたのか、悶絶の日々になってしまいます。
そんな中にあるからこそ、人生にしかない妙味があったり、人間にしかない喜びも存在するものです。
それを見つけることが出来るのか、出来ないのか、ただの日常に溺れきってしまうのか、上手く泳ぎきってしまうのか。
人生はそんなもののように思われます。
問題や課題が出てきたら、逃げないで真摯に立ち向かい、妙に手練手管を使ったり、ごり押しや自分だけが有利な立場に立とうとしないで、感情に押し流されず長い目の解決に心掛ける事が大切なようです。
出来れば、自らの胸襟を開き、隠し事を嫌い、正直な胸の内を見せ合うことが。
心休まる時間は自分ではなかなか見出す事は出来ません。
大切なのは、自分の周りに誰かの存在が大切なのではないでしょうか。
或いは相手は趣味や自然、宗教でも良いでしょうが一番はどう言っても人だと思われます。
中には人間は煩わしいとか、面倒などという人もいるかもしれませんが、そんな方は一方的な言い方をすれば人との上手はあり方を追求していない方ではないのでしょうか。
私にとってはやはり妻や家族でしょう。
多忙な日常です。
思い煩う日々です。
問題山積、葛藤の日々です。
自分との戦いの連続でもあります。
そんな時、私にとっての最大の救いの神は妻や家族。
長い人生を振り返ると、それはそれは大変な曲折の日々でした。
その節目節目には必ず大切な役割を果たす人々が存在するものです。
その筆頭が間違いなく、妻や家族であります。
明日への勇気、時には戒めをくれるときもあります。
人生は関わり深い身近な人々と、幾重にも重なる交誼を大切にしながら支えあう事が寛容なようです。
Posted by misterkei0918 at
12:08
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2010年09月17日
男が最も悩み、しかも目指すところ
男が最も悩み、しかも目指すところ
男がと言うと、じゃ~女性は?差別的では?と言われそうですが一般論として、或いは世の中で最もきつい部分に晒されている人の多さで男と言う表現にしている事を赦していただきたいと思っています。
それと私自身が男ですから「男であるお前が一番悩み、しかも目指すところは?」と自らに問いかけているのだと解釈をしていただきたいと思います。
最近は、植物系男子などと言われ、如何にも戦う事を忘れ去った男たち、事なかれ主義に浸かってしまおうという男たちが増えてきたと言われます。
世の中は、戦いの連続であり、これから逃げていては夢の一部は消え去ってしまいますし、本来人間が持っている欲望の一部も手に入れることの出来ない事態に陥るかも知れませんね。
過激な言い回しになりましたが、
私自身の若い頃がそうであったように人生を投げやり的に捉えたり、まだ見てもいない自分の将来を悲観的な考えに終始していては本当にそのような人生を送ってしまうことにもなってしまいます。
自らの想いや行動を本の少し変えるだけで、人生が一転することを若い方々は早く気付いて欲しいものです。
人は今日から違った自分にはなれません。
少しづつ少しづつ、勇気を持って可能性を継続的に求めていく事で好転をするものです。
欲張っては駄目!!
走りすぎても駄目!!
人の幸福をこそ、先に願って!!・・・・・
ある生命保険会社の100周年の記念ビデオを頂きました。
その中から、私が興味を持った部分を記載をしました。
中国文学者 守屋 洋 先生ビデオ講座「中国古典に学ぶリーダーの条件」から。
1、中国古典とリーダー論
人間の知恵は中国古典の中に全て出てくる、
特に読んで欲しいのは孔子の言行録で西のバイブル・東の論語と言われるほどの「論語」と戦略戦術、かけひきの「孫子の兵法」。それに加えると「貞観政要じょうかんせいよう」。前の二つは中国古典の入り口。
2、 リーダーの能力・・・智と勇
智・・・智勇兼備の智。洞察力、先見力+対応能力(個人差)
素質に磨きをかける努力が必要(努力で差が開く)
(1) 事上磨練(じじょうまれん)
仕事を通じて自分を磨け、繰り返し、惰性、マンネリ
問題意識を持て、苦労から逃げるな。
(2)古典(歴史)に学べ
古典はリーダーの苦労を纏めたもの。
これに敢えて加えると「新しい情報を吸収する努力」
勇・・・勇気・決断力。
勝算のない戦いはするな、勝算がないとしたら撤退して考える。
決断力には二つある。(1)前は進む決断 (2)撤退の決断。
3、リーダーの徳・・・・・謙・寛・仁・信・勤・義
徳者事業之基(徳は事業の基なり)という言葉がある。徳の主な要素として
謙・・・謙虚、腰が低い、人を見下さない、偉ぶらない。
逆に傲慢な人は勢いのある時はいいが○周りの反発を買いやすい
○お山の大将になって自分の進歩を止めてしまう。
力のある人、上り調子のときほど謙虚に。
謙虚が過ぎると卑屈となる。
謙虚でありながら毅然とした態度も必要。
寛・・・寛容、寛大、人間としての大きさ。
「自分に厳しく、他人には寛容」
仁・・・思いやりの心、心の暖かさ。部下への配慮。
商談の断り方にも納得をさせ、恨みつらみを買わない配慮。
信・・・うそをつかない、約束は必ず守る。信は人間の願望である。
人を見る目を養う。信は上に立つものの統率力に関わる。
綸言」如汗(りんげんあせのごとし)トップの発言は汗の様な物、
一旦外に出ると訂正は利かない。
普段は慎重に大事なときは筋道をたてて話せるようにする。
勤・・・勤勉、部下のやる気を引き出す。自分が頑張るのは当たり前。
義・・・元々は正しいの意、人間として当然守らねばならない道。
見利思義(利を見ては義を思う)利益を求めても人の道を踏み外さないようにする。
失った信用の回復は難しい。
義だけはいくら持ちすぎても過ぎることはない。
最後に「胆大心小」たんだいしんしょう
肝っ玉は大きく心は小さく、大胆にかつ慎重に。
日常業務は慎重に。
全てを実践するのは難しいものですが、一段づつ辛抱をしながら焦らないで努力を積み重ねる事で、想いは形に現れるようですよ。
私も改めて、今日から挑戦を試みてみようと思います。
男がと言うと、じゃ~女性は?差別的では?と言われそうですが一般論として、或いは世の中で最もきつい部分に晒されている人の多さで男と言う表現にしている事を赦していただきたいと思っています。
それと私自身が男ですから「男であるお前が一番悩み、しかも目指すところは?」と自らに問いかけているのだと解釈をしていただきたいと思います。
最近は、植物系男子などと言われ、如何にも戦う事を忘れ去った男たち、事なかれ主義に浸かってしまおうという男たちが増えてきたと言われます。
世の中は、戦いの連続であり、これから逃げていては夢の一部は消え去ってしまいますし、本来人間が持っている欲望の一部も手に入れることの出来ない事態に陥るかも知れませんね。
過激な言い回しになりましたが、
私自身の若い頃がそうであったように人生を投げやり的に捉えたり、まだ見てもいない自分の将来を悲観的な考えに終始していては本当にそのような人生を送ってしまうことにもなってしまいます。
自らの想いや行動を本の少し変えるだけで、人生が一転することを若い方々は早く気付いて欲しいものです。
人は今日から違った自分にはなれません。
少しづつ少しづつ、勇気を持って可能性を継続的に求めていく事で好転をするものです。
欲張っては駄目!!
走りすぎても駄目!!
人の幸福をこそ、先に願って!!・・・・・
ある生命保険会社の100周年の記念ビデオを頂きました。
その中から、私が興味を持った部分を記載をしました。
中国文学者 守屋 洋 先生ビデオ講座「中国古典に学ぶリーダーの条件」から。
1、中国古典とリーダー論
人間の知恵は中国古典の中に全て出てくる、
特に読んで欲しいのは孔子の言行録で西のバイブル・東の論語と言われるほどの「論語」と戦略戦術、かけひきの「孫子の兵法」。それに加えると「貞観政要じょうかんせいよう」。前の二つは中国古典の入り口。
2、 リーダーの能力・・・智と勇
智・・・智勇兼備の智。洞察力、先見力+対応能力(個人差)
素質に磨きをかける努力が必要(努力で差が開く)
(1) 事上磨練(じじょうまれん)
仕事を通じて自分を磨け、繰り返し、惰性、マンネリ
問題意識を持て、苦労から逃げるな。
(2)古典(歴史)に学べ
古典はリーダーの苦労を纏めたもの。
これに敢えて加えると「新しい情報を吸収する努力」
勇・・・勇気・決断力。
勝算のない戦いはするな、勝算がないとしたら撤退して考える。
決断力には二つある。(1)前は進む決断 (2)撤退の決断。
3、リーダーの徳・・・・・謙・寛・仁・信・勤・義
徳者事業之基(徳は事業の基なり)という言葉がある。徳の主な要素として
謙・・・謙虚、腰が低い、人を見下さない、偉ぶらない。
逆に傲慢な人は勢いのある時はいいが○周りの反発を買いやすい
○お山の大将になって自分の進歩を止めてしまう。
力のある人、上り調子のときほど謙虚に。
謙虚が過ぎると卑屈となる。
謙虚でありながら毅然とした態度も必要。
寛・・・寛容、寛大、人間としての大きさ。
「自分に厳しく、他人には寛容」
仁・・・思いやりの心、心の暖かさ。部下への配慮。
商談の断り方にも納得をさせ、恨みつらみを買わない配慮。
信・・・うそをつかない、約束は必ず守る。信は人間の願望である。
人を見る目を養う。信は上に立つものの統率力に関わる。
綸言」如汗(りんげんあせのごとし)トップの発言は汗の様な物、
一旦外に出ると訂正は利かない。
普段は慎重に大事なときは筋道をたてて話せるようにする。
勤・・・勤勉、部下のやる気を引き出す。自分が頑張るのは当たり前。
義・・・元々は正しいの意、人間として当然守らねばならない道。
見利思義(利を見ては義を思う)利益を求めても人の道を踏み外さないようにする。
失った信用の回復は難しい。
義だけはいくら持ちすぎても過ぎることはない。
最後に「胆大心小」たんだいしんしょう
肝っ玉は大きく心は小さく、大胆にかつ慎重に。
日常業務は慎重に。
全てを実践するのは難しいものですが、一段づつ辛抱をしながら焦らないで努力を積み重ねる事で、想いは形に現れるようですよ。
私も改めて、今日から挑戦を試みてみようと思います。
Posted by misterkei0918 at
10:49
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2010年09月16日
姿、形、格好に惑わされないように
姿、形、格好に惑わされないように
別に自分に有利に働くようにこんな言葉を並べたのでもありません。
姿、形、格好が人並み以上に良ければ、もっと違った生き方が出来たかもしれませんね。
やはり身の丈、身の程なのでしょうか。
でも無いような気がするのです。
人は全てが満足するような姿では生まれては来ません。
顕著な例が、最近のある国の総理大臣。
生まれや育ちは、私どもが想像できないくらいに恵まれて、金や物に囲まれて、姿、形、格好、ついでに大邸宅で。
大学は超一流ですから、頭も素晴らしく良かったのだと思われます。
親から12億のお金を貢いでもらっても自分では分からないくらいに何処かが麻痺しているんです。
権力を握った短い期間でも、どう考えても可笑しな事態、状況、場面が幾重にも私どもの目に映ったものです。
顕著な例ですが、やはり人は姿、形、格好ではないのです。
悔しいいけれど。
やはり内面ですよね。
見えないところにこそ、人間の良さなどは隠れているものです。
実は悔し紛れの所もありますが、一般的にそんな所がありますよね。
心根の優しい人、思いやりの深い人・・・・・そんな人こそ飾りのない、何処にでもいそうな人間の中にいるような気がします。
昔、東芝の社長をされた土光さんという方がいらっしゃいました。
今頃は土光さんのような方を見ることがなくなって来ました。
テレビなどを見ていると、如何にも全てがそうであるかのごとき放送がなされたりしています。
もっと、地道に真摯に人生に真正面から立ち向かっている人々が多いのですが。
おもしろ、可笑しく如何にも世の中のトレンディであるかのごとく。
姿、形、格好がいい人が決して全て悪いと言う事はありませんし、それこそ誤った考えですが見方として姿、形、格好にとらわれない眼力を持つ必要があると言いたかったのです。
やはり観察力、人を見る目とか心眼とか。
『母の日に電話1本することすら照れているような奴は、どんなスーツを着ていてもかっこよくないと思いますけどね。リリー・フランキー』
別に自分に有利に働くようにこんな言葉を並べたのでもありません。
姿、形、格好が人並み以上に良ければ、もっと違った生き方が出来たかもしれませんね。
やはり身の丈、身の程なのでしょうか。
でも無いような気がするのです。
人は全てが満足するような姿では生まれては来ません。
顕著な例が、最近のある国の総理大臣。
生まれや育ちは、私どもが想像できないくらいに恵まれて、金や物に囲まれて、姿、形、格好、ついでに大邸宅で。
大学は超一流ですから、頭も素晴らしく良かったのだと思われます。
親から12億のお金を貢いでもらっても自分では分からないくらいに何処かが麻痺しているんです。
権力を握った短い期間でも、どう考えても可笑しな事態、状況、場面が幾重にも私どもの目に映ったものです。
顕著な例ですが、やはり人は姿、形、格好ではないのです。
悔しいいけれど。
やはり内面ですよね。
見えないところにこそ、人間の良さなどは隠れているものです。
実は悔し紛れの所もありますが、一般的にそんな所がありますよね。
心根の優しい人、思いやりの深い人・・・・・そんな人こそ飾りのない、何処にでもいそうな人間の中にいるような気がします。
昔、東芝の社長をされた土光さんという方がいらっしゃいました。
今頃は土光さんのような方を見ることがなくなって来ました。
テレビなどを見ていると、如何にも全てがそうであるかのごとき放送がなされたりしています。
もっと、地道に真摯に人生に真正面から立ち向かっている人々が多いのですが。
おもしろ、可笑しく如何にも世の中のトレンディであるかのごとく。
姿、形、格好がいい人が決して全て悪いと言う事はありませんし、それこそ誤った考えですが見方として姿、形、格好にとらわれない眼力を持つ必要があると言いたかったのです。
やはり観察力、人を見る目とか心眼とか。
『母の日に電話1本することすら照れているような奴は、どんなスーツを着ていてもかっこよくないと思いますけどね。リリー・フランキー』
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19:11
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2010年09月15日
耳の話、本当?
耳の話、本当?
あるお坊さんと話していた時の事です。
「人の感覚で一番最後まで残るのは、聞くこと。つまり耳」と言われました。
臨終の経験がありませんから、真偽の程は分かりませんが、どうもそんな気がしないでもありません。
耳はただ物音を感じるだけではなく、気配とか、雰囲気を何かしら先取りして感じているような気がするのです。
暗闇は目では何も見えませんが、そこでフル稼働するのが耳ではないでしょうか。
耳は、音や気配、雰囲気だけではありません。
人間の平衡感覚を司っているのも耳です。
目で見つめていればまっすぐ歩けるのではなく、耳がそこで大変な役割を演じているのです。
耳で聞こえる周波数は、通常20Hzから、15,000Hzないし20,000Hz程度の周波数(可聴域)を音として感じることができますが、可聴域を超えた上下の周波数の音を超音波と言い、
可聴域下限付近の低周波音は、騒音被害(低周波騒音)を引き起こすものとして最近注目されています。
どうも私どもの耳は、感じない筈の音に敏感に反応しているのかも知れませんね。
冒頭の話に戻りますが、
亡くなられる方の感覚で最後に残るのが耳だとしたら、「臨終で御座います」と目は閉じてしまっても或いはそば耳を立てて、私どもの泣き声や愁傷の言葉を聴いてながら、旅立たれるのかも知れませんね。
或いは、死者に追い討ちをかける様な言葉を吐いているとしたら、そのままそっくりあの世まで持って行かれるかも。
「死人に口なし」とは言いますが、口や目は機能停止になっていても耳は不全に陥っていませんから私どもの本心を読みとっておられることになってしまいます。
やはり、心から弔ってあげる事の重要性を改めて感じ入らないといけませんね。
誰か、この付近の事をご存知でしたら教えてください。
『昼間は目が、夜は耳が利くものである。イギリスのことわざ』
『吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う、七十にして、心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こえ)ず。孔子』
『相手の話に耳を傾ける。これが愛の第一義務だ。ポールネイリッヒ』
『人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか。それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。ユダヤの格言』
あるお坊さんと話していた時の事です。
「人の感覚で一番最後まで残るのは、聞くこと。つまり耳」と言われました。
臨終の経験がありませんから、真偽の程は分かりませんが、どうもそんな気がしないでもありません。
耳はただ物音を感じるだけではなく、気配とか、雰囲気を何かしら先取りして感じているような気がするのです。
暗闇は目では何も見えませんが、そこでフル稼働するのが耳ではないでしょうか。
耳は、音や気配、雰囲気だけではありません。
人間の平衡感覚を司っているのも耳です。
目で見つめていればまっすぐ歩けるのではなく、耳がそこで大変な役割を演じているのです。
耳で聞こえる周波数は、通常20Hzから、15,000Hzないし20,000Hz程度の周波数(可聴域)を音として感じることができますが、可聴域を超えた上下の周波数の音を超音波と言い、
可聴域下限付近の低周波音は、騒音被害(低周波騒音)を引き起こすものとして最近注目されています。
どうも私どもの耳は、感じない筈の音に敏感に反応しているのかも知れませんね。
冒頭の話に戻りますが、
亡くなられる方の感覚で最後に残るのが耳だとしたら、「臨終で御座います」と目は閉じてしまっても或いはそば耳を立てて、私どもの泣き声や愁傷の言葉を聴いてながら、旅立たれるのかも知れませんね。
或いは、死者に追い討ちをかける様な言葉を吐いているとしたら、そのままそっくりあの世まで持って行かれるかも。
「死人に口なし」とは言いますが、口や目は機能停止になっていても耳は不全に陥っていませんから私どもの本心を読みとっておられることになってしまいます。
やはり、心から弔ってあげる事の重要性を改めて感じ入らないといけませんね。
誰か、この付近の事をご存知でしたら教えてください。
『昼間は目が、夜は耳が利くものである。イギリスのことわざ』
『吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う、七十にして、心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こえ)ず。孔子』
『相手の話に耳を傾ける。これが愛の第一義務だ。ポールネイリッヒ』
『人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか。それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。ユダヤの格言』
Posted by misterkei0918 at
21:49
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2010年09月15日
耳の話、本当?
耳の話、本当?
あるお坊さんと話していた時の事です。
「人の感覚で一番最後まで残るのは、聞くこと。つまり耳」と言われました。
臨終の経験がありませんから、真偽の程は分かりませんが、どうもそんな気がしないでもありません。
耳はただ物音を感じるだけではなく、気配とか、雰囲気を何かしら先取りして感じているような気がするのです。
暗闇は目では何も見えませんが、そこでフル稼働するのが耳ではないでしょうか。
耳は、音や気配、雰囲気だけではありません。
人間の平衡感覚を司っているのも耳です。
目で見つめていればまっすぐ歩けるのではなく、耳がそこで大変な役割を演じているのです。
耳で聞こえる周波数は、通常20Hzから、15,000Hzないし20,000Hz程度の周波数(可聴域)を音として感じることができますが、可聴域を超えた上下の周波数の音を超音波と言い、
可聴域下限付近の低周波音は、騒音被害(低周波騒音)を引き起こすものとして最近注目されています。
どうも私どもの耳は、感じない筈の音に敏感に反応しているのかも知れませんね。
冒頭の話に戻りますが、
亡くなられる方の感覚で最後に残るのが耳だとしたら、「臨終で御座います」と目は閉じてしまっても或いはそば耳を立てて、私どもの泣き声や愁傷の言葉を聴いてながら、旅立たれるのかも知れませんね。
或いは、死者に追い討ちをかける様な言葉を吐いているとしたら、そのままそっくりあの世まで持って行かれるかも。
「死人に口なし」とは言いますが、口や目は機能停止になっていても耳は不全に陥っていませんから私どもの本心を読みとっておられることになってしまいます。
やはり、心から弔ってあげる事の重要性を改めて感じ入らないといけませんね。
誰か、この付近の事をご存知でしたら教えてください。
『昼間は目が、夜は耳が利くものである。イギリスのことわざ』
『吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う、七十にして、心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こえ)ず。孔子』
『相手の話に耳を傾ける。これが愛の第一義務だ。ポールネイリッヒ』
『人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか。それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。ユダヤの格言』
あるお坊さんと話していた時の事です。
「人の感覚で一番最後まで残るのは、聞くこと。つまり耳」と言われました。
臨終の経験がありませんから、真偽の程は分かりませんが、どうもそんな気がしないでもありません。
耳はただ物音を感じるだけではなく、気配とか、雰囲気を何かしら先取りして感じているような気がするのです。
暗闇は目では何も見えませんが、そこでフル稼働するのが耳ではないでしょうか。
耳は、音や気配、雰囲気だけではありません。
人間の平衡感覚を司っているのも耳です。
目で見つめていればまっすぐ歩けるのではなく、耳がそこで大変な役割を演じているのです。
耳で聞こえる周波数は、通常20Hzから、15,000Hzないし20,000Hz程度の周波数(可聴域)を音として感じることができますが、可聴域を超えた上下の周波数の音を超音波と言い、
可聴域下限付近の低周波音は、騒音被害(低周波騒音)を引き起こすものとして最近注目されています。
どうも私どもの耳は、感じない筈の音に敏感に反応しているのかも知れませんね。
冒頭の話に戻りますが、
亡くなられる方の感覚で最後に残るのが耳だとしたら、「臨終で御座います」と目は閉じてしまっても或いはそば耳を立てて、私どもの泣き声や愁傷の言葉を聴いてながら、旅立たれるのかも知れませんね。
或いは、死者に追い討ちをかける様な言葉を吐いているとしたら、そのままそっくりあの世まで持って行かれるかも。
「死人に口なし」とは言いますが、口や目は機能停止になっていても耳は不全に陥っていませんから私どもの本心を読みとっておられることになってしまいます。
やはり、心から弔ってあげる事の重要性を改めて感じ入らないといけませんね。
誰か、この付近の事をご存知でしたら教えてください。
『昼間は目が、夜は耳が利くものである。イギリスのことわざ』
『吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う、七十にして、心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こえ)ず。孔子』
『相手の話に耳を傾ける。これが愛の第一義務だ。ポールネイリッヒ』
『人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか。それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。ユダヤの格言』
Posted by misterkei0918 at
21:49
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2010年09月14日
今日、9月14日は妙な日?
今日、9月14日は妙な日?
色んな記念日が存在するものです。
「国民の祝日に関する法律」定められた祝日、休日、記念日もありますが、民間団体や業界団体が定めたもの、自然発生的にいつの間にか出来ていた記念日も存在するものです。
そういうことで今日の記念日を調べていましたら、こんな面白い結果になりました。
1、「メンズバレンタインデー」
男性が女性に積極的に愛を表現する日らしい。
1991年に[http://www.nbf.or.jp 日本ボディファッション協会]が制定したもの。
2月14日のバレンタインデーにチョコレートを贈るのに対し、この日にはプレゼントとして下着を贈る。
ただし、現在は特に活動は行われていないとのこと。
2、「セプテンバーバレンタイン」
女性から別れ話を切り出してもよいとされる日らしい。
3、「コスモスの日」
プレゼントにコスモスを添えて交換し、お互いの愛を確認しあう日とのこと。
本当に、今日は不思議な日です。
男から愛を告白し、下着を贈り、相手の女性からは三行半を突きつけられる日。
片方では、お互いの愛を確認しあう日らしいですが、つまり愛が成り立っていないことを確認し合う日なのでしょうかね。
折角、記念日を定めるなら、前後左右を確認して決めて欲しいものです。
色んな記念日が存在するものです。
「国民の祝日に関する法律」定められた祝日、休日、記念日もありますが、民間団体や業界団体が定めたもの、自然発生的にいつの間にか出来ていた記念日も存在するものです。
そういうことで今日の記念日を調べていましたら、こんな面白い結果になりました。
1、「メンズバレンタインデー」
男性が女性に積極的に愛を表現する日らしい。
1991年に[http://www.nbf.or.jp 日本ボディファッション協会]が制定したもの。
2月14日のバレンタインデーにチョコレートを贈るのに対し、この日にはプレゼントとして下着を贈る。
ただし、現在は特に活動は行われていないとのこと。
2、「セプテンバーバレンタイン」
女性から別れ話を切り出してもよいとされる日らしい。
3、「コスモスの日」
プレゼントにコスモスを添えて交換し、お互いの愛を確認しあう日とのこと。
本当に、今日は不思議な日です。
男から愛を告白し、下着を贈り、相手の女性からは三行半を突きつけられる日。
片方では、お互いの愛を確認しあう日らしいですが、つまり愛が成り立っていないことを確認し合う日なのでしょうかね。
折角、記念日を定めるなら、前後左右を確認して決めて欲しいものです。
Posted by misterkei0918 at
19:28
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2010年09月13日
確実に秋は来た!!
確実に秋は来た!!
本当に秋は来るのだろうかと心配を本気でしたものです。
秋を通り越して、いきなり冬が来るなんて事は絶対ありえないことですし、分かっているのですが。
でも、台風8,9号が通り過ぎた途端に朝夕の様子に変化が出てきました。
ここ2,3日はもう秋の気配です。
日中はまだ暑い日々ですが、朝夕の気温は数度下がってきましたし、植物や雲、夜空の月の見え方にも確実に秋が反映しています。
11日の夜空をご覧になりましたか?
三日月?がはっきり見えて、しかも金星でしょうか、月のとんがりの先に見えていました。
こんなに澄み切った空に星が綺麗に見え始めた事は明らかに秋を象徴するような現象なのではないでしょうか。
銀杏(ぎんなん、イチョウの実)も大きく膨らんでいますし、黄色が増してきました。
栗の木々も大きな栗を育んでいますし、店頭に初物の栗が並んでいます。
夏を楽しませてくれたひまわりも、もう夏の終わりを告げています。
心なしか、うな垂れて、それを寂しげに思っているような気配です。
地球の大きな歴史から言えば、今の温暖化は問題ないとする方々もいますが、今年も暑さは果たしてどういう意味を持つものなのでしょうか。
来年も、記録的な暑さが再来するのでしょうか。
刺激的な夏、活動的な夏ではありますが、熱中症による多くの死者も出てしまいました。
暑さゆえでしょうか、水死をする人、
涼を求めてでしょうか、山登りの遭難者も記録を作ってしまいました。
物憂い秋の到来です。
或いは、読書、食欲、癒しの秋でしょうか。
猛暑で突かれきった心と体をリフレッシュして、来る厳しい冬、
数ヶ月で訪れる新年に、希望も新たに頑張ってみたいものです。
『山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬あしたもよろし ゆふべもよろし すなほに咲いて白い花なり。種田山頭火』
本当に秋は来るのだろうかと心配を本気でしたものです。
秋を通り越して、いきなり冬が来るなんて事は絶対ありえないことですし、分かっているのですが。
でも、台風8,9号が通り過ぎた途端に朝夕の様子に変化が出てきました。
ここ2,3日はもう秋の気配です。
日中はまだ暑い日々ですが、朝夕の気温は数度下がってきましたし、植物や雲、夜空の月の見え方にも確実に秋が反映しています。
11日の夜空をご覧になりましたか?
三日月?がはっきり見えて、しかも金星でしょうか、月のとんがりの先に見えていました。
こんなに澄み切った空に星が綺麗に見え始めた事は明らかに秋を象徴するような現象なのではないでしょうか。
銀杏(ぎんなん、イチョウの実)も大きく膨らんでいますし、黄色が増してきました。
栗の木々も大きな栗を育んでいますし、店頭に初物の栗が並んでいます。
夏を楽しませてくれたひまわりも、もう夏の終わりを告げています。
心なしか、うな垂れて、それを寂しげに思っているような気配です。
地球の大きな歴史から言えば、今の温暖化は問題ないとする方々もいますが、今年も暑さは果たしてどういう意味を持つものなのでしょうか。
来年も、記録的な暑さが再来するのでしょうか。
刺激的な夏、活動的な夏ではありますが、熱中症による多くの死者も出てしまいました。
暑さゆえでしょうか、水死をする人、
涼を求めてでしょうか、山登りの遭難者も記録を作ってしまいました。
物憂い秋の到来です。
或いは、読書、食欲、癒しの秋でしょうか。
猛暑で突かれきった心と体をリフレッシュして、来る厳しい冬、
数ヶ月で訪れる新年に、希望も新たに頑張ってみたいものです。
『山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬あしたもよろし ゆふべもよろし すなほに咲いて白い花なり。種田山頭火』
Posted by misterkei0918 at
07:46
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