しーまブログ 日記/一般福岡県 ブログがホームページに!しーま新機能のお知らせ! さばくる~イベント情報受付中!~

2010年03月31日

衆目にさらされる経験

衆目にさらされる経験

人は誰しも人前で醜態を見せたり、恥ずかしめにあうのは嫌なものです。

でも、人生の至る所で人前に出たり、或いは人前で話さなくてはいけない場面、大勢の人と接する時が出てくるものです。

そういう意味では昔のように大家族だった方が良かったかも知れませんね。

何かあると一族郎党が寄りあって、語り合い、お祝いをし、お祭りをしお互いの力を持ち寄って普請(ふしん)を行い、農作業や様々な活動、行動を共にしたものです。

そこでは目上の人から様々な知恵を授けられ、道徳を教わり、言葉使いや礼儀、行動規範をそれとなく学んだものです。

当然、大勢の中で厳しい叱声もあり、怒られることもしばしばです。

そのようにして集団の中での自分のあり方を確立し、衆目にもさらされたもの。

恥ずかしい思いも経験し、大勢の前で自分の意見を述べる事も幾度となく練習を重ね、意思伝達の方法も誰教わるとも無く教わっていくものでした。

また集団の中では、我儘も抑えることを余儀無くされますし勝手気ままも許されないものです。

私は一人っ子ですが、今思うと兄弟は数人いた方が良かったと思うようになりました。
親の愛情を一手に受けることは決してよくありません。

今の中国で行われた一人っ子政策が色んな歪や社会問題化していることを思えば、やはり兄弟親戚は多い方が人間の成長にはいい結果をもたらすようです。

それでないと私のような歪(いびつ)な人間が出来上がってしまいますし、その精か、いつも自問自答の日々です。

自分の言動に自信がないのでしょうね。

「それでいいのか」と。

小さい頃から衆目にさらされることは極めて貴重な経験であることが今頃になって理解できてきました。

私のような人間は、自ら飛び込んでその様な経験を積んだ方が良さそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 22:58Comments(0)

2010年03月31日

今、政治が面白い。勉強のチャンス!!

今、政治が面白い。勉強のチャンス!!

政治が面白いなどと言うと顰蹙を買いそうです。

今の政治は身近な生活に直結していますので、関心をもつのは当然ですし、マスコミも頻繁に取り上げますので身近なものになってきました。

昔の代議士先生は雲上の人で接点などありませんし、ましてや言葉を交わすなどありえないことでした。

日常的に登場する先生方を見ていると、つい身近な人、いつでも会える人、言葉の交わせる人に人になってきました。

総理大臣にしてもそうです。
天上の人でした。

昔は成れない人と分かっていても「大きくなったら総理大臣になる」等と言ったりしたもの。

重みがなくなったというか、距離感も近くなり、日常的に見ていると若しかすると自分にもあのくらいのことは出来そうだと思ってしまいます。

政権が変わって以来、また距離が縮まったようです。
言うことが二転三転しますし、素人政治のような気がしないでもありません。

興味の殆どが若しかするとまた以前と違うことを言うのではないかと訝う始末。

政治公約といえば、政党と選挙民、とりわけ投票してくれた人との厳然とした約束の筈なのに、マニュフェストと言い換えた途端に選挙のためなら「何でもあり」状態になってしまいました。

野党時代には徹底して非難中傷してきた政治資金の問題も以前よりもひどい状態になってきましたしロッキード事件で象徴的だった「自分は知らぬ存ぜぬ」の一点張りとなってしまいました。

地方選出の代議士の資金問題は表面化していないことが山積しているようです。

外交も変ですし、沖縄の方々には気の毒ですが基地問題も何となく可笑しく滑稽にも見えます。

社会保険も郵貯問題も・・・・・
子ども手当も、高校無料も方向性は理解できますが、もっと他の方法や予算措置を考えるのが先だったのではないでしょうか。

家計の収入と支出のバランス(そう難しいことではないと思いますが)に置き換えて考えても簡単な論理に思えますが。

大きな期待をして投票したことが、今となっては悔やまれて仕方ありません。
騙されたって感じです。

でも、考えてみたら分かりやすい(皮肉です)政治になってきましたので勉強の最大のチャンスです。
今を逃しては勉強の機会は来ないような気がしますので大いに利用しましょう。

本当はそんなのんびりしたことではいけませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 16:59Comments(0)

2010年03月31日

幸せには限度がある

幸せには限度がある

ゲゲゲの鬼太郎 水木しげるさんがテレビで語っておられました。
ユニークな方です。

「金持ちになったら幸せになるかと思った。
所が金持ちになっても幸せは2倍にも3倍にもならない」

「死んだらどうなるかというと・・・無でしょう」
「無は怖い、死ねば別世界があるかも知れないが生きてる人間が考える死は無であり怖い」

私どもも金持ちになると幸せになると思っていますが、その幾分かは事実ですよね。
だから躍起になって頑張っています。

所が、その内また幸せを感じなくなってしまいます。
当たり前になるか、これ以上に欲深くなるか。

或いは金持ちになったが故の苦労に悩まされ始めるのです。

人間の欲望は際限がありません。
ぬるま湯に浸かった蛙のように、実は足元から大変な自体が迫っているにも関わらず気づかないのです。

様々な手練手管を使って金持ちになる努力を重ねますが、所詮行ったり来たりの繰り返しです。

極端な場合は一歩進んで二歩下がる状態で、前に進んでいるつもりが実は飛んでもない事態に捕まっていたり、気持ちまでも荒んでいたりするものです。

ですから余り欲張らないで、人並みか或いは良くて少しだけ幸せくらいが良さそうです。



『幸せとは、与えられているものを感謝するところから始まります。
何かが足りないのではありません。
気がつかないのです。
幸せはいつも目の前に、感動はいつも足下に置かれています。
まずは、与えられているものを数えてみましょう』


『行動はいつも幸せをもたらすものではないが、行動なくしては幸せはない。ディスレーリ』
  


Posted by misterkei0918 at 15:33Comments(1)

2010年03月29日

競うことの大切さ

競うことの大切さ

競うことの大事さは幾度となく、書いてきたような気がします。
別に私自身が競うことが好きなわけでも有りませんが。

でも負けず嫌いではあります。

何か矛盾しているようですが、表面だって競争をすることだとか成績がどうとかは好きではありません。

負けず嫌いだからこそ、競争を避けるみたいなところはあるような気がします。

先日の冬季オリンピックでのフィギヤスケートなどは華麗ななかにも競う事の大事さを大いに感じたものです。

しかも二人ともそれぞれの存在の大切さは認識していたりして。

勉学でもそうです。

隣に競い合う人がいるのか、いないのか、
それだけで時間や中身が際立って充実しますし、かつお互いのレベルまで底上げがなされます。

同じクラスの中に、際立ったライバルがいたりするとそのクラスの全体としてのレベルまでが他のクラスより抜け出ていたりするものです。

学校全体を考えてもそうですし、広く考えるとそれで地域間格差が出たりもするものです。

例えば、内容は同じようなことを学んでいるのに都会の子供達と田舎の子供達。

全体としての成績もそうですが、トップクラスの子供の成績も都会の方が上位に来るものです。

競い合っている内は、相手がどうにかならないかと思ったりもするものですが、お互いが極める立場や環境になってくるとその存在そのものを美化したり、無くてはならない存在として認め合うもの。

競いあうまではいかなくてもお互いが切磋琢磨しあうような間柄、意識しあうような人がいると度合いや深みが出てくるように思います。
  


Posted by misterkei0918 at 19:27Comments(0)

2010年03月29日

悲しいことは続くものです、絶え間なく。

悲しいことは続くものです、絶え間なく。

最近は尊敬する先輩が唐突に亡くなられます。
今日も告別式に出かけます。

色々と人生を教えていただいた諸先輩を失うことは自分の人生の水先案内を失ったような気でも有り、先の不安を感じるものです。

元気で再び会えるはずの諸先輩達でした。

次回も会う約束をしているのに、それは果たして何だったのでしょうか。

人の命は儚いとは言います。
それにしても余りにも儚すぎのようにも思えます。

諸先輩が残したもの。

別け隔てなく人と付き合う努力を、
自分の事は後にしても、他人への施しを、

にこやかな表情、笑顔を忘れずに、
穏やかな気分、落ち着いた表情を、

辛抱強く、
目立たなくても、顕彰されなくても地道な努力を



最近、お亡くなりになった諸先輩達が多分私に言いたかったこと、或いはそんな事を教えてくれたのだろうと想像してみました。

人は人と相見(あいまみ)えることで人になるといいます。

教えていただいたことは数限りがありません。

取り立ててこれがこうなんだと、言葉や行動で示されたことは有りませんが、日頃の言動が即ち私への示唆であり忠告であり、教えでした。

また、私自身もそのような方々の様々な教えの中から今の自分が生み出されたと信じています。

悲しいこと、苦しいことは日常的に押し寄せてくるものです。
乗り越える力や勇気は、自分で備えたものでもなく、人々からそれとなく教えていただいたものであります。

私がくじける事は、結局教えに背くことであり、無視したことであり、そういう諸先輩の存在を否定することに繋がってしまいます。

人間としてそんな非礼なことは許されません。

生きる力は、人との交わりから頂くもの。
有り難いものです。
感謝!!、感謝!!

安らかに・・・・・
  


Posted by misterkei0918 at 11:12Comments(0)

2010年03月27日

今だけに執着しては駄目!!

今だけに執着しては駄目!!

ある方が「今が良ければいいんだ」と言われます。

果たしてそうなのでしょうか。
今が幸せならばいいのでしょうか。
今が健康なら、それでいいのでしょうか。

今、事業が上手く行っておればいいのでしょうか。

却ってそんな時に限って、先を見つめるべきでしょう。
砂上の楼閣とはよく言ったものです。
足元は何時までも磐石なものでは有りません。

備えあれば憂いなし。
今を噛み締めながらも一歩先を見つめる心のゆとりが安心安全を先延ばししてくれます。

今が不幸なら「今が良い」とは誰も言わないでしょう。
当然、そうなら今に執着はしないもの。

人生は刹那主義では、長続くする幸せは引き寄せることはできませんし、若しかすると寄りつこうともしないかも知れません。

逆に今は少し不幸せでも「損して得取れ」、
自分の立場を少々悪くしても人様への配慮を優先させたり、お役に立てる事に喜びに心を馳せることが大事なように思われます。

結局はそれが、「先を読む」事であり、先見の目があったという評価を下すことにもなるものです。

今は明日への布石。
明日のためには今日、腐心をすることが大事と思われます。

今日が良ければいいのではなく、明日のために今日こそ努力や精進を忘れてはいけません。

そんな事を思いながら「お前は果たして明日のために今日何をしたのか」、
自分に問いかけています。


『明日は必ず来る。
そして、明日は今日とは違う。
今日最強の企業といえども、未来に対する働きかけを行なっていなければ苦境に陥る。PFドラッカー』


『あなたが空しく生きた今日は、
昨日死んでいった者が、あれほど生きたいと願った明日。趙昌仁「カシコギ」』


『あなたが今日行う必要最小限のことは、
やがてあなたが出来る最大限のことになる。SMIファウンダー:ポールマイヤー』
  


Posted by misterkei0918 at 20:04Comments(1)

2010年03月27日

自分の人生を物語り化出来ると面白い

自分の人生を物語り化出来ると面白い

人生にはそんなゆとりも有りませんし、ましてや自分の人生を物語などに出来るとは一般的には思いませんよね。

でも出来ると面白いと思われませんか。

物語にするということ、物語になるということはただ平坦で退屈な人生など面白くも有りませんし誰も興味など示してはくれません。

面白い人生、
変化に富んだ人生、

浮き沈みの激しい人生、
波乱含み、紆余曲折の人生、

悲しみに打ちひしがれる人生、
他人とは比較ができないほど突拍子な人生、

生き方が際立って興味深い人生、
幸せの極みを経験した人生、

歴史に残るような業績、経歴の人生、
模範となるような生き方の人生、

悪童、悪行、裏街道を極めた人生、
奈落の底を経験した人生、



いろんな人生が有りますが、若しかするとその中の一つくらいは私でも経験することが出来るような気がしないでもありません。

穏やかな、変化のない人生よりは色んな事象にぶつかりながら、喘ぎながら歩んだ人生こそ或いは大いに面白いもののようです。

特に物語化するには。

後世の子供達にも、平凡な先祖よりは逞しく勇気を持って事にぶつかっていた先祖の方が良いように思います。

また、そんな先祖を抱えた子孫に限って逞しく生きるような気もしますが如何でしょうか。

波乱万丈な人生こそ物語化して興味を引きますし、読んで面白いものです。
めげないで、自信を持って自分なりの人生を作り上げてみたいものです。


『おもしろいことは、あちこちに転がっている。
努力してそれを探すと、人生はもっとおもしろくなる。
仕事についても似たようなことが言える。弘兼憲史「覚悟の法則」(PHP文庫)』


『いつまでも人を恨んでいてはならない。
あなたが恨んでいる人は、人生を楽しんでいる。ハケット』
  


Posted by misterkei0918 at 18:10Comments(0)

2010年03月26日

知らない事が多いのは逆に有難いこと

知らない事が多いのは逆に有難いこと

私に取って知らないことは恥ずかしいことでした。
知らない事柄、知らない分野の事を話すことは大変苦痛でしたし、恥ずかしい思いをしたものです。

所が考えてみましたら、実は知らない事を知るということは、
知らなくてはいけない分野が多いということであり、
知らないということを意識することは、知ることの多さを知ることであり。、

知ろうとする知識欲の現れであり、
知らないことの恥ずかしさを知り、

知ろうとする向上心の迸りであり、
人として当たり前の感情であります。

知らないことを恥ずかしいと思い、自分の行動に自制を加えてしまうか、
知らない事が多いということは知る事柄が膨大に存在することを認識することと捉えれば、こんない素晴らしいことはないのではないでしょうか。

知らない恥ずかしさを跳ね除けて、知ることへの情熱に転嫁することが人生に先々に素晴らしい展開を齎してくれることは間違いがありません。

却って自分の知識に溺れていることの方が危険性を孕んでいるものです。

謙虚に自分の非力や知識の浅さを自覚し、学ぶことの大切さを感じ、素直の行動する態度こそが基調なものです。


『知識を増やすほど、創造できる。ジュリアチャイルド(シェフ)』


『知識で最も重要なことは、得た知識を生かすことである。孔子』


『自分に対する尊敬、自分についての知識、自分に対する抑制、この三つだけが人生を導き、生活に絶対の力をもたらす。テニスン』


『「知は力なり」。とんでもない。
きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力をもっていない人もあるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の威力を揮う(ふるう)人もある。ショーペンハウエル』
  


Posted by misterkei0918 at 21:54Comments(0)

2010年03月26日

耳は馴らすことが大事

耳は馴らすことが大事

難しいことだからと敬遠をすることでますます興味を失ってしまいます。

考えを改めました。
知らないことだからとか敬遠をするとか、
知らないということを他人に知られることが恥ずかしいとか、

どうも自分の独りよがりな劣等意識がますます拍車をかけているような気がするのです。

知らないことは知らない、
理解ができていなくても人から教わることに躊躇しない。

どうもそれが足りませんでした。

分からないことであれば、繰り返し繰り返し教わればいいんです。
何度も何度も、教えて頂く内に
何度も何度も耳にする内に、それは不思議なものです。

理解が深まっていくんです。
耳は馴らすと、従順になっていくようです。

知識が浅いことに恥ずかしい思いをすることはなさそうです。
分からないことは分かりません!!
知らないことは知りません!!

素直に謙虚に行動することが結局は知識を深め、自信をつけていくようです。

分からなければ恥ずかしい思いなどすることはないのです。

難しい話でも、耳を馴らすことで自然と理解でできてきます。
自信を持って語ることも出来るものです。

人前で自信を持って語る人々も結局は繰り返し、繰り返し、何度も何度も反芻、反復の賜なのです。

自分が人以上に専門家になりたければ「耳は馴らすこと」が大いに助けになるようです。
  


Posted by misterkei0918 at 21:21Comments(0)

2010年03月23日

走り続けている

走り続けている

「自分の時間も持ってはどうですか」
「少し体を休めることも考えていいのでは?」
「自分の時間はあります?」

自分でも良く走っていると思っています。
体を動かすことが好きですし、何よりも喜んで頂けるのが最高です。

家内からは「そんなにお世話する事に一生懸命にならなくてもいいのでは?」や
「あなた一人が頑張らなくても!!」
などとも言われます。

そりゃ、嫌なことも数え切れない程ありますし、
時には癪(しゃく)にさわったり、嘆いたり、
悔しい思いに駆られたりもするものです。

でも、最後はやはり笑顔に救われるんですね。

有難うって言って戴けなくても、笑顔一つが心を和ませてくれます。

いつまでこの状態を継続できるかは神様にもわかりはしませんが、体が動くうちはということでしょうか。

特にお世話事は手を抜くと、瞬く間に統制が取れなかったり、意思の疎通を欠いたり、お世話される人々は敏感に反応するものです。

会社のこともそうです。
社員以上に心身共に全精力を注ぎ込むことが大事です。

社員が休んでいる時には、社長にとっては休み時間ではありません。
そんな時ほど策を巡らし、神経を擦り減らすべきなのです。

人や社会のために尽くすということはそんな覚悟が必要な気がします。

「燃え尽きるまで走り続ける」覚悟。
  


Posted by misterkei0918 at 19:18Comments(0)

2010年03月21日

やはり勉強・努力した人に軍配

やはり勉強・努力した人に軍配

似た様なタイトルで何度か書いてきましたが、どうも人生は頑張った人、勉強した人、努力した人に軍配が上がるように出来ていると思うのです。

じゃ、ハンディを背負った人はどうなるのかと問い返したくなりますが、誰も全ての分野で満遍なく漏れ無く軍配を手にすることはできません。

世の中を見わたせば一目瞭然です。

私も小さいハンディを背負った人間の一人ですが、それが為に卑屈になったり、最初から諦めたり、悲しい日々を過ごしていたものです。

でもそれぞれに、頑張れる分野が存在することに気づいたのです。

それは最初から何なのかは誰にもわかりませんし、世の中そんなに甘くもありません。
かつ、だからこそ振り返ってみて人生って面白いのです。

最初から何をすれば、幸せになるとか、幾らかの収入に巡り会えるとか、素晴らしい伴侶や友人に恵まれていると分かっていたら決して豊かな人生にはなりません。

怠惰でそれこそ退屈極まりない、堕落の人生になってしまいます。

足元が定まらない、先の見えない人生であればこそのことです。

極めようと、
人に負けまいと、
抜きん出ようと、
豊かな未来を掴もうと、
素晴らしい人間関係を構築しようと、
人の幸せのために、
賞賛される人生を造るために・・・・・

人一倍に限りを尽くして頑張った人にその報いが訪れるように出来ています。

そりゃ、不幸にして努力の結果が報われなかったり、挫折を経験したりすることも多いものです。

それもそうです、
それで成功が手に入るなら、こんな簡単なことはありません。

それでも尚、努力を強いるのです。
精進を求めてくるのです。

人生にはこれが最良だとか、ここが行き止まりということはありません。
際限がないように思えるのです。

幸せに辿り着いた人が果たしてそれが究極の幸せなどと思うことはありません。
それから、次を求める旅路がスタートです。

持ち合わせた環境の中で、創意工夫を繰り返し、自分へも変化を求めながら最大限の限りと尽くすこと、わが道を開く努力を自ら求め続けることが大事なようです。

その時々で束の間に訪れる幸せを感じる事を忘れてはいけないようです。


『愚か者は、幸福がどこか遠いところにあると思いこんでいる。
利口者は幸福を足元で育てている。ジェームズオッペンハイム』


『運命は、われわれに幸福も不幸も与えない。
ただその素材と種子を提供するだけだ。
それを、われわれよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。
われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。モンテーニュ』
  


Posted by misterkei0918 at 22:41Comments(0)

2010年03月21日

先程、FM放送の生出演を終えました

先程、FM放送の生出演を終えました

先日、故郷の新聞に掲載されたことをブログしましたが、それが縁で今度はFM放送の生番組に出ることになりました。

先程、終わったところです。

過去何回かラジオ、テレビに出演しましたので緊張はしませんが聞いておられる方々に何か示唆するものが無くてはいけませんし、放送するFM局の思惑に沿った形で発言が出来るかが焦点でしょう。

話したことは殆んど覚えてはおりませんが、無難にこなしたような気もしますし、お役に立てたのではないかと思っております。

地デジ化に伴って地域の放送を担うFM局が各地でオープンされていますが、素晴らしいコミュニティの形成に頑張って欲しいものです。

特にラジオが果たす役割は、移動する方々、とりわけ車を運転する方にとってはなくてはならないものとなってきましたし、特に災害時に果たす役割は大変なものがあります。

これから、とみにインターネット放送の浸透が進むと思われます。
そうなると益々持って離れることの出来ないメディアになることになるでしょう。

聞くだけのラジオだけでなく、時々は自分でも情報発信のできる立場にもなりたいものです。
  


Posted by misterkei0918 at 14:41Comments(0)

2010年03月21日

知らぬ間に新聞一面の記事に

知らぬ間に新聞一面の記事に

12日の新聞朝刊、第1面の記事に掲載されていた様です。

ローカル新聞ですがまさか記事になるとも思っていませんでしたし、ましてや一面に掲載されるなど思いもよらないことでした。

記事の内容は、
私が故郷の会のお世話を長きに亘ってお世話をし会長をしていること、

故郷の出身者として、経営に頑張っていること、
故郷との接点や今後・・・・・

掲載を知らないのは私だけで、故郷にいる多くの友人や知人から電話を頂きました。

「故郷は遠きに在りて思うもの」と言います。
あまり遠いにも困りものですが。

只でさえ忙しいのにどうしてそんなに故郷のために尽くすのですか?
と良く質問されます。

私がしなくても誰かがすることなのでしょうが、私の理由はこうです。

1、 自分のDNAがそこに存在すること。
2、 ただ、生まれただけでなく心の隅々まで故郷の色に染まっていること。
3、 文化、伝統、風土、故郷の長い深い歴史の鼓動まで受け継いでいること。


だからといって故郷に帰って住もうとは思いません。
だって今の私にとっての故郷は「故郷は遠きに在りて思うもの」になってしまいました。

仕事も家族も友人や知人、社会活動の場も全て現実から離れることはできなくなってしまいました。

故郷から離れて暮らす人々は限りなく多いものです。
或いは都会人の殆んどの人がそうだと言っても過言ではないでしょう。

それでいいのかも知れませんね。
故郷を忘れないで、与られた環境の中で粉骨砕身、努力に余念がないことが。

しかも健康で!!
  


Posted by misterkei0918 at 13:54Comments(0)

2010年03月20日

悲喜こもごもの桜、愛別離苦の季節

悲喜こもごもの桜、愛別離苦の季節

最近は桜の季節も早くなってしまいました。

20年前くらいの記憶では、小さい子供達が入学式で始めて小学校の正門をくぐる時、はらはらと落ちる桜の花びらを見たものでした。

今では3月の中旬に開花宣言、25日前後には満開になってしまいます。

私どもが毎年行う約400名位の参加者の花見も数十年も前から4月の5、6日だったんです。
それでもまだ肌寒くて、ドラム缶に火を入れて震えながら花見をした記憶が鮮明に残っています。

その大人数の花見も今年は3月30日に変更を致しました。

桜は私どもに様々な思いを巡らしてくれます。
楽しい思い出もそうですが、人生は愛別離苦。

桜の季節は新しい人に巡り合う季節でもありますが、
苦しい別れを経験する季節でもあります。

大切なのは、その別れをどのような経験として捉えるかで人生が動いたりもするものです。

また、人生の先々を決定づけたりもするもの。

悲しみや苦しみはその傍らに幸せが潜んでいるものです。

悲しみや苦しみはその乗り越え方が明日の自分の土台を形作っていると思われるのです。

人は誰しも一つ一つの悲しみや苦しみを乗り越えながら、幸せづくりを勤しんでいるものです。

他人は幸せそうに見えるもの。
あなたの傍の恋人も極めて幸せそうに見えるはずです。

でもそうではありません。
想像を超える悶々とした思いや嫉妬、猜疑心、将来への不安、時として眠れない夜、心を繋ぎ止めるための悲しいくらいの苦しみを背負っているものです。

人は生病老死の四苦を背負っているとも言います。
また、愛別離苦を経験しない日々はないものです。

逆にあるから人生は意義深く、喜びも不快にかも知れませんよ。

松田聖子さんの「制服」の歌詞の中に
「桜が枝に咲く頃は 違う世界で ひとりぼっち ひとりぼっち 生きてる」
「失うとき初めて まぶしかったときを知るの」

を発見しました。

今は卒業式のシーズン。
企業では異動、転勤のシーズンでもあります。

伴なう悲しみや苦しみを感じる自分の傍らで、あと一人の自分が見つめているかも知れません。
「どのような対処の仕方をするか」を。


『明日ありと思ふ心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは。親鸞』


『時にあわば散るもめでたし桜花(さくらばな)
めずるは花のさかりのみかは。幕末の兵学者 佐久間象山』
  


Posted by misterkei0918 at 18:25Comments(0)

2010年03月19日

その会社を知りたければ、社長を観察しろ

その会社を知りたければ、社長を観察しろ

中国のことわざに
『家を買う時は梁を見る。
妻をとる時はその母親を見よ』という言葉が入ります。

私ども経営者は喉から手が出るほど受注は欲しいものですが、世の中そんなに甘いものではありません。

特に中小零細企業は自社にとって都合にいいお客様が揃うわけでもないのです。

大企業になると販売網がしっかりしていて、中小零細とはその付近が全く異なるものです。

取引先に体質や倫理感の存在はその会社の社長を見れば大よそ判断がつくものです。

いい加減な社長の会社は殆どがいい加減。
中にはそんな社長だからこそ、社員がしっかりしているところが無い訳ではありませんが総じて予想通りです。

家庭でもそうですよね。
親父が放蕩、野蛮だったりすると大よそそんな家庭だったり、子供がいたりするものです。
鳶が鷹を生む事実もありますが。


車の窓から缶やガムを放り投げる父親。
殆んどの子供が見習ってしまいます。
子供に自分の感情のままにぶつかる父親。
その子供も比較的暴力に訴える子供に育ってしまうものです。

穏やかな家庭に育った子供はそれなりに穏やかな子供。
粗雑な企業に育つ若者はやはり粗雑傾向がどうしてもあるもの。

家庭でも、企業でもリードをしないといけない立場の人はそれなりに姿勢を正して、後に続く人々が自分に知らずになびいていたり、影響を及ぼしていることをを意識しないといけないのかも知れませんね。

何か恐ろしい感じもしますが責任も感じてしまいます。
  


Posted by misterkei0918 at 17:30Comments(0)

2010年03月19日

やれそうにないことこそやってみる価値がある

やれそうにないことこそやってみる価値がある

やりたくないことは出来ればしない方がいいかも知れませんね。
逆にやりたい事は大いにやってみる価値はあるものです。

でも、自分にやれそうもないこと、
失敗しそうなこと、
手が届きそうもないこと、
(或いはあと少しで手が届きそう、でも躊躇してしまう事)

是非、やってみる価値はあります。
やってみて失敗したとしてもそれはそれ。
成功しなくても大きな経験になりますし、次の踏み台になるものです。

また、失敗と思わない方がいいかも知れませんね。
素晴らしい体験、経験、実践を積んだと思えばいいわけですから。

周りがどのように思うだろうかなど人の目を気にすること、
失敗するときの姿を思い浮かべる癖・・・・・

などなど。

実はどうでもいいことです。
人に危害を加えたり、損害を及ぼしたり、人の尊厳を損なうことであれば別ですが。

笑われてもいいんです。
見返してやる勇気に振り替えましょう。

やれそうにないことが実現した時の自分の姿を思い浮かべることこそが大事です。
周りから賞賛される姿、
幸せに浸りきっている自分、
笑顔に次の勇気を託している自分・・・・・

躊躇して折角の機会を失うよりは一歩踏み出す勇気こそが自分の新たな人生を作り出す原動力になるものです。

すると不思議なものです。
躊躇する気持ち、萎えていた気分がいつの間にか吹き飛んだりするものですよ。


『恐れている物事をやってみなさい。
そうすれば恐怖心は、消える。エマーソン』
  


Posted by misterkei0918 at 17:08Comments(0)

2010年03月19日

人は天から選ばれてこの世に来た

人は天から選ばれてこの世に来た

そのように思わないと、日常的に悲しい出来事に包まれる人生は辛いものがあります。

どんなに貧しい境遇であっても、
健康に恵まれない日々であっても・・・・・

自分の人生を嘆いたり、悔やんだり、
或いはこの世に生まれ出た事にさえ、苦しみの根源を見つけてしまいます。

でも、「人は天から選ばれてこの世に来た」、その事を思うとき、一時的にでも心は安らぎを覚え、安堵の時を感じ、未来へ生きることに一縷の望みを見出そうと努めるものです。

私の場合はそうです。
人によっては、それぞれに異なった考えがあるかも知れませんね。

ということは、自分に取って心やすらぐ言葉や思い入れを作っておいて色んな機会を作って常に反芻することが大事に思えます。

選ばれてこの世に来ているということは何処かしら他人にはないものを与えられているということでもあり、自分らしさを持っているということでもあります。

自分に優位性のない、常に劣等意識の付き纏う人生は嫌ですし、辛いものがあります。

常に「選ばれてこの世に来ている」という気概を持って、前向きに力強く生きていたいものです。

自分の何処を見ても、人よりは劣っている、誰よりも優れたものはないと悲嘆に来れる日々、落ち込んでいる自分を見つめるのは嫌なもの。

「選ばれてこの世に来ている!!」
「選ばれてこの世に来ている!!」

或いは、「自分も人が持ち合わせていないものを持っている!!」
「自分も人が持ち合わせていないものを持っている!!」

と事ある度に口に出して唱えてみるのも良さそうです。
人生が変わります。
  


Posted by misterkei0918 at 16:31Comments(0)

2010年03月17日

人生は与られるもの

人生は与られるもの

自分の人生は自分で築きあげた様な気になりがちですが、どうもそうではなさそうです。

この世に生まれ落ちた時から、いいえ生まれ落ちる以前、つまりこの世に生を受ける事になって以来、私の人生は私のものでもなく、私が作ったものでもないようです。

人間はつい、思い上がりが強いものです。
自分の能力やあり方を過大評価し、自己過信の虜になってしまうように出来ています。

若し自分が成功したとか、幾らか裕福な生活が出来るとか、社会的地位が向上したとかしたとき、それは決して自分の力が左右したのではなく、多くは周りの人々・・・・・

妻、子供、親、強大そして家族であり、
友人であり、
恩師、先輩・先達であり、

ライバルであり、
仕事仲間であり、

飲み仲間や遊び仲間、
お客様、得意先、仕入れ業者・・・

つい気づかないところで多くの人々に支えられ、助けられ、持ち上げて頂いたお陰様のなせる技であります。

よもよも、自分の力を過信する余り、人を蔑ろにする行動や心のあり方は、いずれその人に情のない仕打ちをもたらしたりもするものです。

人生はやはりお陰様を感じつつ、謙虚に真摯に継続的に努めることが幸せを呼び込み、長続きさせる方策のようです。

人生は人様が与えてくれたもの、
人生は人の幸せを強く請い願うことから我が幸せが齎されるようです。

また、自分は人様に幸せを齎すことが出来るなどと思い上がった考えも余り良くはなさそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 23:49Comments(0)

2010年03月15日

また、涙を流してしまいました

また、涙を流してしまいました

先月2月の26日は親しくして頂いていた先輩の告別式でした。
それは突然の知らせでした。

2月2日には、一緒に杯を傾けて、数人の親しい方々と時間を作って飲む約束だったのです。
「○○君、その音頭を取ってくれ」との依頼をされたのもその先輩でした。

昨年の夏から秋にかけて体調を崩されたことは承知をしていたものです。

それまでの約10年間くらい、毎月2回の集まりには必ず一緒にビールのジョッキを片向け、二次会、三次会に私の姿が見えないと、どこまでも携帯電話で探して頂いたものです。

お孫さんをも可愛がっておられたご様子で、告別式でお別れの弔辞を述べる姿には胸打たれました。

お孫さんとメールのやりとりをしたいと言うことで、ノートパソコンも一緒に選んであげましたし、年賀状の季節にはどうしてもパソコンで出したいと言うことで私の会社へ数回お見えにもなられたものです。

社員にもお願いをして、全くの素人だから懇切丁寧に教えて欲しいと頼んでもおいたものです。

実直なお方で、多くの方々の信頼もあり、楽しくユーモアがあって中洲のお姉さん達にも笑顔を振りまいておられたものでした。

大企業で働かられた方ですので、それなりの品格と素養も備えておられその矍鑠(かくしゃく)としたご様子は洗練された老紳士と言ったところでした。

告別式の最後まで涙は流さないように我慢をしておりましたが、最後のお見送りをされる奥様にご挨拶をした途端にこらえた涙が一挙に溢れでてしまいました。

人の命はいつ果てるとも知れないものです。
健康であっても突然の事故やトラブル、事件に遭遇することもあり、そうでなくても命の限りは誰にも分からないものです。

幾らかの準備は必要かも知れませんね。
自分にもそんな時が訪れること、襲ってくること。

一人一人、親しい方々がこの世から去っていかれることは悲しいことです。
逆に自分に訪れるこの時をどのような形で迎えるのか、思い描くことも満更(まんざら)いけないことではなさそうですね。


『明日死ぬつもりで生きなさい。
永遠に生きるつもりで学びなさい。マハトマガンジー』


『あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者が、
あれほど生きたいと願った明日。趙昌仁「カシコギ」』


『あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
きみよ、生きよ。生きたほうがよい。
命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。ブッダ』
  


Posted by misterkei0918 at 23:58Comments(1)

2010年03月15日

うるさい!!

うるさい!!

福岡県西方沖地震から5年目を経過しました。

ついこの間のような気がします。
2005年3月20日、午前10時53分。マグニチュード7.0震度6弱。

よもやの地震です。
まさか地震が少ないと言われたこの福岡での地震でした。
以前は関東地方に集中する大型コンピューターの設置場所は福岡が最適だとも言われたのです。

私は福岡市中央区と南区、城南区の境にある鴻巣山(山と言う程ではなく実際は丘)に南側から車で登っている最中のことでした。

なにか突風に煽られたような一瞬の動きの中で果たして何が起きたのか、理解が出来ない状態でした。
車の両輪が瞬間的にパンクしたような衝撃です。

それでも地震とは思いもよりませんでした。
数分後の長男から「親父、地震だよ」と言われて納得する始末でした。

車に乗っていなければ咄嗟に理解出来たでしょうに。

13日は、それを記念して福岡市内中心部を見事なくらいに横切る警固断層を理解して貰いたい、そして防災意識を高めようとの思いから福岡市と九大が「警固断層に関する防災講演会」を開催されました。

皆さん熱心です。
当たり前といえば当たり前、命と財産が掛かっているわけですから皆さん真剣です。

多くの方々が参加されていました。
希望としてはもう少し若い方々が参加されると良かったのですが。

延々と4時間にも及ぶ研究成果の講演会でした。

ちょうど中盤に差し掛かった頃でしょうか。
私の左横、通路を挟んで歳の頃70歳位でしょうか。

二人のおばあさんが列んで座っていました。
講演者の話に飽きたのか、話が難しくなってきましたので興味を失ったのか、
最初から真剣に聞く気がなかったのか・・・・・・

二人で全く関係のない話で終始しています。
周りの方々もうるさいのでしょう。

二人の方に向かって何となく意思表示をしてますが、二人は全く知らぬ存ぜぬ。
何時まで経っても止める気配がありません。

私も二度三度は横を向いて、意思表示をしますが二人で一生懸命にムダ話です。

本人達にはムダ話では無いのでしょうね。

周りの方々が口に出して言わないのであればという思いで「うるさい!!」と一括しました。

そんなに大きい声ではありません。
周りの方々や講演者もおられるわけですから、二人に聞こえる程度の声です。

性格的にはそんな事は余りしたくない性分ですが。

でもすっきりした気持ちでした。
人に注意をしたり小言を言うと、それ自体は正しいと評価されることでも何となく後味が良くないものですが。

そのお二方はどんなお気持ちだったのでしょうかね。
余計なお世話と思っているのでしょうか。

でもしっかり反省はして欲しいものです。
歳を重ねると言うことはそんなことではないでしょうか。
  


Posted by misterkei0918 at 23:25Comments(0)