2011年01月31日
一球入魂、そして一言入魂
一球入魂、そして一言入魂
命を掛けるほどに、魂の限りを打ち込む人は人並み外れた能力を備えるものです。
野球のイチローがそうです。
彼は極度の緊張に囲まれながらも、目的達成のために命の限り、やれる事の全てを人並み以上に努力をしていると言います。
その事を自慢げに言う事は決してありません。
しかも、そんな姿など人の目に晒すことなどないのです。
私どもがマスコミで垣間見るイチローは、只の一般選手を演じているに過ぎないのです。
人知れず、目に触れることなく、時間を惜しんで自らを奮い立たせているのです。
ノーベル賞を貰った方々が、寝る時間を惜しんでまで研究に没頭し、365日研究の現場から離れる事はないと言います。
例え体は違う場所にあっても、神経の大半は研究の場に残っているものです。
中には「偶然の産物ですよ」などと、自らを揶揄中傷する人もいますが決してそんな事はないのです。
そのように言わせるほどに真剣さが鋭くなるものです。
際立った人でなくても、物事を上手に成就させる人は人知れず、目に触れることなく、あくせくとおしみなくあらゆるものに挑戦的で勤しんでいるものです。
魂を傾ける。
一意専心とも言います。
一心不乱とも。
どうも物事に魂を傾ける人は、心も一途であり、比較的無垢で、人として尊敬すべき心をお持ちのようにも見えます。
そして、一言入魂。
言葉は「ことのは」。
そして、口をついて出る刃(やいば)です。
人の心をまで、切り開き、砕き、狂わせる力を持っています。
一言が人生を断ち切り、路頭に迷わせることだってしばしばです。
言葉は、出す前に一度は自分の胸に戻して反響させ、響きを確かめてから相手に捧げる物のようです。
魂を込めた言葉は、美しい響きを伴って相手の心に共鳴を呼ぶもの。
目が心の窓であるように、
言葉は、お互いの心を響かせる寄せては返す波長のようなものかも。
私自身も多くの方々に、言葉による暴力も幾多と奮って来たような気がしないでもありません。
ここいらで、魂を入れ替えて「一言入魂」の思いを改めて問い返す必要がありそうです。
『あらあらしい毒づいた言葉は、根拠の弱いものであることが多い。ビクトルユーゴー』
『最も大切なことはこころのもち方よりも、言葉の使い方です。山崎房一』
『桶の水より、親切な言葉をかけるほうが、火はよく消える。セルバンテス』
『優しい言葉一つで冬中暖かい。ことわざ』
『言葉に打たれぬ者は、杖で打っても効き目がない。ギリシアのことわざ』
命を掛けるほどに、魂の限りを打ち込む人は人並み外れた能力を備えるものです。
野球のイチローがそうです。
彼は極度の緊張に囲まれながらも、目的達成のために命の限り、やれる事の全てを人並み以上に努力をしていると言います。
その事を自慢げに言う事は決してありません。
しかも、そんな姿など人の目に晒すことなどないのです。
私どもがマスコミで垣間見るイチローは、只の一般選手を演じているに過ぎないのです。
人知れず、目に触れることなく、時間を惜しんで自らを奮い立たせているのです。
ノーベル賞を貰った方々が、寝る時間を惜しんでまで研究に没頭し、365日研究の現場から離れる事はないと言います。
例え体は違う場所にあっても、神経の大半は研究の場に残っているものです。
中には「偶然の産物ですよ」などと、自らを揶揄中傷する人もいますが決してそんな事はないのです。
そのように言わせるほどに真剣さが鋭くなるものです。
際立った人でなくても、物事を上手に成就させる人は人知れず、目に触れることなく、あくせくとおしみなくあらゆるものに挑戦的で勤しんでいるものです。
魂を傾ける。
一意専心とも言います。
一心不乱とも。
どうも物事に魂を傾ける人は、心も一途であり、比較的無垢で、人として尊敬すべき心をお持ちのようにも見えます。
そして、一言入魂。
言葉は「ことのは」。
そして、口をついて出る刃(やいば)です。
人の心をまで、切り開き、砕き、狂わせる力を持っています。
一言が人生を断ち切り、路頭に迷わせることだってしばしばです。
言葉は、出す前に一度は自分の胸に戻して反響させ、響きを確かめてから相手に捧げる物のようです。
魂を込めた言葉は、美しい響きを伴って相手の心に共鳴を呼ぶもの。
目が心の窓であるように、
言葉は、お互いの心を響かせる寄せては返す波長のようなものかも。
私自身も多くの方々に、言葉による暴力も幾多と奮って来たような気がしないでもありません。
ここいらで、魂を入れ替えて「一言入魂」の思いを改めて問い返す必要がありそうです。
『あらあらしい毒づいた言葉は、根拠の弱いものであることが多い。ビクトルユーゴー』
『最も大切なことはこころのもち方よりも、言葉の使い方です。山崎房一』
『桶の水より、親切な言葉をかけるほうが、火はよく消える。セルバンテス』
『優しい言葉一つで冬中暖かい。ことわざ』
『言葉に打たれぬ者は、杖で打っても効き目がない。ギリシアのことわざ』
Posted by misterkei0918 at
23:13
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2011年01月31日
世界は果たして大丈夫?
世界は果たして大丈夫?
中東の国々で何かしら、見過ごせない事態が進展しています。
私どもにとっては、まさかの事態です。
チュニジアで始まった政府への抗議活動は、アルジェリア、そしてエジプトと。
どうも政府に不満を持つ人々のネット上の動きが、「民主化を求める」というリアルな暴動へと発展したようですが、何処の国にとっては見過ごせない、神経を尖らす問題です。
ピラミッドやスフィンクスのイメージで観光立国に見えたエジプトがまさかこんな事態になろうとは想像もできませんでした。
明らかに現政権の転覆を謀ったもので、これに宗教的な過激な集団が加わったら、収集のつかない事態を招きそうです。
多分、ネットをある意味封鎖したり、閲覧を禁止したり、削除している中国などにとっては神経を逆なでする事態ではないでしょうか。
世界は果たして大丈夫なのでしょうか。
新興国はバブルが進行していると聞きますし、日本の国債は格下げになるし。
軍事力を恐ろしい程に増強している国、
核開発を公然と豪語する国、
明らかな他国の領土に足を踏み込もうとする国、
自国の資源を、脅しに使う国、
国民の貧困をひた隠しにする国、
自国の貿易の利益優先だけを考えている国、
人権に配慮が足らない国、
破たん寸前の国を抱えるユーロ圏、
・
・
どうも世界や世の中はあらぬ方向に進んでいるような気がしてたまらないのです。
ネット全盛、万能の社会もいつか破たんがきそうな気がするのです。
インターネットやクラウドの世界が、いつまで維持できるか、或いは自然現象や大きな環境の瞬時の変化で全てが機能しなくなったり、壊滅的な破壊を受けたりするような事態はないのでしょうか。
或いは、そんなことを意図的に目論んで行動を起こそうと考えている人間がいないとは言えません。
便利さとは裏腹に、何処かに潜んでいる悪魔がいるような気がします。
そうでない事を祈るばかりですが。
中東の国々で何かしら、見過ごせない事態が進展しています。
私どもにとっては、まさかの事態です。
チュニジアで始まった政府への抗議活動は、アルジェリア、そしてエジプトと。
どうも政府に不満を持つ人々のネット上の動きが、「民主化を求める」というリアルな暴動へと発展したようですが、何処の国にとっては見過ごせない、神経を尖らす問題です。
ピラミッドやスフィンクスのイメージで観光立国に見えたエジプトがまさかこんな事態になろうとは想像もできませんでした。
明らかに現政権の転覆を謀ったもので、これに宗教的な過激な集団が加わったら、収集のつかない事態を招きそうです。
多分、ネットをある意味封鎖したり、閲覧を禁止したり、削除している中国などにとっては神経を逆なでする事態ではないでしょうか。
世界は果たして大丈夫なのでしょうか。
新興国はバブルが進行していると聞きますし、日本の国債は格下げになるし。
軍事力を恐ろしい程に増強している国、
核開発を公然と豪語する国、
明らかな他国の領土に足を踏み込もうとする国、
自国の資源を、脅しに使う国、
国民の貧困をひた隠しにする国、
自国の貿易の利益優先だけを考えている国、
人権に配慮が足らない国、
破たん寸前の国を抱えるユーロ圏、
・
・
どうも世界や世の中はあらぬ方向に進んでいるような気がしてたまらないのです。
ネット全盛、万能の社会もいつか破たんがきそうな気がするのです。
インターネットやクラウドの世界が、いつまで維持できるか、或いは自然現象や大きな環境の瞬時の変化で全てが機能しなくなったり、壊滅的な破壊を受けたりするような事態はないのでしょうか。
或いは、そんなことを意図的に目論んで行動を起こそうと考えている人間がいないとは言えません。
便利さとは裏腹に、何処かに潜んでいる悪魔がいるような気がします。
そうでない事を祈るばかりですが。
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18:17
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2011年01月31日
学習意欲は旺盛でも、時間がね
学習意欲は旺盛でも、時間がね
最近、学ぶ事の楽しさを知ってしまいました。
人から教えて頂くことに若干の抵抗があったりもするものです。
「そんな事教えて頂かなくても分かっている!!」
「時間を割くほどの事ではない!!」
「自分の方が分かっている!!」
・
・
などなど。
所が人は色んな知識を持っているものです。
或いは私どもの知らない知識を持っている人がいるものです。
また、知っておいた方がいいと思われる事はどうも山ほど存在することに気づいてしまいました。
人から、知らない知識を教えて頂く事の心地良さと言うか、
自らが素直な気持ちで対処する事が大事な事も知ってしまいました。
知り得た知識は、自慢するものでもなく、ひけらかすものでもなく、ただ自分の胸の内に大事にしまっておく事が大事ですよね。
一旦緩急あった時や、人間関係の潤滑材として役立ちそうな時や必要な時に、必要なだけ捻り出す程度で良さそうです。
これ見よがしは鼻について嫌なもの。
所が、知識の習得の思いや学習意欲は盛んになっても問題は時間なんです。
従来の行事や会議は、そのままでその上に余分に載せる訳ですから大変です。
時間を効率よく使う工夫を編み出すか、新しい時間を作るか、従来の時間を削減するか。
新しい時間を作りだす以外にありませんから、当然長時間労働ではありませんが、早朝から動き出すか、夜半まで頑張るか。
新しい知識が頂けるなら、その程度の苦労は厭わない気持ちが働かないといけません。
そんな思いが先走らないと、新しい時間の創造や知識の習得は難しいかもしれませんね。
特に、私のような馬齢を重ねた人間には。
また、不思議なもので漠然と学ぶよりは多忙な中から捻出時間を割いて学んだ方が知識がより実践的で有用なものとなるようにも思えます。
遅きに失したような気がしないでもないけど、今日も何か学ばないとね。
『我々は学校のためにではなく人生のために学習すべきである。セネカ』
『僕が冒険を好むのは事実だけど、冒険をやる前の学習が一番魅力的なんだ。リチャードブランソン』
最近、学ぶ事の楽しさを知ってしまいました。
人から教えて頂くことに若干の抵抗があったりもするものです。
「そんな事教えて頂かなくても分かっている!!」
「時間を割くほどの事ではない!!」
「自分の方が分かっている!!」
・
・
などなど。
所が人は色んな知識を持っているものです。
或いは私どもの知らない知識を持っている人がいるものです。
また、知っておいた方がいいと思われる事はどうも山ほど存在することに気づいてしまいました。
人から、知らない知識を教えて頂く事の心地良さと言うか、
自らが素直な気持ちで対処する事が大事な事も知ってしまいました。
知り得た知識は、自慢するものでもなく、ひけらかすものでもなく、ただ自分の胸の内に大事にしまっておく事が大事ですよね。
一旦緩急あった時や、人間関係の潤滑材として役立ちそうな時や必要な時に、必要なだけ捻り出す程度で良さそうです。
これ見よがしは鼻について嫌なもの。
所が、知識の習得の思いや学習意欲は盛んになっても問題は時間なんです。
従来の行事や会議は、そのままでその上に余分に載せる訳ですから大変です。
時間を効率よく使う工夫を編み出すか、新しい時間を作るか、従来の時間を削減するか。
新しい時間を作りだす以外にありませんから、当然長時間労働ではありませんが、早朝から動き出すか、夜半まで頑張るか。
新しい知識が頂けるなら、その程度の苦労は厭わない気持ちが働かないといけません。
そんな思いが先走らないと、新しい時間の創造や知識の習得は難しいかもしれませんね。
特に、私のような馬齢を重ねた人間には。
また、不思議なもので漠然と学ぶよりは多忙な中から捻出時間を割いて学んだ方が知識がより実践的で有用なものとなるようにも思えます。
遅きに失したような気がしないでもないけど、今日も何か学ばないとね。
『我々は学校のためにではなく人生のために学習すべきである。セネカ』
『僕が冒険を好むのは事実だけど、冒険をやる前の学習が一番魅力的なんだ。リチャードブランソン』
Posted by misterkei0918 at
16:12
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2011年01月31日
人には鏡が必要、特に歴史的な鏡が!!
人には鏡が必要、特に歴史的な鏡が!!
いつかぜひ機会を作ってお話を聞きたい方がおられたのですが、29日にやっと実現いたしました。
やはり期待以上のお話で感激を致しました。
現役の高等学校の先生で歴史を教えておられる方です。
そのように申し上げたら、或いは福岡の方でしたらご存じの方が多いかもしれませんね。
話が、歴史にまつわる事ではありますが、
歴史を紐とく事の大切さや学ぶ事の重要性を教えて下さいました。
よく「経験から学ぶな。歴史から学べ」とは言われるものです。
経験から学ぶものがないという訳ではなく、歴史からはより多くのものをより深く、真実に近い形で学べるといういうことではないでしょうか。
歴史は長い年月の中で、大切な部分だけがエキスのように残されたものであり、或いは中にはより重要さや大切さを強調する意味で付加された部分や言葉がちりばめられているものです。
私どもの経験は、まだ生々しさが残っており、洗練されているものでもありませんし、より綺麗に美化されている部分が如何にも真実ものように残っているものです。
また、自分の都合にいいように、修飾されたりもするものです。
私どもは、
特に「私は」と言い変えた方がいいかもしれませんが、歴史を勉強する事の大切さや必要性を意識していませんでしたので、殆ど知識がなかったというのが正直なところです。
今頃になって慌てて勉強しても頭に残る事は少ないでしょうが、歴史を鏡にして精進する事は出来そうです。
特に歴史に残る偉人。
足元にも及びませんが、学ぶところは山のように存在するようですね。
いつかぜひ機会を作ってお話を聞きたい方がおられたのですが、29日にやっと実現いたしました。
やはり期待以上のお話で感激を致しました。
現役の高等学校の先生で歴史を教えておられる方です。
そのように申し上げたら、或いは福岡の方でしたらご存じの方が多いかもしれませんね。
話が、歴史にまつわる事ではありますが、
歴史を紐とく事の大切さや学ぶ事の重要性を教えて下さいました。
よく「経験から学ぶな。歴史から学べ」とは言われるものです。
経験から学ぶものがないという訳ではなく、歴史からはより多くのものをより深く、真実に近い形で学べるといういうことではないでしょうか。
歴史は長い年月の中で、大切な部分だけがエキスのように残されたものであり、或いは中にはより重要さや大切さを強調する意味で付加された部分や言葉がちりばめられているものです。
私どもの経験は、まだ生々しさが残っており、洗練されているものでもありませんし、より綺麗に美化されている部分が如何にも真実ものように残っているものです。
また、自分の都合にいいように、修飾されたりもするものです。
私どもは、
特に「私は」と言い変えた方がいいかもしれませんが、歴史を勉強する事の大切さや必要性を意識していませんでしたので、殆ど知識がなかったというのが正直なところです。
今頃になって慌てて勉強しても頭に残る事は少ないでしょうが、歴史を鏡にして精進する事は出来そうです。
特に歴史に残る偉人。
足元にも及びませんが、学ぶところは山のように存在するようですね。
Posted by misterkei0918 at
14:59
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2011年01月28日
今年の一字は?「激」
今年の一字は?「激」
昨夜は、気の置けない仲間たちとの心休まるひと時を過ごしました。
いいものです。
遠慮がなくて、それでいて少しは言いたい事が言えて。
胸襟を開くという言葉がありますが、それは昨夜のような集まりにそれこそ無理をすることなく、自発的に足を運んでくれる友人たちに対する態度がそうですよね。
心を開くという事は、自らが開こうとする思いと、誘い水のように自然発生的に開かそうとする、或いは開くことを自然に誘う相手の気持ちが合致しないといけません。
一方的な思いは、時によっては耳障りですし、迷惑だったりするものです。
お互いの思いが、共鳴する事が必要なようです。
気の置けない仲間と、心置きなく交わせる会話には通い合うリズムが生じるものです。
有難いことです。
場を一層盛り上げたいとする進行役の方の思いつきで、
「渡した一枚の紙に出来るだけ大きく、今年の自分の一字を!!」
日本漢字検定協会が毎年、清水寺で発表する「今年の漢字」に習ったものですが素晴らしい発想です。
あれは確か、清水寺の管主様が揮毫をされているんです。
私の周りでは、「成」「愛」「信」「起」「誠」・・・・・
当の私は「激」
昨年は公私とも激しい一年でした。
自分では少しもそんな感覚はありませんでしたが、やはり体は疲れていたんですね。
疲れたとか、忙しいとか、痛いとか、負けたとか口に出すのが嫌なんです。
気が勝っているとでも言うのでしょうね。
でも決して人と競う事はしません。
しかも表面切って。
お陰で、11月、12月の2カ月で日赤の救急に4回も飛び込んでしまいました。
お医者さんからは「少しは体を休めなさい」
「今度、病院に来たら入院だよ」って言われてしまいました。
だけど、昨年がそうだったからと言って気を緩めたくはないのです。
出来れば「激しく、激しく」行きたいとも思っています。
体が一時的にそうあったからと言って、気持ちまで萎えてしまうのが許せないのです。
実は激しい動きの中で、確かな成果や実績、私自身の成長が目に見えたような気がいたしました。
出来れば、あと少し成長する自分の姿を目の当たりにしたいものです。
そのためにも今年も出来れば「激」
激しくても苦痛ではありませんし、むしろ躍動的で充実している姿が好きなんです。
昨夜は、気の置けない仲間たちとの心休まるひと時を過ごしました。
いいものです。
遠慮がなくて、それでいて少しは言いたい事が言えて。
胸襟を開くという言葉がありますが、それは昨夜のような集まりにそれこそ無理をすることなく、自発的に足を運んでくれる友人たちに対する態度がそうですよね。
心を開くという事は、自らが開こうとする思いと、誘い水のように自然発生的に開かそうとする、或いは開くことを自然に誘う相手の気持ちが合致しないといけません。
一方的な思いは、時によっては耳障りですし、迷惑だったりするものです。
お互いの思いが、共鳴する事が必要なようです。
気の置けない仲間と、心置きなく交わせる会話には通い合うリズムが生じるものです。
有難いことです。
場を一層盛り上げたいとする進行役の方の思いつきで、
「渡した一枚の紙に出来るだけ大きく、今年の自分の一字を!!」
日本漢字検定協会が毎年、清水寺で発表する「今年の漢字」に習ったものですが素晴らしい発想です。
あれは確か、清水寺の管主様が揮毫をされているんです。
私の周りでは、「成」「愛」「信」「起」「誠」・・・・・
当の私は「激」
昨年は公私とも激しい一年でした。
自分では少しもそんな感覚はありませんでしたが、やはり体は疲れていたんですね。
疲れたとか、忙しいとか、痛いとか、負けたとか口に出すのが嫌なんです。
気が勝っているとでも言うのでしょうね。
でも決して人と競う事はしません。
しかも表面切って。
お陰で、11月、12月の2カ月で日赤の救急に4回も飛び込んでしまいました。
お医者さんからは「少しは体を休めなさい」
「今度、病院に来たら入院だよ」って言われてしまいました。
だけど、昨年がそうだったからと言って気を緩めたくはないのです。
出来れば「激しく、激しく」行きたいとも思っています。
体が一時的にそうあったからと言って、気持ちまで萎えてしまうのが許せないのです。
実は激しい動きの中で、確かな成果や実績、私自身の成長が目に見えたような気がいたしました。
出来れば、あと少し成長する自分の姿を目の当たりにしたいものです。
そのためにも今年も出来れば「激」
激しくても苦痛ではありませんし、むしろ躍動的で充実している姿が好きなんです。
Posted by misterkei0918 at
19:06
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2011年01月27日
リーダーはどんな資質を持てばいいの?
リーダーはどんな資質を持てばいいの?
組織の中の人でなくても、リーダーとしての役割を果たす時があったり、望まなくてもリーダー的能力を要求されたり、能力や存在を要求されるときは多いものです。
組織人であれば、避けては通れない道です。
組織でなくても、家庭でもそうですよね。
父親として、母親として、或いは兄弟の長としてリーダーでなくてはいけない、あるいはその手腕を求められるものです。
ではリーダーシップは何?と問われると答えに窮しますが、ただ実行力があるとか、勇気があるとか、知識が豊富だとかだけでは、リーダーシップを発揮する、若しくは人を惹き付ける事は難しいものです。
ましてや、継続となると。
そこで教えて頂きました。
大同生命創業100周年記念のビデオ講座・中国文学者、守屋洋先生「中国古典に学ぶリーダーの条件」の中から。
******************************
リーダーの徳・・・リーダーとして備えるべき資質
謙・寛・仁・信・勤・義
徳者事業之基(徳は事業の基なり)という言葉がある。徳の主な要素として
◆1、謙・・・謙虚、腰が低い、人を見下さない、偉ぶらない。
逆に傲慢な人は勢いのある時はいいが○周りの反発を買いやすい○お山の大将になって自分の進歩を止めてしまう。
力のある人、上り調子のときほど謙虚に。
謙虚が過ぎると卑屈となる。
謙虚でありながら毅然とした態度も必要。
◆2、寛・・・寛容、寛大、人間としての大きさ。
「自分に厳しく、他人には寛容」
◆3、仁・・・思いやりの心、心の暖かさ。部下への配慮。
商談の断り方にも納得をさせ、恨みつらみを買わない配慮。
◆4、信・・・うそをつかない、約束は必ず守る。信は人間の願望である。
人を見る目を養う。信は上に立つものの統率力に関わる。
綸言」如汗(りんげんあせのごとし)トップの発言は汗の様な物、一旦外に出ると訂正は利かない。
普段は慎重に大事なときは筋道をたてて話せるようにする。
◆5、勤・・・勤勉、部下のやる気を引き出す。自分が頑張るのは当たり前。
◆6、義・・・元々は正しいの意、人間として当然守らねばならない道。
見利思義(利を見ては義を思う)利益を求めても人の道を踏み外さないようにする。
失った信用の回復は難しい。
義だけはいくら持ちすぎても過ぎることはない。
◆最後に「胆大心小」たんだいしんしょう
肝っ玉は大きく心は小さく、大胆にかつ慎重に。
日常業務は慎重に。
******************************
難しそうに感じますが、日頃から念頭に置いて精進を重ねる事なんでしょうね。
不可能、あり得ない、無理・・・などと言っているうちは徳など備わらないのでしょう。
今日もそんな思いを抱きながら。
組織の中の人でなくても、リーダーとしての役割を果たす時があったり、望まなくてもリーダー的能力を要求されたり、能力や存在を要求されるときは多いものです。
組織人であれば、避けては通れない道です。
組織でなくても、家庭でもそうですよね。
父親として、母親として、或いは兄弟の長としてリーダーでなくてはいけない、あるいはその手腕を求められるものです。
ではリーダーシップは何?と問われると答えに窮しますが、ただ実行力があるとか、勇気があるとか、知識が豊富だとかだけでは、リーダーシップを発揮する、若しくは人を惹き付ける事は難しいものです。
ましてや、継続となると。
そこで教えて頂きました。
大同生命創業100周年記念のビデオ講座・中国文学者、守屋洋先生「中国古典に学ぶリーダーの条件」の中から。
******************************
リーダーの徳・・・リーダーとして備えるべき資質
謙・寛・仁・信・勤・義
徳者事業之基(徳は事業の基なり)という言葉がある。徳の主な要素として
◆1、謙・・・謙虚、腰が低い、人を見下さない、偉ぶらない。
逆に傲慢な人は勢いのある時はいいが○周りの反発を買いやすい○お山の大将になって自分の進歩を止めてしまう。
力のある人、上り調子のときほど謙虚に。
謙虚が過ぎると卑屈となる。
謙虚でありながら毅然とした態度も必要。
◆2、寛・・・寛容、寛大、人間としての大きさ。
「自分に厳しく、他人には寛容」
◆3、仁・・・思いやりの心、心の暖かさ。部下への配慮。
商談の断り方にも納得をさせ、恨みつらみを買わない配慮。
◆4、信・・・うそをつかない、約束は必ず守る。信は人間の願望である。
人を見る目を養う。信は上に立つものの統率力に関わる。
綸言」如汗(りんげんあせのごとし)トップの発言は汗の様な物、一旦外に出ると訂正は利かない。
普段は慎重に大事なときは筋道をたてて話せるようにする。
◆5、勤・・・勤勉、部下のやる気を引き出す。自分が頑張るのは当たり前。
◆6、義・・・元々は正しいの意、人間として当然守らねばならない道。
見利思義(利を見ては義を思う)利益を求めても人の道を踏み外さないようにする。
失った信用の回復は難しい。
義だけはいくら持ちすぎても過ぎることはない。
◆最後に「胆大心小」たんだいしんしょう
肝っ玉は大きく心は小さく、大胆にかつ慎重に。
日常業務は慎重に。
******************************
難しそうに感じますが、日頃から念頭に置いて精進を重ねる事なんでしょうね。
不可能、あり得ない、無理・・・などと言っているうちは徳など備わらないのでしょう。
今日もそんな思いを抱きながら。
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12:45
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2011年01月26日
「むきだしだが不快でない好奇心」・・・江戸の日本人
「むきだしだが不快でない好奇心」・・・江戸の日本人
先日、ブログで「好奇心の功罪」を書いたばかりだったのですが、再び好奇心について書きたくなりました。
というのも、ある方の勧めで「逝きし世の面影」という本に出会い、その中に極めて興味深い事が記載されていたものですから、再び触れてみる事にしました。
好奇心という言葉は、奇異なものを好きになる、興味を傾ける、日常でないものに触れたいという思い・・・などと私自身は解釈をするのですがどうも日本人の独特な好奇心を、江戸末期に訪れた外国人の目でみて記載している部分をその本の中に発見しました。
この本の著者は、渡辺京二さん。
初版が2005年9月9日。
江戸幕府末期に多くの外国人が、日本を訪れましたがこの方々がつぶさに見た日本や日本人の姿を細かく記載している本です。
この本を手にすることで、日本人としての思いを改めて思い浮かべるとともに古き日本の素晴らしさを再認識させてくれます。
その中で、日本人の好奇心について記載している部分です。
1860年代の初めに来日し、15年にもわたって日本に在住したブラック(John Reddie Black)が、
『彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思は、われわれを気持ち良くした。
一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。
さらに、通りがかりに休もうとする外国人は殆んど例外なく歓待され、「おはよう」と気持ちの良い挨拶を受けた。
この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった』
このように日本人を評しています。
海軍将校・商人・ジャーナリストであるブラックは、羽をついて顔に墨を塗り合っている日本の大人たちを、
『そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。
笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。
彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人たちは、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見ても嬉しがる』
私どもは、幕末と言うとさぞかし江戸時代が人々にとって住みにくい時代であったろうと創造しますし、理解していますが、当時来日していた外国人が口を揃えて、日本人、日本文化の称賛をしている事を学ばないといけないようです。
その目で、明治維新を眺めてみるとまた新しい視点が生まれそうです。
機会がありましたら、この本を手にしてくださいませ。
先日、ブログで「好奇心の功罪」を書いたばかりだったのですが、再び好奇心について書きたくなりました。
というのも、ある方の勧めで「逝きし世の面影」という本に出会い、その中に極めて興味深い事が記載されていたものですから、再び触れてみる事にしました。
好奇心という言葉は、奇異なものを好きになる、興味を傾ける、日常でないものに触れたいという思い・・・などと私自身は解釈をするのですがどうも日本人の独特な好奇心を、江戸末期に訪れた外国人の目でみて記載している部分をその本の中に発見しました。
この本の著者は、渡辺京二さん。
初版が2005年9月9日。
江戸幕府末期に多くの外国人が、日本を訪れましたがこの方々がつぶさに見た日本や日本人の姿を細かく記載している本です。
この本を手にすることで、日本人としての思いを改めて思い浮かべるとともに古き日本の素晴らしさを再認識させてくれます。
その中で、日本人の好奇心について記載している部分です。
1860年代の初めに来日し、15年にもわたって日本に在住したブラック(John Reddie Black)が、
『彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思は、われわれを気持ち良くした。
一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。
さらに、通りがかりに休もうとする外国人は殆んど例外なく歓待され、「おはよう」と気持ちの良い挨拶を受けた。
この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった』
このように日本人を評しています。
海軍将校・商人・ジャーナリストであるブラックは、羽をついて顔に墨を塗り合っている日本の大人たちを、
『そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。
笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。
彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人たちは、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見ても嬉しがる』
私どもは、幕末と言うとさぞかし江戸時代が人々にとって住みにくい時代であったろうと創造しますし、理解していますが、当時来日していた外国人が口を揃えて、日本人、日本文化の称賛をしている事を学ばないといけないようです。
その目で、明治維新を眺めてみるとまた新しい視点が生まれそうです。
機会がありましたら、この本を手にしてくださいませ。
Posted by misterkei0918 at
18:03
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2011年01月26日
感激が多いほどいい死に方をする?
感激が多いほどいい死に方をする?
今朝は7時から経営者団体の勉強会でした。
経営者団体の勉強会だから、経営に関わる事の勉強と思われるかもしれませんが、実はそうではなく、歴史とか偉人とか、精神性とか、文化とか。
引いては経営に繋がっていくのですが。
その中で「感激が多いほどいい死に方をする」という言葉が耳に残りました。
決してそれだけではないのですが、際立って頭に残ったと言った方がいいかもしれませんね。
この世から離れるときは、
出来れば苦しむことなく、
出来れば家族や周りに心を残すことなく、
悲しませることなく、
後々、問題を残すことなく、
災いや恨み辛みを消し去って、
見事にこの世に精算をして・・・・・
そうありたいものです。
所がそうはいきませんよね。
未練を残し、
悲しみや苦しみを残し、
或いは問題まで残しているやもしれません。
出来る事なら、折角残すなら、役に立つ多くの財産でも残せるといいのですが。
そうです、
感激が多い程、いい死に方をするらしいです。
自分自身も多くの数え切れないほどの感激の場面を経験したいものですが、
出来れば、多くの方々に多くの感激を与えられる人生が送れると最高ですね。
それもいい意味での感激を。
感激、感動は「激しく心が動く」事ですから、中途半端ではいけませんよね。
いつまでも心に残って、しかも十分な刺激になって、相手を行動にかき立てる位の。
今日もそんな思いを胸に秘めて!!
今朝は7時から経営者団体の勉強会でした。
経営者団体の勉強会だから、経営に関わる事の勉強と思われるかもしれませんが、実はそうではなく、歴史とか偉人とか、精神性とか、文化とか。
引いては経営に繋がっていくのですが。
その中で「感激が多いほどいい死に方をする」という言葉が耳に残りました。
決してそれだけではないのですが、際立って頭に残ったと言った方がいいかもしれませんね。
この世から離れるときは、
出来れば苦しむことなく、
出来れば家族や周りに心を残すことなく、
悲しませることなく、
後々、問題を残すことなく、
災いや恨み辛みを消し去って、
見事にこの世に精算をして・・・・・
そうありたいものです。
所がそうはいきませんよね。
未練を残し、
悲しみや苦しみを残し、
或いは問題まで残しているやもしれません。
出来る事なら、折角残すなら、役に立つ多くの財産でも残せるといいのですが。
そうです、
感激が多い程、いい死に方をするらしいです。
自分自身も多くの数え切れないほどの感激の場面を経験したいものですが、
出来れば、多くの方々に多くの感激を与えられる人生が送れると最高ですね。
それもいい意味での感激を。
感激、感動は「激しく心が動く」事ですから、中途半端ではいけませんよね。
いつまでも心に残って、しかも十分な刺激になって、相手を行動にかき立てる位の。
今日もそんな思いを胸に秘めて!!
Posted by misterkei0918 at
11:52
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2011年01月26日
過去を悔いる事はない
過去を悔いる事はない
今朝6時前のNHKラジオを聴いていました。
仏教関係のお話です。
「過去を悔いる事はない」との事。
私もそのように実感を以って感じ、思っています。
人の人生はどのような展開をするか、誰にも確実に予想する事も決める事も出来ません。
確実性のない、ある程度の方向性やあり方を努力や周りからの力によって導く事は出来ますが、それでさえも何も保証されるものでもなく、もしかするとそうなるかもしれない程度の事でしかありません。
幸せの絶頂にある人が、何の前触れもなく途端の苦しみの世界へと落ち込む事もありますし、逆に貧乏のどん底にいた人が、瞬間的に、誰もが羨む、幸運に恵まれることだってあります。
それは、滅多にない事でもありませんし或いは私どもの周辺で日常的に展開されている事であります。
或いはそんなに極端な事でなければ、自分自身の身の回りでも起こり得てますし、もっと小さな出来事が日常的に起こっている事でもあります。
私の人生でも、一喜一憂、波乱万丈、一寸先は闇的な事は幾度となく経験してきました。
そのひとつひとつを後悔していてはキリがありません。
糧とする事はあっても、余りにも思いめぐらす事はなさそうです。
過去の否定や過ぎる懺悔は、今の為に決して有益には働かないような気がするのです。
過去は今の自分を造るためのものであって、忌み嫌うもの、捨て去るものでもなさそうです。
むしろ肯定的に考えて、その全てが無駄ではなかった位に考えておいた方が今の自分を前向きにしかも意義深く生きる事が出来そうです。
過ぎ去った過去に引きずられることなく、一歩先を見つめる事が素晴らしい未来への創造に繋がるようです。
でも、過去の自分と決別するにはそれだけの反省と精算、償いは当然必要ですよね。
邪悪な過去であれば尚更の事。
現在は、過去の延長線上にあり、その結果としての今ですから。
今日もその思いを胸に抱いて、今日も逞しく生きてゆきましょう。
今朝6時前のNHKラジオを聴いていました。
仏教関係のお話です。
「過去を悔いる事はない」との事。
私もそのように実感を以って感じ、思っています。
人の人生はどのような展開をするか、誰にも確実に予想する事も決める事も出来ません。
確実性のない、ある程度の方向性やあり方を努力や周りからの力によって導く事は出来ますが、それでさえも何も保証されるものでもなく、もしかするとそうなるかもしれない程度の事でしかありません。
幸せの絶頂にある人が、何の前触れもなく途端の苦しみの世界へと落ち込む事もありますし、逆に貧乏のどん底にいた人が、瞬間的に、誰もが羨む、幸運に恵まれることだってあります。
それは、滅多にない事でもありませんし或いは私どもの周辺で日常的に展開されている事であります。
或いはそんなに極端な事でなければ、自分自身の身の回りでも起こり得てますし、もっと小さな出来事が日常的に起こっている事でもあります。
私の人生でも、一喜一憂、波乱万丈、一寸先は闇的な事は幾度となく経験してきました。
そのひとつひとつを後悔していてはキリがありません。
糧とする事はあっても、余りにも思いめぐらす事はなさそうです。
過去の否定や過ぎる懺悔は、今の為に決して有益には働かないような気がするのです。
過去は今の自分を造るためのものであって、忌み嫌うもの、捨て去るものでもなさそうです。
むしろ肯定的に考えて、その全てが無駄ではなかった位に考えておいた方が今の自分を前向きにしかも意義深く生きる事が出来そうです。
過ぎ去った過去に引きずられることなく、一歩先を見つめる事が素晴らしい未来への創造に繋がるようです。
でも、過去の自分と決別するにはそれだけの反省と精算、償いは当然必要ですよね。
邪悪な過去であれば尚更の事。
現在は、過去の延長線上にあり、その結果としての今ですから。
今日もその思いを胸に抱いて、今日も逞しく生きてゆきましょう。
Posted by misterkei0918 at
06:11
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2011年01月24日
その「ありがとう」は心から?
その「ありがとう」は心から?
ある方から、「ありがとう百万遍」のご指導をいただき、実践の日々です。
本来、ありがとうを言わなくてもいいような時でも出来れば口に出して「ありがとう」を言うようになってきました。
例えば、喫茶店に入ってコーヒーを頼んだとします。
こちらはお金を出している立場ですから、本来なら黙っていても可笑しくはないのですが、敢えて「ありがとう」の言葉を言うように努めています。
そんなことを重ねると、不思議な現象に遭遇する事があります。
これは経験しないと分からない事ですし、またそのような恩恵や効果・・・を求めてする事でもありませんから具体的には書かない方がいいでしょう。
時々、思う事があります。
「お前のそのありがとうは、本心からでたありがとうなのか?」
自分が自分に対して、問いかけています。
「何かを求めたのではないのか?」
つまり見返りを。
或いは打算で。
「ありがとう」は舌先三寸ではいけないと思うのです。
おうむ返しになったり、癖になってしまった「ありがとう」でもいけないでしょう。
出まかせや、上滑りの「ありがとう」でもいけないと思うのです。
わざとらしくてもいけませんよね。
相手が不愉快に感じる「ありがとう」でもいけませんし。
心が伴った「ありがとう」の百万遍でないといけないと思います。
それには、繰り返し、繰り返し・・・
「ありがとう」「ありがとう」・・・・・
それには、多分百万遍に近付いた頃にそんな境地に落ち着くのかもしれませんね。
ある方から、「ありがとう百万遍」のご指導をいただき、実践の日々です。
本来、ありがとうを言わなくてもいいような時でも出来れば口に出して「ありがとう」を言うようになってきました。
例えば、喫茶店に入ってコーヒーを頼んだとします。
こちらはお金を出している立場ですから、本来なら黙っていても可笑しくはないのですが、敢えて「ありがとう」の言葉を言うように努めています。
そんなことを重ねると、不思議な現象に遭遇する事があります。
これは経験しないと分からない事ですし、またそのような恩恵や効果・・・を求めてする事でもありませんから具体的には書かない方がいいでしょう。
時々、思う事があります。
「お前のそのありがとうは、本心からでたありがとうなのか?」
自分が自分に対して、問いかけています。
「何かを求めたのではないのか?」
つまり見返りを。
或いは打算で。
「ありがとう」は舌先三寸ではいけないと思うのです。
おうむ返しになったり、癖になってしまった「ありがとう」でもいけないでしょう。
出まかせや、上滑りの「ありがとう」でもいけないと思うのです。
わざとらしくてもいけませんよね。
相手が不愉快に感じる「ありがとう」でもいけませんし。
心が伴った「ありがとう」の百万遍でないといけないと思います。
それには、繰り返し、繰り返し・・・
「ありがとう」「ありがとう」・・・・・
それには、多分百万遍に近付いた頃にそんな境地に落ち着くのかもしれませんね。
Posted by misterkei0918 at
16:00
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2011年01月22日
梅を見ない内から桜の話
梅を見ない内から桜の話
沖縄では、花祭りが始まったようですね。
「寒緋桜、若しくは緋寒桜」の開花が沖縄では、1月の下旬が毎年ですのでもう始まっても可笑しくはないかもしれませんね。
気が早いものです。
梅の花も見ていない内から、桜の話です。
寒いから余計に温かい春を待ち望んでいるのかもしれませんね。
福岡には太宰府天満宮がありますから、梅と言えば本殿前の「飛び梅」をすぐに思い出します。
それと菅原道真さんの歌、
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花
主なしとて 春をわすれそ」
今年の開花予想が昨日発表されました。
一番早い開花予想は、福岡と熊本で3月23日前後。
昨年も全国に先駆けて福岡の開花が一番でした。
そのお陰もあって、花見も多くさせて頂きました。
日本人は、なぜか桜には心動かされます。
一挙に咲いて、一挙に散る桜。
日本の国花です。
日本人らしいとも言われます、パッと盛り上がって、パッと萎んで。
マスコミ報道などを見ていてもそうです。
日本中が同じ報道で、一色に塗られた感じ。
韓国の国花は「無窮花:むぐんふぁ:ムクゲ」。
夏に咲く花ですが、次から次へといつまでも花が咲いて行きます。
これでもか、これでもかと。
どうも韓国の国民性を象徴しているとも言われます。
季節の花々の事も時には思い起こしながら、追われる日常を過ごしたいものですね。
花見て一杯、これも大いなる楽しみですが、過ぎてはいけません。
沖縄では、花祭りが始まったようですね。
「寒緋桜、若しくは緋寒桜」の開花が沖縄では、1月の下旬が毎年ですのでもう始まっても可笑しくはないかもしれませんね。
気が早いものです。
梅の花も見ていない内から、桜の話です。
寒いから余計に温かい春を待ち望んでいるのかもしれませんね。
福岡には太宰府天満宮がありますから、梅と言えば本殿前の「飛び梅」をすぐに思い出します。
それと菅原道真さんの歌、
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花
主なしとて 春をわすれそ」
今年の開花予想が昨日発表されました。
一番早い開花予想は、福岡と熊本で3月23日前後。
昨年も全国に先駆けて福岡の開花が一番でした。
そのお陰もあって、花見も多くさせて頂きました。
日本人は、なぜか桜には心動かされます。
一挙に咲いて、一挙に散る桜。
日本の国花です。
日本人らしいとも言われます、パッと盛り上がって、パッと萎んで。
マスコミ報道などを見ていてもそうです。
日本中が同じ報道で、一色に塗られた感じ。
韓国の国花は「無窮花:むぐんふぁ:ムクゲ」。
夏に咲く花ですが、次から次へといつまでも花が咲いて行きます。
これでもか、これでもかと。
どうも韓国の国民性を象徴しているとも言われます。
季節の花々の事も時には思い起こしながら、追われる日常を過ごしたいものですね。
花見て一杯、これも大いなる楽しみですが、過ぎてはいけません。
Posted by misterkei0918 at
15:13
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2011年01月22日
「七楽の教え」
「七楽の教え」
こんな言葉を学びました。
『楽すれば
楽が邪魔して
楽ならず
楽せぬ楽が
はるか楽楽』
楽という字は薬の字に似てます。
「七楽の教え」は江戸時代から300年も続いている富山の薬売りの方々が代々受け継いでこられた言葉のようです。
家庭や会社を個別に回られる薬売りの人々を見かけたものです。
常備薬の入った薬箱を携えて、訪問し配置してもらい定期的に訪問して入れ替えを行い、使用した薬の代金だけをいただく商売の仕方は、「先用後利」と称されていたようです。
津々浦々、春夏秋冬、山あり谷あり、全国を隈なく足で尋ねるこの商いの方法が実は楽をしないでビジネスをする事の大切さを教えてくれています。
今の時代でも大切にしなくてはいけない心構えですね。
しかも先に自らの利益優先ではなく、まずは病気を癒し、健康を回復してからお金をいただく思い。
私どもはつい、お金優先。
まず先にお金をいただきましょう的な発想に走ってしまいます。
現代では難しい判断ですが、
お客様にどのようにすれば愛して頂けるのか、
そしてお役に立てるのか、
感動を与える事が出来るのか、
その思いを伝えるコミュニケーションの在り方はどうするのか。
そんなところから、スタートしなくてはいけませんね。
世界の何処よりも圧倒的な数の長寿企業が存在する日本。
その全てが日本にあると云っても過言ではなさそうです。
どうして、日本だけそうなのか。
改めて一考する価値がありそうですね。
こんな言葉を学びました。
『楽すれば
楽が邪魔して
楽ならず
楽せぬ楽が
はるか楽楽』
楽という字は薬の字に似てます。
「七楽の教え」は江戸時代から300年も続いている富山の薬売りの方々が代々受け継いでこられた言葉のようです。
家庭や会社を個別に回られる薬売りの人々を見かけたものです。
常備薬の入った薬箱を携えて、訪問し配置してもらい定期的に訪問して入れ替えを行い、使用した薬の代金だけをいただく商売の仕方は、「先用後利」と称されていたようです。
津々浦々、春夏秋冬、山あり谷あり、全国を隈なく足で尋ねるこの商いの方法が実は楽をしないでビジネスをする事の大切さを教えてくれています。
今の時代でも大切にしなくてはいけない心構えですね。
しかも先に自らの利益優先ではなく、まずは病気を癒し、健康を回復してからお金をいただく思い。
私どもはつい、お金優先。
まず先にお金をいただきましょう的な発想に走ってしまいます。
現代では難しい判断ですが、
お客様にどのようにすれば愛して頂けるのか、
そしてお役に立てるのか、
感動を与える事が出来るのか、
その思いを伝えるコミュニケーションの在り方はどうするのか。
そんなところから、スタートしなくてはいけませんね。
世界の何処よりも圧倒的な数の長寿企業が存在する日本。
その全てが日本にあると云っても過言ではなさそうです。
どうして、日本だけそうなのか。
改めて一考する価値がありそうですね。
Posted by misterkei0918 at
12:37
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2011年01月21日
心根を忘れず、大切に
心根を忘れず、大切に
人はいつの世も、常に安定を求めるものですが、その安定を世の中や周囲は容認をするものでもありません。
安定を求める傍らでは、不安定や変化を望む思いが根底に潜んでいるような気がします。
例えば、幸せの絶頂だと思われる環境にある人が何かしら不安に駆られる事があるものです。
「こんなに幸せでいいのだろうか」
「若しかすると、この幸せがいつか崩れ去る事も?」
或いは、
「これは本当に幸せなんだろうか?」
人生は浮き沈みの世界でもあります。
経済的に絶頂を迎えたり、崩れ去ったり、
人間関係で人生は素晴らしいと感じたり、非情なものと感じたり、
この上ない健康と思っていたり、どうして自分だけこんなに病や不健康に悩まされるのか、
騙されたり、騙したり・・・・・
でも、人間として元来持っていなくてはいけない事、
安定や不安定、変化にさらされても、常に持ち合わせていなくてはいけないものがあるはずです。
それは、心根だと私は思っています。
人間であればこその本能的、或いは経験や学習の成果による心根。
人に優しくある事、
人の幸せを願う思い、
社会や集団の為に尽くす思い、
物事に真摯に継続的に立ち向かう勇気や叡智、
人間性を高めるための修練や精進を怠らない思い。
私が思いつく所はこんなところでしょうか。
或いは人によって表現の仕方や観点、価値観が異なるために、幾らか違いが出てくるかもしれませんね。
それでもいいと思うのです。
付け加えるとしたら、
自分を健康で幸せな人生へと導くために最大限の努力を怠らない事でしょうか。
自分の幸せなしでは、他人への配慮など出来ませんし、無理な事ですよね。
押しのけて自分の幸せをという事ではなく、それは出来れば相手優先ですが、大方は同時並行的に出来る事でもあります。
人としての心根を忘れない!!
今日も人として優しくありたいものです。
という事は私自身にも、日常的に「つい、心根を忘れるような事態が押し寄せる」という事でもあります。
人はいつの世も、常に安定を求めるものですが、その安定を世の中や周囲は容認をするものでもありません。
安定を求める傍らでは、不安定や変化を望む思いが根底に潜んでいるような気がします。
例えば、幸せの絶頂だと思われる環境にある人が何かしら不安に駆られる事があるものです。
「こんなに幸せでいいのだろうか」
「若しかすると、この幸せがいつか崩れ去る事も?」
或いは、
「これは本当に幸せなんだろうか?」
人生は浮き沈みの世界でもあります。
経済的に絶頂を迎えたり、崩れ去ったり、
人間関係で人生は素晴らしいと感じたり、非情なものと感じたり、
この上ない健康と思っていたり、どうして自分だけこんなに病や不健康に悩まされるのか、
騙されたり、騙したり・・・・・
でも、人間として元来持っていなくてはいけない事、
安定や不安定、変化にさらされても、常に持ち合わせていなくてはいけないものがあるはずです。
それは、心根だと私は思っています。
人間であればこその本能的、或いは経験や学習の成果による心根。
人に優しくある事、
人の幸せを願う思い、
社会や集団の為に尽くす思い、
物事に真摯に継続的に立ち向かう勇気や叡智、
人間性を高めるための修練や精進を怠らない思い。
私が思いつく所はこんなところでしょうか。
或いは人によって表現の仕方や観点、価値観が異なるために、幾らか違いが出てくるかもしれませんね。
それでもいいと思うのです。
付け加えるとしたら、
自分を健康で幸せな人生へと導くために最大限の努力を怠らない事でしょうか。
自分の幸せなしでは、他人への配慮など出来ませんし、無理な事ですよね。
押しのけて自分の幸せをという事ではなく、それは出来れば相手優先ですが、大方は同時並行的に出来る事でもあります。
人としての心根を忘れない!!
今日も人として優しくありたいものです。
という事は私自身にも、日常的に「つい、心根を忘れるような事態が押し寄せる」という事でもあります。
Posted by misterkei0918 at
11:11
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2011年01月21日
満月と大寒と記録的な寒さ
満月と大寒と記録的な寒さ
昨日、1月20日は大寒で日本中が凍りつくような気温で寒さに震えた一日でした。
おまけに満月だったのを気付かれましたか?
まん丸で見事なお月さまでした。
雲のない夜を迎えた事、澄み切っていた事・・・等が重なったせいでしょうか。
気持ちが悪いほど、綺麗な満月が印象的でした。
東京では雨の降らない日々が続いているようですし、沖縄や奄美大島でも10度以下の気温の日があったようです。
しかも奄美大島でも雪が降ったとか。
一番高い山・湯湾岳での話ですが。
ちなみに20日は旧暦の12月17日。
大寒は二十四節気の一つで、寒さが最も厳しくなるころのことで大寒の最後の日が節分という事のようです。
一年で最も寒い時期と古来言われていたのですが最近の異常気象の影響でしょうか、大寒の時期が最も寒い時期とは言えなくなっていました。
でも今年はズバリですね。
季節が暦通りに進んでいる感じで嬉しくもなります。
昔から大寒の頃に汲んだ水は長持ちがするといわれ、酒の仕込みが盛んにされる時期でもあるようです。
私どもの体も心も、宇宙や地球環境、自然のリズムとともに進化してきたものの一部ですから、そのリズムを私ども人間が狂わしているとしたら多分、そのうち私ども自身がその影響を激しく受けることになるのではないでしょうか。
昨日は、満月と大寒とを見たり感じたりしながら自然の働きに思いが馳せたものでした。
昨日、1月20日は大寒で日本中が凍りつくような気温で寒さに震えた一日でした。
おまけに満月だったのを気付かれましたか?
まん丸で見事なお月さまでした。
雲のない夜を迎えた事、澄み切っていた事・・・等が重なったせいでしょうか。
気持ちが悪いほど、綺麗な満月が印象的でした。
東京では雨の降らない日々が続いているようですし、沖縄や奄美大島でも10度以下の気温の日があったようです。
しかも奄美大島でも雪が降ったとか。
一番高い山・湯湾岳での話ですが。
ちなみに20日は旧暦の12月17日。
大寒は二十四節気の一つで、寒さが最も厳しくなるころのことで大寒の最後の日が節分という事のようです。
一年で最も寒い時期と古来言われていたのですが最近の異常気象の影響でしょうか、大寒の時期が最も寒い時期とは言えなくなっていました。
でも今年はズバリですね。
季節が暦通りに進んでいる感じで嬉しくもなります。
昔から大寒の頃に汲んだ水は長持ちがするといわれ、酒の仕込みが盛んにされる時期でもあるようです。
私どもの体も心も、宇宙や地球環境、自然のリズムとともに進化してきたものの一部ですから、そのリズムを私ども人間が狂わしているとしたら多分、そのうち私ども自身がその影響を激しく受けることになるのではないでしょうか。
昨日は、満月と大寒とを見たり感じたりしながら自然の働きに思いが馳せたものでした。
Posted by misterkei0918 at
09:52
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2011年01月17日
人を好きになろうよ
人を好きになろうよ
人を好きになる事が大事な事だとは十分に分かっていても、行動に出せないとか気が進まない事があります。
本来的に人間は人間が好きなように出来ているような気がします。
だからこそ、その裏腹な状況が生じると思っています。
人は人との関係性の中にあってこそ、人であるように出来ていると思いますし、より高度な人間性を確保できるように仕組まれていると思うのです。
高度というのは、より優れているというのではなく、今まで持ち合わせていない人間性を確保するという意味合いであります。
世の中を見渡してみますと、本当に人間としてより望まれる知性や能力を備えて行く人がいる半面、反社会的というか、本来人間として持ち合わせてはいけないと思われる能力や知識まで高度化していくものです。
でも一般的には、人は人との交わりの深まりを望むものであって、それこそが極めて人間らしい在り方であろうと思います。
若いころの私はどちらかと言うと、人との関係の大切さを重要視することなく、むしろ自分から避けていたような気がします。
避けようとする理由はここでは触れませんが。
かと言ってそれが自己の向上や満足に繋がっていたかと言えば、全く逆であり、その頃の時間が今思えば大変もったいない事をしたと反省をしております。
その事に気づいていれば、今の自分はもっと存在や意義深い人生を送っているかもしれません。
ある時、その事の大切さに気付いたわけですが、
まずは「人間ありき」
「人との関わりの大切さ」
「人は人と交わってこそ人」
それを、小さいころから身を以って教えてくれる人の存在が欲しかったものです。
結局は、本来教えてくれる人が傍にいなかった事、
それ自体が、人と交わる事を消極的にする人にしてしまったのでしょうね。
「人を好きになろうよ」
実は好きになってみるとこんなに素晴らしい存在はないのですが。
『人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。瀬戸内寂聴(宗教家)』
人を好きになる事が大事な事だとは十分に分かっていても、行動に出せないとか気が進まない事があります。
本来的に人間は人間が好きなように出来ているような気がします。
だからこそ、その裏腹な状況が生じると思っています。
人は人との関係性の中にあってこそ、人であるように出来ていると思いますし、より高度な人間性を確保できるように仕組まれていると思うのです。
高度というのは、より優れているというのではなく、今まで持ち合わせていない人間性を確保するという意味合いであります。
世の中を見渡してみますと、本当に人間としてより望まれる知性や能力を備えて行く人がいる半面、反社会的というか、本来人間として持ち合わせてはいけないと思われる能力や知識まで高度化していくものです。
でも一般的には、人は人との交わりの深まりを望むものであって、それこそが極めて人間らしい在り方であろうと思います。
若いころの私はどちらかと言うと、人との関係の大切さを重要視することなく、むしろ自分から避けていたような気がします。
避けようとする理由はここでは触れませんが。
かと言ってそれが自己の向上や満足に繋がっていたかと言えば、全く逆であり、その頃の時間が今思えば大変もったいない事をしたと反省をしております。
その事に気づいていれば、今の自分はもっと存在や意義深い人生を送っているかもしれません。
ある時、その事の大切さに気付いたわけですが、
まずは「人間ありき」
「人との関わりの大切さ」
「人は人と交わってこそ人」
それを、小さいころから身を以って教えてくれる人の存在が欲しかったものです。
結局は、本来教えてくれる人が傍にいなかった事、
それ自体が、人と交わる事を消極的にする人にしてしまったのでしょうね。
「人を好きになろうよ」
実は好きになってみるとこんなに素晴らしい存在はないのですが。
『人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。瀬戸内寂聴(宗教家)』
Posted by misterkei0918 at
17:30
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2011年01月17日
好奇心の功罪
好奇心の功罪
何にでも興味を持つ人がいるかと思えば、
全く物事に興味を示さない自己陶酔というか他人無視なのか、
はたまた自分の事だけで頭がいっぱいなのか、
もしかすると興味は在りながら敢えてそのような態度を取るのか。
貴方はどのような好奇心をお持ちですか、
或いは好奇心に対してどのような行動を取りますか。
一般的には好奇心は歓迎されるもの、持つべきものと思いがちですが。
ある方のメルマガから、
その方の奥さまは好奇心の強い方で、しかも行動派のようです。
ある時、スピード違反で白バイにつかまってしまいました。
さしづめ私であれば、
『違反するほどのスピードは出していないはず』
「かれこれこういう事情で、スピードを出さざるを得なかった。だから何とかならないのか」
こんな言い訳をして、許してくれるわけがないのですが。
その奥さまは、そこでも好奇心を発揮します。
「おまわりさん、どうして白バイは白いの?」
そのおまわりさんとはその話で終始。
最後は、親しくなって笑顔で別れたとか。
私にはとても出来ない芸当ですが、そんな時には諦めて、折角なら楽しい話題で盛り上がって、しかも仲良しになって「さよなら」した方がいいのでしょうね。
逆な事もあります。
好奇心の余り、その発露が相手にとって嫌な印象になってしまう。
そんな経験は私だけではないでしょう。
余りにも好奇心が強くて、相手のプライベートの細部にまで及ぶ事、
しかも根掘り葉掘り、しつこく・・・・・
会社の事を余りにも立ち入って聞きすぎる事。
どうして、そこまで言わなければいけないのか?
何故、そこまで聞くの?
挙句は嫌悪感に包まれ、「この人とはこれ以上付き合えない」という所まで行きついてしまいます。
好奇心の発露が、相手を心地良くさせるのか、
或いは毛嫌いされるのか。
自分が常に相手の立場に立って、そんな事も考えてみる事も面白いものです。
自分にとっては、行きすぎと思っていても相手はそうでなかったり、遠慮の余りが逆に関係を遠ざけてしまう結果になるやもしれませんし、
それは、人としての多くの関係ややり取りの中で学んでいくものなんでしょうね。
何にでも興味を持つ人がいるかと思えば、
全く物事に興味を示さない自己陶酔というか他人無視なのか、
はたまた自分の事だけで頭がいっぱいなのか、
もしかすると興味は在りながら敢えてそのような態度を取るのか。
貴方はどのような好奇心をお持ちですか、
或いは好奇心に対してどのような行動を取りますか。
一般的には好奇心は歓迎されるもの、持つべきものと思いがちですが。
ある方のメルマガから、
その方の奥さまは好奇心の強い方で、しかも行動派のようです。
ある時、スピード違反で白バイにつかまってしまいました。
さしづめ私であれば、
『違反するほどのスピードは出していないはず』
「かれこれこういう事情で、スピードを出さざるを得なかった。だから何とかならないのか」
こんな言い訳をして、許してくれるわけがないのですが。
その奥さまは、そこでも好奇心を発揮します。
「おまわりさん、どうして白バイは白いの?」
そのおまわりさんとはその話で終始。
最後は、親しくなって笑顔で別れたとか。
私にはとても出来ない芸当ですが、そんな時には諦めて、折角なら楽しい話題で盛り上がって、しかも仲良しになって「さよなら」した方がいいのでしょうね。
逆な事もあります。
好奇心の余り、その発露が相手にとって嫌な印象になってしまう。
そんな経験は私だけではないでしょう。
余りにも好奇心が強くて、相手のプライベートの細部にまで及ぶ事、
しかも根掘り葉掘り、しつこく・・・・・
会社の事を余りにも立ち入って聞きすぎる事。
どうして、そこまで言わなければいけないのか?
何故、そこまで聞くの?
挙句は嫌悪感に包まれ、「この人とはこれ以上付き合えない」という所まで行きついてしまいます。
好奇心の発露が、相手を心地良くさせるのか、
或いは毛嫌いされるのか。
自分が常に相手の立場に立って、そんな事も考えてみる事も面白いものです。
自分にとっては、行きすぎと思っていても相手はそうでなかったり、遠慮の余りが逆に関係を遠ざけてしまう結果になるやもしれませんし、
それは、人としての多くの関係ややり取りの中で学んでいくものなんでしょうね。
Posted by misterkei0918 at
16:34
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2011年01月17日
出会いは最大の創造
出会いは最大の創造
想像と言えば、物つくりとかアイディア、ビジネスモデル・・・・・を思いがちですが最大の想像に繋がるものは人との出会いではないでしょうか。
人に遭い、
人にもまれ、
人から叱咤され、激励され、
人から勇気を頂き、
人から叡智を授かる・・・・・
ノーベル賞を取られた方々が、まず言われるのは「良き師に恵まれた」事を良く強調されます。
一番は永い年月におけるご自分の努力である事は誰しも認めるところですが、その前に「自分に刺激を与えてくれた人」、「自分に努力を継続的にすることを教えてくれた人」の存在がある事を必ず口にされます。
それと大事なのは、「自分自身の新たな創造」の大切さを自らが気付いたり、良き師から示唆を頂く事の大切さだと思うのです。
長い人生の道のりで、旧態とした自分ではなく、自分とは一味も二味も事なった自分の創造が出来るのか否か。
人生は、常に新しい自分を創造できるかが楽しく豊かな人生を創造できるかに掛っているような気がするのです。
人との交わりは必ずしも有益な情報の提供や交わりのみが存在するわけではありませんが、様々な分野において刺激的で、悩ましい問題も大いに提供してくれます。
それが実は大事なもののようです。
ぬるま湯的な状態に甘んじる人生や日常は決して生産的でもありませんし、創造的でもありません。
様々な考えや人間性、言動によって、常に影響を受け、試行錯誤を強いられ、珠には驚きであったり、侮蔑の対象であったりするものです。
全ての人々がそれぞれに刺激的、感動的、示唆的であります。
創造を考えるなら、真っ先に人との交わりにこそ創造の端緒や引き金が存在することを認識していた方が早道のようです。
『人生とは出会いであり、その招待は二度と繰り返されることはない。カロッサ』
『二人の人間の出会いとは、二つの化学物質が接触するようなものです。
もし、何かの反応が生ずれば、両方とも変わってしまいます。ユング(心理学者)』
『人間は自己の運命を創造するのであって、これを迎えるものではない。ヴィルマン』
『人間は意欲すること、そして創造することによってのみ幸福である。アラン』
想像と言えば、物つくりとかアイディア、ビジネスモデル・・・・・を思いがちですが最大の想像に繋がるものは人との出会いではないでしょうか。
人に遭い、
人にもまれ、
人から叱咤され、激励され、
人から勇気を頂き、
人から叡智を授かる・・・・・
ノーベル賞を取られた方々が、まず言われるのは「良き師に恵まれた」事を良く強調されます。
一番は永い年月におけるご自分の努力である事は誰しも認めるところですが、その前に「自分に刺激を与えてくれた人」、「自分に努力を継続的にすることを教えてくれた人」の存在がある事を必ず口にされます。
それと大事なのは、「自分自身の新たな創造」の大切さを自らが気付いたり、良き師から示唆を頂く事の大切さだと思うのです。
長い人生の道のりで、旧態とした自分ではなく、自分とは一味も二味も事なった自分の創造が出来るのか否か。
人生は、常に新しい自分を創造できるかが楽しく豊かな人生を創造できるかに掛っているような気がするのです。
人との交わりは必ずしも有益な情報の提供や交わりのみが存在するわけではありませんが、様々な分野において刺激的で、悩ましい問題も大いに提供してくれます。
それが実は大事なもののようです。
ぬるま湯的な状態に甘んじる人生や日常は決して生産的でもありませんし、創造的でもありません。
様々な考えや人間性、言動によって、常に影響を受け、試行錯誤を強いられ、珠には驚きであったり、侮蔑の対象であったりするものです。
全ての人々がそれぞれに刺激的、感動的、示唆的であります。
創造を考えるなら、真っ先に人との交わりにこそ創造の端緒や引き金が存在することを認識していた方が早道のようです。
『人生とは出会いであり、その招待は二度と繰り返されることはない。カロッサ』
『二人の人間の出会いとは、二つの化学物質が接触するようなものです。
もし、何かの反応が生ずれば、両方とも変わってしまいます。ユング(心理学者)』
『人間は自己の運命を創造するのであって、これを迎えるものではない。ヴィルマン』
『人間は意欲すること、そして創造することによってのみ幸福である。アラン』
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16:03
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2011年01月15日
何で泣いたか分からない
何で泣いたか分からない
何かしら、涙が溢れてついホロッとする事はありませんか。
青春の頃にも経験したような気もしますし、馬齢を重ねると涙腺が緩んだ精にもよるのかもしれませんね。
でも「男は涙を流すな」、「人に涙を見せるな」などと言われて育ちましたので余程でないと涙を見せる事はありません。
かと言って、涙そのものに功罪があるわけではなく、流す涙には心を清めたり、落ち着かせたりする精神作用が伴う事は分かっていますから、人知れず流す涙はそれはそれでいいと思っています。
昨年だったか、一昨年だったか記憶は定かではありません。
イチロー選手が、
大リーグで首位打者を争っていたけど負けた事が決定的になった次の守備のときに涙を見せた事がありました。
緊張の糸が解けたのでしょうね。
素晴らしい事だと思うのです。
涙を見せた事が。
後で「何で泣いたか分からない」とコメントをしていました。
やはりなんで泣いたかわからない涙があるのです。
涙は理由があって流すのが全てではないのです。
流した後の清涼感というか、解放感、解き放たれた、わだかまりから離れた気持ちはそれは快感とでも評せる事のような気がします。
あの超人、イチローはこんな事も言っています。
私のような凡人にしてみたら、人間を超えてしまったといっても過言ではなさそうです。
『他人のバットには触らない。
なぜなら、他人の感覚が残ってしまう。
自分のバットは自分の体化しており、他人のバットを触ると自分でなくなってしまう。
50歳で4割打って引退する。・・・イチロー』
何かしら、涙が溢れてついホロッとする事はありませんか。
青春の頃にも経験したような気もしますし、馬齢を重ねると涙腺が緩んだ精にもよるのかもしれませんね。
でも「男は涙を流すな」、「人に涙を見せるな」などと言われて育ちましたので余程でないと涙を見せる事はありません。
かと言って、涙そのものに功罪があるわけではなく、流す涙には心を清めたり、落ち着かせたりする精神作用が伴う事は分かっていますから、人知れず流す涙はそれはそれでいいと思っています。
昨年だったか、一昨年だったか記憶は定かではありません。
イチロー選手が、
大リーグで首位打者を争っていたけど負けた事が決定的になった次の守備のときに涙を見せた事がありました。
緊張の糸が解けたのでしょうね。
素晴らしい事だと思うのです。
涙を見せた事が。
後で「何で泣いたか分からない」とコメントをしていました。
やはりなんで泣いたかわからない涙があるのです。
涙は理由があって流すのが全てではないのです。
流した後の清涼感というか、解放感、解き放たれた、わだかまりから離れた気持ちはそれは快感とでも評せる事のような気がします。
あの超人、イチローはこんな事も言っています。
私のような凡人にしてみたら、人間を超えてしまったといっても過言ではなさそうです。
『他人のバットには触らない。
なぜなら、他人の感覚が残ってしまう。
自分のバットは自分の体化しており、他人のバットを触ると自分でなくなってしまう。
50歳で4割打って引退する。・・・イチロー』
Posted by misterkei0918 at
18:08
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2011年01月14日
日本人は偉い
日本人は偉い
今まで極めて自虐的と言われてきた日本人、
私自身もそのような例に漏れないような気もします。
所が最近、マスコミの報道などを見ても少し変化が出てきたような気がしませんか。
「むしろ、日本人はこんな所が優れている」とか、
「日本人の優れた特性を表面に出していった方が良い」
また、日本の文化や文明が如何に優れているかや
日本人そのものの感性の鋭さ、思いやり、季節感、やさしさ・・・・・
素晴らしい事だと思います。
自分を卑下することや自虐的でいい結果を生む事は殆どないでしょう。
大きい災害を被った時の日本人の落ち着いた姿や行動は、外国の人々から見たらいい意味で奇異に映るようです。
特に中国の方々から見れば。
グローバルだからと、国民性や大事なものまでかなぐり捨てて、迎合する事は要らない事のように思えます。
経済優先にするがあまり、自国の大切なものまでも失ってはいけないと思うのです。
今日はこんな事に遭遇しました。
これも小さな事ではありますが、日本人らしい、共同の行動に思えます。
車に乗っている私の後方、信号二つ先位から救急車のサイレンが聞こえます。
だいぶ遠くですから、信号で曲がるかも知れませんし、途中で止まるかもしれません。
車線は狭い片側1車線ですから、余程両方の車が左右に寄らない限り真中を救急車が通り抜けるのは大変なことです。
やがて後ろに近付いてきました。
当然、そのままの位置でただ路肩に寄っただけでは通過できません。
そこで、誰が合図したわけでもありませんが、それぞれが車間を開けて、しかも左右の同じ場所に車が止まらないように工夫を始めたのです。
それこそ阿吽の呼吸とでも言いますか。
誰が指図したのでもないのですが。
救急車はその間を縫うように、ジグサグで通り抜けて行ったのでした。
とっさの日本人の知恵、譲り合い、優しさなんでしょうね。
こちらの方が「ありがとう」とつい口ずさんでしまいました。
今まで極めて自虐的と言われてきた日本人、
私自身もそのような例に漏れないような気もします。
所が最近、マスコミの報道などを見ても少し変化が出てきたような気がしませんか。
「むしろ、日本人はこんな所が優れている」とか、
「日本人の優れた特性を表面に出していった方が良い」
また、日本の文化や文明が如何に優れているかや
日本人そのものの感性の鋭さ、思いやり、季節感、やさしさ・・・・・
素晴らしい事だと思います。
自分を卑下することや自虐的でいい結果を生む事は殆どないでしょう。
大きい災害を被った時の日本人の落ち着いた姿や行動は、外国の人々から見たらいい意味で奇異に映るようです。
特に中国の方々から見れば。
グローバルだからと、国民性や大事なものまでかなぐり捨てて、迎合する事は要らない事のように思えます。
経済優先にするがあまり、自国の大切なものまでも失ってはいけないと思うのです。
今日はこんな事に遭遇しました。
これも小さな事ではありますが、日本人らしい、共同の行動に思えます。
車に乗っている私の後方、信号二つ先位から救急車のサイレンが聞こえます。
だいぶ遠くですから、信号で曲がるかも知れませんし、途中で止まるかもしれません。
車線は狭い片側1車線ですから、余程両方の車が左右に寄らない限り真中を救急車が通り抜けるのは大変なことです。
やがて後ろに近付いてきました。
当然、そのままの位置でただ路肩に寄っただけでは通過できません。
そこで、誰が合図したわけでもありませんが、それぞれが車間を開けて、しかも左右の同じ場所に車が止まらないように工夫を始めたのです。
それこそ阿吽の呼吸とでも言いますか。
誰が指図したのでもないのですが。
救急車はその間を縫うように、ジグサグで通り抜けて行ったのでした。
とっさの日本人の知恵、譲り合い、優しさなんでしょうね。
こちらの方が「ありがとう」とつい口ずさんでしまいました。
Posted by misterkei0918 at
23:03
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2011年01月14日
母と子の情愛を垣間見て
母と子の情愛を垣間見て
垣間見てと書くと「垣根の間から覗いた」的な解釈になってしまわないか危惧してしまいます。
「垣間見る」とは、言葉的にはのぞき見る事ですが日常的に使う意味としては、「それとなく」、とか「意識せずに見てしまう」、「それとなく目に入る」そんな意味合いで使います。
或いは間違っていたら、このように言い変えましょう。
「母と子の情愛を目にして」
車で通りすがる斜め前に、幼い子供を抱いた母親が立っています。
銀行の支店の窓口が閉じていますから、時間的には、多分3時以降。
バス停の前ですから、到着するバスを待っているのか、
あるいは、タクシー待ちか?
私は、赤信号で止まっている時です。
子供は、生まれて3~4カ月位と見えます。
抱きかかえた子供を、自分の顔と同じ位まで両手で数度上げたり下ろしたり。
子供はそれに答えるように、或いは怖さからでしょうか、母親にしがみつくしぐさを繰り返します。
まさしく母親と子供が一体化しているような、
睦まじい姿です。
父親ではこのようにはいかないものです。
遠目でそれとなく見ている私までがつい微笑んでしまうような。
以前、関東の埼京線に乗った時も、目の前に座っている母子の姿に感銘を受けてブログに書いてしまった事がありますが、母親と子供の愛情の交換はいつ見ても微笑ましく、胸打つものがあります。
出来れば私自身も幼いころに、母親とこのような経験もしたかったものだと思わずにはおれません。
母親の持つ母性は、幼い子供にとって史上この上ない、かけがえのないものであって誰でもそうなければいけない欠かす事の出来ない体験であろうと私は思うのです。
それが、正常に人を愛する事の大切さを学び、的確に実践できるのではないでしょうかね。
適切な母親の愛情に恵まれない、或いは心ない処遇や扱いの為に人生を棒に振る人間もいますし、屈折した取り返しの使いない人生を送る結果を招くことだってあるものです。
人の人生は一様でないのもわかりますし、あり得ない事も重々承知していますが、幼いころの母親との愛情にまみれた行動は誰にでもそれだけは共通の体験であって欲しいものです。
あの母と子の姿にほんのりとした思いを感じると同時に自分の幼いころをつい重ねてしまいました。
『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』
『子どもが変わる魔法の言葉
「お母さんは、あなたが大好きよ」
「あなたは、お母さんの宝ものよ」
「どんなことがあっても、お母さんはあなたの味方よ」。山崎房一』
垣間見てと書くと「垣根の間から覗いた」的な解釈になってしまわないか危惧してしまいます。
「垣間見る」とは、言葉的にはのぞき見る事ですが日常的に使う意味としては、「それとなく」、とか「意識せずに見てしまう」、「それとなく目に入る」そんな意味合いで使います。
或いは間違っていたら、このように言い変えましょう。
「母と子の情愛を目にして」
車で通りすがる斜め前に、幼い子供を抱いた母親が立っています。
銀行の支店の窓口が閉じていますから、時間的には、多分3時以降。
バス停の前ですから、到着するバスを待っているのか、
あるいは、タクシー待ちか?
私は、赤信号で止まっている時です。
子供は、生まれて3~4カ月位と見えます。
抱きかかえた子供を、自分の顔と同じ位まで両手で数度上げたり下ろしたり。
子供はそれに答えるように、或いは怖さからでしょうか、母親にしがみつくしぐさを繰り返します。
まさしく母親と子供が一体化しているような、
睦まじい姿です。
父親ではこのようにはいかないものです。
遠目でそれとなく見ている私までがつい微笑んでしまうような。
以前、関東の埼京線に乗った時も、目の前に座っている母子の姿に感銘を受けてブログに書いてしまった事がありますが、母親と子供の愛情の交換はいつ見ても微笑ましく、胸打つものがあります。
出来れば私自身も幼いころに、母親とこのような経験もしたかったものだと思わずにはおれません。
母親の持つ母性は、幼い子供にとって史上この上ない、かけがえのないものであって誰でもそうなければいけない欠かす事の出来ない体験であろうと私は思うのです。
それが、正常に人を愛する事の大切さを学び、的確に実践できるのではないでしょうかね。
適切な母親の愛情に恵まれない、或いは心ない処遇や扱いの為に人生を棒に振る人間もいますし、屈折した取り返しの使いない人生を送る結果を招くことだってあるものです。
人の人生は一様でないのもわかりますし、あり得ない事も重々承知していますが、幼いころの母親との愛情にまみれた行動は誰にでもそれだけは共通の体験であって欲しいものです。
あの母と子の姿にほんのりとした思いを感じると同時に自分の幼いころをつい重ねてしまいました。
『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』
『子どもが変わる魔法の言葉
「お母さんは、あなたが大好きよ」
「あなたは、お母さんの宝ものよ」
「どんなことがあっても、お母さんはあなたの味方よ」。山崎房一』
Posted by misterkei0918 at
22:23
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