2011年01月12日
嘘をついてもいいと教えてしまう世の中
嘘をついてもいいと教えてしまう世の中
子供にはさんざん嘘をついてはいけないと云いながら、片方の口では平気で嘘をつく。
人の嘘にはさんざんの文句を言うくせに自分は平気で嘘をつく。
「嘘も方便」などと逃げ口上を言い、自己弁護だけはしっかりする大人たち。
権力を握った途端に、約束事の全てを反故にし、時間が足りない、お金が足りない、出来なかった理由だけはしっかり探し出す。
嘘をついた事を咎められると、逆切れをし、逆恨みをする癖・・・・・・
世の中の構造が、嘘をついても構わないと如何にも教えているようです。
「正直者が馬鹿を見る」とは、昔の事ではなくまさしく現代の事であるよう。
「嘘は泥棒の始まり」などとうそぶいて、嘘をつける時代にもなってしまいました。
悪びれることなく、平気で嘘のつける世の中、正直であることが馬鹿と称される世の中、悲しい気がします。
全てが正直であれば良いとは考えてはいませんが、嘘のまかり通る世の中が果たして希望や夢の持てる社会と言えるのでしょうか。
「騙し合い」
「化かし合い」
純粋無垢等の言葉さえ、何処かへ置き忘れてきたような世の中になってしまいました。
何処かで、貧しくても物に恵まれなくても心優しい、思いやりの社会が訪れてほしいものですね。
「嘘に塗(まみ)れた」社会などいずれは砂上の楼閣と化すのかもしれませんね。
『人々がいつでも、正直なことをいうのはなぜか。
神が嘘を禁じたからではない。
それは、嘘をつかないほうが気が楽だからである。ニーチェ(独 哲学者)』
『よほど巧みに嘘をつけない限り、真実を語るに越したことはない。Jジェローム』
子供にはさんざん嘘をついてはいけないと云いながら、片方の口では平気で嘘をつく。
人の嘘にはさんざんの文句を言うくせに自分は平気で嘘をつく。
「嘘も方便」などと逃げ口上を言い、自己弁護だけはしっかりする大人たち。
権力を握った途端に、約束事の全てを反故にし、時間が足りない、お金が足りない、出来なかった理由だけはしっかり探し出す。
嘘をついた事を咎められると、逆切れをし、逆恨みをする癖・・・・・・
世の中の構造が、嘘をついても構わないと如何にも教えているようです。
「正直者が馬鹿を見る」とは、昔の事ではなくまさしく現代の事であるよう。
「嘘は泥棒の始まり」などとうそぶいて、嘘をつける時代にもなってしまいました。
悪びれることなく、平気で嘘のつける世の中、正直であることが馬鹿と称される世の中、悲しい気がします。
全てが正直であれば良いとは考えてはいませんが、嘘のまかり通る世の中が果たして希望や夢の持てる社会と言えるのでしょうか。
「騙し合い」
「化かし合い」
純粋無垢等の言葉さえ、何処かへ置き忘れてきたような世の中になってしまいました。
何処かで、貧しくても物に恵まれなくても心優しい、思いやりの社会が訪れてほしいものですね。
「嘘に塗(まみ)れた」社会などいずれは砂上の楼閣と化すのかもしれませんね。
『人々がいつでも、正直なことをいうのはなぜか。
神が嘘を禁じたからではない。
それは、嘘をつかないほうが気が楽だからである。ニーチェ(独 哲学者)』
『よほど巧みに嘘をつけない限り、真実を語るに越したことはない。Jジェローム』
Posted by misterkei0918 at
21:44
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2011年01月12日
知りませんでした。守・破・離
知りませんでした。守・破・離
初めてこの言葉に触れたのは、4年ほど前でした。
多分、剣道や柔道などの日本古来の武道に勤しんだ方々、或いはお茶やお花などの伝統的な作法や修練を重ねた方々は先生方から、多分一度や二度はお聞きになったのではないでしょうか。
私は武道では、剣道を小学校の頃に遊びのようにして教えて頂いた事はありましたが、正式に教えを請うたことはありませんでしたので、全くこの言葉を耳にする事はありませんでした。
多分、多くの皆さんはご存じだったかも知れませんね。
調べてみましたら、極めて日本らしい言葉ですね。
******************************
およそ600年前、室町の三代将軍足利義満の時代に、「能」を育て上げた観阿弥、世阿弥親子が「風姿花伝」(「花伝書」ともいう。)のなかで展開した芸能論の一部のようです。
現在は能だけでなく、歌舞伎や狂言といった日本の伝統芸能、剣道や居合道、空手など武道の世界でも守破離という言葉が広く使われています。
守・・・ひたすら教えを守り、学ぶ。
ひたすら師の教えを守り、多くの話を聞き、師の行動を見習って、自分のものへとします。全てを習得できたと感じるまで、師の指導を繰り返します。
破・・・教えの言葉から抜け出し、真意を会得する。
既存の概念を破る事。疑問解決の為に、師の教えを守るだけではなく独自の工夫を重ね、師の教えにはなかった方法などを試していきます。意識的に師の教えを崩し、次第に発展し…独自の方法を築き上げていく事になります。
離・・・型に一切とらわれず、自在の境地に入ること。
この境地まで達すると、師のもとを離れていきます。破と違うのは、「一切のこだわりを捨て、自由に、思うままに考え、自然に身を置いて行えば、言わば合理の極致としておのずから至芸の境地に至る」事です。離はいわば理想の段階ですが、その「道」を学ぶ者ならば、離の段階に入っていかねばならないのです。
******************************
人の成長もそうかもしれませんね。
親や周りのしつけや教育をひたすら学ぶ時期、
その教えを基本として、より人間らしい姿へ移り、
年齢を重ねるとともに、他人とは違う自分らしさを会得する。
企業経営でもそうです。
最初は先代の見よう見まね、
そのうちほぼ一人前と化し、
年月とともに、新しい事業形態であったり、
全く新しいビジネスモデルとなったり、独自性が滲み出てくるものです。
修練とでも言うのでしょうかね。
或いは、悟りの境地?
或いは達観?
まだまだですが、そんな世界へいつか辿り着く事を夢見て精進したいものですね。
初めてこの言葉に触れたのは、4年ほど前でした。
多分、剣道や柔道などの日本古来の武道に勤しんだ方々、或いはお茶やお花などの伝統的な作法や修練を重ねた方々は先生方から、多分一度や二度はお聞きになったのではないでしょうか。
私は武道では、剣道を小学校の頃に遊びのようにして教えて頂いた事はありましたが、正式に教えを請うたことはありませんでしたので、全くこの言葉を耳にする事はありませんでした。
多分、多くの皆さんはご存じだったかも知れませんね。
調べてみましたら、極めて日本らしい言葉ですね。
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およそ600年前、室町の三代将軍足利義満の時代に、「能」を育て上げた観阿弥、世阿弥親子が「風姿花伝」(「花伝書」ともいう。)のなかで展開した芸能論の一部のようです。
現在は能だけでなく、歌舞伎や狂言といった日本の伝統芸能、剣道や居合道、空手など武道の世界でも守破離という言葉が広く使われています。
守・・・ひたすら教えを守り、学ぶ。
ひたすら師の教えを守り、多くの話を聞き、師の行動を見習って、自分のものへとします。全てを習得できたと感じるまで、師の指導を繰り返します。
破・・・教えの言葉から抜け出し、真意を会得する。
既存の概念を破る事。疑問解決の為に、師の教えを守るだけではなく独自の工夫を重ね、師の教えにはなかった方法などを試していきます。意識的に師の教えを崩し、次第に発展し…独自の方法を築き上げていく事になります。
離・・・型に一切とらわれず、自在の境地に入ること。
この境地まで達すると、師のもとを離れていきます。破と違うのは、「一切のこだわりを捨て、自由に、思うままに考え、自然に身を置いて行えば、言わば合理の極致としておのずから至芸の境地に至る」事です。離はいわば理想の段階ですが、その「道」を学ぶ者ならば、離の段階に入っていかねばならないのです。
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人の成長もそうかもしれませんね。
親や周りのしつけや教育をひたすら学ぶ時期、
その教えを基本として、より人間らしい姿へ移り、
年齢を重ねるとともに、他人とは違う自分らしさを会得する。
企業経営でもそうです。
最初は先代の見よう見まね、
そのうちほぼ一人前と化し、
年月とともに、新しい事業形態であったり、
全く新しいビジネスモデルとなったり、独自性が滲み出てくるものです。
修練とでも言うのでしょうかね。
或いは、悟りの境地?
或いは達観?
まだまだですが、そんな世界へいつか辿り着く事を夢見て精進したいものですね。
Posted by misterkei0918 at
18:18
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