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2010年08月31日

「ありがとう」は有難い言葉


「ありがとう」は有難い言葉

変なタイトルになりました。

「ありがとう百万遍」の教えを頂いて実践をしていますが、その効能を語る事は果たして良いのか悪いのか。

どうしてかというと、
確実に効能が期待できるのを多くの方に教えて良いのか、
人から教えていただいた事を軽々しく口にしていいのか、
他人が実践しても、その効能は確かなものか分からないのに勧めてもいいものか、
勿体無い、


何か、新興宗教の布教に迷っている信者のような書き方になっています。

実はそんな事にまで思いを馳せる必要はなく、現実に役立ったのであれば役立っていますと明らかに正直に述べればいいだけのことなんです。

いかがわしい物を売るとか、人心を乱すようなことであれば躊躇するのも仕方ありませんが、大いに遣う事で本人も晴れ晴れ、言われる相手も嬉しい言葉ですから。

言われて気分が塞ぎこむとかはないでしょうからね。

人生が後25年あるとして、百万遍の「ありがとう」を言おうと思ったら、25年×365日=9125日。

1, 000,000÷9125=110。

1日に110回言えば、百万遍の達成です。
多分、意識を始めてから20万遍くらいは言っているのではないでしょうか。

或いは、意識しないで言っていた小さい頃から計算すると大よそ30万遍。

残りが50万遍。
という事は1日に50回。

もう先が見えてきました。
十分に百万遍の達成は確実です。

「ありがとう」は、

滅多にないこと(有難い事柄)をして頂いたことに対する心からのお礼であったり、
そこまでしていただいて申し訳ないというお詫びだったり、
心からの感謝の言葉であります。

私は、実は「ありがとう」百万遍を教えていただくまで、何も気にすることなく「すみません」を多用していたのです。

すみませんはそれなりに貴重な言葉使いですが、ありがとうでいいことまでも全て「すみません」で済ませていたのです。

どちらかというと遜(へりくだ)った言葉「すみません」では、十分に意が伝わっていない事に気付いたのです。

今ではほとんどを「ありがとう」に置き換えています。
何かしら変化を感じます。

人との位置関係にも変化が出てきました。
言葉はそれぞれに使い分ける必要がありますが、「ありがとう」の多様化で面白い結果が出てくる事だけは間違いなさそうです。

是非、皆さんもどうぞ。
「ありがとう」は有難い言葉です。
  


Posted by misterkei0918 at 14:12Comments(0)

2010年08月29日

2度あることは3度ある?


2度あることは3度ある?

27日は沖縄での講演会を終え、ホテルの最上階のラウンジで勿体無いご接待を頂きました。

私自身は、接待される事は先方にご負担をお掛けする事になるのですから出来れば避けたいところですが、逆に相手の立場に立てばお断りするのも大変に失礼な事でもあります。

美味しい泡盛を頂き、お食事も大変な満足するものでした。

あくる28日は午後に結婚式が控えていますので、当然午前中には帰ってこなくてはいけません。

朝の一番機を取って、十分なゆとりある旅程だったのですが、
飛行機のトラブルが発生したと言う事で、約一時間半、機内で待つ事になりました。

私にとっては25日に東京からの飛行機で時間通りに出発できない事態が発生し、30分ほど到着が遅れましたので連続して同じ事態に遭遇することになってしまいました。

25日は私の座席近くの修理の事態でしたので、飛行するには問題がないことを目で確かめていましたので全く問題を感じてはいなかったのですが、今回は事情が異なっています。

エンジントラブルで約1時間半を超える修理です。

機長から「エンジンの修理が終わりましたので問題がないようであれば出発いたします」のアナウンス。

やがてエンジンが掛かり、数分の確認の上出発と相成ったのです。
私の気持ちの中には、
「1時間半も掛かるほどのエンジントラブルで、修理が終わったとは言え、無事に福岡まで飛んでいけるのだろうか」

「日本の地上を飛んでいれば、何処か近くの飛行場に緊急に着陸できても、沖縄から九州までの海上でエンジントラブルが発生しようものならどうなるのだろうか」などと余計な憶測が働いてしまいます。

でも、到着の時間は大幅に遅れたとしても無事に到着です。

私としては実はありがたい事態だったと思ってもいます。
午後の結婚式のスピーチの準備が出来ていなかったのです。

25日は東京での会議に終始、
26日は2,3の大切な会議や集まりです。

27日が沖縄での2時間ほどの講演会ですのに、そのパワーポイントデータの準備がまだ出来ていなかったのです。

ですから28日の結婚式のスピーチの準備が出来ていなかったのです。
頭の中では大よそ考えてはいましても。

その飛行機の修理とフライトの時間が貴重な時間となったことは否めません。

何が幸いで、何が禍するか分からないものです。
その飛行機のトラブルが私にとっては、大事な時間を作ってくれる事になったのであります。

「2度あることは3度ある」といいますが、
「転じて福とする」思いが働けば、人生もぎくしゃくしないで安楽になるのかもしれませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 22:33Comments(0)

2010年08月29日

縁は深まってこそ


縁は深まってこそ

本日は身近な方の結婚式に参加してきました。
いつ参加しても結婚式は感動しますし、自分の結婚生活を改めて見つめる時間にもなります。

「縁は異なもの、味なもの」と言います。
またまたその結婚式で「縁」の大切さを意識させる事態が発生しました。

普段、親しくしている先輩にお会いしたのですが、お二人とも新郎の方の親戚の方。

まさか結婚式でお会いする事も全く思ってもいませんでしたし、しかもお二方とも新郎の親戚筋とあっっては二重のびっくりです。

偶然とはいえ、あり難いものです。

一般的な話として、友人知人として参加した方がたまたまお会いした事はよくある話ですが。

やはりご縁は大切にしないといけませんね。

しかもその縁がお会いするたびに深まっていくと嬉しいですよね。

会った瞬間をただの一過性のこととして済まさないで、一つ一つを大切に私自身が感動の瞬間として捕らえることが大切なのでしょうね。


1934年にメキシコで作曲されたジャズにこんな曲が存在する事が分かりました。
「WHAT A DIFFERENCE A DAY MADE」~縁は異なもの~

『一日がなぜこんなに大きな違いをもたらすのかしら?
ほんの二十四時間ほど過ぎたというのに
雨が降っていたところに
太陽と花が輝いているなんて
私のきのうは暗くよどんでいたけれど
今日の私はあなたの一部になったように感じる
あなたが私のものだと言ってくれたので
寂しい夜は過ぎ去ってしまった

一日はなぜこんなに大きな違いをもたらすのかしら?
私の前には虹がひらいている
あの素晴らしいキスの恍惚とした瞬間から
空の上にはもう荒れ模様の天気はない
ロマンスがメニューに載っているなんて
それはまるで天国のようだわ
一日がこんなに大きな違いをもたらすなんて?
そしてその違いはあなたなの』
  


Posted by misterkei0918 at 21:58Comments(0)

2010年08月26日

安全のためなら


安全のためなら

昨日は日帰りの東京でした。
車は空港の近くの駐車場に預かっていただき、
朝の一番機で福岡空港を出発、
最終便での福岡帰着となりました。

時々は一泊をする時もありますが、明日の予定を考えるとやはり地元へ帰ってきたほうが便利なようです。

午前中は、東京の会社を2箇所見学、
午後からは東京ドーム近くの業者の展示会参加と電子書籍の勉強会。

酷い暑さの中の行脚は疲れますし、時間が読めないものです。

行きの飛行機も幾分か遅れましたが、帰りの便は約30~40分の遅れとなってしまいました。

理由は、座席の横についている肘掛の修理。

こんな事で大勢の乗客を待たせる事に疑問も持ちましたが、でも何事も安全第一ですよね。

私の斜め前の座席ですから、修理の様子もつぶさに見ていましたが、大幅な事ではなくてただ肘掛が横に倒れないように応急的な修理で、1センチ幅程度のビニールの紐で結わえるだけの事でした。

完全に外れたり壊れているわけでもなく、人が座席に座れないわけでもありませんから、それだけなら飛行機の就航が終わった後にでも十分にできる事ではあったと思います。

一人の方は、結ぶ作業が終わったら今度は別の人が確認に来ます。

OKが出たのでしょうね。
機長から、処置が終わったのでこれから出発しますのアナウンス。

ネジやビスの一本の緩みから、大きな事故へ繋がる事だってあるわけですから仕方ありません。

小さなこと、些細な事でも重大に捉えて不足がないようにすることが命を守る最重要課題ですよね。

私のように、第3者は案外安易に考えてしまいます。

遅れが出た事で、予定が狂った方もおられるのでしょうが命には替えられないものです。

仕事の中身によっては、程ほどで良いこともありますが。

でも、無事に帰れて一安心でした。
私は目の前の作業でしたので、不安に駆られる事はなかったのですが、ほとんどの方々は処置に時間がかかりましたので、飛行中も心配をした方もいたのではなかったでしょうか。
  


Posted by misterkei0918 at 13:53Comments(0)

2010年08月24日

成功へのステップってあるの?(後編)


成功へのステップってあるの?(後編)

成功という言葉の響きには、喜ばしい、祝福に近い印象を持つ人、悪い、あくどい印象の人、
成功など関係ないと思う人、或いは必要ないと思う人もいる事でしょう。

成功はその人の主観に関わる事ですので、同じ事でもある人は幸せと感じ、ある人は幸せのかけらも感じない人もいるものです。

或いは成功から、あえて逃げる人、避ける人も人もいるかもしれませんよね。

成功などしたくない人ではなく、成功したいと思っている人であれば、私は成功にステップはこんな事だと思うのです。

前編にも書きましたが、
『成功しようとする執念・理念、
成功する運や時そして幾許(いくばく)かのお金、
人との良好な係わり・・・・・ではないかと思うのです』

執念は「絶対成功するという想いや決意」
理念は「正しい心のあり方であったり、人間としての真摯な態度かも」

運はおおよそ自分で引き寄せるものでしょうが、「運命を感じること、運気を信じる事」
時は「成功するにもその人の心と体のリズムがあると思うのです。そのときを逃さず、しかも焦らない」

幾許かのお金は「家族や社員を路頭に迷わせたりしないで、成功の最低限の原資は必要なもの」

人との良好な係わりは「成功の陰には必ず人が存在するもの。慢心、傲慢を捨て、謙虚、お陰様を貫き、礼を失しない事。笑顔を旨とし、常に人やお客様の幸せをこそ優先する姿勢」

そんなところではないでしょうか。

逆にそんな心境になったときこそ、幸せな時かも知れませんね。

難しい事ですが、物に溢れたり、お金に囲まれたりする事が成功でもなさそうです。


「成功六ヶ條」というのを見つけました。

 一.如何なることがあっても物事を肯定的に考える。
 二.常に一歩でも二歩でも前進することを考える。
    そのために努力することを惜しまない。

 三.如何なるときでも人生に対する明確な目的意識を持ち続ける。
 四.自分を信じ他人の否定的な言動に惑わされない。

 五.大事に直面して失敗を恐れない。必ず成功すると確信する。
 六.将来の望ましい自分の姿を常にありありと、微に入り、細にわたり想像する。
    そうすると想像どおりの人となると確信する。
                      道幸武久-『加速成功』より一部抜粋!!


先日「よき経営者の姿」(伊丹敬之著・日本経済新聞出版社)という本に出ていたものです。
よき経営者には、共通する3つの顔つきの特徴があるというのです。

1. 深い素朴さ
  →深いは、思考の深さ。素朴さは、素直な心。
2. 柔らかい強さ
  →硬いのではない。強いのである。だから柔らかい。
3.高い透明感
  →すべては必然という受け止める覚悟
  


Posted by misterkei0918 at 20:00Comments(0)

2010年08月24日

成功へのステップってあるの?(前編)


成功へのステップってあるの?(前編)

商いは「人」であると昔から言われています。
商いは「飽きない」にも通じます。

果たして成功への階段、ステップはあるのでしょうか。

私も若い頃、ある大手コンピューターメーカーを飛び出し起業の経験を持っています。
自分に経営が出来るなど、未だに思ってもいませんし、おこがましくも今でも経営をしている等と到底思ってもいません。

ちょっとした舵取り役位の感じでしょうか。

経営とは、もっと高度な判断や知識、情報に基づいてマーケティングや戦略戦術に裏打ちされた行動のように思うからです。

私の経営は行き当たりばったり、極めて少ない知識、どちらかというとどんぶり勘定で荒削り、理念の無い、哲学の無いやり方です。

人真似でも経営は無理、駄目なものです。

人真似で成功へのステップが確保できるなら、昼夜を問わず研究すれば成功するはずです。
でもそう簡単にはいかないものです。

では真似ではなくて、マーケットの理論や数学的、科学的な勉強をすれば成功へのステップを掴めるのでしょうか。

決してそうでもないでしょう。
そうであれば優秀な大学で一生懸命に勉強した人は成功することになってしまいます。

では、一心不乱に汗水たらして骨身を削って頑張れば成功するのでしょうか。

人の経験を自分のものとすることも大事、
理論やノウハウを勉強も大事、
寝る間を惜しまずに頑張る事も大事・・・・・

どれをなくしても経営は成り立たないものです。

成功が自らの努力で勝ち取る人がいるかと思えば、タナボタや偶然、ちょっとしたきっかけ、成り行きや強引な手腕、手練手管で勝ち取ることもありますよね。

私は、
成功しようとする執念・理念、
成功する運や時そして幾許(いくばく)かのお金、
人との良好な係わり・・・・・ではないかと思うのです。

しかも成功はいつまで続くとも保証されないものです。
日本は世界中の何処と比較も出来ないくらいに長寿企業が多いところです。

そこには、東の果てでしかも孤島であった事も幸いしているのでしょうが、気候や風土に育まれた国民性がその役割を十分に果たしたような気がします。

長くなりました。
明日に続けてみたいと思います。
  


Posted by misterkei0918 at 19:02Comments(0)

2010年08月24日

石橋を叩きすぎると、足元から崩れ去ってしまう


石橋を叩きすぎると、足元から崩れ去ってしまう

「石橋を叩く」、つまり何事にも慎重で実践に移す勇気のないこと、
決断が鈍く、慎重すぎる事、用心が過ぎる事・・・・・

或いは、物事に熟慮する様、見極めようとする謙虚な行動・・・・・

昔、「○○財閥のグループ起業は石橋を叩いてわたる傾向がある」などと言われたり、「石橋を叩いても渡らない人」などとも良く言われたものです。

私などの性格は、どちらかというと「石橋を叩く方」だと思っています。

物事を余りにも真剣に捉えすぎるが為に、なかなか決断が進まない。
でも、決断した後は結構早いのです。

「思い立ったが吉日」と言わんばかりです。

決断が遅いという事は、実は時期を逸する事にも繋がってきます。
慎重が故に時間を要しますし、行動を起こした時には既に時期を失していたという事も。

そんな時には、私の取って置きの技があります。

時期を逸しても後悔しない癖をつけたのです。

例えば、買いたい車があったとします。
いつまでも決断がつきません。
買いたい車に対する想いはつのるばかりです。
ついに決断をしました。「よし買おう!!」

ところが肝心のその車は既に他の方が買ってしまいました。

ここでがっかりしない事にしたのです。
「きっと、次はこの車よりもっと素晴らしいものが現れる」
「神様が、この車は買わない方が良いと暗に教えてくれている」


これで気持ちが治まるようになっています。
余り執着をしないように。
禍根が残らないように。

でも、石橋を叩きすぎると結局は自らの足元を崩してしまうような気がします。

全てがそうではありませんが、ある程度は早い決断を心掛けるほうが人生は上手くいくように出来ているような気もしますが如何でしょうか。

「鳶に油揚げを浚われる」なんてこともあります。
また、考えている間に「恋人を浚われた」なんて事もあり得る事です。


『危険にあまり注意しすぎると、多くの場合、危険に落ち込む。ラフォンテーヌ「寓話」』
  


Posted by misterkei0918 at 18:00Comments(0)

2010年08月23日

忙しさは案外、消化出来るものです


忙しさは案外、消化出来るものです

「忙しい、忙しい」はなるべく言わないようにしています。
だって忙しいの「忙」は心を失うと書きますから。

とは昔から大人が教えてくれました。

また、忙殺、殺伐という言葉もあるくらいです。

そうですよね、忙しいといっていても物事の解決にはなりませんし、却って自分の気持ちを急きたて、空回りを促しているような気がします。

小さい子供に「お母さんは忙しいんだから、自分のことは自分でしなさい」
「忙しいのだから、あなたに構っている時間なんかないんだから」

などと言われるとショックです。

そんな親に限って、大した忙しさなどではないのです。
或いは、能率の悪い、物事の案外裁けない人だったりもします。

でも、忙しいと言いたい時もあるものです。

そんな時には、慌てないで一つ一つ優先順位を決めて片付ける癖をつけることです。
しかも落ち着いて。

メモを書いてみるのもいいですよね。
しなくてはいけないこと、

連絡をする事、
電話をする事、
纏めないといけない事、
会議や打ち合わせ、



書いてみると案外そうでもなかったりします。
しかも精神的に落ち着きますよね。
それで済ませたつもりになってはいけませんが。

その中から一つづつ片付けていけばいいのです。

私はそのメモをいつも肌身離さず持ち歩きます。
何かあると思い出しているのです。

いくつも用件が重なっていると、「確かに沢山の予定や用件があるはずなのに思い出せない」とか、「一部忘れている」とかありますよね。

土壇場になって思い出して大慌てするなど。

片付いたら一つづつ消していくのです。
慣れてくるとその消す作業そのものが楽しくなってきます。
そうなるとしめたもの。

消すという心地よい作業の為に、重なった用件をこなし始めます。

人は不思議なものです。
あれほど、重なりすぎた要件で混乱していた気持ちまで落ち着いてくるのですから。

こなす事が、しかもリズム化できるといいですよね。

最後に上手に裁いた自分を「よく頑張ったな」位は心の中で賞賛してあげてもいいのではないでしょうか。

また、それに乗じてますます頑張るに決まっていますから。
  


Posted by misterkei0918 at 23:16Comments(1)

2010年08月21日

最も記憶に残る夏の思い出(後編)


最も記憶に残る夏の思い出(後編)

いじめは、本人にとっては大変に悔しい事ですし、納得の出来ない、悲しい出来事でした。

何もしていない自分が分けもなく仲間はずれにされ、体罰を食わされるのですから。

小遣いを多く持っているとか、親が財産家だとか、著名な人だとか、少しでも友人たちの気持ちをなびかせる材料が存在すれば状況も変っていたかもしれませんね。

いじめたら、後が怖いとか、大変な事になるとか・・・・・

或いは私に腕力があったり、相手に恐怖心を煽るものでもあればそんな事は起こらなかったでしょうが。

でも、それが良かったんです。
何も抵抗できずに、小さくなって、おどおどするしか方法がない。
しかも彼らにとって存在の必要さえない私でしたから、また引きずり込む事もなかったのでしょう。

人生はどこに分岐点が存在するか知れないものです。

夏休み中盤から始まった「見返し」を目的として猛勉強は2学期になってとんでもない結果をもたらす事になったのです。

実は2学期の中間試験ではトップクラスに躍り出たのです。

そうなるとしめたもの。
彼らへの見返しのはずの勉強が、私の一番の楽しみになり、成績が上がることに最大の興味をそそる事になってしまいました。

そのうち、彼らの存在すら私からは見えなくなってしまいましたし、そんな私を見る彼らの目も完全に変ってしまいました。

もう手の出せる相手ではなくなってしまいました。

3年生では、完全にトップクラスの常連になってしまいます。

今では高校へ進学するのが当然になっていますが、当時は成績のいい者や普通の家庭の子供は高校へ進学していましたが私の様な不遇な環境の生徒は高校など夢の夢でした。

中学卒業で集団就職を考えていた私に当時の担任の先生から「君の成績ならトップで入学できるから、高校へ是非行きなさい。後の事は任しておきなさい」、こんな有難い言葉でした。

当時、生活保護を受け、母は入退院を繰り返す日々でしたから高校などいけるわけがなかったのです。

高校進学をしたり、家にテレビがあっても生活保護は打ち切られましたから。
父親がいれば事情も異なっていたのでしょうがね。

気持ちは既に就職に決まっていましたが、先生の勧めや廻りからの説得もあり、進学へと心は傾いていきました。

最終的には、先生が奨学資金で進学できる道と高校の夜学部の図書館司書というアルバイトを容認していただいたのでありました。

それもこれも、あの時の夏の思い出が始まりだったのです。

人生は何が禍し、何が幸せに続く道なのかは誰にも分かりませんが、どうも何事も真剣に捉え、後ろ向きの考えに惑わされない事のような気がします。
  


Posted by misterkei0918 at 12:50Comments(0)

2010年08月19日

ひとつひとつ


ひとつひとつ

人の心は広くしかも深いようで案外そうでもないものです。

懐が深そうに見えても内実は、そうでもなくて落ち着きのない、不安な時もあるものです。

人生は不思議なもので、重なる時には様々な事が重なり合うものです。
如何にも、満を持したかのように見事に重なり合い、「もうこれ以上耐え切れません」と言いたくもなります。

考えようによっては、一時期に集中すればそのときに全てが解決すればいいのですが、物事はそんなに簡単には進まないように出来ています。

また、人の悩みは解決すればそれで終わりではありませんし、寄せる砂浜の波のように終わりを知らず、時には大きな波であったり、凪ている筈なのに寄せては返し、返しては寄せるものです。

そしてまた、不思議なものです。
同じ悩みや不安は、いつまでも留まる事はしません。

再び戻ってくる事はあっても。

重なり合う不安や悩みも、どうも真剣に立ち向かう姿勢が大事に思われます。

中途半端な解決を好まず、真摯に対峙する事ではないでしょうか。

不安や悩みが最も嫌いなのが、真剣な思いで解決しようとする姿勢のようです。
真剣な思いで解決をした人は、何ものにも変え難い経験や知恵を積み重ね、「乗り切り策」を獲得し伝授してもらっています。

悶々とした日々の中にも、一筋の明かりが見えてくると嬉しいものです。
一筋の明かりは、やがて廻りをも照らし、大きな灯明の呼び水としてその役割を果たすもの。

不安や悩みは、それそのものが不安や悩みではなくて、私どもの心がどのように捉えるかにかかっているような気がします。

ひとつひとつ、
絡み合った糸を解すように、
押し寄せる波の力を吸収するように、
私どもの生きる力がますますもって意気盛んになるように、

ひとつひとつが大事なようです。
「神様は解決できない課題は与えない」とも言います。
「選んで課題を与えている」ともいいます。

であれば、自信を持って勇気を奮って・・・ひとつひとつ・・・

徐々に逞しさを備える自分の姿を夢見ながら。
  


Posted by misterkei0918 at 17:06Comments(0)

2010年08月17日

心の開き度合い?

心の開き度合い?

心がどのくらい開いているとか、物ではありませんから計ることはできません。

「胸襟を開きなさい」「心を開きなさい」などと言われてもどのくらい開くのが適当で、どのくらい開かないのがいけないなどの判断など誰にも出来るものではありません。

私自身もなかなか心を開かない人間でした。
どちらかというと閉ざした人間だったといった方が正確でしょう。

ところが、人はこちらが開いた程度しか心を開いてくれない事が分かってきました。

中にはおられますよ、あっけらかんで誰彼構わずオープンな人。
言い換えれば、所構わずといった方がいいかも。

でも、彼は私に心を開いたのではなく自分のキャラクターとしてそうなっているのであって私を理解してくれているのでもなく、受け入れてくれているのでもありません。

心を開くといっても、全てをオープンになんて通常の人には出来ません。
また、すべきではありませんよね。
余程心を赦した人でない限り。

何処かに壁がありますし、言っていいこと、言ってはいけないこと、相手に分かって貰っては困る事も存在するものです。

また、恋人ならまだしも、相手の全てを知りたいわけでもありません。
知ってしまうと、人間としての本当の付き合いは難しくなるかもしれませんね。

たとえ夫婦でもそうですよね。

何でもかんでも分かっていればいい、見え過ぎるほどに見えていればいいというものでもないでしょう。
隠し事がいいということではなく、人間の尊厳を保つためにはそんな部分が必ず存在すると思うのです。

だからこそ、夫婦が40年も50年も続くのです。
見えない可能性や、何処かに秘めた逞しさや、そこはかとない人間性が大事だと思うのです。

自分の心の開き度合い。
ここまでならと決めるのも難しいものです。

「自分が心地よい程度の度合い」とでも言いましょうか。
相手にも、自分にも。

そうすると不思議なもので、ここまでならと思っていた度合いが少しづつ少しづつ広がっていくのが分かります。

所謂、心地よい度合いが広がっていくという事です。

最初から抵抗なく、出来る方は問題はないのでしょうが、他人に心を開く事が下手な人間、いつもじれんまに苛まれている私のような人間、劣等に包まれているような私には時間と勇気を要する事であります。

ですから、少しづつ少しづつ。
自分の心が開く事が自分にも感じ取れて、しかも心地よさが実感できる程度で良さそうです。  


Posted by misterkei0918 at 21:44Comments(0)

2010年08月16日

成功するには失敗を重ねる事

成功するには失敗を重ねる事

何か可笑しな言葉ですが、真実ですよね。
慎重な性格の私は、いつも失敗した時の事を一番に考えています。

失敗したらどうなるのか、
家族は?自分は?

失敗したら、こんなに恥ずかしい事はない、
投資したお金は?

路頭に迷ったらどうしよう、
明日からの食事は?住居は?

車にも乗れなくなる、
後ろ指を差されはしないか、


失敗するとは限っていませんし、まだ具体的に行動もしていないのに。
いかにも確実に失敗するのを予言しているようです。

成功した時の姿を思い浮かべるのが先でないといけないのですが、どういう訳か失敗の想像は極めて具体的で写実的です。

「失敗は成功の元」と言うから最初から失敗を予測してしまいますから、「成功には失敗が肥し」位に思ったほうがいいのかもしれませんね。

事実そんな所がありますよね。
また失敗を重ねて成功したほうがより多くの事を学んでいる事を実感できます。

失敗を恐れないと言うより、失敗が成功への原動力である事を記憶の底に潜ませておくと良いようです。


『間違いと失敗は、我々が前進するための訓練である。チャニング』


『有能な人間は失敗から学ぶから有能なのである。
成功から学ぶものなどたかが知れている。ウィリアムサローヤン』


『チャレンジして失敗することを恐れるよりも、何もしないことを恐れろ。本田宗一郎』


『英雄とは、自分のできることをした人である。
これに対し、凡人は、自分のできることをせず、出来もしないことをしようとする。ロマンローラン』


『幸福のことを考えれば幸福になる。
みじめなことを考えればみじめになる。
恐ろしい事を考えれば恐ろしくなる。
病気の事を考えれば病気になってしまう。
失敗のことを考えれば失敗する。マーフィー』


『人生における最大の失敗は、失敗を恐れ続けることである。エルバートハバード(教育家)』


『私は実験において 失敗など一度たりともしていない。これでは電球は光らないという発見をいままでに、2万回してきたのだ。トーマスAエジソン』
  


Posted by misterkei0918 at 18:47Comments(0)

2010年08月16日

親不孝物が語る先祖を弔う話


親不孝物が語る先祖を弔う話

ご先祖様のお里帰りの季節です。

彼の地から、この世へ年に一度お見えになるご先祖の方々の為に心からお迎えをする心構えは果たして出来ていたのでしょうか。

道に迷わないように灯明を点し、門や入り口には提灯を下げ、お仏壇にはお供えをし、お線香を絶やすことなく弔い、お迎えをしなくてはいけなかったのですが。

今年もほんの形だけになってしまいました。

普段はご先祖様の恩恵を頂きながら、その思いを形にする事さえも十分に出来ないでいるのです。

ついぞ昔からのしきたりや、常識をすっかり忘れてしまいましたし、大事なところを十分に学ぶ事さえ忘れてしまっています。

「お仏壇に手を会わせて育つ子に悪い子はいない」とか、
「お仏壇を置いて、ご先祖様を大事にしている家庭に不幸は来ない」とも。

両の手を胸の前で合わせる行動は先祖を敬う態度であり、自らの家族や地域、社会を大事にし、自分の心身の健康を守るしぐさの様であります。

どうも普段からのそんな行動が、心の中に染み入っている事が大事なんでしょうね。

それが手向けられたお線香の光と香り、蝋燭の光の前でならば尚更のことかもしれません。

私のように、親不孝者は幾らご先祖様を大事にしようが元来、建前がなっていないのですから困ったものです。

ご先祖様を崇拝する前に、親孝行が先立たないといけません。

だって、親はご先祖様方への道であって、避けては通れないものだから。

親を置き去りにして、不幸の限りを尽くしておいてご先祖様など崇拝する事も可笑しいですが、増してやご先祖様だって会ってはいただけないでしょう。

人の道を踏み誤っていながら、飛び越してご先祖様にあやかろうなどという神経がそもそも赦されるものではありません。

もうお盆も過ぎ去ろうとしています。
ご先祖が心置きなく安堵の心で彼の地へ旅立っていけますように、十分な反省と誓いをしなくてはいけませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 18:04Comments(0)

2010年08月16日

生まれ変わる事の喜び

生まれ変わる事の喜び

自らの生き方や在り方にはどうも満足しないように人間は出来ているような気がします。

私の最も不幸だった事は?

貧乏だった事、
生まれてすぐ親と別れてしまったこと、
体が健康でなかった事、
生涯父親と暮らすことのなかったこと、
少し不自由な体を持ったこと、



不思議なものです。
こんな事はすらすらと幾らでも出てきます。

では、逆に幸せな事は?と問うて見るとなかなか出てこないのです。
欲深いのでしょうね。

なかなか現状肯定しない、どうも不幸の渦中にいるほうが居心地がいい、逆境で頑張っている姿がかっこいい・・・・・

私自身の深層心理がそうさせるのでしょうね。
本当は、過去の思い出は既に過去であって、今に執着する事のほうが賢い事は分かっているのですが。

本当は今が一番幸せのはずなのに、欲深いものです。
今をしっかり見つめなおし、心の中も今で満たしてあげることが大事なのでしょう。

人生は面白いものです。
振り返ってみると幾度となく生まれ変わっている事に気付きます。
本当に幾度となく!!

その変った事に時には賞賛の言葉も浴びせて上げないといけません。
上手に、自分の時代を作り出し、時には大きく舵を切ったり、周りからの刺激や誘導、誘惑、自助努力によって今の自分を育て上げてのですから。

今が全てでも最高でも、頂上でもありません。
これからも大きく変われる余地が幾らでも存在するのが人生です。

変る事の喜びを喜びとし、自らの可能性を信じる事が出来ればこれに勝る人生はないような気がします。


「星の王子さま」を書いたサンテグジュペリの言葉です。

『生きているということは、徐々に生まれることである。サンテグジュペリ』

そしてついでに、
『愛とは、お互いに向き合う事ではなく、お互いに同じ方向を見つめる事である。サンテグジュペリ』

他人を愛する事がそうであるように、自分を愛する自分があるとするならば、自らの可能性を信じ一時的な打算や迷い、誘惑などを恐れずに自らの本心と同じ方向を見つめる事ではないでしょうか。
  


Posted by misterkei0918 at 13:05Comments(0)

2010年08月15日

救急の30秒治療

救急の30秒治療

数ヶ月前から、両耳の中に傷状のものが出来て、今朝は痛みから救急治療センターへ走ってしまいました。

かかりつけの耳鼻咽喉科は残念な事に改築状態で見てもらえない事態。
地域の耳鼻咽喉科を訪ねますが、13日から16日まで調べたところは全て休み状態です。

数日は、依然頂いていた痛み止めで夜を過ごすことになってしまいました。

昨夜は一応痛み止めは飲みましたが、
家族から「耳が聞こえなくなったらどうするの」
「我慢強いのが災いする事だってあります」などの言葉に触発されたこともありますが、ネットで救急外来をしているところを調べる事にしました。

若しかすると開業医の方が何処かの地域で診療されているかもしれないとの期待も掛けて。

ですが、やはり想像通り救急センターしかやっていないようでしたので8時に自宅を出発。
到着が8時20分。

受付を済ませ、9時からの診療開始です。
私が耳鼻咽喉科の3番目。

待っている間にも、カルテを持った患者の方がお見えになります。
子供の泣き声だって聞こえます。

どうも私よりまだ後の治療のようです。

私はどうにか我慢は出来ますので、先に子供を診療していただいてはとも思ったのですが私一人が譲るだけならいいのですが、その間の患者さんを飛ばしてしまうと言う事であればその方々に迷惑をお掛けする事になってしまう様な気がして断念を致しました。

難しい判断ですよね。
そこにいる皆さんの全員にに声を掛けて了解を得る事もできませんしね。

私の番です。
「○○さん、どうぞ」
先生の前に座って、「どうしました?」

「数日前から、両耳に傷状のものが出来て痛くて困っています」
ポップコーン状の黒いものを私の耳に差し込んで「炎症を起こしていますね」

「両耳に薬を塗っておきました」
「明日、近くで診察を受けてください」

その間、20秒?30秒?
せめて、考えられる原因だとか、こんな事には注意しておきなさいとか、何かなかったのでしょうかね。

普段からのかかりつけの先生とのいつもの診療であればそんな事でもいいのでしょうが、こと救急に朝早くから駆け込んできたのですから。
しかも大いに頼りにして。

せめて痛み止めくらいは欲しかったのですが、薬の処方もなし。
そんな程度で救急に駆け込んだ自分が空しくもなり、恥ずかしくもなってしまいました。

私の様に滅多に病院などに行かない人間、ギリギリまで我慢をする人間にとってそんなものなのかとますます持って病院へ行かない身勝手な理由付けが始まりそうです。

「医は仁術」
些細な事でもいいと思うのです。
患者の気持ちを和ませる、安堵と落ち着きの心を授けるのがお医者さんの一番の役割と思うのですが如何なのでしょうか。

命に係わる事態出なかったとしても、自分の健康や心のあり方に自信を持って生き抜くにはお医者さんのそんな何気ない心遣いが力強い生命力を授けてくれるものです。

今日の救急は、むしろ行かなかったほうが良かったようです。
  


Posted by misterkei0918 at 22:28Comments(0)

2010年08月13日

「子供達へ贈る言葉」のどうしても筆が動かない

「子供達へ贈る言葉」のどうしても筆が動かない

数ヶ月前から、どうしても「子供たちへ贈る言葉」を書きたくて、幾つかのタイトルだけは決めたのです。

どうも先にそれ以上進まないのです。

3,4日のシリーズにしたくて、準備はしたのですが。
多分、こんな気持ちが錯綜しているような気がするのです。

もう余生幾許もない人が書くような気がする。
(遠逝の言葉?)

書く前に、子供たちを正面から見据えて言葉として伝える事が大事であって、ブログなどというある意味不確かなものにこんな大事な事を諾すのは可笑しいような気がする。

公然とブログなどで、書くような事ではないのではないか。

一度、書いてしまうともっと伝えなくてはいけない事や大事な事が疎かになり、二番煎じになりはしないか。

もっと、真剣に考えるべきであって軽々しく纏めてはいけない。
もっと時間を掛けて、細心の限りを尽くすべき。
きっと纏めきれない部分が出てくる筈。

まだ早すぎる、そして勿体無い、
他人に見せることではないのでは?

今までのブログだって見ていないのに、本当に子供たちに伝わるの?
(ブログは本来、妻や子供たちは今は見てくれなくてもいいという思いで書いてきている筈?)



やらない理由を考える事を得意とする人間ですから私は。

とは言いながら、きっと近いうちに一挙に書き下すかもしれませんね。

私の性格からして、いつまでもうずうずするのは嫌いですし、今までもブログがそうであるように書き始めたら止まらないでしょうから。

子供は親を成長させる為に授かったような気がしないでもない、だって一番、親として相応しくない私であったのですから。

そんな事からいうと私が「子供に贈る言葉」などおこがましいかも知れませんね。


『夫を持ったり、子供を持ったりするたびに、人間の心の眼は開けてゆくものだよ。川端康成「結婚の眼」』


『子供に愚かだと信じさせると、一層愚かな行いをする。ジョンホルト』


『子供たちがのびやかにすくすく育つために必要なのは、理路整然としたルールや整備された環境ではなく、実は“誰かに世界一愛されている”という実感なのではなかろうか』


『世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される。ルソー(仏・思想家)』
  


Posted by misterkei0918 at 00:08Comments(0)

2010年08月12日

いつも劣等意識が邪魔をする?

いつも劣等意識が邪魔をする?

皆さんはそんな事はありませんか。
私はいつでもどこでもそうなんです。

いつも他人より劣っていると言う意識・・・つまり劣等意識ですがどうしても抜けることはありません。

そんな割には負けず嫌いなんです。
不思議ですよね。
劣っていると意識するなら、最初から負けていなさいと言う事になりませんか。
なのに「負けず嫌い」

でも、表面的には競争したり、争いごとは大嫌いなんです。
ですから、表面上はそんな風には見えないようで友人たちからは「あと少し自分を表面に出せ」とよく言われます。

つまり「隠れ負けず嫌い」なんでしょうね。

パチンコや麻雀をする事もありませんし、ほとんど競う事は最初からしない方針です。

そうですね、優しく言えば「人と争ってまで物事を優位にしたり、勝ちを誇る」などのことを好まないと言う事ですね。

ですから、例え負けることがあっても決して後悔するような事はしません。

だったら、「負けず嫌い」ではないと言われそうでもありますが。

本人はそのように思っているのですから、間違いはないでしょう。
逆に考えたら、負けず嫌いだから、「常に劣等意識がついて回る」などということにもなるのかもしれません。

私が劣等意識を持ち始める理由は実は他のところに存在するのですが、それは今日は止めときます。

実は「劣等意識を持つ」事もまんざら苦痛でもなく、悲しい事でもなく、そのことが心地よい日常を作り出していることも否めない事実です。

昔はそうではなかったんです。
どんなに苦しんだことか、
自分を世の中で最低の環境で生まれ育ったと卑下し苦しみ、自らの将来に悲嘆しどん底の想いに沈んでいたものです。

どうしてそうでなくなったか、
それもいつか書いてみたいと思っています。

そんな自らが作り上げた「劣等意識」さえも今となっては心地よい同居人となってしまいました。

そうだからこそ、生き生きと人生を謳歌し、楽しんでいるといっても過言ではありません。
  


Posted by misterkei0918 at 23:11Comments(0)

2010年08月12日

物知りで賢くて器用であれば・・・

物知りで賢くて器用であれば・・・

「経営者として相応しい能力やグローバルなリーダーになる為には、こんな資質があればよい等とよく言われます。

難しい事ですよね。
私自身が経営者として約30年を過ぎましたが、未だに難しいものです。

増してや経営者はこのようにあれば良いとか、相応しいとかの話をする立場でもありませんが、経営者としてではなくむしろ世の中を人よりもましな形で全うしたいならどのようなあったらいいのか位の議論はできるような気がします。

短い言葉で、集約する事は大変に難しくて全てを言い現す事などで出来ませんが、こじつけ的な表現を赦してもらえるなら、私の極めて個人的な意見として表題のような事になってしまいました。

先日もテレビを見てましたら、
経営者に必要な資質「決断力、楽天的、洞察力」と表現されていました。

良く聞く言葉です。

多くの著名な経営者が同様の事を言われます。
決して否定をするものではなく、十分の納得の出来る表現ですし説得力のある言葉です。

私はそれを平易な言葉にしたいのです。
経営者というだけではなく、世のリーダーの人々の資質を考える上で身近な言葉を持って現せないかと。


そこで「物知りで賢くて器用であれば・・・」としてみました。
もっと適切な言葉があれが臨機に置き換えてもいいと思います。

物知り・・・・・
買いかぶったような表現になってしまいましたが、要は一生懸命に勉強する、研究する、貴重で有益な情報に接する機会を自らが求める姿勢・・・或いは様々な人とも接する機会を積極的に作り自分の領域を深め広げる人。

賢い人・・・・・
知り得た情報や知識を意義深く用いる事を知る人とでも言いましょうか。
自らの立場や利益を求めるのではなく、人間として正しく生きる事、真摯に立ち向かう事の大切さやそれらの果たす役割の凄さを自ら保有している人。

器用な人・・・・・
器用と言えば手先が器用であるとか、問題を上手に切り抜ける手腕があるとか・・・それが必要ないとは言いませんが大事なのはその様なことではないと思うのです。
機に敏して、行動が出来る人、
色んな人間関係などに細かい配慮が働く人、
器用は器量に繋がって欲しいと思います。
人間性の大きさや豊かさ、懐の大きさを兼ね備えた人であると嬉しいものです。


こんな言葉に置き換えてみたら、どうも遠い向こうの能力ではなく明日からの行動でも少しづつ培っていけそうに思えるから不思議です。

難しい言葉は、解釈も難しいものです。

私も、そんな言葉を頼りに少しでもリーダーシップの発揮できる人材になりたいものです。
  


Posted by misterkei0918 at 18:32Comments(0)

2010年08月10日

「人がそんなに信じられなくてどうするのか」

「人がそんなに信じられなくてどうするのか」

人を信じる事はそんなに簡単な事ではありませんし、信じる事が人生を素晴らしいものにする訳でもありません。

信じない事が人生を不幸にすると限った事でもありませんから、信じなさいとも言いにくい所です。

信じる事と信じない事が存在した時に、人を信じるほうを選ぶのか、信じないほうを選択するのか二者択一としたら、あなたはどちらを選びますか。

私は信じるほうを選んでしまいます。

信じたいけど疑ってしまう事、
つい猜疑心で相手を見てしまうことがあります。

また絶対的に信じられない事や信じていけないことも存在するものです。

最近、人がそんなに信じられなくてどうするのか」と語気を荒くしてしまいました。

例えば家族、例えば社員、
そうです、例えば友人や知人・・・・・

信じることから始まるような気がします。
はじめから信じない関係など、それ以上には深まりませんし、長続きもしないでしょう。

増してや、信じていない人と関わりを持つなど嫌な事ですし、第一自らの心に素直に生きていない事になってしまいます。

折角、生きるなら例え裏切られる事があっても、信じて生きていきたいものです。

人生、負けるが勝ちということもあります。
一時的に裏切られたり、悲しい想いに駆られたりしますが結局は信じていた自分に人生は有利に働くように出来ているものです。

百歩譲って、人生に有利に働かなくても自らの人生に自信を持って、逞しく正面を向いて生きられる事は間違いはないでしょう。

長い人生には、幾度となく騙される事、信じていたにも係わらず裏切られる事・・・・・

数えたらきりがありません。

人を騙す人生よりはいいと思いませんか。

また、裏切られたから裏切り返すなども大人気ないことです。

こちらが正しいなら、正面切って裏切られていいではないですか。
命や財産や人権を侵されたり、社会を乱すような好意には毅然としなくてはいけませんよね。

そこまで裏切られては、腰抜け侍と言われても仕方ないでしょう。


『愛することは、信じることの片半分だ。ユゴー』


『幸せは、気づく、感じる、信じる、思う 4つ合わせて「しあわせ」。本多時生』
  


Posted by misterkei0918 at 14:41Comments(0)

2010年08月09日

人として仄かな香りが残せればいい

人として仄かな香りが残せればいい

余り大きなことは望まない事です。

有名になりたいとか、
大金持ちになりたい、
大会社の社長に、
大邸宅に、
超高級車に、
飛びぬけた美人と結婚を、
日本で一番のビルオーナーに、
大株主に、
巨万の富を、



夢にしても限度があります。
密かに自分の胸の内に秘めているのはいいのですが。

口にしだすと、「大法螺(おおほら)吹きめ」とか、「身の程知らずが」とか、
挙句の果てには「気でも狂ったのか」とうしろ指を指されてしまいます。

程々が良さそうです。
手の届きそうなくらいの。

人には天分とか、与えられた才能とか、限界とかがあるような気がします。
私には私が果たしえる分があるような気がします。

自分でその限度を勝手に決めてしまって萎縮するのもどうかと思いますが、
真剣に自分の可能性が無限にあるかのごとき考えは、真摯に物事を考えたりする上で過度過大な自己評価につながり、自らの足元を見失い、不安定な人生を却って歩むような気がします。

人生の未来は、自分の過去の延長線上にあるもので、決して唐突に、矢継ぎ早に好転をするものでもないような気がするのです。

謙虚で、自らを戒めつつ、人を大切にする事を忘れず、地道で継続的な努力こそ尊敬されるべきであり、結局はそのような人々が世の中をリード、率先垂範していると思うのです。

人はそれぞれに特長があって、それぞれに光を放つ存在なのでしょうが、際立った光を放つ人、細々と放つ人、光がどうしても遮られてしまう人、屈折を繰り返す人・・・・・

一様ではない人生ですが、私の思いは「人として仄かな香りが残せればいい」と思っているのです。

どうせ、鈍い細い、弱弱しい光しか放射できない事は十分に分かっていますから。

光は目に見えますが、香りがあるとすれば陰も形も存在はしませんが、一過性の消え去る身ではあっても仄かな香りでもいいような気がするのです。
  


Posted by misterkei0918 at 19:16Comments(0)