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2010年04月28日

所詮、人生は親の七光りのお陰

所詮、人生は親の七光りのお陰

現代の政治家の何割くらいでしょうか。
大げさに言えば、7割位の政治家が2世・3世ではないでしょうか。

特に地方議員を入れるともっと大変な事になるかも知れません。

それが決して悪いと言うことではありません。
中には幼い頃から政治家である親父の後ろ姿を見聞きし、素養を身につけることも充分考えられますから。

企業でもそうです。
今世代交代が叫ばれています。
後継者が子供である事が大半ではないでしょうか。

特に中小企業は財産の分与にも等しいことが行われるわけですから他人では難しい問題も孕んでいるものです。

銀行の保証や担保の問題や経理上の細かい問題も山積するものです。

考えてみますと、親の七光りを嫌う風潮もありますが日常的に七光りの恩恵を受けながら生活をしているようなものです。

芸能界などはその顕著な例なのではないでしょうか。

親は自分の子供の為と思えばこそ、大変な日常を頑張っています。
できるだけ、子供の将来を楽なものにしてあげようとか。

財産もそうですよね。
出来れば家の一軒位は与えたいとか、
少しの財産でも造っておいてあげたいとか、

人脈も出来れば造っておきたい、
子供に役に立てるくらいの地位は築いておきたい、


巷では「子供に財産を残すべきではない」とか言います。

それを当てにして放蕩してもらっては困るし、怠惰な人生でも困りますからその意味から言えば残さない方がいいかも知れませんね。

また、親の七光りを笠に着て傲慢になってもらっては却って人間として落第生です。
自分の力ではないのですからあくまでも謙虚であって欲しいものです。

或いはそうでない子供であるように育てる親の責任がまず問われないといけません。

私の経験から行くと、人生のスタート時点で既に遅れを取っている状態では困ります。
少なくとも最初の出足くらいは一緒でないといけません。

おまけにハンディまで背負ってしまえば、尚更辛いものになります。

ですから大いに七光りは受けていいのでは無いでしょうか。

七光りであることを、自慢はしなくても遠慮することも無いように思います。

親があっての今であり、自分なんですから「所詮、人生は親の七光りのお陰」と感謝するくらいで丁度いいのかも。
  


Posted by misterkei0918 at 19:00Comments(0)

2010年04月28日

親心(ごころ)

親心(ごころ)

親になってみないと親の大変さだとか、苦労は見えない。
ましてや経験のないことは想像は出来ても実感はありませんし、真剣に捉えることはできないものです。

社長になってみないと当然社長の大変さや苦労の多さは理解できません。
業績のことや社員、得意先のこと、商品やサービス、当然資金繰りもそうです。

同じことが全ての事でも言えますよね。
他人のことも私どもが思うほど簡単ではなく、複雑に入り組んでいるのかも知れませんね。

傍目には計り知れないものです。

年老いた方の切なさや歯がゆさや死期に近づく思いなど若い方々は考えることもないでしょうし想像さえできないかも知れません。

「親心、子知らず」

「這えば立て!立てば歩めの親心!」

そして、
「親思う心に勝(まさ)る親心  今日のおとづれ何と聞くらん」
二十九歳で処刑されたときの吉田松陰先生の和歌ですが、親を思う松陰先生の心、それにも勝る親の子供に対する恩愛の深さを歌われたものですが、ひしひしと迫るものがあります。

私どもは親に対して、何が出来たのでしょうか。
私の場合で言えば、親が私に対して捧げた万分の一も、お返しは出来ていないと思われます。

親はお返しを望むわけではないのですが。

思い出しました。
(財)日本船舶振興会の会長であった笹川良一さんが詠んだ歌で、

「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
東京・品川の笹川記念館の正面に置かれた像の碑文です。

記念館の前を偶然に歩いていたときに書き留めたのですが、涙が出てしまいました。

私の勝手な解釈ですが、
痩せ細ったお母様を背負って、お宮の階段を登られたのでしょう。
階段の数は簡単に数えられても、母親から受けた恩愛の数々は数え尽くせないもの。


『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』
  


Posted by misterkei0918 at 08:54Comments(0)

2010年04月26日

人生という旅に終りはない

人生という旅に終りはない

命を正しく全うするのは並大抵のことではありません。

最後まで全うするのが厳しい現実があるのも確か。
でも、途中での挫折や下車は出来れば避けたいものです。

一年間の自殺者が3万人を遥かに超える事態が続いています。

多分、それと比較にならないほどの人が、何処かの時点で命を全う出来ないとか、思い余って絶とうとした経験があるのではないでしょうか。

私も友人や先輩を自殺で失いました。
悲しいことですが、その人に取ってはそれしか方法がなかったのでしょうね。

その方々を近くで見ていた私からしても結果として自殺を選んだ事に納得をしてしまうからいけません。

「それしか道や方法はなかったんだ」

私にもそんな時期がありました。
でも、人生は生きているからこその事だと思っています。

終りの無い人生を無駄に捨てては勿体無いと思うのです。
苦しい時には前が見えない断崖絶壁を目前にしているようなもの。

命はいつかは果てるものですし、自ら絶たなくても寿命は遅かれ早かれ訪れるものです。

のちの人生もどのように展開するかも誰も分からないもの。
素晴らしい人生が開けてくる可能性の方が大きいはずです。

当然、どん底の今と比べれば。

尽きてしまえば人生ではありませんが、終がないからこそ生きるだけの価値があるものです。

葛藤、七転八倒、挫折・・・・・振り返る人生もまた懐かしく有り難いものです。
それらを肴にして、残りの人生を生きてみたいもの。

生きることのこそ、意義を見出したいものです。
私の人生の終りは天から召される時と思うことにしました。

「もういい頃あいだよ。そろそろこっちにお出で」とね。


『「あなたが百人の人に微笑みかければ、百人の心が和む。
あなたが百人の手を握れば、百人の人が温もりを感じます。
あなたが、自分を見失ったまま死んでいくことで、百人の人が悲しむのです。
あなたは必要な人です。
私に、みんなに、そしてこの世の中に」
マザーテレサが自殺をしようとした人に語った言葉です。マザーテレサ』


『人はえてして自分の不幸には過敏なものです。誰しも幸福を望みますが、それを実感することにおいてはきわめて鈍感です。日野原重明「生きかた上手」』


『愚か者は、幸福がどこか遠いところにあると思いこんでいる。利口者は幸福を足元で育てている。ジェームズオッペンハイム』
  


Posted by misterkei0918 at 18:53Comments(0)

2010年04月25日

チューリップ惨殺事件

チューリップ惨殺事件

大げさなタイトルをつけました。
実はこんなタイトルを付けるまでの事ではないのですが。

数年前、福岡市中央区の大濠公園で何者かが、幼稚園の子供達が植えて花を咲かせたチューリップを鋭利な刃物で切り捨てた事件がありました。

池の周りには大きなプランターが30程ありますが、そこここに名札がついていて多くのボランティアの方々に割り当てられ、それぞれが丹精を込めてチューリップを植えているのです。

さぞ、花を咲かせる為に一生懸命だった幼い子供達は悲しい思いをしたことでしょう。

また、大人の汚い部分を見せたようで申し訳ないようにも思います。

その時には、その事を聞きつけたチューリップの産地・富山県?の方々から贈り物として急遽届けられ植えられたようです。

多分、人の善意の美しさも感じたのではないでしょうか。

今日のブログは悪意で切られたチューリップでは無く、花の終わりかけたチューリップを切った話です。

一部のチューリップは開花の時期を終え、花を支える幹の中程から切られたもの、
一部は花びらの一部がポロポロと落ちている花、

まだ花は盛りと思われるのに綺麗な花をつけたまま、幹の中程から断ち切られまとめられて花壇の片隅に放置されているもの。

お年を召した女性がその中から数本ずつ持ち帰っていかれました。
まだ綺麗な状態ですのでそのように持ち帰って頂いて花瓶にでも活けて頂けると花も嬉しいのではないでしょうか。

そんなに早く切らなくてもあと少し花を見せて欲しいとの思いもありますが、切った方にはそれなりの考えがあるのでしょう。

花木の中には花が終わる前から切った方が来年の花が綺麗とも言います。
・・・つつじなどはそう言いますがチューリップは違うような気がします。

また、種を取るためでしょうか。
・・・であれば花をその儘にして置いておくのはどうでしょうか。

もっと他に理由があるのかも知れませんね。
素人に分からない理由が。

こんな言葉を思い出しました。
「花に命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
  


Posted by misterkei0918 at 23:15Comments(0)

2010年04月25日

人間は常に試されている?

人間は常に試されている?

そう思うことはありませんか。

特に人生の岐路に立たされた時や苦難に立ち向かった時、
極めて大事な判断を要する時・・・・・

そんな時に限って「若しかすると何処の誰かが私の人間性を試しているのではないか」と思うときがあります。

決してそんな事はない筈なのですが。

或いは人間は良く出来ていて、大変なときにはそのように感じたり、思うことによって今直面する事態を冷静に見つめさせたり、柔らげたり、時には第3者的に自分を見る手段を与えているのではないでしょうか。

「試されている。だから冷静にならないと」
「この判断を誤ると自分の人間性を損なってしまう」

「この事態を真剣に解決しないと将来に禍根を残してしまう」



ただ、今の様々な苦難や問題を解決すればいいと言うだけではなく、
その解決が将来へも役に立ったり生かせたりするために。

事に当たる自分の傍らに、寄り沿うようにして見つめる自分がいたりするもの。

どのような解決をするのか、対処をするのか、じっと見つめています。

多重人格の話ではありませんが、人間にはそんな側面が存在するように思うのです。

それが時として口を開くのです。
「お前はそれが最も正しい解決策と思っているのか」

「本当に心からそれでいいと思っているのか」
「もっといい対処の仕方がある筈では?」


時々、呟いてもくれます。
天の声、神の呟やきかも知れませんね。

「道を踏み外してはいないのか?」  


Posted by misterkei0918 at 17:17Comments(0)

2010年04月23日

幸福を感じる心根(こころね)

幸福を感じる心根(こころね)

幸福という言葉ほど、掴み所が無くて、曖昧で、千差万別、極めて主観的なものはないような気がします。

感じ方によっても違いますし、幸福の度合い、若しかすると今の心の状態や環境によってさえ感じ方が異なってきます。

同じ事象でもAさんにとっては極めて小さいことですが、小躍りするほどに喜ばしいことなのに、Bさんに取ってはとるに足らないことで笑顔ひとつ見せることはありません。

一人の心のなかでさえ、今日と明日、或いは午前と午後でも異なるものです。
同じ状況が訪れても今朝は喜ばしいと感じ、昼には取るに足らないこととして嘲笑してしまいます。

極端な言い方をすれば、何でもいいから幸福と思っていれば幸福になってしまいますし、不幸と思えば幸福でさえも不幸なのかも知れません。

それはやはり心の有り様でしょうかね。

不幸なことではあっても、もうすぐ訪れる幸福への「呼び水」でもありますし、乗り越える喜びだって存在するものです。

今日は明日の為に存在するのであって、今日の苦難は明日の幸せのために巡ってきたもの。
それを喜ばない理由は存在しないのではないでしょうか。

例え喜びとまでいかなくても、苦難としてだけ捉えるのではなくむしろ勇敢に毅然として立ち向かうことが明日への力水であります。

そのように思いますと今が楽しく、いとおしくさえ思えてきます。

そうですね、幸福を感じようとする思いや心根を持つことが今の禍や苦難の片隅にさえ幸福の種が潜んでいることを感じさせるもののようです。

「鰯(いわし)の頭も信心から」と言う言葉もありますしね。


『ビショビショにぬれ切ってしまえ!
すると、たかが入浴ていどの日常茶飯事にさえ、ものすごい感謝と幸福感を抱くことができるようになる。
「幸福を感じる心根」が、すさまじく飛躍し、研ぎすまされるのである。櫻木健古「生きるヒント「一日一話」」


『人間が不幸なのは、幸福であることを知らないからである。ドストエフスキー』


『人間の幸福は、決して神や仏が握っているのではない自分自身の中にそれを左右するカギがある。エマーソン(アメリカの思想家詩人)』
  


Posted by misterkei0918 at 23:28Comments(0)

2010年04月23日

人のお世話に打算を持ち込むな!!

人のお世話に打算を持ち込むな!!

人のお世話をするにはそれなりにエネルギーを使いますし、時には嫌な思いをしたりもするものです。

上手にできて当たり前。
失敗しようものなら、批判はされますし自分の悔みの程度もかなりのものです。

だから挫折しがちだし長続くしないものです。

人の顔色を窺うのが嫌で、無視をするのは許せませんし、かと言って人の考えや意見、非難には耳を傾けないといけませんし。

それが嫌なら人のお世話など出来ないのではないでしょうか。

人のお世話で褒めてもらおうなどと思ってはいけません。
期待するようでは人のお世話など無理でしょう。

「あいつはお世話してもらっている癖にお礼、挨拶の一つもない」・・・等ということになってしまいます。

そうなるとそれに拍車がかかって気持ちに収拾がつきません。

強面に、声高になるのではなく、密かに期待するくらいで丁度です。

人間ですから、少しはありますよね。
お礼を言って欲しいとか・・・・・

でもそうでなくてもいいと思う気持ちが大切。

人はお世話をさせていただくことで得るものは星の数ほど存在するものです。

お世話される人々の人となりだって観察出来ますし、
人はどのようなことに興味を示し、

どのようにすることに喜びを求め、感じるのか、
様々な性格や思想信条の違う人々をまとめる力を得ることも出できます。

価値観だってそれぞれです。

耐えることだって覚えることになりますし、
第一、 笑顔の大切さを認識し、常日頃から笑顔を保つことが出来ます。

また、お互いが胸筋を開くことの大切さを知り、人の懐の寒暖を見る機会に恵まれます。



どうして、そんなにお世話に精を出すのかと問われます。
1番の理由は私が「未熟者」だからでしょう。

人の揉まれることが私自身を最も早く成人させる早道だと思っているからです。


『なるべく人の世話役を心がけよ。
そして、報を望むな。求むるな。安岡正篤』
  


Posted by misterkei0918 at 19:43Comments(0)

2010年04月23日

言いたい事の半分位で丁度いいみたい

言いたい事の半分位で丁度いいみたい

時には、言いたい事の殆どを言葉にできるとどんなにかすっきりするかとつい考えてしまいます。

人によっては言いたいことは山ほどありますよね。

「人によって」と敢えて申し上げたのは、片や「人によって」はそうでもない人がいます。

口数が少ないから、ストレスが溜まるとは必ずとも言えません。

元来、雄弁な人、活弁な人が言葉を発することが出来ない状況や場面に追い込まれるとそれは大変なストレスでしょうが、人によってはそうでもないものです。

私もその部類ですが、黙っていれば何時までもそのままでも構いませんし、決してストレスになることもありません。

極端な言い方をすれば、喋らないといけない状況こそがストレスを作ってしまいます。

私にはあと一つ、雄弁に慣れない理由があります。
知力が足りないから。

「物言わずは、腹膨(はらふく)るる技」とは昔から言います。

私のような人間からすれば、そんなに物を言わないことは大変なことかと訝ってしまいます。

考えてみますと、言いたいことがあってもその半分位で丁度良いような気がします。

全てを聞くのは耐えませんし、嫌なものでもあります。

人間は憶測という能力を持っていますし、斟酌したり、想像したり、予測したりする能力を持っていますから100%、全てを言われなくても殆んどの事は解釈できるもの。

人間関係もその方がむしろ良さそうです。

全てを自分の言葉や判断にするのではなく、聞いた人がそれなりに、その人なりに解釈するゆとりを持たせることが人間関係を上手く醸成し、却って心も通じ合うものです。

「巧言令色、鮮なし仁」とも言います。
ですから、上手に言えないとか、人前で充分に喋れないとか決して悔やむことはないのです。

そこにこそ、人は真の姿や心を見つけてくれます。


『人の言葉は善意にとれ。その方が5倍も賢い。シェイクスピア』


『ほめ言葉は人にふり注ぐ暖かい陽光のようだ。
それなしに、人は花咲くことも成長することもできない。ジェスレア(スペインの文化人)』


『人への批判のその奥には、自分に対する自信の無さや、不安の故に優越感を持ちたい自分がいるものです。聖書の中の「互いに人を自分より優れた者としなさい」という言葉が絡まった人間関係を解く鍵となります』
  


Posted by misterkei0918 at 19:08Comments(0)

2010年04月23日

ひらめきや直感と実行力と継続が人生を豊かにする

豊富な知識より、ひらめきや直感と実行力と継続が人生を豊かにする

昨日、ひらめきのブログを書いていたらタイトルのようなことがひらめきました。

時々、より幸せな人ってどうしてそうなのかとか、経営上手な人は何処が私どもと違うのかと疑問に思うことがしばしばです。

皆さんはどうですか?

当然、全ての人がそうではありません。
最初から恵まれている人もいます。

既に基盤のしっかりした会社でたまたま社長になる人もいるものです。

或いは周りにいる人が引き上げてくれているとか、偶然に恵まれてとんとん拍子に出世したとか、業績が伸びたとかありますよね。

場合によっては景気が良かったことで順調に行く時もあります。
商品や土地柄、情勢(国際、国内)にもよります。

その事を論じると終始がつきませんし、話の整理ができませんから人として同じ土俵の上にたって「よ~いドン」とスタートしたときにどんな人がより幸せや成功にたどり着く確立が高いのかを思うときがあるものです。

私はどちらかと言うと高学歴でもありませんし、知識に恵まれた方でもありませんから勝手に自分の都合のいいことを考えているのかも知れませんね。

でも、こんな気がするのです。
「豊富な知識より、ひらめきや直感と実行力と継続が人生を豊かにする」

頭でっかちな知識はないよりはあった方がいいに決まっていますが、それが成功したり幸せになる絶対条件でもありませんし、必須条件でも無いように思うのです。

人よりも少しだけ、ひらめきや直感が強かったり、
そのひらめきや直感を勇気を持って実行できたり、

人よりも少しだけ継続する力が上まわっていれば、
結構な確率で幸せになる度合い、成功する確立は極めて高いような気がします。

ひらめきや直感を大事にしない人は何にも始まりませんよね。
棚ボタを待つばかりでしょう。

若い頃でも色んな事はひらめいたりしていたのでしょうが、残念ながら大事にすることを知りませんしなんとも感じてもいませんでした。

早くからその大事さを知っていたら、もっと早く幸せが駆け寄っていたのかも知れませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 13:00Comments(0)

2010年04月23日

ひらめきの時

ひらめきの時

ひらめき、直感、第六感・・・・・

人の頭脳は不思議なものです。

時として全く気にもしていないことに考えが及んだり、急に思いついたり、解けなかった問題や疑問がふとしたことで解決したり、ヒントが出てきたりするものです。

ひらめきと直感の違いは「理由が説明出来るか、出来ないか」の違いらしいです。

私のひらめきは大部分が車の運転中のような気がします。
次が就寝に入ったとき、つまり寝床に入って間もない頃。

所がトイレとか、風呂とかは殆んどありません。

私のトイレは新聞を読むか、常備している本を読むかですからひらめく暇がない。
風呂はカラスの行水ですから、殆んどひらめく時間的ゆとりがない。

会社の机に座っているときは電話をしているか、PCで作業をしているか、社員と話をしているか、会議や来客に追われていますから、ひらめく時間的ゆとりが全く無いからでしょう。

車の中でしたら、作業をすることも出来ない、殆んど一人。

ですから、車には常にボールペンとメモを準備しています。

ひらめいたり、思いついたりしたことをメモに出来ない時がありますが、そんな時は嫌なものです。

だって忘れてしまう事への不安や、覚えていないもどかしさに常に嫌な思いが付き纏うから。

貴重なものです。
そのままなら通り過ぎてしまうだけのひらめきが、人生を変えたり、飛躍させたりするものです。

たかがひらめきと思わないで、折角人間に与られたひらめきという能力をふんだんに使いこなすことも人生においては大事で貴重なものです。

思わぬ幸せや喜びが舞い込んでくることだってあるものです。

所謂、「人生の達人」とはそんな人をいうのかも知れませんね。


『一般に思いつきというものは、人が精を出して仕事をしているときにかぎってあらわれる。ウェーバー』


『手なれたものには飛躍がない。
常に猛烈なシロウトとして、危険をおかし、直感に賭けてこそ、ひらめきが生まれるのだ。岡本太郎』  


Posted by misterkei0918 at 12:21Comments(0)

2010年04月22日

「過去を振り返れば未来が見える」

「過去を振り返れば未来が見える」

歴史学者の言葉として「過去を振り返れば未来が見える」を教えて頂きました。

私どもであれば、判断を擁するとき、決断を求められる時「原点に戻りなさい」とよく言われます。

「原点回帰」。

人生で行き詰まったときなどに生まれ故郷を訪問するとか、親を訪ねる、母校を訪ねてみるとか、旧友に会うとか。

経営者であれば、自社の経営計画書、企業理念、行動指針や規範を読みなおすとか、
創業時の思いに再び触れるということは、新鮮な気持ちにもなりますが再び立ち上がる勇気を後押ししてくれますし、迷いを吹き飛ばす力を授かるものです。


夫婦で言えば、結婚当初や恋愛時代を振り返ってみたり、初めて出会った時の感触を思い出すのも良さそうです。

子供とのことであれば、彼が生まれてきた時の初めての対面や名前を考えた時の親としての思いに馳せること。

過去は過ぎ去ったとは言えども、そこには純粋な思いや様々な葛藤、苦しみ、乗り越えた記憶を置き去りにしているものです。

人はバラ色に包まれるであろう未来には、不安が付き纏うものです。
その不確実性をより確実にするものが過去に置き去りにした多くの拠り所なのではないでしょうか。

過去を粗末にすることは、結局今後の自分の人生の根拠や立ち位置、多くの自らの財産を放棄することと同じです。

どんなに苦しかった思い出や過去であっても、それを懐に秘めて、事がある度に取り出してみることがどんなにか人生には力を発揮するものです。

逆にこんな事を言われた著名な方もおられます。

『過去にこだわるものは、未来を失う。チャーチル』

『過去と未来を鉄の扉で閉ざせ 今日一日の枠の中で生きよう。Dカーネギー』


私はどちらかと言うと「温故知新」派。
過去にこだわりを持つ方でしょう。


『過去の因を知らんと欲せばその現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲せばその現在の因を見よ。「心地観経」』


現在のあなたは、過去の思考の産物である。
そして明日のあなたは、今日何を考えるかで決まる。ジェームズアレン
  


Posted by misterkei0918 at 14:05Comments(0)

2010年04月22日

何故か最近涙目になってしまいました

何故か最近涙目になってしまいました

最近、自分でも目が潤んでいるのが分かります。

馬齢を重ねると涙腺が緩むとか、
涙もろくなるとは良く言われます。

昨年から、色んな事が立て続けにぶつかってきます。

今までも幾多の困難は乗り越えてきましたが、こんなに一度に押し寄せてくるのは初めてではないでしょうか。

でもそれに打ち負かされてしまうとか、
めげる事は決してありません。

今までも、困難と思われた出来事はことごとく砕いてきましたし、それに負けることを良しとしたことは一度もないからです。

時として、押し寄せる困難に「もう負けた」とバンザイをしてみたいこともないではありませんが乗り越えた後の爽やかさや達成感は何ものにも代え難いものです。

人生の根幹に関わることの多い今回は、修生心に残る出来事ですが、考えてみたらあるいは誰しも経験することであり避けて通れないことでもあります。

私には、少しだけ遅れてぶつかってきたというのが本当のところでしょう。

涙目がその精だけではなく、寄る年波の影響もあるのでしょうが毅然として人生に立ち向かう機会を与えてくれたと思えば勇気も奮い立つものです。

自分が選んだものでもありませんが、人生の荒波はそんなものかも知れませんね。
相手が私を選んでくれたのでしょう。

人間としての道を、より深く、より正しく見極める大きな機会を与えられたと私は認識しております。

つまり私が今まで培ってきた人間性や生き方の証を証明する場面が今なのでしょう。

真正面から対峙することを忘れては、人としての根幹を問われそうです。

何故か最近、涙目になってしまいました


『気持ちが萎え、ときには涙することもあった、だが、涙を恥じることはない。
この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。フランクル』


『涙の数だけ強くなれるよアスファルトに咲く 花のように見るものすべてに おびえないで明日はくるよ 君のために。岡本真夜「TOMORROW」より』


『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』  


Posted by misterkei0918 at 11:10Comments(0)

2010年04月18日

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と教えて頂きました。

禍と福。

糾(あざな)えるとは、入り組んでいるとか、混ざっているとかの意味ですよね。
紛糾するにも糾の字が使われます。

物事は表裏一体とも言います。
禍(わざわい)は不幸なことですがその中から様々なことを教訓として学びますし、福や喜びは場合によっては心の緩みや慢心、油断を招くこともあるものです。

人生で何が禍するのか、
何が福に結びつくのか、

果たして誰も分かりませんが、むしろ禍が訪れていると思うときほどめげる事無く、勇気を振り絞って立ち向かうことが肝要なことのようです。

その事がより深い福や喜びを招き入れる原動力になるような気がするのですがどうでしょうか。

福が訪れていると思われるときは誰しも、次に訪れるであろう禍のことなど気にはしないものですが、時として「こんなに幸せでいいのだろうか」と瞬間的に思うことはあります。

それはややもすると、やがて訪れるであろう禍を六感的に予感しているのでしょうか。

とするとやはり人生は
「禍福は糾(あざな)える縄の如し」。

また日本のことわざに「好事魔多し」とも言います。

「喜ばしいとき、幸せな時に魔が忍び寄りますよ」或いは
「そんな時に限って危険なものです」と忠告しています。

「油断大敵」もそうかも知れませんよね。
心が緩むとき、ちょっとした油断をすることにも危険がが孕んでいるとの警告です。

禍福の時、別け隔てなく注意を怠らないで備えておくことが大事なんですね。

或いは福の時ほど、最新の注意や心配りを忘れないで努力を重ねることが次にくる禍を幾らかでも減少させる技や、秘訣かもしれませんね。。
  


Posted by misterkei0918 at 16:21Comments(0)

2010年04月16日

40数年前の日記が出てきました

40数年前の日記が出てきました

他の資料を探すために机の引き出しを開けた片隅に表紙も外れかかった若い頃のノートが出てきました。

40数年前の日記帳です。

葛藤の日々が綴られています。
儘(まま)ならない恋心など・・・・・・・・

近くにいた妻には私が居なくなるまでは(亡くなる)見ないでくれとつい口走ってしまいました。

妻の性格から言えば、見ることはないでしょう。
でも、見てもらってどうということではありませんが。

殆んど忘れかけた日記ですので、内容の殆どは知る由もありませんが時間を作って読み返すようにしてみたいとも思っています。

多感な世代の日記ですから、多分読むに絶えないところもあるような気がします。

人は認めたくない過去や忘れ去りたい過去があるものです。

私の過去は全て忘れ捨てたいほうの過去ですが、自分の辿った道筋は今の私を形作った原本の様なものですから目を背けないで正面から向きあわないといけないのかも知れませんね。

内容でこれはと思われる日記などがあれば、ブログでも披露したいものです。
気恥ずかしい思いはありますが。

自分の過去は、どんなに嫌なものでもかき消すことは出来ませんが、背負ってきた荷物の重さに時には思いを馳せてみるのもいいことかも知れませんね。

些細なつまずきや取るに足らない事に真剣に悩むことの大切さや改めて感じ入ることにもなるでしょうし、そんな事があればこその人生であることを認識することになるのかも知れません。


『今までの僕の記録は、みんな耐えることで作られてきた。王貞治』


『苦悩こそ人生の真の姿である。
我々の最後の喜びと慰めは、苦しんだ過去の記録に他ならない。ミュッセ』


『自分が何に幸せを感じるか?分かっているようで意外と自覚していないものです。
いい方法があります。
喜び日記をつけるのです。
一日の中で楽しかったこと、心ぬくもったこと、感動したこと、嬉しかったことなどを書くのです。
一ヶ月もすると、自分にとって幸せとは何かが分かります』
  


Posted by misterkei0918 at 21:55Comments(0)

2010年04月15日

時間にルーズな人はいませんか?すぐ「さよなら」しましょう

時間にルーズな人はいませんか?すぐ「さよなら」しましょう

「時は金なり」、「時間泥棒」
時間ほど全ての人に共通に、しかも厳格に与えられているものはないのではないでしょうか。

人間は生まれ出でた時から、死ぬ瞬間まで時の拘束の中で生活を強いられているものです。

そして、時に関する意識を深め、持ち始めるとき、いよいよ人生を意識するときであり、充実を迎えるような気がします。

子供のときや老齢化したときは、朝陽が登り、夕日になって落ちていく太陽を見て何となく時を意識するものです。

時間に対する意識が薄い人はそれだけ緊張感が足りませんし、人を敬う気持ちに陰りがあり、物事の重大さに気づかない人のような気がしてなりません。

人は時として、他人との約束を果たせないことはあるものです。

そんな時こそ儀礼を尽くして、丁寧なお詫びをし、次の機会には約束よりも早く出向いて相手を迎えるくらいの心遣いが必要なものです。

審(つぶさ)に観察してみると、その事は、時間のことのみでは無く、人間関係や殆んどの約束事においても同じような行動、態度をとることが分かります。

約束の基本は時間。

恋愛時代のデートの時間だって例外ではありません。
わざと遅れることが作戦だったりすることがないとは言いません。

いつも待たせる癖のある人、
待たせることに少しも悪びれた雰囲気のない人、

たまたま自分が待たされると不機嫌な人、


時間にルーズな人はいませんか?すぐ「さよなら」するか、付き合いを程々にするか。

特にビジネスの世界でしたら、その人から商品を買おうなどとは思わないものです。


『悲観することは時間の浪費だ。ノーマンカズンズ』


『今という再びかえることのない時間は、明日のためにあるのではない。楠原彰』


『意思ではなくて、時が恋を終わらせる。ププリウスシルス』
  


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2010年04月15日

「眠れない夜」は何処へ行った・・・若い方々へ

「眠れない夜」は何処へ行った・・・若い方々へ

これは決して馬齢を重ねたからではないと思っています。

若い方々なら、現実の問題としてこんな事はありませんか?
「眠れない夜」

色んな事がありますよね。

一般的には、
恋愛のことであったり、
会社での仕事、
家庭でのこと、

子供人のこと、妻とのこと、
事業のこと、
社員のこと、

障害のこと、
能力のこと、

対人のこと、


私はその事を意識始めたのが高校生になった頃からのように思います。
謂わば多感な時期に入る頃、第2次成長期を終えた頃というのでしょうか。

中学時代は色んな意味で親にも迷惑を掛けたものです。
謂わば、男の子の中学2年生シンドロームとでも言いますか。
私の勝手な表現です、ご寛容を。

自分の思い込みや他人の目を意識するが余り、ますます落ち込んでいく姿がありましたし、振り返ると自分の姿を側面からみている自分がいて、解決の糸口を見つけることに躊躇する姿があるものです。

そんな経験はありませんか?

所がそれでは自恋魔の坩堝の中で何時までももがき苦しむ自分でしかないのです。

どこかで「これではいけない」「変わらないといけない」「自分には出来る」という思いに駆られないといけませんし行動に結びつかないといけませんよね。

一時(いっとき)のそんな新たな苦しみが出てきますが、変わる自分の姿を見るにつけ快感に変わってくるものです。

そうなるとしめたものです。

いつも頃からでしょうか。
「眠れない夜」は私の傍から次第に遠ざかってしまいました。

今でも従来以上に難しい問題を抱えますし、振りかかる火の粉は数が知れません。
日常的にその処理に走り回っていると言っても過言ではないでしょう。

でも、「眠れない夜」を過ごすことはありません。
あとひとつ、私は妙案を発見したのです。

解決?のために考えないといけないことは、

1、徹底して考える癖をつける事、
・ ・・物事を正面から見据えることの大切さと逃げることは何の解決にもならないことを知っておくことが大事なようです。

2、完全にそれらから解き放たれる術。
・ ・・これには訓練が必要です。難しいことではなく繰り返し。
    それと仕事上でのことであれば仕事とは全く関係ないところに身を置く時間を作ること。
    恋愛であれば、それ以外で没頭出来るものを見つけるとか。
    私がやっていたこともいつかご報告したいと思います。

でも、人生において「眠れない夜」を経験することは決して損な事ではありませんし逆に避けてはいけません。

自分に与えられた将来のための試練、踏み台であってそれを乗り越えることで本来の自分を見つけることになるのです。

避けて通ることは、本来的に待っている自分の人生を自ら放棄することであってそれは与えられていない人生ですから新たなリスクや展開が待っているやも知れませんね。

「本来的に待っている自分の人生」とは、自分のとって幾らか心休まる人生ではないかと私は理解しています。

長くなりました。
  


Posted by misterkei0918 at 09:54Comments(0)

2010年04月13日

「賑わう事は和すること」

「賑わう事は和すること」

「和」という言葉から連想すること、
平和とか、
穏やか、
協調、
和やか、
安らか、
譲り合い、
にこやか、
癒し、
落ち着き、
心を合わせる、寄せる、
一緒にする、
纏まる、
調和する、
柔らかい、
受け入れる、
混じる、
柔らかい、和らぎ、
親しい、
気持ちを一つにする、


「和」・・・象形から言うと「人の声と声とが調和する」の意と出てきます。

「賑」は賑わう、盛んになる、豊かにする、施す、恵む・・・の意味ですよね。
象形で言えば「人を救うための豊かな金品」の意味のようです。

貝がついていますから本来はやはりお金が絡んでいます。

我々の日常で使う「賑わう」は騒々しい、騒がしい、明るい、楽しい、豊富、大勢・・・・・
そんな意味でしょう。

ある方がご挨拶の中で「賑わう事は和すること」と教えて頂きました。

沢山の方々が参加されている団体でのご挨拶でしたので、多分「このように多くの方々が賑々しく集まるということは、お互いが心を一つにすること、協調する事、纏まることであり、今後も力を出しあって団体としての結束を高めていきましょう」と言いたかったのではないでしょうか。

勝手な憶測で間違っているかも知れませんが。

日本人の大好きな「和」

それ故に日本人の国民性が培われたのでしょうね。

曖昧だったり、
人に余りにも配慮が行き届いたり、
集団が好き、
人と違うことに戸惑いを隠さない、
優柔不断で、
恥ずかしがり屋で、
議論が嫌い、
自虐的、


そこが日本人の素晴らしいところだと思っています。
最近、外国人が見た日本、日本人の話を耳にしますが、殆どは褒めていただくことが多いようです。

もっと自信を持っていいですよね。
  


Posted by misterkei0918 at 11:47Comments(0)

2010年04月12日

チューリップに見る愛とは?

チューリップに見る愛とは?

今、チューリップが見事に咲き乱れています。

桜のように、幾万の花をつける木があるかと思えば、チューリップのようにただ一つの花を大事そうに咲かせる花もあります、

蓮の花やたいさんぼく(大山木/泰山木)のように巨大なもの、桜やつつじのように小さい花を沢山見せてくれるもの・・・・・様々です。

花はその美しさ故に気持ちを華やいだものにもさせてくれますし、
片や、それが故に我が身の儚さや悲しさを際立たせてしまう効果も持ち合わせているものです。

また、色褪せてゆく花々や散りゆく花びらの姿は私どもに人生の儚さを教えてくれる様で悲しくもあります。

チューリップの花言葉は「愛」。

その色の鮮やかさ、艶やかさがそのように言わせるのでしょうか。

チューリップの花びらの一つ、一つが自らの役目を果たしたように孤独に落ちゆく姿は人の心の襞(ひだ)や移ろいを比喩、擬(なぞら)えているようにも思えます。

こんな言葉を見つけました。

『愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、
いっしょに同じ方向を見つめることである。サンテグジュペリ』

1943年にアメリカで発刊された「星の王子様」の著者です。
フランス人で飛行士、小説家。

「言い得て妙」とはこの事ですかね。

今一度チューリップの花々を観察すると全ての花が大空に向いて、一斉に心を開いている様な気がしないでもありません。

サンテグジュペリが言うように
『愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、
いっしょに同じ方向を見つめることである』・・・に尽きるような気がしますが如何でしょうか。

愛は一方的でもいけませんし、成就しません。
お互いがお互いを見ているだけでも、愛の営みとしては不足なものです。

同じ価値観を共有しながら、お互いが寄り添うように、しかも相互に高め合い、目指す未来に向かって心が揃っていることが貴重なことです。

私自身も大いに反省しながら、チューリップの美しさに見とれるだけではなく愛について自問してみようと思います。
  


Posted by misterkei0918 at 17:39Comments(0)

2010年04月10日

見透かされそう

見透かされそう

饒舌な人を見ていると時には羨ましくもなるものです。

ただ、自慢話は興味もありませんが、人を諭すような、導くような素晴らしいお話をされる方がおられます。

羨ましい限りです。

「巧言令色、鮮なし仁」とも言いますから、饒舌、滑舌の人が全て素晴らしいわけではありません。

「もういい」と言いたくなる時もあるものです。

それにしても、弁舌さわやかにはならなくても自分の思いを上手に正確に伝えられるようにはなりたいものです。

私はどちらかと言うと、比較的しゃべらない方ではないでしょうか。
余り上手に言えないこともありますが、1番は自分の知力、知識の乏しさがそうさせているように思います。

自信がないというのか、披露するほどの知識がない、
表現が上手でない、

人前では喋れないと言うトラウマがついている、
人が自分をどのように評価するのだろうか・・・・・

詮索したり、訝ったり、猜疑心の塊だったり。

1番は、自分を見透かされはしないかと言う恐れなのではないでしょうか。

相手はそんな事は一欠片(ひとかけら)も思ってはいないのですが。

被害妄想的なところもあるのかも知れませんね。

どこかで吹っ切れることが大事なのでしょうね。
先日もブログに書きましたが、「開き直りの術」。

どうもこれしかなさそうです。

人前で自信を持って喋るほどの知識の獲得は今から生涯かけても出来ませんし、そもそもできるならこんな悩みなど最初から存在すらしないでしょう。

見透かされてもいいと思う開き直り、
所詮、人は私になど過大な期待などしていないと思う気持ち、

上手に話せなくてOK、
失敗して笑われる事も芸の内、


却って見透かされた方が人間らしくて、胸の内を見せるということからしてもいいのではないでしょうかね。

失敗は成功のもと!!
  


Posted by misterkei0918 at 11:54Comments(0)

2010年04月10日

習慣は怖い、継続は宝

習慣は怖い、継続は宝

今朝もウォーキングへ行ってきました。
歩き始めて10分程度で汗を感じます。

ウォーキングを始めると、全身を滴り落ちる汗に快感を覚えるものです。
早く夏になって欲しい。

それも、習慣ですよね、汗をかくことが苦にならないように成った習慣。
実はいつもウォーキングの時に聞いている携帯のラジオの電池が消耗していました。

本来ならもう聞けないのですから、そのまま車に残してウォーキングというのが当然ですが、そこが習慣の怖いところ。

どうしても携帯ラジオを持って、イヤホンをつけないと歩きたくないのです。
そうしないといつものウォーキングでないような気がするのです。

仕方ないから聞こえないイヤホンを耳に挿して歩くことにしました。
それでも自分では全く違和感がないのです。
落ち着くのですから不思議です。

悪い習慣ではいけませんが、望むことや成功へのステップはこのようにして習慣化することによって自分の体や行動の一部になることが重要なのでしょうね。

逆に、習慣化してしまえばこっちのもの。
しめたものです。


『人間は、習慣の奴隷である。何人も、この命令者には抵抗し得ない。このゆえに、成功を願うものは自分で良い習慣をつくり、自らそれに従わなければならない。地上最強の商人』の著者 オグマンディーノ』


『人間の強い習慣や嗜好を変えるものは、いっそう強い願望のみである。マンデヴィル(英旅行家)』


『習慣は第二の天性なり・・・習慣は人の性行に深くしみこんで、生まれながらの性質のようになる。習慣が人の性行に影響することの大きいことをいう。広辞苑』


『はじめは人が習慣を作り、それから習慣が人を作る。中内功(実業家)』


『習慣はやがて人格へと変わる。オービッド』


『変化するには、古い習慣を新しい習慣に置きかえねばならない。WAピーターソン(アメリカの作家)「生き方の技術」』


『「目標や、意思なきところに、行動は無い。」「行動は、習慣を作り」「習慣は、人格を作り」「人格は、運命を作る」』


『われわれにとって怠惰ほど有害で致命的な習慣はない。
にもかかわらず、これほど身につきやすく、断ちがたい習慣もない。ジョントッド「自分を鍛える」』
  


Posted by misterkei0918 at 11:16Comments(0)