2010年04月09日
人は強くなれる。でも自分の弱みを知らない人は駄目!!
人は強くなれる。でも自分の弱みを知らない人は駄目!!
人は強いだけではいけないようです。
幸せな生活にばかり浸っている人は、困窮している人の中で、苦しみ悲しみに喘いでいる人の姿は理解出来ないものです。
自分の生き方が全てであって、そうでない人々への思いにまで馳せないものです。
どこかの総理大臣が自分は余りにも恵まれ過ぎていて・・・・・
などの発言が極めて象徴的です。
言葉遊びに見えて、重みを感じないのと心の響きを感じなくなってきました。
自分の弱みや能力のたらないところを知っている人、苦しみや悲しみに耐えぬいた人は人の弱みも充分に理解できますし、心底からの思い遣りも提供出来るものです。
本当に強いひと、
それは自らが、日陰の部分ややり場の無い思い、艱難辛苦を経験した人であるように思えます。
今、たとえ谷底の思いや経験をしていたとしても、いつの日か這い上がった暁には真に強い人間になれるという希望、願望を持つべきだと思うのです。
相撲に例えるならば、才能や体力や腕力に恵まれた力士がとんとん拍子で横綱に成ったとしても真に尊敬され、崇められる存在にはならないように思います。
何度も何度も、這い上がっては落ち、落ちては這い上げり、様々な辛酸を舐めた力士に限って人間的にも目標とされたりするものです。
最近引退した横綱、
人並み外れた瞬発力と根性を兼ね備えた人でしたが、心から尊敬しようとは思いません。
ただ、強かっただけ・・・そんなもんでしょう。
家庭的に恵まれないと悲観することはありません。
だって世の中にはそのような人に限って素晴らしい業績を上げたり、尊敬のまなざしで見られたりしています。
それよりも何よりも、表情や笑顔、言動が違うと思いませんか。
むしろ、自分の弱点と思われること、克服をしないといけないところを自覚、認識することが大事であって、そこから生まれた人間的な強さこそ、真の強さかも知れませんね。
ですから、決してめげることはいらないようです。
より挑戦的に勇気を持って、卑屈、卑下しないで逞しさを失わないことが大事なようです。
どうも、その付近に人生の勝機は転がっていそうです。
人は強いだけではいけないようです。
幸せな生活にばかり浸っている人は、困窮している人の中で、苦しみ悲しみに喘いでいる人の姿は理解出来ないものです。
自分の生き方が全てであって、そうでない人々への思いにまで馳せないものです。
どこかの総理大臣が自分は余りにも恵まれ過ぎていて・・・・・
などの発言が極めて象徴的です。
言葉遊びに見えて、重みを感じないのと心の響きを感じなくなってきました。
自分の弱みや能力のたらないところを知っている人、苦しみや悲しみに耐えぬいた人は人の弱みも充分に理解できますし、心底からの思い遣りも提供出来るものです。
本当に強いひと、
それは自らが、日陰の部分ややり場の無い思い、艱難辛苦を経験した人であるように思えます。
今、たとえ谷底の思いや経験をしていたとしても、いつの日か這い上がった暁には真に強い人間になれるという希望、願望を持つべきだと思うのです。
相撲に例えるならば、才能や体力や腕力に恵まれた力士がとんとん拍子で横綱に成ったとしても真に尊敬され、崇められる存在にはならないように思います。
何度も何度も、這い上がっては落ち、落ちては這い上げり、様々な辛酸を舐めた力士に限って人間的にも目標とされたりするものです。
最近引退した横綱、
人並み外れた瞬発力と根性を兼ね備えた人でしたが、心から尊敬しようとは思いません。
ただ、強かっただけ・・・そんなもんでしょう。
家庭的に恵まれないと悲観することはありません。
だって世の中にはそのような人に限って素晴らしい業績を上げたり、尊敬のまなざしで見られたりしています。
それよりも何よりも、表情や笑顔、言動が違うと思いませんか。
むしろ、自分の弱点と思われること、克服をしないといけないところを自覚、認識することが大事であって、そこから生まれた人間的な強さこそ、真の強さかも知れませんね。
ですから、決してめげることはいらないようです。
より挑戦的に勇気を持って、卑屈、卑下しないで逞しさを失わないことが大事なようです。
どうも、その付近に人生の勝機は転がっていそうです。
Posted by misterkei0918 at
19:23
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2010年04月08日
自分だけではない、一人ではない
自分だけではない、一人ではない
自分はつい一人ぽっちだとか、悲しい目にあっているのは自分だけだとか、自分には頼るものがないとか思いがちなものです。
また、人は自分を悲劇のヒロインにするのを好む傾向もあり、上手なものです。
私はそんな人間の最たるサンプルの一人でしょう。
際立っていると言っても過言ではありません。
自信を持って言うのも可笑しいですが、自分でも認めるほどにそうなんです。
私は苦境に陥ると必ずといっていいほど
「可哀想に!!」
「運の悪い奴」
「助けてくれる人はいないのか」
「お前は生まれつき、そのようになる運命を背負っている」
「先は見えているのではないのか?」
「所詮、一人で悩むようにできている」
「どう足掻(あが)いても、どうしようもないのでは?」
「世の中は自分に味方してくれない」
「自分は他の人より常に損をしている」
・
・
いつもそうですが、脳裏の中でそのようなつぶやきが駆け巡ります。
自分の生傷(なまきず)を舐めるのが好きなんでしょう。
でも、過去を振り返ってみると一人で乗り切ったり、克服したように見えますが、
(と言うか、自分ではそのように思いたいのです)
決してそうではないことに気付きます。
自分よりももっと大変な苦境に立っている人は五万といるものです。
他人は決して具体的な解決策は持ち合わせてもいませんし、有用な手立てだって提供出来るものではないのです。
それが出来れば、或いはその程度であれば人は悩みはしません。
立ち向かう勇気を与えてくれるのも他人です。
ライバル意識を提供し、負けてはおれないという意識も人が授けてくれます。
言葉の端々に、奮い立たせるものを散りばめてくれるのも人々です。
小さな解決の糸口や、小さな光明を灯してくれることもあるものです
それで充分ではないでしょうか。
人から与えられるものが過ぎるとつい甘えが生じたり、依頼心、依存心が芽生え、自分で解決力を却って削いでしまうものです。
また、喜びの度合いも異なったものになってしまいますし、
若し、失敗したとしても後の人生に活かせるか、そうでないのか、人間関係を継続して構築出来るのか否か。
自分の人生は自らの力で築いていく思いこそが、やがては力強いものとなり後悔も少なく、振り返った人生が賞賛出来るものとなるものです。
難しいことではありますが、自分自身を自ら鼓舞しつつ、自分の足で立つ思いを失い、努力を怠ったときに私自身の人生の歩みは止まってしまいますし、終焉を迎えるのかも知れません。
自分は一人だと思い始めた途端に、人は不思議と下り坂を下ることにさえ快感?を感じてしまいます。
「茹でカエル」ではありませんが、そこが自分のコンフォートゾーンになってしまうのです。
一人ではない、一人ではないと繰り返し繰り返し呟くことが大事なんです。
しかも自分はまだ恵まれている方であることを知り、想像を超える苦難の道をそれでも乗り越える人がいることも。
頑張れ!!頑張れ!!
自分はつい一人ぽっちだとか、悲しい目にあっているのは自分だけだとか、自分には頼るものがないとか思いがちなものです。
また、人は自分を悲劇のヒロインにするのを好む傾向もあり、上手なものです。
私はそんな人間の最たるサンプルの一人でしょう。
際立っていると言っても過言ではありません。
自信を持って言うのも可笑しいですが、自分でも認めるほどにそうなんです。
私は苦境に陥ると必ずといっていいほど
「可哀想に!!」
「運の悪い奴」
「助けてくれる人はいないのか」
「お前は生まれつき、そのようになる運命を背負っている」
「先は見えているのではないのか?」
「所詮、一人で悩むようにできている」
「どう足掻(あが)いても、どうしようもないのでは?」
「世の中は自分に味方してくれない」
「自分は他の人より常に損をしている」
・
・
いつもそうですが、脳裏の中でそのようなつぶやきが駆け巡ります。
自分の生傷(なまきず)を舐めるのが好きなんでしょう。
でも、過去を振り返ってみると一人で乗り切ったり、克服したように見えますが、
(と言うか、自分ではそのように思いたいのです)
決してそうではないことに気付きます。
自分よりももっと大変な苦境に立っている人は五万といるものです。
他人は決して具体的な解決策は持ち合わせてもいませんし、有用な手立てだって提供出来るものではないのです。
それが出来れば、或いはその程度であれば人は悩みはしません。
立ち向かう勇気を与えてくれるのも他人です。
ライバル意識を提供し、負けてはおれないという意識も人が授けてくれます。
言葉の端々に、奮い立たせるものを散りばめてくれるのも人々です。
小さな解決の糸口や、小さな光明を灯してくれることもあるものです
それで充分ではないでしょうか。
人から与えられるものが過ぎるとつい甘えが生じたり、依頼心、依存心が芽生え、自分で解決力を却って削いでしまうものです。
また、喜びの度合いも異なったものになってしまいますし、
若し、失敗したとしても後の人生に活かせるか、そうでないのか、人間関係を継続して構築出来るのか否か。
自分の人生は自らの力で築いていく思いこそが、やがては力強いものとなり後悔も少なく、振り返った人生が賞賛出来るものとなるものです。
難しいことではありますが、自分自身を自ら鼓舞しつつ、自分の足で立つ思いを失い、努力を怠ったときに私自身の人生の歩みは止まってしまいますし、終焉を迎えるのかも知れません。
自分は一人だと思い始めた途端に、人は不思議と下り坂を下ることにさえ快感?を感じてしまいます。
「茹でカエル」ではありませんが、そこが自分のコンフォートゾーンになってしまうのです。
一人ではない、一人ではないと繰り返し繰り返し呟くことが大事なんです。
しかも自分はまだ恵まれている方であることを知り、想像を超える苦難の道をそれでも乗り越える人がいることも。
頑張れ!!頑張れ!!
Posted by misterkei0918 at
17:45
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2010年04月06日
不得手な所にこそ目を向けてみたら
不得手な所にこそ目を向けてみたら
私はそれこそコンプレックスの塊と言っても過言ではないと自分を見ています。
何一つ、人より優れていると自覚出来るものは持ち合わせていませんし、自慢出来るものもありません。
自分自身はそうですが、周りには家族を含め、友人知人、諸先輩・・・・・私から見たら羨ましいほど有能で素晴らしい技量や知識知能を持っていると思っています。
自分を卑下、悲観するのが上手でもありませんし、周りを褒めたたえるのが得意なわけでも決してないのです。
所が最近感じることがあります。
昔から「好きこそものの上手なれ」とか、
「好きだからこそ、ここまでやれたんだよね」とよく聞きます。
それも真実ですよね。
自分の過去の姿を振り返ってみると間違いなくそうでしょう。
所が、自分が不得手としているところ、下手糞(へたくそ)だよねと思われるところ、敬遠をしている部分、最初から逃げに掛かっているところ・・・・・
実は人も苦手だし、不得意だし、不得手なんです。
最近の言葉で言えば、ニッチ部分ということでしょうか。
好きなところは誰も好きですし、早くから取り掛かった人、精力を注ぎ込んだ人、お金や時間などの資源を集中的に注いだ人が勝ちに殆どが決まっています。
であれば、他人も敬遠する不得意、不得手な部分を意識してみてはどうでしょうか。
結局、自分が得意でないところを実践している他人の姿を見るにつけ自分が情けなくなるものですが、その他人は所謂先見の明があっただけ、或いは偶然の所産であって特別なことではないのです。
結局はその事に気づいて勇気を持って決断が出来るか出来ないかでしょう。
事業でもそうですよね。
ニッチ分野に気づいて、成功している人も存在します。
そういう意味では差別化の有効な手段にもなるかも知れませんね。
却って人生が開けてくるような、楽しくなっていくような気がしないでもありません。
明日から、私も自分自身をウォッチィングしてみます。
私はそれこそコンプレックスの塊と言っても過言ではないと自分を見ています。
何一つ、人より優れていると自覚出来るものは持ち合わせていませんし、自慢出来るものもありません。
自分自身はそうですが、周りには家族を含め、友人知人、諸先輩・・・・・私から見たら羨ましいほど有能で素晴らしい技量や知識知能を持っていると思っています。
自分を卑下、悲観するのが上手でもありませんし、周りを褒めたたえるのが得意なわけでも決してないのです。
所が最近感じることがあります。
昔から「好きこそものの上手なれ」とか、
「好きだからこそ、ここまでやれたんだよね」とよく聞きます。
それも真実ですよね。
自分の過去の姿を振り返ってみると間違いなくそうでしょう。
所が、自分が不得手としているところ、下手糞(へたくそ)だよねと思われるところ、敬遠をしている部分、最初から逃げに掛かっているところ・・・・・
実は人も苦手だし、不得意だし、不得手なんです。
最近の言葉で言えば、ニッチ部分ということでしょうか。
好きなところは誰も好きですし、早くから取り掛かった人、精力を注ぎ込んだ人、お金や時間などの資源を集中的に注いだ人が勝ちに殆どが決まっています。
であれば、他人も敬遠する不得意、不得手な部分を意識してみてはどうでしょうか。
結局、自分が得意でないところを実践している他人の姿を見るにつけ自分が情けなくなるものですが、その他人は所謂先見の明があっただけ、或いは偶然の所産であって特別なことではないのです。
結局はその事に気づいて勇気を持って決断が出来るか出来ないかでしょう。
事業でもそうですよね。
ニッチ分野に気づいて、成功している人も存在します。
そういう意味では差別化の有効な手段にもなるかも知れませんね。
却って人生が開けてくるような、楽しくなっていくような気がしないでもありません。
明日から、私も自分自身をウォッチィングしてみます。
Posted by misterkei0918 at
13:21
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2010年04月05日
笑顔を身に纒(まと)う
笑顔を身に纒(まと)う
いつも笑顔でいられるとどんなにか幸せだろうと思います。
シークレットという本を読んでいましたら、「引き寄せの法則」が語られています。
幸せや事業の成功、あらゆる身の回りのことは「引き寄せの法則」に基づいていると解かれています。
そんな中で元手入らずで、体力も知力も必要とせず、しかも印象深くて相手の心に何となく、それとなく印象づけてくれて足跡を残してくれる最大のものは笑顔だと思うのです。
歪んだ表情の笑顔はそれなりに解釈されますし、気持ちの伴わない笑顔はそれとなく分かるものです。
下心があるとか、表面上だけだとか、心の伴った表情ではないとか。
片や言葉は、「巧言令色鮮(すく)なし仁」と言われるように巧な言葉使いや饒舌、雄弁は却って不信感を持たれたり、疑われたり、距離を作ってしまうものです。
言葉の言の字は「口に刺さった刃」を象形文字化したものとも言われます
最近は日常的に顔の曇る機会が多いものです。
そんな中でも、絶えない笑顔は何ものにも代え難いプレゼントでもありますし、自分の心の落ち着きや整理をするにも役立つものです。
或いは、悲しい表情の中にもついぞ出てくる笑顔は悲しみを和らげてくれますし、悲しみの時間をも短縮してくれます。
不思議なもので笑顔が先行する人の心は、何事も前向きに捉える傾向があるようにも思えますがいかがでしょうか。
どんなに素晴らしい高価、豪華な衣装を纒うより、お金の掛からない笑顔をそれとなく纒う方が良さそうです。
『映画評論家の淀川長治さん。晩年、はじめて入院されました。
しばらくすると病室のドアに淀川さんの字で「このドアを開ける人は、笑って開けて下さい」と紙が貼られました。
看護婦さんが笑顔で病室に入ってくると、どれだけ患者がホッとするか。
程なくしてこの病院の看護婦さんは、どの病室にも笑顔で入るようになりました』
『剣でなぐりつけるよりも、笑顔でおびやかすがよい。シェイクスピア』
『言葉を明るく、笑顔を明るく、態度を明るく、そうすれば人脈が広がり、いろんなことを教えてくれる人が君の前にあらわれるだろう。山谷えり子(ジャーナリスト)』
いつも笑顔でいられるとどんなにか幸せだろうと思います。
シークレットという本を読んでいましたら、「引き寄せの法則」が語られています。
幸せや事業の成功、あらゆる身の回りのことは「引き寄せの法則」に基づいていると解かれています。
そんな中で元手入らずで、体力も知力も必要とせず、しかも印象深くて相手の心に何となく、それとなく印象づけてくれて足跡を残してくれる最大のものは笑顔だと思うのです。
歪んだ表情の笑顔はそれなりに解釈されますし、気持ちの伴わない笑顔はそれとなく分かるものです。
下心があるとか、表面上だけだとか、心の伴った表情ではないとか。
片や言葉は、「巧言令色鮮(すく)なし仁」と言われるように巧な言葉使いや饒舌、雄弁は却って不信感を持たれたり、疑われたり、距離を作ってしまうものです。
言葉の言の字は「口に刺さった刃」を象形文字化したものとも言われます
最近は日常的に顔の曇る機会が多いものです。
そんな中でも、絶えない笑顔は何ものにも代え難いプレゼントでもありますし、自分の心の落ち着きや整理をするにも役立つものです。
或いは、悲しい表情の中にもついぞ出てくる笑顔は悲しみを和らげてくれますし、悲しみの時間をも短縮してくれます。
不思議なもので笑顔が先行する人の心は、何事も前向きに捉える傾向があるようにも思えますがいかがでしょうか。
どんなに素晴らしい高価、豪華な衣装を纒うより、お金の掛からない笑顔をそれとなく纒う方が良さそうです。
『映画評論家の淀川長治さん。晩年、はじめて入院されました。
しばらくすると病室のドアに淀川さんの字で「このドアを開ける人は、笑って開けて下さい」と紙が貼られました。
看護婦さんが笑顔で病室に入ってくると、どれだけ患者がホッとするか。
程なくしてこの病院の看護婦さんは、どの病室にも笑顔で入るようになりました』
『剣でなぐりつけるよりも、笑顔でおびやかすがよい。シェイクスピア』
『言葉を明るく、笑顔を明るく、態度を明るく、そうすれば人脈が広がり、いろんなことを教えてくれる人が君の前にあらわれるだろう。山谷えり子(ジャーナリスト)』
Posted by misterkei0918 at
18:33
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2010年04月04日
優しい人になろうと思えば思うほどに
優しい人になろうと思えば思うほどに
不思議なものですね。
多分、私だけではなく多くの皆さんも経験されていることではないでしょうか。
或いは、二面性のある、その上多重人格的に人間で有る私に限ったことなのかも知れませんね。
「できる事なら、優しい人間になろう」
「自分のあり方を、変えてみよう」とか
「反省の上に立って、自分はこんな事ではいけない」
・
・
時として、こんな事を考えることがあるものです。
所が、難しいものです。
却って、優しくない自分の姿が表面化する、顕在化すると言うのでしょうか。
意識することがそうさせるのでしょうね。
多分、少しづつではありますが優しくはなっていると思うのですが。
例えば、スポーツ選手などが上を目指せば目指すほど、それだけ自分を研究し、見つめますのでより以上の問題点や改善点が余計に見えてくるのと似ているような気がします。
勉強や研究も極めれば極めるほど、不思議なところや問題点、つきない研究心を擽ることにもなります。
やさしいと言うことはどういう事なのか、
人はどのようにすれば心地良さを感じるのか、
自分を無理なく優しさを発揮出来るようにするにはどうすればいいのか、課題は尽きることがありません。
自分の言動が果たして、人に優しいものなのか、
或いは自己満足ではないのか・・・・・
優しくしているつもりが実は相手にとっては押し付けがましいものであったり、不快なものでないとも言えません。
難しいものですが、この探求なしでは優しい人にはなれないのかも知れませんね。
不思議なものですね。
多分、私だけではなく多くの皆さんも経験されていることではないでしょうか。
或いは、二面性のある、その上多重人格的に人間で有る私に限ったことなのかも知れませんね。
「できる事なら、優しい人間になろう」
「自分のあり方を、変えてみよう」とか
「反省の上に立って、自分はこんな事ではいけない」
・
・
時として、こんな事を考えることがあるものです。
所が、難しいものです。
却って、優しくない自分の姿が表面化する、顕在化すると言うのでしょうか。
意識することがそうさせるのでしょうね。
多分、少しづつではありますが優しくはなっていると思うのですが。
例えば、スポーツ選手などが上を目指せば目指すほど、それだけ自分を研究し、見つめますのでより以上の問題点や改善点が余計に見えてくるのと似ているような気がします。
勉強や研究も極めれば極めるほど、不思議なところや問題点、つきない研究心を擽ることにもなります。
やさしいと言うことはどういう事なのか、
人はどのようにすれば心地良さを感じるのか、
自分を無理なく優しさを発揮出来るようにするにはどうすればいいのか、課題は尽きることがありません。
自分の言動が果たして、人に優しいものなのか、
或いは自己満足ではないのか・・・・・
優しくしているつもりが実は相手にとっては押し付けがましいものであったり、不快なものでないとも言えません。
難しいものですが、この探求なしでは優しい人にはなれないのかも知れませんね。
Posted by misterkei0918 at
11:15
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2010年04月04日
桜は恐ろしい!!
桜は恐ろしい!!
関東地方では今が一番の見頃となっている桜。
福岡では、満開を越えてそろそろ葉桜になりつつある木、まだ満開状態の木、交錯している状態です。
私どもが桜、さくらと言っている染井吉野を調べてみました。
『「染井」とは、江戸時代の江戸染井村のことで、今の東京都豊島区巣鴨や駒込あたりの旧地名です。当時は植木屋が多くあったようです。その植木屋から幕末に「吉野桜」として出された品種と言われています。
木の生長が早く花も良くつくので、観賞用として全国的に広がり、藤野寄命氏が「吉野桜」という名称では大和の吉野山の山桜と混同してしまうと、1900年に「染井吉野」と名付けたと言われております。
ソメイヨシノは、生長が早く花も良く付くのですが、寿命は短い方です。オオシマザクラ(大島桜)とエドヒガン(江戸彼岸)の雑種と言われています。』
昔は今ほど桜が重宝されていたのでもなさそうですね。
昔の歌には梅が繁く出てきますよね。
そこで桜に浮かれてばかりではなかったようです。
(今朝のNHKラジオ放送から教えて頂きました)
『桜の森の満開の下』・坂口安吾著(明治39年10月20日~昭和30年2月17日 小説家・エッセイスト)の小説の一節です。
『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。
なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩(けんか)して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。
近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、
能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足(だそく))という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』
と言うふうに続きます、恐ろしい話が。
桜の下では気が狂う、できるだけ避けて通る・・・・・
浮かれてばかりではいけないよとの戒めでしょうか。
関東地方では今が一番の見頃となっている桜。
福岡では、満開を越えてそろそろ葉桜になりつつある木、まだ満開状態の木、交錯している状態です。
私どもが桜、さくらと言っている染井吉野を調べてみました。
『「染井」とは、江戸時代の江戸染井村のことで、今の東京都豊島区巣鴨や駒込あたりの旧地名です。当時は植木屋が多くあったようです。その植木屋から幕末に「吉野桜」として出された品種と言われています。
木の生長が早く花も良くつくので、観賞用として全国的に広がり、藤野寄命氏が「吉野桜」という名称では大和の吉野山の山桜と混同してしまうと、1900年に「染井吉野」と名付けたと言われております。
ソメイヨシノは、生長が早く花も良く付くのですが、寿命は短い方です。オオシマザクラ(大島桜)とエドヒガン(江戸彼岸)の雑種と言われています。』
昔は今ほど桜が重宝されていたのでもなさそうですね。
昔の歌には梅が繁く出てきますよね。
そこで桜に浮かれてばかりではなかったようです。
(今朝のNHKラジオ放送から教えて頂きました)
『桜の森の満開の下』・坂口安吾著(明治39年10月20日~昭和30年2月17日 小説家・エッセイスト)の小説の一節です。
『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。
なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩(けんか)して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。
近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、
能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足(だそく))という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』
と言うふうに続きます、恐ろしい話が。
桜の下では気が狂う、できるだけ避けて通る・・・・・
浮かれてばかりではいけないよとの戒めでしょうか。
Posted by misterkei0918 at
10:49
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2010年04月02日
開き直りの術、伝授
開き直りの術、伝授
「君の1番の得意技は何だ」と問われたら、「そうですね、開き直りの上手さでしょうか」と答えるでしょう。
と言うのは嘘です。
得意技と言うわけではなく、窮地に立たされた自分、
実は極めて小心者の私に取っては日常的に窮地に立たされることが多いことが一つの悩みでした。
また、人前に立つことや人と話すこと、ましてや大勢の人の前で話すなどとんでも無いことでした。
出来るならば、極力避けて片隅で小さくなっているのが精一杯の私でした。
でも、同じ人間として生まれ、いつも卑屈な状態や何事も羞恥心で満杯状態は耐え切れませんし、どこかで打破しないと若しかすると息も絶えてしまうのではないかと思うくらいです。
長男の高校受験の時、試験会場に入る彼に「出来る事の全てはし尽くしたのだから、開き直って頑張ってきなさい」と伝えました。
人は不思議なものです。
開き直れると、火事場の馬鹿力ではありませんが、途轍もない力を発揮したりするものです。
恥ずかしがり屋や引っ込み思案の人に限って、実は負けず嫌いで人前に出るのが好きで、真面目な努力家が多いものです。
克服出来ると持ち前の恥ずかしさが謙虚な態度と化し、引っ込み思案が謙虚な態度へと変化し、素晴らしい人となりを醸しだすものです。
それには、秘伝と言うほどではありませんが、
数日間、それらに打ち勝つ行動をしてみることです。
一年も二年もではなく、数回の勇気ある行動で一皮むけたような変化と快感を経験出来るものです。
当初は怖い気持ちと若干の喜びが交錯しますが、そこは普段からの真面目な性格が効を奏してきます。
出来ないと思うことに、
怖いと思うことに、
有り得ないと思うこと、
自分にはそんな力や能力はないと思っていること
・
・
・
試してみませんか。
不思議な事に気づきます、自分の新しい側面を垣間見ることになります。
そのようにして、人は少しづつ、少しづつ変化を遂げることが出来るものです。
ちょっとした勇気で。
開き直ることの快感は経験したことのある人でないと理解出来ないかも。
また、自信に充ち溢れた人や傲慢極まりない人、自分はコンプレックスとは微塵も関係ないと思っている御仁には決してそのような快感は経験出来ないものです。
経験出来る立場にある人、開き直りが人生を変える可能性のある人にはそんな素晴らしい経験が待ち受けていることを知って欲しいものです。
「君の1番の得意技は何だ」と問われたら、「そうですね、開き直りの上手さでしょうか」と答えるでしょう。
と言うのは嘘です。
得意技と言うわけではなく、窮地に立たされた自分、
実は極めて小心者の私に取っては日常的に窮地に立たされることが多いことが一つの悩みでした。
また、人前に立つことや人と話すこと、ましてや大勢の人の前で話すなどとんでも無いことでした。
出来るならば、極力避けて片隅で小さくなっているのが精一杯の私でした。
でも、同じ人間として生まれ、いつも卑屈な状態や何事も羞恥心で満杯状態は耐え切れませんし、どこかで打破しないと若しかすると息も絶えてしまうのではないかと思うくらいです。
長男の高校受験の時、試験会場に入る彼に「出来る事の全てはし尽くしたのだから、開き直って頑張ってきなさい」と伝えました。
人は不思議なものです。
開き直れると、火事場の馬鹿力ではありませんが、途轍もない力を発揮したりするものです。
恥ずかしがり屋や引っ込み思案の人に限って、実は負けず嫌いで人前に出るのが好きで、真面目な努力家が多いものです。
克服出来ると持ち前の恥ずかしさが謙虚な態度と化し、引っ込み思案が謙虚な態度へと変化し、素晴らしい人となりを醸しだすものです。
それには、秘伝と言うほどではありませんが、
数日間、それらに打ち勝つ行動をしてみることです。
一年も二年もではなく、数回の勇気ある行動で一皮むけたような変化と快感を経験出来るものです。
当初は怖い気持ちと若干の喜びが交錯しますが、そこは普段からの真面目な性格が効を奏してきます。
出来ないと思うことに、
怖いと思うことに、
有り得ないと思うこと、
自分にはそんな力や能力はないと思っていること
・
・
・
試してみませんか。
不思議な事に気づきます、自分の新しい側面を垣間見ることになります。
そのようにして、人は少しづつ、少しづつ変化を遂げることが出来るものです。
ちょっとした勇気で。
開き直ることの快感は経験したことのある人でないと理解出来ないかも。
また、自信に充ち溢れた人や傲慢極まりない人、自分はコンプレックスとは微塵も関係ないと思っている御仁には決してそのような快感は経験出来ないものです。
経験出来る立場にある人、開き直りが人生を変える可能性のある人にはそんな素晴らしい経験が待ち受けていることを知って欲しいものです。
Posted by misterkei0918 at
17:25
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2010年04月01日
今日はエイプリルフール、自分を騙してみませんか?
今日はエイプリルフール、自分を騙してみませんか?
若い頃は、面白がって友人たちを他愛のない事で騙したりしていたものです。
今となっては、冗談のつもりが冗談にならないで真剣に捉える癖、年齢になってしまいましたので下手に冗談でもなかなか嘘は言えません。
4月1日はエイプリルフール(四月馬鹿・万愚節、愚人節)。
フランス語では「四月の魚」と言うらしいです。
昔の日本では、「日頃の不義理を詫びる日」でしたものね。
昔ほど気持ちのゆとりもなくなったのでしょうね。
エイプリルフールという言葉も殆んど口にすることもなくなってきました。
世の中が殺伐として、経済も政治も行き場を失ったように混迷を深めています。
果たして世の中はいい方向へ進むのか、はたまた逆走なのか、若しかすると想像をしない方向へ行くのかも知れません。
そんな世相を反映しているのでしょう。
小さなことでも心を動かすことが大事なのですが、若しかすると声高に一度も笑わないで一日を終わっていることもあるやも知れません。
他人を騙すことに躊躇するなら折角なら自分を騙してみたらどうでしょうか。
「お前は素晴らしい」
「お前は実力を秘めており、まだまだ向上できる」
「お前は同僚よりも出世出来る能力を備えている」
「社長になれる器である」
「あの美人の彼女と必ず結婚出来る」
「持ち家を数年以内に実現出来る」
・
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アメリカの著名なコーチであるリー・ミルティアさんがよく言われます。
「セルフイメージのコントロール」。
自分を自分がどのようにイメージし、評価し、努力を重ねることでイメージした通りの自分を作り上げることが出来ると言います。
ですから後ろ向きの自分イメージを抱く嫌いにある人は、自ら自分を引きずり下ろしていることになります。
今日は折角のエイプリルフール。
褒めること、能力に欠けると思う人でもせめて今日だけでも、自分を騙してみませんか。
私は私をどのように騙しましょうかね。
騙すと言うと何となく嫌ですが、望むセルフイメージを与えるといえば綺麗ですね。
若い頃は、面白がって友人たちを他愛のない事で騙したりしていたものです。
今となっては、冗談のつもりが冗談にならないで真剣に捉える癖、年齢になってしまいましたので下手に冗談でもなかなか嘘は言えません。
4月1日はエイプリルフール(四月馬鹿・万愚節、愚人節)。
フランス語では「四月の魚」と言うらしいです。
昔の日本では、「日頃の不義理を詫びる日」でしたものね。
昔ほど気持ちのゆとりもなくなったのでしょうね。
エイプリルフールという言葉も殆んど口にすることもなくなってきました。
世の中が殺伐として、経済も政治も行き場を失ったように混迷を深めています。
果たして世の中はいい方向へ進むのか、はたまた逆走なのか、若しかすると想像をしない方向へ行くのかも知れません。
そんな世相を反映しているのでしょう。
小さなことでも心を動かすことが大事なのですが、若しかすると声高に一度も笑わないで一日を終わっていることもあるやも知れません。
他人を騙すことに躊躇するなら折角なら自分を騙してみたらどうでしょうか。
「お前は素晴らしい」
「お前は実力を秘めており、まだまだ向上できる」
「お前は同僚よりも出世出来る能力を備えている」
「社長になれる器である」
「あの美人の彼女と必ず結婚出来る」
「持ち家を数年以内に実現出来る」
・
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アメリカの著名なコーチであるリー・ミルティアさんがよく言われます。
「セルフイメージのコントロール」。
自分を自分がどのようにイメージし、評価し、努力を重ねることでイメージした通りの自分を作り上げることが出来ると言います。
ですから後ろ向きの自分イメージを抱く嫌いにある人は、自ら自分を引きずり下ろしていることになります。
今日は折角のエイプリルフール。
褒めること、能力に欠けると思う人でもせめて今日だけでも、自分を騙してみませんか。
私は私をどのように騙しましょうかね。
騙すと言うと何となく嫌ですが、望むセルフイメージを与えるといえば綺麗ですね。
Posted by misterkei0918 at
17:23
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