2010年05月01日
幸せのお裾分け
幸せのお裾分け
お裾分けといえば「袖触り合うも他生の縁」を思い出しました。
裾も袖も似たようなものですから何事も縁を頂いたと思いながら経験するといいと言うことでしょうね。
不思議なもので、苦労している時や心配事を抱えている時に、友人だとか家族に話してみると案外解決の糸口を見つけたり、心が和んだりするものです。
結論を得ようとか、解決をしてもらおうとか、性急な結果を求めるのではなく話しを聞いてもらおうくらいの気持ちが却って良いようです。
それから判断すると、悲しいとき、苦しいとき、悩みを抱えた時はそれとなく口にしてみること。
つまり、少しだけのお裾分けがいい結果をもたらす様に思われます。
相手にとっては迷惑と思いがちですが、話された人にとっては決して嫌な事や迷惑千万なことではなく、却って相手の心を引きつける方法であり、人間としての信頼を増加させる近道でもあります。
人は、口にすることによって病む心を広げ、自然治癒する素晴らしい方法と思われます。
幸せなときにもそうですよね。
こんな言葉を発見しました。
『幸福は時としてだれかを犠牲にして作られることがある。
それはもう幸福ではない。
真の幸福は自分の幸福を相手の幸福に変えることである。
ブールボン=ビュッセ』
幸せなときにも人々に分け与える事に喜びが倍化されるような気がします。
自らの笑顔が周りに伝染していくように。
一歩踏み込んで考えると、自分の幸せのお裾分けも大切ですが、自分の幸せの前に他人の幸せを優先出来るように成ればしめたものです。
難しいことですが。
何事も「胸筋を開く」という言葉がありますが、自らの心を開くことで相手も呼応してくれますし、信頼の度合いが深まることは必然です。
私などはどうしても卑屈な性格ですので、自分の殻に閉じこもってしまい勝ちですが肝に命じて繰り返し繰り返し自問をしなくてはいけないようです。
お裾分けといえば「袖触り合うも他生の縁」を思い出しました。
裾も袖も似たようなものですから何事も縁を頂いたと思いながら経験するといいと言うことでしょうね。
不思議なもので、苦労している時や心配事を抱えている時に、友人だとか家族に話してみると案外解決の糸口を見つけたり、心が和んだりするものです。
結論を得ようとか、解決をしてもらおうとか、性急な結果を求めるのではなく話しを聞いてもらおうくらいの気持ちが却って良いようです。
それから判断すると、悲しいとき、苦しいとき、悩みを抱えた時はそれとなく口にしてみること。
つまり、少しだけのお裾分けがいい結果をもたらす様に思われます。
相手にとっては迷惑と思いがちですが、話された人にとっては決して嫌な事や迷惑千万なことではなく、却って相手の心を引きつける方法であり、人間としての信頼を増加させる近道でもあります。
人は、口にすることによって病む心を広げ、自然治癒する素晴らしい方法と思われます。
幸せなときにもそうですよね。
こんな言葉を発見しました。
『幸福は時としてだれかを犠牲にして作られることがある。
それはもう幸福ではない。
真の幸福は自分の幸福を相手の幸福に変えることである。
ブールボン=ビュッセ』
幸せなときにも人々に分け与える事に喜びが倍化されるような気がします。
自らの笑顔が周りに伝染していくように。
一歩踏み込んで考えると、自分の幸せのお裾分けも大切ですが、自分の幸せの前に他人の幸せを優先出来るように成ればしめたものです。
難しいことですが。
何事も「胸筋を開く」という言葉がありますが、自らの心を開くことで相手も呼応してくれますし、信頼の度合いが深まることは必然です。
私などはどうしても卑屈な性格ですので、自分の殻に閉じこもってしまい勝ちですが肝に命じて繰り返し繰り返し自問をしなくてはいけないようです。
Posted by misterkei0918 at
16:47
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2010年05月01日
この世は有り難い
この世は有り難い
この世こそ安楽、安住の地の様な気がします。
来世や前世がどのようなところか、存在する想像はつきませんが。
「この世には選ばれて来ている」とも言い、
「その中でも人間として来れたのは素晴らしい」とも言います。
輪廻転生とか、
因果応報。
いずれにしても前世、来世を思わせます。
干支の十二支、
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥
(ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い)
昔の方々が生まれ年を表現したり、理解するのに十二支を使われるのもどうもそんな想像をさせてくれます。
自分にとって、悩みの無い、苦労もない、心配の種もない世界が果たして良いのでしょうか。
かと言って全く逆に、心の休まらない、修羅場のような、阿鼻叫喚の世界が言い訳でもありませんが。
この世で折角、一生を迎え、終えるわけですからどんなことがあっても心の片隅にでも「この世が自分にとって1番素晴らしい所」だと思っていた方が良さそうです。
不思議なもので、そんな思いで日常を迎えていると思いは開けますし、束の間の喜びでも訪れることを忘れてはいないようです。
「引き寄せの法則」というものがあると言われます。
自分の今は自分が引き寄せたものだとも言います。
望んだ世界ではないのかも知れませんが、「最悪の世界」と叫んでいる内は全ての幸福や笑顔の源泉は訪れることは決してないのかも知れませんね。
崖っぷちに立った状態でも一縷の望みを忘れないことこそ、大事なことでしょう。
『花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり』
林芙美子さんの「浮雲」の最後に出てきます。
「自分にとって、この世は有り難いところ」
どうせ生きるなら、心の片隅に、或いは時々呟いてみるのも良さそうです。
この世こそ安楽、安住の地の様な気がします。
来世や前世がどのようなところか、存在する想像はつきませんが。
「この世には選ばれて来ている」とも言い、
「その中でも人間として来れたのは素晴らしい」とも言います。
輪廻転生とか、
因果応報。
いずれにしても前世、来世を思わせます。
干支の十二支、
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥
(ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い)
昔の方々が生まれ年を表現したり、理解するのに十二支を使われるのもどうもそんな想像をさせてくれます。
自分にとって、悩みの無い、苦労もない、心配の種もない世界が果たして良いのでしょうか。
かと言って全く逆に、心の休まらない、修羅場のような、阿鼻叫喚の世界が言い訳でもありませんが。
この世で折角、一生を迎え、終えるわけですからどんなことがあっても心の片隅にでも「この世が自分にとって1番素晴らしい所」だと思っていた方が良さそうです。
不思議なもので、そんな思いで日常を迎えていると思いは開けますし、束の間の喜びでも訪れることを忘れてはいないようです。
「引き寄せの法則」というものがあると言われます。
自分の今は自分が引き寄せたものだとも言います。
望んだ世界ではないのかも知れませんが、「最悪の世界」と叫んでいる内は全ての幸福や笑顔の源泉は訪れることは決してないのかも知れませんね。
崖っぷちに立った状態でも一縷の望みを忘れないことこそ、大事なことでしょう。
『花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり』
林芙美子さんの「浮雲」の最後に出てきます。
「自分にとって、この世は有り難いところ」
どうせ生きるなら、心の片隅に、或いは時々呟いてみるのも良さそうです。
Posted by misterkei0918 at
13:47
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2010年05月01日
親の七光、与えたくとも与えられず!!
親の七光、与えたくとも与えられず!!
昨日のブログ、「所詮、人生は親の七光りのお陰」というタイトルで書きました。
気にはなっていたのです。
このようなコメントを楽天ブログで頂きました。
「親の七光、与えたくとも与えられず
負から~一人で奮闘している子供を
せめて応援する気持ちだけ頑張っています」
ありがたい事です、七光について改めて書く機会を頂きました。
七光りを調べてみましたら、
『正しくは「親の光は七光り」。
三省堂「大辞林第二版」には、この場合「七は大きな数として使う」。
つまり、「多くの・偉大な」という意味での「七」であって具体的に何かを数え上げたわけではない』
七光りのお陰で楽をしたり社会的地位を得たり、棚ぼた的な生涯を送る人もいるものです。
逆に親の七光りが嫌だったり、プレッシャーになって人生の没落者になったりもします。
一般的に若い頃は親の威光や七光りなど邪魔者の何ものでもなかったりします。
過去の私は七光りどころか、逆にマイナス面が多かったようにも感じていましたが人生は実はそんな単純なことではないことがわかってきました。
実はコメントを頂いたようなことで充分だと思うのです。
「親の七光、与えたくとも与えられず、負から~一人で奮闘している子供をせめて応援する気持ちだけ頑張っています」
それなんです。
それで充分なんです。
親は子どものために必死に働きますし頑張ります。
それが子供の為になるかならないかは誰にも分からないことであり、場合によっては親の自己満足かも知れませんし、子供にとって大変な重荷になる事だってあります。
大事なことは親が我が子のために、真摯に頑張ることだと思うのです。
結果はどうでも良いことではないでしょうか、子供の足を引っ張る様では困りますが。
色んな親を見る機会がありましたし、今の社会情勢を見ると親子の情愛は何処に行ったのかと疑念を持つことも多々ありますが、貧しくとも親子睦ましく、微笑ましく過ごす姿は崇高にさえ見えます。
それで充分だと思うのです。
清廉な気持ちを頂きました、有難うございました。
昨日のブログ、「所詮、人生は親の七光りのお陰」というタイトルで書きました。
気にはなっていたのです。
このようなコメントを楽天ブログで頂きました。
「親の七光、与えたくとも与えられず
負から~一人で奮闘している子供を
せめて応援する気持ちだけ頑張っています」
ありがたい事です、七光について改めて書く機会を頂きました。
七光りを調べてみましたら、
『正しくは「親の光は七光り」。
三省堂「大辞林第二版」には、この場合「七は大きな数として使う」。
つまり、「多くの・偉大な」という意味での「七」であって具体的に何かを数え上げたわけではない』
七光りのお陰で楽をしたり社会的地位を得たり、棚ぼた的な生涯を送る人もいるものです。
逆に親の七光りが嫌だったり、プレッシャーになって人生の没落者になったりもします。
一般的に若い頃は親の威光や七光りなど邪魔者の何ものでもなかったりします。
過去の私は七光りどころか、逆にマイナス面が多かったようにも感じていましたが人生は実はそんな単純なことではないことがわかってきました。
実はコメントを頂いたようなことで充分だと思うのです。
「親の七光、与えたくとも与えられず、負から~一人で奮闘している子供をせめて応援する気持ちだけ頑張っています」
それなんです。
それで充分なんです。
親は子どものために必死に働きますし頑張ります。
それが子供の為になるかならないかは誰にも分からないことであり、場合によっては親の自己満足かも知れませんし、子供にとって大変な重荷になる事だってあります。
大事なことは親が我が子のために、真摯に頑張ることだと思うのです。
結果はどうでも良いことではないでしょうか、子供の足を引っ張る様では困りますが。
色んな親を見る機会がありましたし、今の社会情勢を見ると親子の情愛は何処に行ったのかと疑念を持つことも多々ありますが、貧しくとも親子睦ましく、微笑ましく過ごす姿は崇高にさえ見えます。
それで充分だと思うのです。
清廉な気持ちを頂きました、有難うございました。
Posted by misterkei0918 at
08:48
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