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2010年12月11日

忘れないことの大切さ

忘れないことの大切さ

人からご恩を頂くことは良くあります。

物を頂く、
気持ちを頂く、
助けてもらう、
導いてもらう、
教えを請う、


色んなご恩がありますが、私などは比較的忘れやすい方で時々しまったと思うこと、しばしばです。

忘れないことの得意な方がいます。

人の名前をしっかり覚えている人、
人の顔をいつまでも覚えている人、
ご恩をしっかり覚えている人。

私はどちらにも該当しませんが、良くない事とはわかっていますが多分脳細胞がそのように出来上がっているのでしょうね。

ご恩はしっかり返さなくてはいけないご恩、
返さなくても良いご恩、
むしろ返すと失礼にあたるご恩、・・・・・

いずれにしても忘れない事は大切なことでしょう。

そのことが結局は自分を大切にすることになりますし、相手を大切にし尊敬の念を持つことに繋がります。

そんなに大層なことではありませんが、こんなことがありました。

尊敬する大先輩、当時80歳半ばでしょうか。
良く博多駐中洲のお店へお伴をすることが良くありました。

この先輩の得意技は、お店の女の子の名前をしっかり覚えておられるのです。

次にお店を訪れるときに、お店に入った途端に女の子数人の名前を呼ぶのです。
2,3日後に訪れたのではなく、半月も1ヶ月も時間が経過しているんですよ。

呼ばれた彼女たちにとってはこんなに嬉しいことはありません。
それは大事にしてくれますよね。

少しの配慮の結果が、自分だけでなくお店の彼女たちの気分までも高揚させ、嬉しいひと時が過ごせるというものです。

ただのいっとき店であっても、サービスされて当たり前の感覚ではなく心地いい時間や気分を与えてくれた相手への心遣いがこんな結果を生むのでしょう。

私にはできない芸当ですが、学ぶべきは先輩方のそんな行動ですね。

忘れない事の大切さ、肝に銘じておきます。
  


Posted by misterkei0918 at 18:38Comments(0)

2010年12月11日

ちょっと会釈ができると可愛いのに

ちょっと会釈ができると可愛いのに

人の笑顔は七難を隠すと思うのです。

昔から「色白は七難隠す」と言われたものですが、最近の女の子たちは美白化粧のお陰かどうかはわかりませんが結構色白の子が多いように思います。

化粧の仕方も、しっかりと勉強しているようで芸能人のような顔立ちの子たちが多いですよね。

一時、顔を真っ黒にした女の子たちが街を闊歩していましたが、決して美しくは感じませんし、むしろ勿体ないとか、健康を害さないのかとか、肌を傷めはしないかとか、極端な子は汚い印象までありましたから要らぬ心配をしたものです。

車を運転していると良く感じるのです。

わざわざ車を止めて、歩道を横断するのを助けてあげているのに、憮然としてわたる子がいます。

通り過ぎてもいいのですが、せっかくだから止まってあげているのですからその位の配慮は必要だと思うのですが。

或いは、「止まってくれたから渡って上げる!!」位のことなんでしょうか。

笑顔はなくてもいいのです。
ちょっと会釈をする位で。

会釈位でいいんですよね。
笑顔まで添えなくても。

下手に笑顔などを返されると、こちらが男であれば困ってしまいますし、要らぬ気をまわしてしまいます。

恥ずかしいのか、面倒なのか、感じないのか、
はたまた鉄面皮なのか。

そんなことが、性格のいい、優しい女の子を作っていくように思うのです。

他人だから、言葉を交わしてはいけない、
知らない人だから会釈をしてはいけない、
などということはありません。

自分自身をしっかり持って、毅然としてさまざまな事象に対処すればいいことですから。

運転をしているこちら側もそうです。
歩行者が譲ってくれたら、怖い顔をしないでお礼の意味を示す手でしぐさをするとか、軽く会釈するとか。

世の中「お互いさま」を忘れては、ますます以ってギスギスした世の中になってしまいます。


『微笑も挨拶も相手を無害化し同時にこちらの緊張を解く。中井久夫「記憶の肖像」』

  


Posted by misterkei0918 at 00:54Comments(0)

2010年12月07日

貧乏は工夫

貧乏は工夫

急に思い立って、現在封切り中の「武士の家計簿」を家内と見てきました。

夫婦二人ですと、一人1000円で済みますから有難いですよね。
映画館の席はほぼ満席状態。

派手な場面があるわけでもなく、時代劇でありながら太刀まわりがあるでもなく物静かな地味な映画ではありました。

江戸末期、大政奉還のころの話ですが武士社会が崩れ去ろうとしている頃、「武士は食わねど高楊枝」の時代でしょう。

士農工商とは言いながら、一番に地位が不安定で、下級武士ほど多分貧しい生活を強いられていたのではないでしょうか。

今の方々は、質に自分の物を売るとか、預けるとかの経験は少ないでしょうが昔は日常的でした。

物を買うのも、質屋へ出かけたりしたものです。

ある意味、質屋は日常生活に密着していましたし一体化していたものです。

家系代〃が加賀藩の算盤方という珍しい職業だったわけですが、今でいえば差し詰め会計係というところでしょうか。

江戸の末期には、藩の財政の立て直しにいろんな方が活躍しています。

例えば、二宮尊徳さん、
山田方谷さん・・・・・

この映画で印象的な言葉が出てきました。
貧乏を極める父親が子供に言い聞かせるのです。

「貧乏は工夫」だよって。

そう思えば貧乏だって捨てたものではなさそうです。
だって色んな工夫をするチャンスをくれたわけですから。

それは後々に大いに役立ちますし、勇気だって湧き出てくるものです。

貧乏だからと言って、卑屈にならないで創意工夫を重ねながらいつの日にか脱出するための努力をすることが大事なんですよね。

子供のころは貧しい思いもいたしましたが子供は少しも貧しいことの悲しさやさみしさを感じることもありませんでした。

ただ振り返ってみて、あの頃はそうだったんだと思い知るのです。
ただし親は大変だったでしょうが。
  


Posted by misterkei0918 at 16:00Comments(0)

2010年12月06日

人的交流は仕事への誘い水?

人的交流は仕事への誘い水?

「あなたはそんなに行動的だとさぞかし仕事に繋がるでしょう?」

そんな人がいます。
多分、自分がそうなんでしょうね。
色んな経済団体やボランティア活動、異業種の交流会で会う時に時々そんなことを私に言われるのです。

私は答えます。
「そんな仕事を頂こうとかそういうことで出席するのではないのですよ。より多くの人に会い、より多くのことを学びたい、教えていただこうと思えばこそ参加しているのです」

「仕事や注文をいただこうなどと下心が潜んでいては、人の付き合いは難しいでしょう?」

特に経営者の人との付き合いはそうだと思うのです。
営業を前面に押し出しての付き合いは、足元や胸の内を見抜かれてしまい、長い付き合いなどできないのです。

その方はそれ以来、言わなくなりました。

人との付き合いを始めようとする時に、そんな考えの元に会うのであれば却って合わない方がいいかもしれません。

仕事を貰うことが前提の交流会や集まりであれば別ですが。

信頼関係がちゃんと構築できて、かつ相手が私を信頼の上で仕事が繋がることは大いに有難いことですし、こちらも全力を挙げてお役に立ちたいものです。


『偉れた人間の仕事─する事、言う事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。志賀直哉』

『経営者がなさねばならぬ仕事は学ぶ事が出来る。
しかし、経営者が学び得ないが、どうしても身につけていなければならない資格が一つある。
それは天才的な才能ではなく、実にその人の品性である。ピーター・F・ドラッカー』


『仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。ルソー』
  


Posted by misterkei0918 at 20:18Comments(0)

2010年12月06日

車社会が人間関係を希薄にしている

車社会が人間関係を希薄にしている

牛車や馬車の時代、
当然、それにさえ乗れない人々が殆どでした。

殆どが徒歩ですよね。
軽く笑顔で挨拶を交わし、譲り合って、いたわり合ったものです。

私も小さい頃は、車に乗ることなど想像の世界でしたし、ましてや自分で車を購入するなど夢にも思いませんでした。

今思うとゾッとするのですが、埃を立てて走るトラックの後ろを追いかけて撒き散らすガソリンの匂いを嗅いでいたものです。

何故か、当時は良い匂いだったんです。
不思議な匂い、生まれて此の方嗅いだ事のない匂いだったんですね。

まさか川崎病に代表されるような公害の原因になるなど考えもしませんでしたし、公害という言葉さえ存在しませんでした。

車は今となっては、手放せない存在であり極めて便利なものです。
或いはステイタスとしての象徴的な存在でもありました。

でも、便利さとは裏腹に我々の人間関係や精神構造まで変えてしまったことは間違いないと思っているのです。

片方では、人の命を奪う凶器でもあります。
一年間に8000人から一万人が死亡するのですから大変なことです。
言わば、ひとつの町や村の住民が全て一年で亡くなったのに同じであります。

顔の見えない密室化した車は、競争意識のむき出しの世界となり、秩序を乱し、日ごろの性格までも凶悪化してしまいます。

追い越されたと言っては、殺人事件だって起こりますしタバコや空き缶、ペットボトルなどの投げ捨て、人を連れ去る道具にだってなってしまいます。

アメリカ映画などを見ていても、車を使った強烈な映画の全盛時代でもあります。

今の世界のグローバル化された経済競争の中心にあるのも車です。
世界中の人々が、先進国の車社会の人々と同じような精神構造の変化にさらされると思うと怖い思いがいたします。

車社会の進展を否定するものでもありませんが、もっと心豊かに、互譲の精神を持って車を利用できる世界が来てほしいものですね。
  


Posted by misterkei0918 at 18:18Comments(0)

2010年12月06日

人材は人財

人材は人財

「人材は人財」と言われて久しいですね。

人は宝である、財産であるということですが、とりわけ企業で良くつかわれます。
企業の経営資源は「人、物、金、情報」と言います。

やはり一番は人なんですね。
場合によっては、人がいなくても商売になることもあり得ます。

例えば、仕入れた商品が素晴らしくて、評判が良くて、こちらが動かなくても購入して頂いて、支払いの現金で、事務や経理処理は税理士任せ・・・・・

社長一人で、誰もいなくても結構な商売をしている人だっておられるかもしれません。

でも一般的には、人数は別にしても殆ど社員がいるものです。

その社員の能力によって、全く同じ商品、同じ商圏、同程度の企業規模や資本力、歴史でも業績の上がるところが存在します。

それは経営者の手腕や人間関係を差し引けば、優秀な、或いは熱心な社員が存在するかそうでないかで結果が殆ど決まってしまいます。

人はそんなに人間としての基礎的能力の差はないように思うのです。

要は、どれだけ勉強、研究してきたか、教育をされてきたのか、そうでなかったのか。
大事なのは、彼らが勉強しなくていけないという意識を持っているか否か、動機づけがなされているのかそうでないのか。

また、そのような環境を企業側が提供できているのかいないのか。

大企業と中小零細との差が歴然とするのは、やはり環境面でしょうかね。

いずれにしても、健全に企業が発展することが社員の福利厚生に直接的につながってきますので経営者の責任は重大です。

こんな閉塞的な経済状況や当てにできない政府、政治家ではいよいよもって経営者の手腕が問われるところでしょう。

経営者にとっては受難の時代ですが、そこで期待できるのが優秀な社員たちです。

「人こそ大切に」の心構えを持って、
しかも「人材は人財」だということを肝に銘じておかないといけませんね。

私の母と祖父がいつも言うのです。
「人を大切に、人を大切に!!」と。
  


Posted by misterkei0918 at 08:43Comments(0)

2010年12月05日

働くは端(はた)を楽にするため

働くは端(はた)を楽にするため

「職業に貴賎はない」とか、
「上下に貴賎はない」とか言います。

職業に貴賎はあると思っています。

昔はそうでなかったのかもしれませんが、
現代は職業に社会的使命とか、貢献とか、社会的な必要性、経営理念とか、どうも表向きには語られはしますが、昔に比べて所謂金儲け優先になってしまったり、人を陥れてでもという思いやアンダーグラウンドの商売、自らの地位確保のためや安易な起業がはびこっていますので、職業に貴賎が今ほど存在している時代はないような気がします。

ネット社会も大いに影響していますし、マスコミ報道や学校教育にも責任が大いにあると思っています。

当然、親の考えがそのようになってきていますから子供もそのような考えになるのは仕方ないでしょうね。

元来、仕事や職業は生活の基盤を支えるために極めて大切なことであり、これなしには生計を安定的に維持することは難しくなります。

より大きなお金を求めて、仕事をすることを否定することはいけませんが、本末転倒になってはいけないと思っています。

お金を求めるがために、自己優先をしてみたり、他人の存在を無視したり、蹴落としたり、社会的な悪影響、損害を与えるようではいけませんしあるべきことではありません。

社会全体がお金を優先し、お金があれば何でも解決できる環境が進めば進むほど、人は他人より先を競ってお金を求め心の在り方が歪んでいくことは今後も進んでいくように思います。

社会や家族の在り方も大きく変化し、お金でないものでの支え合いが希薄になり、行き交う心の大切さがますます失われていくに決まっています。

それがために、職業に貴賎が明らかに生じてきていると思われます。

職業や仕事は家族を大切にし、極めて重要な社会的存在として尊ばれ、自らの人間性や協調の心を醸成するものとしての位置づけであるべきだと思っています。

自分が頑張れば頑張るだけ、社会や家族がより高い次元での生活や活動が保障され心豊かで、明るく楽しいものであるための基本であると思います。

逆に言うと、賤しい職業が存在することは賤しい心がそこに存在し、人々の心を賤しいものとし、惑わし、犠牲や混乱を助長するもので。

そのような職業が全く存在しない社会は、世界を見ていても、日本の歴史を振り返ってみてもあり得ないと思いますが、行政や法律、社会の規範、意識として少なくする努力を失ってはいけませんね。

働くことは、身近な人々を楽にすると思えば、少々きつい仕事でも勇気をふるって頑張れそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 10:06Comments(0)

2010年12月03日

ご両親を大切にしていますか

ご両親を大切にしていますか

ご両親がお揃いになって、子育てに一生懸命な姿は微笑ましいものです。

昨今は、親子を廻る色んな事件、事故が繁く報道されますから世の中の全てがそうであるように勘違いしがちですが、そんな事は無くて殆どの家庭や家族はそれは素晴らしい関係が構築されているものです。

幸せに溢れた家族が殆どだと思うのです。

私自身は、生まれた頃から両親と生活する事ができなくて恵まれた家族の様子を見るにつけ悲しい、寂しい思いに駆られたものです。

兄弟が数名いて、祖父母がおられて、睦まじい両親がしっかり家庭を守っていて。

理想の家庭ですね。

父親とは生まれてこの方、生活する事は出来ませんでしたし、母親と初めてであったのが小学校へ入る直前の2月だったように思います。

その後、母親との生活が約10年足らず続いたものです。

皆さんは、ご両親を大切にされていますか。

大切にするご両親が存在する事、存在した事は私のような人間にとっては極めて羨望の家庭です。

私の人生も、多分今とは大幅に変った人生になっていたであろう事は容易に想像できます。

片親の母親でさえも、十分に親孝行の出来ない私が申し上げるのも可笑しいのですが、それでも「ご両親を大切にしていますか」と問うて見たいのです。

当然、それは私自身に対する質問でもあって、反省の弁を引き出すための詭弁でもあるのです。

或いは、そうでないからこそ他人から「ご両親を大切にしていますか」と問われる快感を味わってみたいとの思いでもあります。  


Posted by misterkei0918 at 19:33Comments(0)

2010年12月03日

逝きし前に供えること

逝きし前に供えること

今日は悲しい別れに遭遇しました。
急な事故によって命を落とす事は、残された人にとっては悲しみが倍化すような気がします。

今日の方もそうでした。
突然にこの世から、去ってしまう。

最近、病気などで患われた後に亡くなる方のご葬儀に出る機会が多かったものですから、どちらかと言うと淡々とした告別式を経験していました。

残された遺族の方々も、一応の覚悟は出来ていますし、大方いつの日にかあの世に旅立って逝く事は想定の範囲内ですので、悲しみも幾らかは和らいでいるものです。

また、心の中には看病に精一杯の努力をしたとか、尽くせるだけの事はしたとか、亡くなったとしても幾らかの満足感も伴っているものです。

ところが、突然の訃報は心の整理が出来ていないどころか、現実の出来事として把握は出来ないものです。

葬儀の進行につれ、現実の出来事として俄かに悲しみがこみ上げて来るもの。

つまり呆然自失の世界から、現実を直視しなくてはいけない状況の追い込まれることになるわけです。

人が「命を永遠に全うできない事」は、事前の事実ではありますが心の片隅には「永遠の命」を想定して日頃の生活をし、行動しているものです。

忽然として、この世からいなくなってしまう事など、身近な人であればあるほど考えたくない事であります。

悲しい思いをしたのは、いたいけない子どもの葬儀の時です。

子どもに先立たれたご両親の悲しみも想像を越えますが、まだ将来のある幼い子どもの告別式は参加者の全ての涙を誘ってしまいます。

これは私自身が我が身に若しもの事態が起こった時のこととして勝手に思うことなのですが、

日頃から、心の準備をしておきたい事と、

自分の生き様や人生観の口伝えや若しくは記録、
妻や子どもたちに残したものの清算、
或いは残したいものの記録や法的な手続き、

貴重な経験談や自分たちの先祖の事、
お墓やお祭りの事、


事前に、残るであろう者たちへしかと伝えていければいいなと思います。

早くから、そんな心構えで日常を過ごす事が大切かもしれませんね。
もう先が見えてきた私のような人間にとっては。

いつもそうですが、敬虔な心、成仏を祈る心掛けは忘れてはいけないようですね。
徳を積むと言います。
数珠で両手を合わせて合掌をし、お香を手向けて、目を閉じて、頭を垂れて・・・・・  


Posted by misterkei0918 at 18:29Comments(0)

2010年12月03日

人は言われ続けるとそのようになる

人は言われ続けるとそのようになる

私は小さい頃、本当に悪い子でした。
母親からは日常的に叱られていましたので、相当に悪かったのでしょう。

また、母親の叱り方も尋常ではなかったようです。
隣の人が止めにくる位でしたから。

いまでも母親の身になれば、叱っても仕方なかったと理解しています。

私の叱られ方はそうではなかったのですが、

子供のころに「お前は馬鹿」、「お前は馬鹿」と連発されると子どもは自分は本当に馬鹿なのでは?と思ってしまいますし、不思議なものでますますそのように行動してしまいます。

「お前は橋の下から拾ってきた」、
昔の親はこんな言い方を子どもによくしたものです。

何度も何度もいわれると、「本当に自分は橋の下に捨てられていたのでは?」と肯定をしてしまいます。

卑屈になりますし、惨めな気持ちになってしまうものです。

逆に発奮をさせようとして、言う事もありますよね。
その付近は前後の言葉次第、日頃からの信頼関係やしつけによって解釈が異なってくる事になってしまうものです。

また、「お前は天才」「お前は素晴らしい」「貴方は人並み以上」などと日常的に褒めちぎられると子どもは「自分はそんな素晴らしい人間なんだ、天才なんだ、優秀なんだ」と思い上がった人間性が出来上がるものです。

自己主張が過ぎる人や、際立った自信過剰などがそうなのではないでしょうか。

或いは、「誉め殺し」と言う言葉もあります。

出来もしないのに、口先三寸、ほら吹きなどがそうでしょう。
自己を鼓舞するため、追い込むための手法でもありますが、そんな人は観ているとそれなりに理解できるものです。

私などはどちらかと言うと、自信喪失派でしょうね。
ですから、自信が出るまで時間がかかりますし、物事の理解がなかなか進みませんし、人前に出るのにも訓練が人並み以上に必要です。

「硬軟使い分ける」と言う言葉がありますが、子育てや社員教育もそうなんでしょうね。
その本人の資質や対応能力を確認しながら、教育を行わないと一方的な感覚や感情だけに頼る教育には、将来に禍根を残したり、傷跡を大きくしたり、若しかしたら心まで歪ませているやも知れません。

オーバーに言えば、その人の人生をも狂わせる事態を招いている事にもなってしまいます。

子育てや教育は大変に難しいものですが、それだけに重大な任務であり、責任重大です。

私自身も或いは育て方によっては、今頃全く違った私が存在していたのかも知れません。

「人は言われ続けるとそのようになる」。
このことをいつも考えながら、人とも交流をしないといけませんね。  


Posted by misterkei0918 at 08:15Comments(0)

2010年12月02日

お母さんは偉い

お母さんは偉い

「子どもの為に身を粉にして働く」とは母親の為にある言葉だと実感できます。

今朝も通勤途上に、自転車の前後に子どもを乗せて、必死の形相で急ぐ母親を拝見しました。

化粧も程ほどに、身なりもそこそこでしょうか。

父親が子育てに必死になる姿はつとに見ることは出来ませんが。母親のそれは日常的です。

「母親の愛情は空よりも広く、海よりも深く、山より高い」とも言います。


『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』


東京品川の船舶振興会、今では日本財団ですかね。
その正面に元会長・笹川良一さんと背負われたお母様の銅像が建立されています。

その碑文です。
『母背負い宮のきざはしかぞえても、かぞえ尽くせぬ母の恩愛』

笹川良一さんが59歳のとき、82歳の母親・テルさんを背負って金比羅参拝をされ、785段の石段を登ったときのことを詠われたようです。

「金比羅山の階段は数えられても母の恩愛は数え尽くせない」と、親の愛情の深さを賞賛されています。


翻って、「お前の親孝行はどうなっているのか」と問われているようです。

悲しいかな、自らに「親不孝物」と刻印を押しても文句が言えない自分に恥じ入るばかりであります。

親からは溢れるばかりの愛情を頂きながら、返すのは親不孝の数々ばかり。

「親孝行したい時には、親はなし」
そんな人としてあるまじき事態には陥らないように、自らを戒めないといけませんね。

お母さんは偉い!!  


Posted by misterkei0918 at 16:52Comments(0)

2010年12月02日

家族の力は怖いほど

家族の力は怖いほど

最近は尊属的な事件事故、殺人を日常的に耳にする時代になりました。

昔から「骨肉の争い」とか、
「愛情が深いほど、変じて憎しみも深い」
「愛憎劇」とか、色んな言い方をされます。

元来、愛情にまみえて当然の親子関係や兄弟、親族が一旦歯車が狂い始めると収拾がつかなくなり、卑属のトラブルよりも強烈な結末を迎えるのも頷けるような気がします。

でも、世の中の殆どはその逆で、睦まじく、支えあって、心繋がって過ごしているものです。

家族の力は怖いほどに、凄いものがありますしそれを拠り所として生涯を送っていくものです。

私のように親が片親しかいなかったり、兄弟のいない人間にしてみたら多くの家族を抱えた人々は羨ましい限りです。

人は、あの人の為なら「生涯を捧げてもいいとか」、「命も惜しくない」、「財産を投げ打ってでも助けてあげる」・・・・・

そんな親子や兄弟が殆どであります。

血の繋がりは本当に貴重であり、大切なもの、頼りになるものであります。

私自身の事を振り返ってみても、そんな事を実感してしまいます。

29歳で起業をした私は、当時家内に大変な心配をかけることになってしまいました。

蓄えのない若いサラリーマンが、一軒家は新築したばかり、長男は誕生した直後。

一般的には、起業など考えませんし、すること事態が狂った行動にしか写らないかもしれません。

親兄弟に財産があって支援してもらえるわけでもなく、事業の応援をしてくれる人も無くそれこそ無謀の極みであります。

だけど、人は「火事場の馬鹿力」ではありませんが、そこに家族がいるからやれるのです。

家族の為なら、命を削ってでも事業を成功させ、決して路頭に迷わせないと粉骨細心、時間を惜しみ、無い頭を振り絞って努力をするものです。

考えたら、それを利用して頑張る力を生み出していたのかも知れませんね。
当時、そんなところまで考えていたわけではありませんが。

家族の力は怖いほどの魔力を持っているものです。
人は不思議なもの。
それを頼りに、生きがいにして逞しく生きる力に転化できるものです。  


Posted by misterkei0918 at 15:06Comments(0)

2010年12月02日

ありのままの自分・・・自己肯定

ありのままの自分・・・自己肯定

12月1日のNHKラジオを聴いていましたら、テレビに良く出ておられる姜 尚中(かんさんじゅん)さんが出ておられました。

日頃からそのお人柄に魅力を感じておりましたが、やはりそれに違わない人のようです。

在日の韓国人で熊本で生まれ育たれたようです。

話の中に幾度と無く「開き直り」の話が出てきました。

自分のありのままを見る気持ち、ありのままでいいとする気持ち・・・自己肯定の大切さをおっしゃっておられます。

ご自身も少年、青年時代はかなり葛藤を経験され、後に「ありのままの自分・・・自己肯定」の大切さを感じ、それでいいんだとする気持ちが後々の自分の成長に繋がったといわれていました。

確かにそうですよね。

自分の生まれや育ち、環境、精神や体・・・・・そのどれをとっても人とは違うものであって、それがそれこそ自分そのものであり、ありのままなのですが人間はどうもそれを良しとしないように出来ているのです。

私は良く、「開き直り」と言います。
つまり「これでいいんだ」とする思いであります。

例えば、何か重大な事に直面したとします。
一生懸命に対峙し、乗り越えようと努力をしました。

時間の猶予はありません。
そんな時にはそれこそ「開き直り」。

もうここまでくれば自分を飾る事も必要ありませんし、むしろ
ありのままをさらけ出すことの方が大切ですし、そのほうが上手くいくコツのようです。

人間として自分のありのままを肯定し、そのことを良しとする姿勢。
それがとても大事な用ですね。

人間は自分のありのままは出来るだけ見ようとしないものですし、自分自身は周りからすると劣っているもの、卑下の対象であったり、屈辱的に見てしまいそうですが、「開き直り」、「ありのままの自分・・・自己肯定」がチャンと出来るといいのかもしれませんね。

私も若い頃は、自分が嫌でこのままでは人生を全うできるかまで危惧したものでした。

いつの頃からか、諦めと言うか、自分は自分で仕方ないと言う思いに切り替わり随分と楽になった時期がありました。

必要以上の背伸びをしないで、「ありのままの自分・・・自己肯定」で良さそうですよ。  


Posted by misterkei0918 at 00:45Comments(0)

2010年12月02日

悩み抜いた先のことに思いを馳せてみたら?

悩み抜いた先のことに思いを馳せてみたら?

人生には不思議な事がたくさん存在するものです。

自然現象だって、日常的に身の回りで起こる様々なこと。

私ども人間そのものの精神作用というか、心の動きもその一つですしなかなか自由にならない極めて厄介な存在です。

いっその事、もっと単純明快であって欲しいと願うものは私一人ではないでしょう。

逆に単純明快に出来ていないからこそ、人それぞれ多種多様で侭ならず、自由にならないもどかしさや価値観の相違、趣味思考の違い、一致しない思惑、思想信条、人そのものの物理的な違いなど、多くの複雑さゆえの面白みや困難さがいいのかもしれませんね。

それが一様であれば、人生は全く面白みの無い、努力しても報われない状況になっているのかもしれません。

そして人生は悩みが多いからこそ、葛藤もあり、競争もあり、努力もするものです。

ですから悩み多い人生だからと言ってつまらない人生、面白くない人生、幸福から程遠い人生とはいえないような気がするのです。

だからこそ、人は悩むのだと思っています。

悩み苦しみは、悩み苦しむために存在するのではありません。
明るい未来や幸福の扉を開くための胎動であることは間違いは無いのです。

現実に悩んでいる今の事を考えれば、先の見えない、暗闇を手探りをしているようにも見えますが朝の来ない夜がそうであるように、必ず光明は差して来るものです。

その細い光明が見えて時の心のあり方が大事なようです。

悩みにばかり気を取られていると、折角身近に辿りついた小さな光明に気付かない、若しくは無視を決め込んでいるのです。

悩み抜いた先のことに思いを馳せてみることが大事なようです。

悩みから解き放たれた時の心地よさは経験しないとわからない事ですし、その恩恵に預かろうとする気持ちの存在が大事なのではないでしょうか。

悩みはいつまでも続かない事、
悩みは幸福への呼び水であることを信じること、

行動的に積極的に立ち向かう気持ちが悩みを和らげる事、
悩み多き時ほど、人との交わりを忘れない事、

一人で解決しようなどと思い上がらないこと、
そんなときほど、笑顔を忘れない事、

悩みが一番嫌いな事・・・それが笑顔なんです。  


Posted by misterkei0918 at 00:06Comments(0)

2010年12月01日

どうも人生は独り相撲を取る様につくられている

どうも人生は独り相撲を取る様につくられている

人生は一様ではありませんし、思うほど単純なものでもありません。
どうも人生は人間を苦しめるために存在するのかと思わせるほど毎日が苦難の日々です。

どうしてこんなに人生は難しいのかと不思議な気さえしてくるのです。

特に多感な時期は、自分の人生に悲嘆をして見たり、将来への不安や、人との違い、家庭環境などに心の全てを奪われてしまい、お先真っ暗状態にも陥ってしまうものです。

このような状態で人生を全うできるのか、
今のままの人間で果たして社会に出れるのか、

果たして結婚など出来るのか、
恋愛さえ、十分に出来ないのに、

自分だけ何故不遇に生まれたのか、
こんな親の元に生まれたくなかったのに、
どうしてもっと裕福な家庭に生まれなかったのか、



考えたらきりが無いものです。

ところが、自分が生まれた境遇や与えられた人生を人は上手に比較できる能力は十分に備えて生まれてきたようです。

ただ、表面的なことだけをね。

他人の内面や家庭環境、境遇は、本の僅かでも垣間見る事が出来ていないくせに。

自分の優位性や優れた側面を、片時も見ようともしないで。

つまり他人を見る目は細くて、自分を見る眼は見開いているんです。

年齢を重ねてみると、なんと自分の人生や与えられたものも他人も差して異なるものは殆どないことに気付くものです。

だから人生はいいんでしょうね。
差が無い事が分かるとなると、多分競争心や努力をしなくなるのは目に見えているのです。

自分が劣っているとか、負けている、このままでは人生を全うできないと感じるように出来ているようです。

自分の優位性を確保するために賢明に努力するように仕向けるように出来ているのです。

誰がこんな仕組みを作ったのでしょうかね。

振り返ってみると、誰でも一人相撲を取るように出来ているようです。  


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2010年12月01日

本は傍らにおいて置くに限る

本は傍らにおいて置くに限る

元来、若い頃から読書が好きで通勤や時間が取れる時に読んでいたものです。

東京での会社務め時代は通勤時間が約一時間ほどかかっていましたので、貴重な読書タイムでした。

一番読んだのは、亀井勝一郎さんの本でしたがその大事にしていた本の数々はどこへいったのでしょうかね。

多分、私にとっては難しい内容の本でしたので殆ど記憶には残っていませんが、多感な頃に読みましたので物の考え方や私の人生観などの大いなる影響は与えたものと推測します。

そうあって欲しいのです。

でも、29歳で起業して以来は読書の時間として取り立てて取る事はなくなってしまいました。

経営の本とか、業界絡みなどの本はどうしても必要に駆られて読むことはありますが、例えば偉人物とか、小説、歴史物・・・じっくり読むことはなくなってしまいました。

ところが最近、自分から進んで読書会へ出かけてみたり、歴史口座へ飛び込んでみたりするようになって来ました。

もう馬齢を重ねておりますので、吸収の度合いは少なくはなりましたが、出来るだけ時間を割いて出席をするように務めています。

ですから、今では手にする本が殊のほか増えてきました。
多分、少なくても月に4~5冊は購入をしています。

だからと言って、全てを読破しているのではありません。
読み齧っているといったほうが正確で、車の中や会社の私の机の傍に積みあがっているのです。

でも。本はそれでもいいと思っています。

いつか関心が出てきた時に、手を差し伸べて必要な部分だけを読む。

私は実は道路の赤信号の時に、良く本を読んでいます。
そのお陰で、車の発進が遅れたりはしていますが。

赤信号の間に、結構読めるのです。
神経が集中していますので、結構頭に残っていたりして。

そうですね、
今、車の中には30~40冊は乗っていると思います。

本は、全てを読まなくても買いたいと思う本を気持ちが乗っている時に購入し、必要な時に必要な部分を読めばそれで十分だと思います。

昔から、「座右の本」とも言いますしね。
「本は傍らにおいて置くに限る」、それでもいいと思います。

最近、美術館や博物館へ出向く事があります。
その時にも、その時にしか変えない本がありますので出来るだけ買い求めるようにしています。  


Posted by misterkei0918 at 18:48Comments(0)