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2010年12月16日

人を思い煩うな、因は自らの心にあり

人を思い煩うな、因は自らの心にあり

私の悪い癖です。
責任転嫁を得意技としています。

問題が発生するとすぐ人の精にする、
被害妄想に捕らわれる、
逃げ出す、
知らんふりを決め込む・・・・・

得意分野は、自慢の種ですがこればかりはどうにも困ったものです。
人としての在り方を、しっかり身につけていない証拠です。

昔からというか、仏教用語で「因果応報」とは良く聞かされました。

ネット上の辞書から頂いてきました。
『人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。
もと仏教語。
行為の善悪に応じて、その報いがあること。
現在では悪いほうに用いられることが多い。
「因」は因縁の意で、原因のこと。
「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと』

どうも、さまざまな事象の原因のほとんどは私にあって、慎むべき、反省すべき、謝るべきは私のようです。

そのように判断するか、結論付けた方が案外気持ちの座りもいいですし、丸く収まるような気がするのです。

それでも、尊厳や人権に関わること、命に関わることは簡単に飲むわけにはいきませんが。
徹底抗戦しないといけませんよね。

また、明らかに相手が間違っていることや譲れない事、物事の真実、不誠実に関わることなどもそうかもしれませんね。

何事もそうですが、「自分はどうなのか」や「自分に責任や間違いは何のか」などの自問を繰り返す癖が大事に思われます。

人は不思議なもので、自らに原因があると認められるときに限って必要以上に憤ってみたり、自己保身や自己保全に努めるものです。

反省の日々です。

「人を思い煩うな、因は自らの心にあり」ですよね。  


Posted by misterkei0918 at 16:57Comments(0)

2010年12月16日

学びの場は日常の何処にもある

学びの場は日常の何処にもある

学業の時期にある世代の頃は、思い起こせば幾らでも学業の為に時間が作れたのですがそんな時に限って時間を無駄?に消費していたものです。

無駄が大事なのもわかりますし、そんな多感な時期は友人関係や恋愛、親との関係、スポーツや遊びとそれなりに時間に追われていたような気もします。

勉学のみに集中することも大事ですが、その時期にしか学べない大切なものが周りには山積していたものです。

当時はそれらが人生にとって、必要不可欠、貴重なものとは感じることはありませんでしたが年を重ねてみると十分に納得ができます。

ですが、何事も学ぼうとする姿勢だけは、若いころから備える努力はしていた方が良さそうです。

学びの癖とでも言うのでしょうかね。

私の今までは、意識的に学ぶ時間を持たなかったことが今日の後悔に繋がっているような気がします。

ただ、経営や社会活動、ボランティアの為に前ばかりを見詰めて我武者羅に突っ走ってばかりの日々でした。

心のゆとりがなかったのでしょうね。

最近、ここ数年ですが学びの喜びと言いますか、人様から教えていただくことの有難さや楽しさを満喫できるようになってきました。

知らない事の多さにただただ驚嘆するばかり、
物知りの人がどんなに世の中に多いことか、思い知ることしきりです。

ある特定のことを学びたいということであれば別ですが、人生や一般常識的なこと、歴史や自然・・・のことであれば私どもの日常の中に幾らでも転がっていますし、教えていただける機会や人も探すのにそんなに無理はなさそうです。

若い方々の中に、混じって学ぶのも良いものです。

「その年になって何事か?」
「年寄りの来るところではない」などと幾らか気後れがしたり、恥ずかしい気はしますが、彼らに生きざまを見せるためにも良いかと、自分に言い聞かせながらのことであります。

考えてみれば、学びの場は幾らでも存在したのですね。
時間が足らないとか、忙しいとかはただの言い訳にすぎない事に気付きます。
  


Posted by misterkei0918 at 15:42Comments(0)