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2010年12月03日

ご両親を大切にしていますか

ご両親を大切にしていますか

ご両親がお揃いになって、子育てに一生懸命な姿は微笑ましいものです。

昨今は、親子を廻る色んな事件、事故が繁く報道されますから世の中の全てがそうであるように勘違いしがちですが、そんな事は無くて殆どの家庭や家族はそれは素晴らしい関係が構築されているものです。

幸せに溢れた家族が殆どだと思うのです。

私自身は、生まれた頃から両親と生活する事ができなくて恵まれた家族の様子を見るにつけ悲しい、寂しい思いに駆られたものです。

兄弟が数名いて、祖父母がおられて、睦まじい両親がしっかり家庭を守っていて。

理想の家庭ですね。

父親とは生まれてこの方、生活する事は出来ませんでしたし、母親と初めてであったのが小学校へ入る直前の2月だったように思います。

その後、母親との生活が約10年足らず続いたものです。

皆さんは、ご両親を大切にされていますか。

大切にするご両親が存在する事、存在した事は私のような人間にとっては極めて羨望の家庭です。

私の人生も、多分今とは大幅に変った人生になっていたであろう事は容易に想像できます。

片親の母親でさえも、十分に親孝行の出来ない私が申し上げるのも可笑しいのですが、それでも「ご両親を大切にしていますか」と問うて見たいのです。

当然、それは私自身に対する質問でもあって、反省の弁を引き出すための詭弁でもあるのです。

或いは、そうでないからこそ他人から「ご両親を大切にしていますか」と問われる快感を味わってみたいとの思いでもあります。  


Posted by misterkei0918 at 19:33Comments(0)

2010年12月03日

逝きし前に供えること

逝きし前に供えること

今日は悲しい別れに遭遇しました。
急な事故によって命を落とす事は、残された人にとっては悲しみが倍化すような気がします。

今日の方もそうでした。
突然にこの世から、去ってしまう。

最近、病気などで患われた後に亡くなる方のご葬儀に出る機会が多かったものですから、どちらかと言うと淡々とした告別式を経験していました。

残された遺族の方々も、一応の覚悟は出来ていますし、大方いつの日にかあの世に旅立って逝く事は想定の範囲内ですので、悲しみも幾らかは和らいでいるものです。

また、心の中には看病に精一杯の努力をしたとか、尽くせるだけの事はしたとか、亡くなったとしても幾らかの満足感も伴っているものです。

ところが、突然の訃報は心の整理が出来ていないどころか、現実の出来事として把握は出来ないものです。

葬儀の進行につれ、現実の出来事として俄かに悲しみがこみ上げて来るもの。

つまり呆然自失の世界から、現実を直視しなくてはいけない状況の追い込まれることになるわけです。

人が「命を永遠に全うできない事」は、事前の事実ではありますが心の片隅には「永遠の命」を想定して日頃の生活をし、行動しているものです。

忽然として、この世からいなくなってしまう事など、身近な人であればあるほど考えたくない事であります。

悲しい思いをしたのは、いたいけない子どもの葬儀の時です。

子どもに先立たれたご両親の悲しみも想像を越えますが、まだ将来のある幼い子どもの告別式は参加者の全ての涙を誘ってしまいます。

これは私自身が我が身に若しもの事態が起こった時のこととして勝手に思うことなのですが、

日頃から、心の準備をしておきたい事と、

自分の生き様や人生観の口伝えや若しくは記録、
妻や子どもたちに残したものの清算、
或いは残したいものの記録や法的な手続き、

貴重な経験談や自分たちの先祖の事、
お墓やお祭りの事、


事前に、残るであろう者たちへしかと伝えていければいいなと思います。

早くから、そんな心構えで日常を過ごす事が大切かもしれませんね。
もう先が見えてきた私のような人間にとっては。

いつもそうですが、敬虔な心、成仏を祈る心掛けは忘れてはいけないようですね。
徳を積むと言います。
数珠で両手を合わせて合掌をし、お香を手向けて、目を閉じて、頭を垂れて・・・・・  


Posted by misterkei0918 at 18:29Comments(0)

2010年12月03日

人は言われ続けるとそのようになる

人は言われ続けるとそのようになる

私は小さい頃、本当に悪い子でした。
母親からは日常的に叱られていましたので、相当に悪かったのでしょう。

また、母親の叱り方も尋常ではなかったようです。
隣の人が止めにくる位でしたから。

いまでも母親の身になれば、叱っても仕方なかったと理解しています。

私の叱られ方はそうではなかったのですが、

子供のころに「お前は馬鹿」、「お前は馬鹿」と連発されると子どもは自分は本当に馬鹿なのでは?と思ってしまいますし、不思議なものでますますそのように行動してしまいます。

「お前は橋の下から拾ってきた」、
昔の親はこんな言い方を子どもによくしたものです。

何度も何度もいわれると、「本当に自分は橋の下に捨てられていたのでは?」と肯定をしてしまいます。

卑屈になりますし、惨めな気持ちになってしまうものです。

逆に発奮をさせようとして、言う事もありますよね。
その付近は前後の言葉次第、日頃からの信頼関係やしつけによって解釈が異なってくる事になってしまうものです。

また、「お前は天才」「お前は素晴らしい」「貴方は人並み以上」などと日常的に褒めちぎられると子どもは「自分はそんな素晴らしい人間なんだ、天才なんだ、優秀なんだ」と思い上がった人間性が出来上がるものです。

自己主張が過ぎる人や、際立った自信過剰などがそうなのではないでしょうか。

或いは、「誉め殺し」と言う言葉もあります。

出来もしないのに、口先三寸、ほら吹きなどがそうでしょう。
自己を鼓舞するため、追い込むための手法でもありますが、そんな人は観ているとそれなりに理解できるものです。

私などはどちらかと言うと、自信喪失派でしょうね。
ですから、自信が出るまで時間がかかりますし、物事の理解がなかなか進みませんし、人前に出るのにも訓練が人並み以上に必要です。

「硬軟使い分ける」と言う言葉がありますが、子育てや社員教育もそうなんでしょうね。
その本人の資質や対応能力を確認しながら、教育を行わないと一方的な感覚や感情だけに頼る教育には、将来に禍根を残したり、傷跡を大きくしたり、若しかしたら心まで歪ませているやも知れません。

オーバーに言えば、その人の人生をも狂わせる事態を招いている事にもなってしまいます。

子育てや教育は大変に難しいものですが、それだけに重大な任務であり、責任重大です。

私自身も或いは育て方によっては、今頃全く違った私が存在していたのかも知れません。

「人は言われ続けるとそのようになる」。
このことをいつも考えながら、人とも交流をしないといけませんね。  


Posted by misterkei0918 at 08:15Comments(0)