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2011年02月06日

やはりご先祖様を大切にしないとね

やはりご先祖様を大切にしないとね

昨年は私にとって良くも悪くも大切な一年になってしまいました。

多分、ある意味試練の一年だったのでしょうね。

多分、試されているような、
何処まで耐えられるか、

どんな結論を導くのか、
人、(家族や社員を含めて)何処まで大切にしているのか、


難しい問題も潜んでいますので全てを具体的に記す事は控えますが、その中でふと気付いた事があるんです。

私は1月26日水曜日、早朝からの勉強会の望みました。
7時からの会でしたが少々時間がありましたので、昔から存じ上げている歯科医先生を雑談を始めました。

私を悩ました事の一つに「帯状発疹」があります。
12月30日の日赤の救急に駆け込んだものです。

実は昨年は11月から12月に掛けて4回も救急に飛び込んでしまいました。
その一つです。

確か12月25日の日曜日の6時頃からいつもウォーキングへ大濠公園公園へ出かけたのですが、どうも左肩が可笑しいのです。

神経の痛みである事は間違いなさそうです。
数年前に50肩の痛みを約3年間くらい経験していますから、神経の痛みは専門家になっていたのでしょうね。

痛みは酷かったのですが、家族や社員にはそんなそぶりを見せるのは嫌なものです。

その痛みがおおよそ和らいだ頃の1月26日でした。

「先生、年末から帯状発疹に掛って大変でした」
普通でしたら、私は人にはこんな事は言わないのですが、やはり何かしら導きがあったのでしょう。

私の心の中に、昨年の春位からお仏壇にお線香を殆ど上げていない事が気掛かりでしたし、いいのかという不安はありました。
それも忙しさやそのほかの事でそうなってしまったのですが。

それが今年になって、思いが表面化してきたのです。
その事もあって、かの先生にそれとなく口を開いたのです。

今まで母のマンションの一室(私のマンションの下の部屋)に位牌も置いていましたのでそれを私どもの部屋に持ってくる決断をする機会にしたかったのです。

後押しが欲しかったのでしょう。

色んな症状を話した後の事です。
その先生が「左肩にはご先祖様の気持ちが映るようよ」

先生の口から、しかも西洋医療の先生からこんな言葉が飛び出すとは。
はっとしたんです。

やはりそうだったのかと。
数日後には、私どもの一室に持って参りました。

ご先祖様が私どもに具体的に何をして頂けるとかではありませんが、やはり「一番の心の拠り所」ですよね。

今まででも、不思議な経験をした私にしてみればお線香を手向けない行為自体があり得ない事だったのです。

やはりご先祖様は大切にしましょうね。
実は先ほどお墓にも行って参りました。
  


Posted by misterkei0918 at 12:44Comments(0)

2011年02月05日

自分の能力の限界が見えると有難い?

自分の能力の限界が見えると有難い?

自分の能力が無限などと思っている人は殆どいないかもしれません。

無限な能力など、誰も持ち合わせてはいませんし若しそんなことを真剣に思っている人がいるとしたら、とんでもない思い上がりか、自信過剰かもしれませんね。

或いは無知かも。

人間はあらゆる可能性は秘めている動物でしょうが、それは無限ではありません。

何処かで行き詰まりや限界が存在するものです。

また、私は自分の能力の限界が見えると面白いとも思ったのですが、人間の能力は有限であっても実は見えないから面白いんですよね。

限界が見えると、そこで努力を怠ってしまいますし諦めの境地に至ってしまいます。

人間はそこはかとない掴みどころのない側面や何処までやれるかわからない所が又、人間の所以でしょうから。

苦しみも「苦しみ抜く」という言葉があるように、その先には幸せが待っているとか、一筋の灯りが指して来る事を本能的に知っているような気がするのです。

悲しみも「悲しみ抜く」、ぞの暁には、解放されることを知っているんだと思うのです。

幸せの絶頂にいても「何かしら一抹の不安」を感じるものです。
それは、幸せがいつまで続くか誰にも分からないという事を知っている筈です。

それでも人間は、歩む、努力することを怠らないのです。

その先に、自分が望む境地や状態が待ち受けている事を分かっているかのようです。

人生が徒労に終わらない為に、仕組まれているような気がします。
  


Posted by misterkei0918 at 13:34Comments(0)

2011年02月05日

来るものを拒んでいませんか?

来るものを拒んでいませんか?

いつも思う事があります。

会社の受付に、突然の訪問があります。

営業活動の一環です。
あなたの会社の取引先ではありません。
お客様でもありません。
これからお客様になる方、見込み客でもないのです。

あなたならどうしますか。

突然の訪問ですから、長い会議中なら、仕方ありません、断りますよね。
長くなくても大事な会議でしたら中座も勿体ないですから。

もう、出かける時間が迫っています。会いますか、会いませんか。

昼休みです、社内での食事の最中です。
どうします?

電話の最中です。もう終わりそうです。
パソコンの入力作業中です。
資料作りや見積書の作成中です。


私の極めて個人的な意見としてお聞きくださいませ。

私なら、出ます。
しかも名刺を持って。

初めての人にお会いする機会はそうそうあるものではないですよね。

日常的に会議に出ていても、いつも同じ顔ぶれ。
ましてや買い物をするときなどに、親しげに話すのも出来ませんし、却って怪しまれてしまいます。

その点、訪ねてきてくれた方は何かを伝えようとしてお見えになります。
それも当社や私にターゲットを絞って。

情報は、時として大変な価値や意味をもたらしてくれます。

特に人が言葉や行動を持って伝える情報は、重みが違う事を知る事が大切なように思えます。

そこに意図があり、力が備わっており、練られていますし。

或いは、新しい人間関係が出来る事もありますし、ふとまわり回って人の繋がりを発見したりするものです。

「多くの人を知っていますね」と良く言われます。

多くの人を知る事が大切なのではなく、人から得られる情報や知識、或いは志だって感じる事が出来ると思うのです。

だから、仕事がうまくいくとか、注文が増えるとか、そんな単純は事ではないという事を知っておいた方がいいかもしれません。

打算で考えて行けません。

人間関係の構築はそんな事ではありませんから。

出来れば心を込めて応対したのですが。

時には、そこそこに応対を済ませてしまう事もありますが勿体ない事をしてしまったと後悔する事がないではありませんし、或いは、申し訳ない事をしたとお詫びを申し上げたい時も。
  


Posted by misterkei0918 at 12:08Comments(0)

2011年02月05日

あなたは自分が好き?

あなたは自分が好き?

「世の中で一番何が嫌いか」と問われれば、私は「自分」と答えるでしょう。

と言うのは、若い頃の話です。

今は、多分一番好きなのは自分かもしれませんね。

でも、時々は
「もう少し何とかならないか」とか、
「どうして、そんな事が人並みに出来ないの」とか、
「なぜ、そんなに頭が悪いのか」、


などなど、呟いてはいます。

色んな事象や事柄、難題に出会ったとき、
その全てが自分の力や知識、知恵、行動が人より勝るという事があり得ない、あるいは自分の力の大凡の限界を認識し始めた、万全、完全な解決方法は一つではないとか、自らを慰めたり、なだめたりするゆとりが出てきたのでしょうね。

若い頃のように、自分を全面否定したり、自分の傷跡を舐めるような事はしなくなりましたし、その事が決して生産的ではない事、前向きでない事を様々な経験を経る中で自然に体得をしたのでしょうね。

「人は年を重ねると丸くなる」と言いますが、どうも丸くなったというより自分をなだめすかしたり、達観出来たり、諦め等で自己抑制が感情を自然とコントロールしてくれているような気がします。

その証拠に、妙にこだわりが出たり、意地を張ったり、頑固であったりする事もあるものです。

根本的な所では変わってはいないのでしょうが、様々な経験や苦悩、葛藤を重ねるうちに極めて自然に学んでいるのでしょう。

逆に考えますと、安寧な日々や余生を送るためにはむしろ火の中に飛び込んだり、火中の栗を拾ったり、時には取り越し苦労の経験も大切なようです。

そして、そんな自分を好きになる事でしょうかね。
他人は「あなたが好き」等とは滅多に口にしてくれませんから、せめて自分からでも「好き」の一言を。

この体とともに、終生付き合っていく自分ですから、折角なら好きになって上げて時には褒めたり、なだめすかしたり、励ましたりする事が大事だと思われます。

せめて寝床につくときにでも、「良く頑張ったな」位の言葉は掛けてあげたいものです。
どうもそんなことを考えていましたら、明日が楽しいものになりそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 11:25Comments(0)

2011年02月04日

世界が混沌、混迷へと?

世界が混沌、混迷へと?

国内では、政治の混迷、混乱、相撲の八百長事件・・・・・
国外では、一番はエジプト問題でしょうね。

おそらく中東の国々は、自国へ及んで来ないかと戦々恐々ではないでしょうかね。

今までとは様相が異なった民主化運動を言っていいでしょう。

またたく間に広がるネット社会の恐ろしさがまざまざ表面化してきたと言っても過言ではないでしょう。

北朝鮮でも、携帯電話からの情報が国内へ入っているとの事です。
今頃、政府が遮断をしているに違いありません。

中国もネットには大変な神経を尖らせている国ですので、そのままには出来ないですし、広がったらスピードは加速度的に広がりますから大変な事態になってしまいます。

日本のように、政権与党がくるくるとめまぐるしく変わるのも困ったものですが、長期的に同じ政党、ましてや一人の人間が権力を握り、振りかざす時代ではありませんよね。

何処かで腐敗や、不満、行き詰まりが来るものです。

これだけ開かれた、グローバルな世界で自国の国民を閉鎖的にしかも抑圧できる筈がないのです。

情勢は刻一刻と変化します。

チュニジア、アルジェリア、エジプトの問題は、このままでは終わらないでしょう。

また、日本の国債の格下げがありましたがいまだにユーロ圏では燻り続けています。

何処かで爆発しないとも限りません。

そんなことを言っていますが、日本だって危ない橋を渡っている事には間違いありません。

混沌としてきました。
国内外とも、ますます混迷してきそうな気がします。

日本の政治だって何かきな臭い感じがしませんか。

経済界がしっかりしているからまだ良さそうなものですが。
  


Posted by misterkei0918 at 19:26Comments(0)

2011年02月03日

八百長と談合

八百長と談合

昔から大相撲では「八百長」が行われていると言われながら、真実が分からないままに今に至っているようですが、どうも今回ばかりは完全に証拠が把握された様ですね。

国技としての相撲がこんなことでは、相撲ファンだけでなくスポーツ、引いては様々な所でその影響は出てくるでしょうし悲しい事です。

これから相撲を見るときは、八百長ではないかと訝りながら観戦することになってしまいます。

まじめにしっかり相撲を取っている力士が可哀想ですね。

調べてみました。

『八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。
八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。

囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)ともいう。
対戦者の一方のみ敗退行為[1]をおこなう場合は「片八百長」と呼ばれることがある』


官公庁の受注では「談合」と言う言葉が良く飛び出します。

談合は、
『国や地方自治体の公共事業などの入札の際に,入札業者同士で事前に話し合って落札させたい業者を決め,その業者が落札できるように入札内容を調整すること』

どのように違うのでしょうかね。

八百長は負ける方を決める、
談合は落札者を決める。

八百長は勝負の世界、
談合は事業、商売の世界。

話し合いによって、結果を決めるのですから同じ?

いずれにしても、好まれる事ではありませんし、お金が動いたり、良心的な人の目を欺いたり、無駄に税金を蝕んだり、暴利を貪ったりするのですから反社会的の行為であることには間違いありません。

談合には、肯定する意見もあって、

若し談合がないとしたら、異常な価格競争に陥って結果的には品質やサービスの低下を招き、劣悪な結果を招く等も考えもありますが、結局は適正な価格で落札が出来ればいいわけですから、知恵を出し合って解決の方法はあるかもしれません。

また、談合の場合は裏での力学が働いて偏った落札になったり、新規参入が難しい事もありますからその付近が改善されないといけませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 23:30Comments(0)

2011年02月03日

誰が福をもたらし、誰が鬼なのか?

誰が福をもたらし、誰が鬼なのか?

貧しい私の家庭では、滅多に節分の豆まきなど行われた事はありません。

隣近所から聞こえる「鬼は外、福は内」の家族の入り混じる声は、私にとっては悲しい寂しい思い出のひとこまにしか映りませんでした。

何が鬼で何が福なのかも、分かりませんでしたが父親を鬼に仕立てた子供たちが笑い興じながら、戯れる姿は、如何にも幸せの象徴に見えて指を咥えていたものです。

豆まきのために開け放たれて外へ向かう灯りは、どちらかと言うと「これ見よがし」で嫌なものでした。

明くる日は学校での友達の話題は、当然昨夜の豆まきです。

輪に入れず遠巻きに耳を傍(そば)立てる自分はいじけていたのかもしれませんね。

節分を調べてみました。


『節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い』


今は、家族は核家族化し、距離は離れ、親密さの度合いも薄れたような気がします。

高度経済成長がもたらした陰の部分かもしれませんね。

人口の都市集中、
競争の激化、
ネット社会の到来、
拝金主義の横行、
旺盛な物欲、
産業構造の劇的な変化、
物つくりよりもサービスの優先、
過度、過激すぎる嗜好、エンターテイメント、
思想信条の多様化、
履き違えた自由思想、


家庭内や企業内でも、誰が鬼で誰が福なのか、判別、区別のつかない時代になりました。

何を考え、何をしようと目論んでいるのか、掴めない時代です。
昔は、表情や言葉の端々で人間性や心の在り方が大凡理解できたものです。

以心伝心等の言葉も死語になりつつあります。

節分は一つの家族の共同作業です。
力を合わせて、家庭や社会を守ろうとする一つの機会に出来ればいいですね。
  


Posted by misterkei0918 at 11:38Comments(0)

2011年02月01日

戦いは終わらない

戦いは終わらない

平和そうに見えていたチュニジアやエジプト。
内情は混乱の火種が燻っていたのでしょうね。

人類の戦いの終息はどうしても果てしない歴史の彼方のあるのでしょうか。
どうも果てしないどころか、終わるところを知らないのではないでしょうか。

それが人類の社会なんでしょうね。

宗教や政治、領土問題、人種や領土拡張主義、資源の取り合い・・・・・

人間である以上、存在そのものが戦いの連続かもしれませんね。

私どもの日常でも、そうです。
戦いとは言わなくても、諍(いさか)いや混乱、葛藤はとどまることを知らないようです。

それを全く避ける手立てはないのかもしれませんが、
出来れば、心穏やかに保とうとする意識を常に持つ事のような気がします。

穏やかさを保つには、人との関わりを常に感謝し、様々な自然や事象に逃げずに正面から真摯に取り組む努力を続ける事のような気がします。

むき出しな競争心や、そんざいな態度や行動、不遜、高邁や思いや言動は敵を作る事はあっても相応しい人間関係の構築には繋がらないようです。

上手は世渡りは、自然とその人に備わってくるようですし、日頃からの精進の賜物なのでしょうね。

私などがそこに行きつくには、まだまだ時間が足りませんし生涯到達できるとも思えませんが、かといって努力を忘れたら、心の安寧はいつまで経っても取得できないような気がします。

問題や葛藤、戦いを上手に乗り越える能力も、人間の知恵でしょうからやはり経験を積み上げて行く以外になさそうですね。


『生きるとは、死と直面して戦うことである。そこに真の生きがいがある。岡本太郎』

『敵と戦う時間は短いものです。自分との戦いこそが明暗を分けるのです。王貞治』

『よく戦う者は、勝ちやすきに勝つ者なり。孫子』

『艱難は真理に向かう第一歩である。
戦争であれ、嵐であれ、女の怒りであれ、艱難を見事に耐え抜いた者は、たとえ18才であろうと80才になっていようと、非常に貴重な体験をしたことになる。バイロン』
  


Posted by misterkei0918 at 12:08Comments(0)

2011年02月01日

働いた手は美しい

働いた手は美しい

昨日、テレビを観ていましたら老人の手がクローズアップされています。

手の甲も汚れていますが、爪の中まで油でまみれています。
手の皺の中まで、入り込んでいて年季を感じますし、労働の過酷さや厳しさを感じます。

でも、嬉しいです。
何も臆することなく、人前に出された手。

私であれば、多分人前に出すことを嫌がるでしょうし、ましてやテレビ撮影事態を嫌がるでしょうね。

労働をしていると、当然油まみれ、泥まみれが当たり前ですし、手足が汚れても仕方ありません。

ましてやそんなことを嫌がっていては、世の中の働く場所、環境に偏りができ、国民の生活を維持する事さえ出来なくなるものです。

労働の尊さをみんなで噛みしめなくてはいけませんね。

昔は「職業に貴賎はない」と言ったものです。

現代は歪な社会ですから、社会悪的な仕事も多く存在しますし、明らかに人を騙し欺く仕事や人間が存在します。

昔のように「職業に貴賎はない」などとも言えない時代になりましたが、大方の仕事や職業は貴賎がなくそれぞれに貴重なものであると思っています。

特に永い年月を掛けて、労働にまみれた手足や体、節くれだった手指、黒光りの顔・・・・・

それに尊敬すべきは、春夏秋冬、猛暑、厳寒に鍛え抜かれた強靭な体と心意気でしょうね。

綺麗に磨かれた建物や汚れを知らない職場環境で育った人々は、そういう多くの方々の存在に感謝をすべきであって、実は我々の生活の根幹を支えて頂いているという認識を持たねばいけませんよね。

世の中、知識集約型の産業が余りにももてはやされた結果が今の混迷です。

お天道様の下で、雨風に打たれ、季節を読みながら、自然の懐で労働する事の貴さを忘れてしまっています。

そうでした。
そのような方々の存在を日頃から感じないといけません。
大いなる反省です。
  


Posted by misterkei0918 at 11:18Comments(0)