2011年02月03日
八百長と談合
八百長と談合
昔から大相撲では「八百長」が行われていると言われながら、真実が分からないままに今に至っているようですが、どうも今回ばかりは完全に証拠が把握された様ですね。
国技としての相撲がこんなことでは、相撲ファンだけでなくスポーツ、引いては様々な所でその影響は出てくるでしょうし悲しい事です。
これから相撲を見るときは、八百長ではないかと訝りながら観戦することになってしまいます。
まじめにしっかり相撲を取っている力士が可哀想ですね。
調べてみました。
『八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。
八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。
囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。
しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。
大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)ともいう。
対戦者の一方のみ敗退行為[1]をおこなう場合は「片八百長」と呼ばれることがある』
官公庁の受注では「談合」と言う言葉が良く飛び出します。
談合は、
『国や地方自治体の公共事業などの入札の際に,入札業者同士で事前に話し合って落札させたい業者を決め,その業者が落札できるように入札内容を調整すること』
どのように違うのでしょうかね。
八百長は負ける方を決める、
談合は落札者を決める。
八百長は勝負の世界、
談合は事業、商売の世界。
話し合いによって、結果を決めるのですから同じ?
いずれにしても、好まれる事ではありませんし、お金が動いたり、良心的な人の目を欺いたり、無駄に税金を蝕んだり、暴利を貪ったりするのですから反社会的の行為であることには間違いありません。
談合には、肯定する意見もあって、
若し談合がないとしたら、異常な価格競争に陥って結果的には品質やサービスの低下を招き、劣悪な結果を招く等も考えもありますが、結局は適正な価格で落札が出来ればいいわけですから、知恵を出し合って解決の方法はあるかもしれません。
また、談合の場合は裏での力学が働いて偏った落札になったり、新規参入が難しい事もありますからその付近が改善されないといけませんね。
昔から大相撲では「八百長」が行われていると言われながら、真実が分からないままに今に至っているようですが、どうも今回ばかりは完全に証拠が把握された様ですね。
国技としての相撲がこんなことでは、相撲ファンだけでなくスポーツ、引いては様々な所でその影響は出てくるでしょうし悲しい事です。
これから相撲を見るときは、八百長ではないかと訝りながら観戦することになってしまいます。
まじめにしっかり相撲を取っている力士が可哀想ですね。
調べてみました。
『八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。
八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。
囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。
しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。
大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)ともいう。
対戦者の一方のみ敗退行為[1]をおこなう場合は「片八百長」と呼ばれることがある』
官公庁の受注では「談合」と言う言葉が良く飛び出します。
談合は、
『国や地方自治体の公共事業などの入札の際に,入札業者同士で事前に話し合って落札させたい業者を決め,その業者が落札できるように入札内容を調整すること』
どのように違うのでしょうかね。
八百長は負ける方を決める、
談合は落札者を決める。
八百長は勝負の世界、
談合は事業、商売の世界。
話し合いによって、結果を決めるのですから同じ?
いずれにしても、好まれる事ではありませんし、お金が動いたり、良心的な人の目を欺いたり、無駄に税金を蝕んだり、暴利を貪ったりするのですから反社会的の行為であることには間違いありません。
談合には、肯定する意見もあって、
若し談合がないとしたら、異常な価格競争に陥って結果的には品質やサービスの低下を招き、劣悪な結果を招く等も考えもありますが、結局は適正な価格で落札が出来ればいいわけですから、知恵を出し合って解決の方法はあるかもしれません。
また、談合の場合は裏での力学が働いて偏った落札になったり、新規参入が難しい事もありますからその付近が改善されないといけませんね。
Posted by misterkei0918 at
23:30
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2011年02月03日
誰が福をもたらし、誰が鬼なのか?
誰が福をもたらし、誰が鬼なのか?
貧しい私の家庭では、滅多に節分の豆まきなど行われた事はありません。
隣近所から聞こえる「鬼は外、福は内」の家族の入り混じる声は、私にとっては悲しい寂しい思い出のひとこまにしか映りませんでした。
何が鬼で何が福なのかも、分かりませんでしたが父親を鬼に仕立てた子供たちが笑い興じながら、戯れる姿は、如何にも幸せの象徴に見えて指を咥えていたものです。
豆まきのために開け放たれて外へ向かう灯りは、どちらかと言うと「これ見よがし」で嫌なものでした。
明くる日は学校での友達の話題は、当然昨夜の豆まきです。
輪に入れず遠巻きに耳を傍(そば)立てる自分はいじけていたのかもしれませんね。
節分を調べてみました。
『節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い』
今は、家族は核家族化し、距離は離れ、親密さの度合いも薄れたような気がします。
高度経済成長がもたらした陰の部分かもしれませんね。
人口の都市集中、
競争の激化、
ネット社会の到来、
拝金主義の横行、
旺盛な物欲、
産業構造の劇的な変化、
物つくりよりもサービスの優先、
過度、過激すぎる嗜好、エンターテイメント、
思想信条の多様化、
履き違えた自由思想、
・
・
家庭内や企業内でも、誰が鬼で誰が福なのか、判別、区別のつかない時代になりました。
何を考え、何をしようと目論んでいるのか、掴めない時代です。
昔は、表情や言葉の端々で人間性や心の在り方が大凡理解できたものです。
以心伝心等の言葉も死語になりつつあります。
節分は一つの家族の共同作業です。
力を合わせて、家庭や社会を守ろうとする一つの機会に出来ればいいですね。
貧しい私の家庭では、滅多に節分の豆まきなど行われた事はありません。
隣近所から聞こえる「鬼は外、福は内」の家族の入り混じる声は、私にとっては悲しい寂しい思い出のひとこまにしか映りませんでした。
何が鬼で何が福なのかも、分かりませんでしたが父親を鬼に仕立てた子供たちが笑い興じながら、戯れる姿は、如何にも幸せの象徴に見えて指を咥えていたものです。
豆まきのために開け放たれて外へ向かう灯りは、どちらかと言うと「これ見よがし」で嫌なものでした。
明くる日は学校での友達の話題は、当然昨夜の豆まきです。
輪に入れず遠巻きに耳を傍(そば)立てる自分はいじけていたのかもしれませんね。
節分を調べてみました。
『節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い』
今は、家族は核家族化し、距離は離れ、親密さの度合いも薄れたような気がします。
高度経済成長がもたらした陰の部分かもしれませんね。
人口の都市集中、
競争の激化、
ネット社会の到来、
拝金主義の横行、
旺盛な物欲、
産業構造の劇的な変化、
物つくりよりもサービスの優先、
過度、過激すぎる嗜好、エンターテイメント、
思想信条の多様化、
履き違えた自由思想、
・
・
家庭内や企業内でも、誰が鬼で誰が福なのか、判別、区別のつかない時代になりました。
何を考え、何をしようと目論んでいるのか、掴めない時代です。
昔は、表情や言葉の端々で人間性や心の在り方が大凡理解できたものです。
以心伝心等の言葉も死語になりつつあります。
節分は一つの家族の共同作業です。
力を合わせて、家庭や社会を守ろうとする一つの機会に出来ればいいですね。
Posted by misterkei0918 at
11:38
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