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2010年11月07日

たとえ相手が食べ物であっても礼儀がある

たとえ相手が食べ物であっても礼儀がある

消費期限や賞味期限が時々話題に上ります。

昔であれば、母親や父親が匂いを嗅いだり、物の状態を目で見て判断し食べられる状態かそうでないかを理解できたものです。

また、冷蔵庫も無い時代ですから保管の方法や物持ちをどのようにすれば長持ちするかの知恵を持っていたものです。

コンビニにバイト先を求めた次男が時々、弁当を抱えて戻ってきます。
「時間切れで、店長から貰ってきた」
「全部廃棄されるのが勿体無いのでもらってきた」と言うのです。

聞いたら、時間が来たら一挙に捨てられると言います。
どうも最近では、コンビニ側も配慮をし、豚の餌に摺るとかサイクルを考え始めたようです。
コストは掛かるのでしょうが。

時代の要請でもありますが、環境への配慮や「勿体無い」の考えが浸透してきたのでしょうね。

それが大切な物への配慮だと思うのです。

私は、後一つ、
その物への配慮に後一つ必要な事があるとも思うです。

買い求めた物への礼儀。
当然大切に扱ってあげたり、出来るだけ最後まで消化してあげる事。

私どもは生き物の命を買い求めてきたのですが、買ってきたから粗雑に扱ったり、中途半端或いはいい加減な消費のあり方は大変失礼な事で礼儀を失した行動であると思うのです。

昨日も夕食は、外食でしたが残すようであれば少し控えめに注文をすればいいのに、残しはしませんでしたが満腹状態。

結局はその付近の考慮、配慮不足のために無駄な消化をし、摂取夥多の挙句の果ては栄養過剰、カロリーの極端オーバーでロクなことはありません。

昔から言う「腹八分」を忘れているのです。
粗食は難しい時代ですがせめてそのくらいの節度は持っていたいものです。

それが「相手が食べ物であっても礼儀」を失しない事を肝に銘じないといけませんね。

反省!!反省!!
  


Posted by misterkei0918 at 22:40Comments(0)

2010年11月07日

胸が詰まる想いが多すぎる

胸が詰まる想いが多すぎる

最近は馬齢を重ねたからそうなのだとか、人間は涙もろくなるものだとか、自分を宥(なだ)めすかせる日々が続きます。

多分、私だけではないかもしれませんね。

余りにも悲惨な事が多すぎる。
情報社会のなせる技なのか、マスコミの発展?の影響なのか、或いは人間の感情や心が荒んだ挙句なのか。

経済も停滞20年近くになってきました。
ボーダレス、グローバルと言われて、果たして世の中はより豊かで安心な世の中に近づいたのでしょうか。

競争は世の中を進展させるもの、心休まる社会をつくる方向へ進むものと信じていたのですが、果たしてそうだったのでしょうか。

適度の競争や身近なことへの挑戦は、当然必要なものですし、それなくしては世の中の進展は無いのですが、過度の競争は人心を荒廃させ、弱肉強食の極みを迎えることになってしまいます。

増してや国同士の競争はやがてはとんでもない結末を迎えるプロローグ、前章にもなるものです。

当然置き去りにされる国や人々も出現する事は必死ですから、決していい方向には行かないような気がします。

先日も、日本が四面楚歌状態になりつつあるとブログを書きましたが、戦前のことではありませんが追い詰められた鼠が、巨大な猫に噛み付くとんでもない行動だって、無いとは言えません。

世の中の全てがこのような事になってはいないでしょうか。

身近なところで同様な事が起きていないでしょうか。
すぐそばで起こっている事件や事故、どこか荒んできた人間の姿を垣間見るような気がします。

今のような状況で、果たして私どもの子どもたちや孫たちは安寧の日々を向かえ、送ることができるのでしょうか。

私一人が悔やみ、悲しみ、悲嘆に暮れても詮無い事ですが、ここらで暫し立ち止まり、果たしてこのままでいいのか自分の足元を見つめなおす時代が来ているような気がします。

苦労したあの時代や食べ物にも不足して、
住まいも長屋でボロボロ、
衣類は破けてふせだらけ、
青い鼻を垂れて、
みんなお互いを気遣って一つ屋根の下で暮らした頃・・・・・

経済的な豊かさや物に囲まれた満足感、
合理性のみを追求し、人を蹴落とし、
人としての本来の優しさを失った今・・・・・

もう要らない様な気がします。
  


Posted by misterkei0918 at 13:02Comments(0)

2010年11月06日

福岡市立小中学校にこんな掲示が

福岡市立小中学校にこんな掲示が

多分、多くの福岡市民が気付いておられると思います。

福岡市立の小中学校の校門の近くや比較的目立つ壁などに掲示されています。

それは子供たちにだけ言っているのではなく、大人に向かってのメッセージでもある様な気がしています。

「あいさつ そうじ 自学 立志」
・・・福岡のすべての子どもが身につけてほしいこと・・・

と書かれているのです。

私ども企業の中でも、5S運動などといっていますが、結局は上記と一緒ですよね。

■整理(せいり、Seiri) - いらないものを捨てること
■整頓(せいとん、Seiton) - 決められた物を決められた場所に置き、いつでも取り出せる状態にしておくこと

■清掃(せいそう、Seisou) - 常に掃除をして、職場を清潔に保つこと
■清潔(せいけつ、Seiketsu) - 上の3S(整理、整頓、清掃)を維持すること

■躾(しつけ、Shitsuke) - 決められたルール・手順を正しく守る習慣をつけること

基本的な生活態度が失われているという事なのでしょう。
大人も子どもも。

あいさつ
「おはよう御座います、こんにちは・・・」
それがいうあいさつでは在りませんよね。
それでしたら、オウムだってしつければ出来るのですから。
大人のあいさつは、自らの心を開くこと、
私はこんなのあなたに対して心を開いています・・・それを具現化したのが先ほどの言葉にして挨拶ですよね。


そうじ
心の選択とも言います。
身の回りを綺麗にすることによって自身が身奇麗になる。
衛生上のことだけではなさそうです。


自学
自ら学ぶ姿勢をつくる事でしょうかね。
学ぶ事は誰だってやっていますよね。
強制や見てくれ、成績、打算ではなく、自らが学ぶ事の大切さや学ばねばいけないことを探し出す努力が自然に出来ると嬉しいです。
人は一生勉強ですし、それを怠ったところから老化や退化が始まるようにも思えます。


立志
本当の意味で自分の志を確認できるのが中学時代でしょうかね。
個人差もあることでしょうが。
孔子は
「我十有五にして、学に志す」言われました。やはり15歳前後なのでしょう。
多感なこの頃に自分の将来や目標を考え始める事が大切なのでしょうね。
人は立てた志のようにはなかなか上手くはいきませんが、常にその時に合った志を立てて心に秘め、継続的に努力する事の大切さを、学ぶものです。


福岡市教育委員会が主導されての掲示でしょうが、子どもたちだけでなく、むしろ我々大人に向かって言っていただいているような気にもなります。

あり難い事です。
  


Posted by misterkei0918 at 16:08Comments(0)

2010年11月06日

演説の棒読みはやめてほしい

演説の棒読みはやめてほしい

国会での、官僚が書いた答弁書を棒読みした総理大臣が、それを野党から指摘されて「私も出来ればやめたい」と発言をしたとか。

たとえ大事なところは書類を読んだとしても、棒読み状態は出来れば断ち切って欲しいものです。

熱意が伝わりませんし、自分の考えなのか、教えてもらったものか、自信が無いのか、聞くほうの国民は不安になってしまいます。

福岡市は市長選挙が始まりました。

一番の繁華街で車の上で演説をしている方がいました。

渋滞していましたので、車の窓越しに見ていましたら終始原稿から目を離しません。

明らかに棒読み状態。
それなら私でも立候補できそうです。

自らの考え、主義、主張、信念や手腕を披瀝し、賛同を得るために渋滞をする公道を使ってまで演説をするのですから、原稿や下書きを見なくても演説が出来なくてはいけませんよね。

他人の言葉を借りたり、極めて重要な部分で間違ってはいけない部分があるとすれば、その部分だけ目を通せばいいのです。

自分の演説の内容くらいは覚えられなくてどうするのですか。
行政の長として、しかも150万人の市民に対してリーダーシップを発揮しないといけない立場の人が、自分の主張を棒読みをしないと言えない様でどうするのでしょうか。

政治家は、市民国民の命と財産を預かり守る立場にあるのです。
そんな頼りない事でどうするのですか。

毅然として、流石に長として相応しいと思うから投票行動に移るのです。

悲しい姿を見てしまったばかりに、余計なブログを書く羽目になってしまいました。

しっかりして欲しい。
市民の目は節穴でない事を知っていて欲しいものです。
  


Posted by misterkei0918 at 15:26Comments(0)

2010年11月04日

人は信じるに限る、そして値する

人は信じるに限る、そして値する

裏切られても裏切られても、なお信じる。
「あいつは馬鹿」かと思われるほどに信じる。

片や、
「あまり人を信じると酷い目に会うよ」
「人は信じるに値しない」
「人ほど分からないものはない」
「騙されるより騙せ」


などなど。

どっちがどうなんでしょうかね。

私は、どこまでも信じる方でしょう。
騙された事もありますし、欺かれた事も数えたらきりがありません。

騙されても、欺かれても黙って笑っている。

などはオーバーですが、それに等しいかもしれませんね。

それと、騙す人、欺く人のそばに近寄らないとか、
そんな人とはなるべき付き合わない、接点を持たない、
人を見る目を養う、
なるべく多くの人に会う


人間関係を多く持つ、自分から沢山の機会を作ることによって人は磨かれていきますし、人を観察する目、見透かす能力を身につけるものです。

そのことが結局は、そういう類の人々をも遠ざける事になるようです。

人の好き嫌いをするわけではありませんが、人の繋がりや深い関係はそのようにして醸成されていくものでしょうし、磨かれるもののようです。

自らの努力によって修練され、研磨された人々は不思議なものでそれなりの繋がりや関係が自然的に出来上がっていくもののようです。

周りの諸先輩方や、周りから賞賛される方々の集団はそのようにして出来上がっていくもの。

人は信じるに限る!!
そして、信じるに値するもののようですね。

自分の人生を心豊かなものにするには、そのような人々の仲間入りをすることでしょうが、それなりの修練や精進、継続的な努力が必要なものです。

私も明日からが勝負の始まりです。
そのような人生にあやかる為にも。
  


Posted by misterkei0918 at 23:15Comments(0)

2010年11月04日

誰でも脛(すね)に傷がある?

誰でも脛(すね)に傷がある?

つまり、性悪説なんでしょうか、しきりに知人が話します。

「人間は誰でも、一つや二つは悪い心を持っている」
「誰でも脛に傷を持っている」
「悪い事をしていない奴など世の中には存在しない」

あながち完全否定は出来ませんが、その考えが嵩じると自己肯定になり、「誰もがやっているから、或いは考えているから少々悪い事もやって構わない」・・・「であれば少々のことは悪い事でもやって良い」などの考えに飛躍してしまいます。

若しかして、常時こんな事を口にしているとしたら自らをそんな人間に、しかもその深みに引き摺り下ろしているようなものです。

口にしている人を見ると、基本的に本人がそんな人なんですよね。

私も悪い考えや欲が無いわけではないと思うのです。
自分の胸に手を当ててみればそれが十分に分かるものです。

だからこそ、人間なのでしょう。

欲得や煩悩にまみれている人間だからこそ、苦悩があり、葛藤や善悪の狭間で苦しむのです。

であればこそ、そうであってはいけないとか、
乗り越えようとする修行、訓練、練磨、或いは精進があるわけで、そのことを最初から肯定してしまうこと事態が、乗り越えようとする人本来のあり方を否定しようするもので、如何にもそうであることが生身の人間であるかのように感じてしまいます。

「人は、元来悪い事を憎み、それに手を染めるようにはなっていない」と思っていたほうが万事上手くいくような気がします。

ネガティブなのか、ポジティブなのかという話にも似て、物事は良いほうに、陽気に考えているほうが人付き合いの方もスムースですし、より優性的であるような気がします。

人を見る目もそうですよね。
「あいつは何かしそうだ」とか
「何か企んでいる」とか
「元来悪い奴」


などと思っていては、親友など出来はしないでしょう。
いつも心の中では詮索をする結果にもなってしまいます。

表向きは、善意の表情をしていながら腹の中には、一物を持っているなんて嫌ですよね。

「人は生まれつき、いい物を持っている、正直に出来ている、正しい心をもっている」と信じていたほうがいいのです。
  


Posted by misterkei0918 at 22:30Comments(0)