2010年11月18日
素直な心でありたいけど
素直な心でありたいけど
いつも考える事があります。
もっと素直であれば気も楽になるはずなのに。
ところが人生はそれを許さないのですよね。
人生は素直であれば、気が楽になるほど単純なものではないようです。
ところが素直な人がいますよね。
その人には神様が、素直な心を与えてくださったのでしょう。
ところが私には、ひねくれた、猜疑心の塊のような性格を頂きました。
今生で「しっかり修行しなさい」との思し召し(おぼしめし)のようです。
今更、この場に及んで諦めの悪い事。
もうここまで来たのですから、今までのままで全うしなさいという事でしょう。
人生を歩んでいるとつい持ち合わせていないものに対する欲望が湧いてきます。
なんと往生際(おうじょうぎわ)の悪い事か。
周りにも本当に素直な方がいます。
考えが柔軟で、喜怒哀楽もスムースで物腰も穏やか、柔らかで。
羨ましい限りですが、どうも諦めが肝心なようです。
『もし自分が間違っていたと素直に認める勇気があるなら、災いを転じて福となすことができる。Dカーネギー』
『無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる、この心構えさえ失わなければ、人は人として十分に生きてゆける。種田山頭火』
『弱い人間は素直になれない。ラロシュフコー』
『うわべになにか「徳」のしるしをつけないような素直な「悪」はない。シェイクスピア』
『幸福を感じるのには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である。武者小路実篤』
『素直な心からは謙虚さが生み出され、謙虚さから人の話に耳を傾けるという姿勢が現れてくる。松下幸之助』
いつも考える事があります。
もっと素直であれば気も楽になるはずなのに。
ところが人生はそれを許さないのですよね。
人生は素直であれば、気が楽になるほど単純なものではないようです。
ところが素直な人がいますよね。
その人には神様が、素直な心を与えてくださったのでしょう。
ところが私には、ひねくれた、猜疑心の塊のような性格を頂きました。
今生で「しっかり修行しなさい」との思し召し(おぼしめし)のようです。
今更、この場に及んで諦めの悪い事。
もうここまで来たのですから、今までのままで全うしなさいという事でしょう。
人生を歩んでいるとつい持ち合わせていないものに対する欲望が湧いてきます。
なんと往生際(おうじょうぎわ)の悪い事か。
周りにも本当に素直な方がいます。
考えが柔軟で、喜怒哀楽もスムースで物腰も穏やか、柔らかで。
羨ましい限りですが、どうも諦めが肝心なようです。
『もし自分が間違っていたと素直に認める勇気があるなら、災いを転じて福となすことができる。Dカーネギー』
『無理をするな、素直であれ。すべてがこの語句に尽きる、この心構えさえ失わなければ、人は人として十分に生きてゆける。種田山頭火』
『弱い人間は素直になれない。ラロシュフコー』
『うわべになにか「徳」のしるしをつけないような素直な「悪」はない。シェイクスピア』
『幸福を感じるのには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である。武者小路実篤』
『素直な心からは謙虚さが生み出され、謙虚さから人の話に耳を傾けるという姿勢が現れてくる。松下幸之助』
Posted by misterkei0918 at
17:20
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2010年11月18日
寛容の心について・・・2
寛容の心について・・・2
16日は国連が1995年に採択した「国際寛容デー」でした。
昨日はその当時のアナン事務総長のメッセージが興味深かったので勉強のために全文を引用させて頂きました。
寛容とはどういうことなのでしょうかね。
いつも考えさせられる事です。
辞書を引いてみました。
「度量が大きく、人の言動を良く受け入れる事」
「心が広く、人の過ちを許すこと」
「広い心で人の言う事を聞き入れる事」
「ゆったりとして、こせつかないこと」
象形は「小屋の中にゆったりとしている山羊のさま」
山羊の優しそうな様子を思い浮かべると、寛容の文字の意味も理解できるような気がします。
どうも寛容は許容とも違う意味に受け取れます。
寛容は優しさにも通じるような気もしますが、ただの優しさだけでもなさそうです。
寛容には人生のあり方を示唆する側面が見え隠れするのです。
時には厳しさや耳痛い言葉も寛容の一部でしょう。
相手を受け入れるには、いいも悪いもでは困りものです。
悪い側面はいなしてあげる、正しい道に導いてあげる事が大事であり、時には叱咤も必要なものです。
それが「懐の深さ」であり、本来の意味での「寛容」ではないでしょうか。
決して、迎合や従順、従属、許容でない肝要だと思います。
この付近が私の一番弱いところでしょうね。
何でも受け入れようとするタイプ。
人を戒める事が不得意なところ。
叱る事の出来ない人間。
困ったものです。
16日の「国際寛容デー」にちなんでこんな反省をしてしまいました。
孔子の言葉に出てくる「60歳 耳順」・・・人の言うことが素直に聞けるようになる年代。
これもそうですよね。
反省!!反省!!
16日は国連が1995年に採択した「国際寛容デー」でした。
昨日はその当時のアナン事務総長のメッセージが興味深かったので勉強のために全文を引用させて頂きました。
寛容とはどういうことなのでしょうかね。
いつも考えさせられる事です。
辞書を引いてみました。
「度量が大きく、人の言動を良く受け入れる事」
「心が広く、人の過ちを許すこと」
「広い心で人の言う事を聞き入れる事」
「ゆったりとして、こせつかないこと」
象形は「小屋の中にゆったりとしている山羊のさま」
山羊の優しそうな様子を思い浮かべると、寛容の文字の意味も理解できるような気がします。
どうも寛容は許容とも違う意味に受け取れます。
寛容は優しさにも通じるような気もしますが、ただの優しさだけでもなさそうです。
寛容には人生のあり方を示唆する側面が見え隠れするのです。
時には厳しさや耳痛い言葉も寛容の一部でしょう。
相手を受け入れるには、いいも悪いもでは困りものです。
悪い側面はいなしてあげる、正しい道に導いてあげる事が大事であり、時には叱咤も必要なものです。
それが「懐の深さ」であり、本来の意味での「寛容」ではないでしょうか。
決して、迎合や従順、従属、許容でない肝要だと思います。
この付近が私の一番弱いところでしょうね。
何でも受け入れようとするタイプ。
人を戒める事が不得意なところ。
叱る事の出来ない人間。
困ったものです。
16日の「国際寛容デー」にちなんでこんな反省をしてしまいました。
孔子の言葉に出てくる「60歳 耳順」・・・人の言うことが素直に聞けるようになる年代。
これもそうですよね。
反省!!反省!!
Posted by misterkei0918 at
08:51
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