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2010年10月13日

坂本竜馬とお龍の高千穂の峰、行って来ました

坂本竜馬とお龍の高千穂の峰、行って来ました

随分と昔の話ですが、多分20代の頃でしょう。
私と女性二人の3名で、高千穂の峰に挑戦した事がありました。

隣の御鉢まで、辿りついてからが大変です。
火山灰土壌で軽石だらけの山肌を、足を取られながら山頂を目指すのですが、一進一退なかなか前に進みません。

今でも頂上で見た天の逆鉾の印象は記憶の底に残っています。

そんな思い出が思い起こされます。

先日は、二日間をかけて、

熊本県の釈迦院、3333段の日本一の階段があることで有名です。
この後、実は五木村に出向く予定でしたが、釈迦院の近くの方に尋ねたところ全く昔の風情や面影は見られないとの事でがっかり。
当初からの予定を変更する羽目になってしまいました。

次は、
宮崎県小林市のコスモス園、
大勢の車と人で大混雑。
正直な事を言わせて頂けば、ゆっくりと喧騒から離れたつもりが逆に花を見つめる時間も少なく、混雑に辟易したひと時でした。

えびの高原を経て、霧島国際ホテル宿泊、
NHKの大河ドラマの撮影が高千穂の峰で行われた時には撮影スタッフ、福山雅春さんはじめ俳優の方々の宿泊はこのホテルだったようです。
桜島と錦江湾を眼下に望める7階でしたので、素晴らしい景色に恵まれました。

二日目は霧島神宮と高千穂河原、
ににぎの尊を祭神として、樹齢800年の杉を頂いて心落ち着く風情に囲まれました。

普通でしたら、河原まで来たのですから頂上を目指すのが当たり前ですが、その準備もしていませんし今回の旅は、ゆっくりしようとの計画だったので敢えて山登りはしませんでした。

後は竜馬とお龍が温泉に浸かったと言われる近くの横川町を経由して福岡へ。

約700kmの走行距離でしたが、殆ど疲れも残さず思い出を辿る旅になりました。
  


Posted by misterkei0918 at 12:39Comments(0)

2010年10月13日

有難いを頂きました

有難いを頂きました

12日は、ある方の「古希のお祝い」へ出かけてきました。
実は私の好きな70歳です。

70歳になりたいとか、70の数字が好きとか、数字に拘っての事ではないのです。

70歳を「古希」と言いますよね。
引用します。

『古希(こき。原文の表記は古稀。「稀」は常用漢字にはないので現在では古「希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。
唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)人生七十年生きる人は古くから稀である)に由来する。
還暦は数えの61歳(≒満60歳)であるが、古希は数えの70歳(≒満69歳)のこと。昔は70年生きる人は希であったことから、長寿の祝いとされている。お祝いの色は、喜寿祝いと同じく、紫色』

それと、孔子の言われた「70にして、心の欲する処に従えども矩をこえず」が好きなんです。

有難い事です。
お祝いとして声楽家のミニコンサートがありましたが、この方が唄われた歌に「生きる」という歌を始めた聴かせていただきました。

浄土真宗の仏教歌のようです。

歌詞が素晴らしかったので、お借りしてブログに書くことにしました。
私自身は無宗教、どちらかと言うと神道に近いかも。

このまま聞いておくだけではもったいないので記載する事にしました。


「生きる」
1、生かされて  生きてきた
生かされて  生きている
生かされて  生きていこう
手をあわす  南無阿弥陀仏

2、このままの  わがいのち
このままの  わがこころ
このままに  たのみまいらせ
ひたすらに  生きなん今日も

3、あなかしこ  みほとけと
あなかしこ  このわれと
結ばるる  このとうとさに
涙ぐむ  いのちの不思議


生きる事、生きてゆく事の大切さを噛み締めないといけませんね。
仏様は、四苦(生病老死)八苦と言われました。

乗り越える事に人生の意義深さがあると思われます。
それも楽しく。
  


Posted by misterkei0918 at 06:54Comments(0)

2010年10月08日

仙崖和尚さんを学んできました

仙崖和尚さんを学んできました

博多にいながら、博多を知らない。
最近になってこんな悲しい事に気付きました。

本来なら自分が長年にわたって生活をしている地域の歴史くらいは学んでおきたいものですが今まで気付いてはいましたが怠っていました。

「仙崖さんまつり」があることを聞きつけて早速行ってきました。
そうです、あの聖福寺です。

教えていただいた事の羅列になってしまいます。

『仙崖和尚(1750~1837)は江戸後期に活躍した臨済宗の禅僧。
葛飾北斎(1760~1849)とだいたい同じ時代を生きている。

生まれは美濃の国だが、諸国行脚の末、40歳で博多の古刹、聖福寺の住職になる。
仙崖和尚が書画を描くのは62歳で法席を退いて以降のことで、禅の境地をわかりやすく説き示したそのユーモアに富んだ戯画は人々に広く愛された。

日本画で笑いにこれほど力のある絵はほかにみたことがない。』

幾つかの絵を見せていただきましたが、どれも親しみやすくてユーモアに溢れたものばかり。

中でも印象的なのが、「老人六歌仙画賛」。

六歌仙(ろっかせん)とは『古今和歌集仮名序』において紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として挙げた、各々の歌風を批評した六人の歌人のことで、
•僧正遍昭
•在原業平
•文屋康秀
•喜撰法師
•小野小町
•大友黒主

「老人六歌仙画賛」は平安時代の六歌仙を老人に見立てて書かれたのでしょう。
画の人物の上に歌がかかれていますが、老人の様がまさしく目に浮かぶような表現がなされています。

『しわがよる ほくろが出来る、腰が曲がる
頭がはげる、ひげ白くなる

手は震え、足はよろつく
歯は抜ける、耳は聞こえず

目はうとくなる、身に添うは 頭巾襟巻
杖 眼鏡 たんぽ(湯たんぽ)、おんじゃく(カイロ)

しゅびん(尿瓶)、孫の手
聞きたがる、死にともながる(死にたくないと思う)

淋しがる、心がひがむ
欲深くなる、くどくなる

気短かになる、愚痴になる
出しゃばりたがる、世話焼きたがる

またしても同じ話に子を誉める、達者自慢に人は嫌がる


見事に捕らえていますよね。
納得してしまいます。
一度機会がありましたら、「老人六歌仙画賛」をご覧下さいませ。

お断り:「仙崖和尚」さんのがいの字は本来上に山のつかない字のようですが、機種依存文字のようですので敢えて、「崖」を使わせていただきました。お許し下さい。  


Posted by misterkei0918 at 19:17Comments(0)

2010年10月07日

「重箱の隅を穿(ほじく)るような事はしないほうが良い」

「重箱の隅を穿(ほじく)るような事はしないほうが良い」

ノーベル賞受賞のニュースは本当に嬉しいものです。
6日、2010年のノーベル化学賞の発表がされ、日本人2人が受賞されました。

根岸英一・米パデュー大学特別教授、
鈴木章・北海道大学名誉教授。

日本の基礎科学の力を世界に見せ付けた感じです。
誇るべき偉業達成です。

これで日本人のノーベル賞受賞者は、1949年の湯川秀樹さんから18人となりました。

記者会見の中で印象的な言葉がありました。

根岸先生は「自分の基本的、基礎的な能力に確信を持って、大きな夢を持つこと」の大切さを強調され、

鈴木先生は「資源の無い日本にとって、人と人との努力によって知識」の大切さを強調されました。

また、鈴木先生はNHKラジオのインタビューで、
「重箱の隅を穿(ほじく)るような事はしないほうが良い」ともおっしゃっておられます。

本来、ノーベル賞を貰うような偉業はそれこそ「重箱の隅を穿(ほじく)るような事」だと思っていた私にとって極めて印象的な言葉でした。

「重箱の隅を穿る」と言う事はどういうことなんでしょうか。

私の解釈は、

過去の現象や物事、研究に拘る、
人の足跡を探る、
粗(あら)を探す、
欠点や間違いを探す・・・・・

どうも、良い印象は思い浮かばないですね。
家族でも、友人との付き合い、会社でも重箱をつつく様な考えや言動はどうも歓迎されません。

先生は、「毎日新しい事を探してきなさい」とも言われていたと聞きます。

「重箱の隅を穿(ほじく)るような事はしないほうが良い」と言われる言葉と全く符合していますから、信念的に思っておられたのでしょうね。

やはり、人生は前を向き、細かい事に捕らわれず、自分に自信を持って、夢を失わない努力が必要なようですね。

今日も夢を追い求め、積極的に行動したいものです。

極める方々の言葉は、歴史的な偉人の言葉と共に私どもに勇気を授けていただきますし、地道に継続的の物事を見つめる事の大切さを教えてくださいます。
  


Posted by misterkei0918 at 07:34Comments(0)

2010年10月05日

恋したふりをする人

恋したふりをする人

恋愛沙汰を語る年齢でもありませんが、恋愛に託(かこつ)けて物事を考えてみると案外理解しやすかったり、飲み込みも早いものです。

こんな言葉を見つけました。

「恋愛においては、恋したふりをする人のほうが、本当に恋しているよりも、ずっとうまく成功する。ランクロ」

変な話です。

恋したふりをして上手くいく恋愛なら、みんなそのようにすると簡単に思いがちですが実はこれにはからくりがあるように思えます。

何でもそうですが、余りにも真剣すぎると周囲が見えませんし、物事の的確な判断や落ち着いた行動を忘れがちです。

また、余りにも情熱的な恋心や熱烈すぎる想いはややもすると相手の立場や考えを無視し、思わぬ行動や奇抜な行動さえ取ってしまうものです。

相手は、特に女性は合理的、打算的ですから(このような事を書くと、お叱りを乞いそうですが)そんな過ぎた、若しかすると恐ろしいとも感じる恋愛沙汰からは身を引いてしまうものです。

それに絆(ほだ)されるという事もありますが。

ふりをするということは、相手にもそれとなく感じることですしそれとなく心をそそるものです。

案外、こんな恋愛こそが長続きをしますし、言葉の通り成就し上手くいくような気がします。

身を焦がすような恋愛沙汰は、冷めるのも早く、終わるにも悲劇を伴う嫌いがあるものです。

それとなく、相手の気をそそる。
「若しかすると、あの人は自分を好きなんでは?」などと思わせぶりなところが恋愛の成功者と言うところでしょうか。

人の興味は、にじり寄る相手には後ずさりしたくなりますし、それとなくそそる相手には随分な興味が湧いてくるのが人情でしょう。

ふりをしてみる。
何か大人の恋愛を感じます。

ちなみに私は自分で言うのもなんですが、熱烈な恋愛だった事を告白しておきます。


『愛はしばしば結婚の果実である。モリエール』


『男と女というこうも違った、また複雑な人間の間で、互いに良く理解しあい、ふさわしく愛するために一生を費やして長すぎるということはない。コント』
  


Posted by misterkei0918 at 16:12Comments(0)

2010年10月05日

糖尿病で入院中?

糖尿病で入院中?

本人もびっくり!!
健康でこんなに走り回っているのに。

「人の口には蓋は出来ない」と昔から言います。

ある方が私のことを「今、糖尿病で入院中らしい」といっている事が判明。
身近な第3者が聞いていることなので、その発言は間違いは無いのでしょう。

多分、他の方と私のことを勘違いして言われているのでしょう。

何も言葉を返す気はありませんが、余り気持ちのいいことではありません。
ですが、そこは戒めの言葉と解釈してもいいかもしれませんね。

その方は私に良いにつけ悪いにつけ、関心が強いということの証左でもあるでしょうし、逆に考えると「そうあっては困る」と解釈しても。

なかなか検診にも行かない私ですが、血糖値は極めて平均値。

合併症も当然ありませんが、ここいらで気を引き締めなさい、気を使ったほうが良いよと戒めて頂いた事にしておきます。

糖尿病にかからない人がいないほどに、特におじさんたちには関心の強い疾患です。
これを引き金に様々な合併症を併発しますから、困ったものです。

頭にも来ますし、目にも。

あながち、ほっておいたらとんでもない結末を迎えてしまいます。
私の周りにも多くの予備軍や、血糖値の上昇に神経を尖らせているおじさんたちが沢山存在しています。

うわさだけであれば安心ですが、現実問題となれば頭を抱えてしまいますし、日常の行動も制約を受け、気力も失ってしまうものです。

季節柄の美味しい食べ物にも、簡単に触手は伸ばせませんし周りからの目も厳しいものになりますから精神的にも落ち着きません。

元気な大人たちの健康上の一番の関心事の糖尿病。

ですが、最近では小学校の子供たちの中からも、血糖値の高い結果が出ているようです。

随分と昔ですが、確か佐世保の小学校の検査で血糖値の高い子が多く認められて話題に上った事がありますが、当時としてはびっくりのニュースでしたが、今では当たり前の話になってしまいました。

いずれにしても、避けたい病気の一つである事には間違いはありません。

私を、そのように言われた先輩も気をつけて頂きたいし、これを戒めに私自身も神経を尖らせないといけませんね。

現実になりませんように。
  


Posted by misterkei0918 at 07:55Comments(0)

2010年10月04日

孫は祖父母を二度喜ばす?

孫は祖父母を二度喜ばす?

良く考えた言葉ですね。
つまり孫は「一度目は来た時に祖父母を喜ばし、二度目は帰るときにまた喜ばす」

いつもでしたら、帰る時には惜別の情というか辛さではないかと思いがちですが。
どうもそうではなさそうです。

特に滅多に会えない孫との対面は祖父母にとっては大変な喜びです。

所が、普段から接していない孫たちは祖父母の想像を超えた行動力で、それこそ戸惑い、まごつかせることになるのです。

実家に戻ってきた孫たちの姿、行動にうろたえるばかり。

最初こそ、久しぶりの孫たちも遠慮があったり、心遣いもあるものですが、2,3日も経過するとすっかり慣れきって、したい放題の散らかし放題の暴れん坊に変身です。

自分の子供なら、叱りも出来てもこれも侭なりません。

孫たちは、それに乗じて勢いは増すばかり。

親とて、両親の前であれば少しは遠慮もあって叱り飛ばすわけにもいかず、つい中途半端な叱り様になってしまいます。

祖父母にとっては、やがては相手をするにも疲れ果ててくるのが見えてきます。

ですから、先程の言葉にあるように「迎えて満面の笑み、送り出しても満面の笑み」そんな事になってしまいます。

「孫は目に入れても痛くない」
昔から言われる言葉ですが、確かに孫の可愛さは持ってみないとわからないと言うのが正直なところでしょう。

その言葉の裏には、責任の所在がないということも働いているのでしょうがね。

私も現在、孫3名。
その存在は本当に有難いものですし、姿を見ないと気になりますし、何でもしてあげたくなります。

祖父母と孫の関係は、そのようにして保たれるのでしょうか。
つかず離れず、と言うか。

私と祖父母の関係は、親代わりに育てていただいたので却って親を超える、あるいはそれ以上のものとなってしまいました。

このような関係は、或いは先程の「孫は祖父母を二度喜ばす」の言葉とは違って、不憫な孫には親にも優るとも劣らない特殊な親子的関係?が構築されるのかもしれませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 22:49Comments(0)

2010年10月04日

突出はしていないけど、よく頑張っている

突出はしていないけど、よく頑張っているということにしておかないと

人は何事でも比較をしてしまいます。

人よりも成績はどうか、
人よりも成功しているのか、
人よりもお金持ち・
人よりも美人?
人よりももてている?


際限なく比較の対象は出てくるものです。

美人かどうか・・・などの先天的な要素の大きい事はあまり比較しても詮無い事ですし、たとえ美人であったとしても人生にとってはそんなに大切な事ではないように思います。

私の話ですよ。

人によっては、美人であれば他の何もいらないと言う方もいるでしょうし、男性女性によってもその価値の程は変ってくるものです。

あくまでもその人にとって、どうなのかということで個々の判断に委ねるしか方法はありません。

また、他人がとやかく言うことでもないですよね。

私にとっては最大の関心事でも、他の人にとっては全く取るに足らないことであることはままあることです。

人と、実績や能力をよく比較します。
自分はどの程度の位置にいるのか、友人たちより勝っているのかいないのか。

負けている事を後悔の余り落ち込む事もどうかと私は思うのです。
それは努力した結果がですよ。

努力もしないで、負けて事を悔やむなどおこがましいといってもいいのではないでしょうか。

そこそこに努力をしても勝てない事をいつまでもうじうじしても詮無い事です。

負けたことは素直に認めて、悪あがきをしないで、他の有利に働きそうな事を見つけるほうに力を注いだほうがいさぎもいいですし、今後のためにも良さそうです。

そんなときには、
「突出はしていないけど、よく頑張っている」と言う事にでもしておきましょう。

人は何でも一番と言う事はありえませんよね。
何処かに自分が優位に立てる場所がある筈。

執着しないで、認めることは認めていさぎのいい人生にしたいものです。

一生そればかりでも困り者ですが。
  


Posted by misterkei0918 at 19:31Comments(0)