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2011年01月26日

過去を悔いる事はない

過去を悔いる事はない

今朝6時前のNHKラジオを聴いていました。
仏教関係のお話です。

「過去を悔いる事はない」との事。
私もそのように実感を以って感じ、思っています。

人の人生はどのような展開をするか、誰にも確実に予想する事も決める事も出来ません。

確実性のない、ある程度の方向性やあり方を努力や周りからの力によって導く事は出来ますが、それでさえも何も保証されるものでもなく、もしかするとそうなるかもしれない程度の事でしかありません。

幸せの絶頂にある人が、何の前触れもなく途端の苦しみの世界へと落ち込む事もありますし、逆に貧乏のどん底にいた人が、瞬間的に、誰もが羨む、幸運に恵まれることだってあります。

それは、滅多にない事でもありませんし或いは私どもの周辺で日常的に展開されている事であります。

或いはそんなに極端な事でなければ、自分自身の身の回りでも起こり得てますし、もっと小さな出来事が日常的に起こっている事でもあります。

私の人生でも、一喜一憂、波乱万丈、一寸先は闇的な事は幾度となく経験してきました。

そのひとつひとつを後悔していてはキリがありません。
糧とする事はあっても、余りにも思いめぐらす事はなさそうです。

過去の否定や過ぎる懺悔は、今の為に決して有益には働かないような気がするのです。

過去は今の自分を造るためのものであって、忌み嫌うもの、捨て去るものでもなさそうです。

むしろ肯定的に考えて、その全てが無駄ではなかった位に考えておいた方が今の自分を前向きにしかも意義深く生きる事が出来そうです。

過ぎ去った過去に引きずられることなく、一歩先を見つめる事が素晴らしい未来への創造に繋がるようです。

でも、過去の自分と決別するにはそれだけの反省と精算、償いは当然必要ですよね。
邪悪な過去であれば尚更の事。

現在は、過去の延長線上にあり、その結果としての今ですから。

今日もその思いを胸に抱いて、今日も逞しく生きてゆきましょう。
  


Posted by misterkei0918 at 06:11Comments(0)

2011年01月24日

その「ありがとう」は心から?

その「ありがとう」は心から?

ある方から、「ありがとう百万遍」のご指導をいただき、実践の日々です。

本来、ありがとうを言わなくてもいいような時でも出来れば口に出して「ありがとう」を言うようになってきました。

例えば、喫茶店に入ってコーヒーを頼んだとします。

こちらはお金を出している立場ですから、本来なら黙っていても可笑しくはないのですが、敢えて「ありがとう」の言葉を言うように努めています。

そんなことを重ねると、不思議な現象に遭遇する事があります。
これは経験しないと分からない事ですし、またそのような恩恵や効果・・・を求めてする事でもありませんから具体的には書かない方がいいでしょう。

時々、思う事があります。
「お前のそのありがとうは、本心からでたありがとうなのか?」

自分が自分に対して、問いかけています。
「何かを求めたのではないのか?」
つまり見返りを。
或いは打算で。

「ありがとう」は舌先三寸ではいけないと思うのです。
おうむ返しになったり、癖になってしまった「ありがとう」でもいけないでしょう。

出まかせや、上滑りの「ありがとう」でもいけないと思うのです。
わざとらしくてもいけませんよね。

相手が不愉快に感じる「ありがとう」でもいけませんし。

心が伴った「ありがとう」の百万遍でないといけないと思います。

それには、繰り返し、繰り返し・・・
「ありがとう」「ありがとう」・・・・・

それには、多分百万遍に近付いた頃にそんな境地に落ち着くのかもしれませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 16:00Comments(0)

2011年01月22日

梅を見ない内から桜の話

梅を見ない内から桜の話

沖縄では、花祭りが始まったようですね。

「寒緋桜、若しくは緋寒桜」の開花が沖縄では、1月の下旬が毎年ですのでもう始まっても可笑しくはないかもしれませんね。

気が早いものです。

梅の花も見ていない内から、桜の話です。
寒いから余計に温かい春を待ち望んでいるのかもしれませんね。

福岡には太宰府天満宮がありますから、梅と言えば本殿前の「飛び梅」をすぐに思い出します。

それと菅原道真さんの歌、
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花
主なしとて 春をわすれそ」

今年の開花予想が昨日発表されました。

一番早い開花予想は、福岡と熊本で3月23日前後。
昨年も全国に先駆けて福岡の開花が一番でした。

そのお陰もあって、花見も多くさせて頂きました。

日本人は、なぜか桜には心動かされます。
一挙に咲いて、一挙に散る桜。

日本の国花です。
日本人らしいとも言われます、パッと盛り上がって、パッと萎んで。

マスコミ報道などを見ていてもそうです。
日本中が同じ報道で、一色に塗られた感じ。

韓国の国花は「無窮花:むぐんふぁ:ムクゲ」。
夏に咲く花ですが、次から次へといつまでも花が咲いて行きます。
これでもか、これでもかと。

どうも韓国の国民性を象徴しているとも言われます。

季節の花々の事も時には思い起こしながら、追われる日常を過ごしたいものですね。

花見て一杯、これも大いなる楽しみですが、過ぎてはいけません。
  


Posted by misterkei0918 at 15:13Comments(0)

2011年01月22日

「七楽の教え」

「七楽の教え」

こんな言葉を学びました。

『楽すれば
楽が邪魔して
楽ならず
楽せぬ楽が
はるか楽楽』

楽という字は薬の字に似てます。

「七楽の教え」は江戸時代から300年も続いている富山の薬売りの方々が代々受け継いでこられた言葉のようです。

家庭や会社を個別に回られる薬売りの人々を見かけたものです。

常備薬の入った薬箱を携えて、訪問し配置してもらい定期的に訪問して入れ替えを行い、使用した薬の代金だけをいただく商売の仕方は、「先用後利」と称されていたようです。

津々浦々、春夏秋冬、山あり谷あり、全国を隈なく足で尋ねるこの商いの方法が実は楽をしないでビジネスをする事の大切さを教えてくれています。

今の時代でも大切にしなくてはいけない心構えですね。

しかも先に自らの利益優先ではなく、まずは病気を癒し、健康を回復してからお金をいただく思い。

私どもはつい、お金優先。
まず先にお金をいただきましょう的な発想に走ってしまいます。

現代では難しい判断ですが、
お客様にどのようにすれば愛して頂けるのか、
そしてお役に立てるのか、
感動を与える事が出来るのか、
その思いを伝えるコミュニケーションの在り方はどうするのか。

そんなところから、スタートしなくてはいけませんね。

世界の何処よりも圧倒的な数の長寿企業が存在する日本。
その全てが日本にあると云っても過言ではなさそうです。

どうして、日本だけそうなのか。
改めて一考する価値がありそうですね。
  


Posted by misterkei0918 at 12:37Comments(0)

2011年01月21日

心根を忘れず、大切に

心根を忘れず、大切に

人はいつの世も、常に安定を求めるものですが、その安定を世の中や周囲は容認をするものでもありません。

安定を求める傍らでは、不安定や変化を望む思いが根底に潜んでいるような気がします。

例えば、幸せの絶頂だと思われる環境にある人が何かしら不安に駆られる事があるものです。
「こんなに幸せでいいのだろうか」
「若しかすると、この幸せがいつか崩れ去る事も?」

或いは、
「これは本当に幸せなんだろうか?」

人生は浮き沈みの世界でもあります。

経済的に絶頂を迎えたり、崩れ去ったり、
人間関係で人生は素晴らしいと感じたり、非情なものと感じたり、
この上ない健康と思っていたり、どうして自分だけこんなに病や不健康に悩まされるのか、
騙されたり、騙したり・・・・・

でも、人間として元来持っていなくてはいけない事、
安定や不安定、変化にさらされても、常に持ち合わせていなくてはいけないものがあるはずです。

それは、心根だと私は思っています。
人間であればこその本能的、或いは経験や学習の成果による心根。

人に優しくある事、
人の幸せを願う思い、
社会や集団の為に尽くす思い、
物事に真摯に継続的に立ち向かう勇気や叡智、
人間性を高めるための修練や精進を怠らない思い。

私が思いつく所はこんなところでしょうか。
或いは人によって表現の仕方や観点、価値観が異なるために、幾らか違いが出てくるかもしれませんね。

それでもいいと思うのです。

付け加えるとしたら、
自分を健康で幸せな人生へと導くために最大限の努力を怠らない事でしょうか。

自分の幸せなしでは、他人への配慮など出来ませんし、無理な事ですよね。
押しのけて自分の幸せをという事ではなく、それは出来れば相手優先ですが、大方は同時並行的に出来る事でもあります。

人としての心根を忘れない!!

今日も人として優しくありたいものです。

という事は私自身にも、日常的に「つい、心根を忘れるような事態が押し寄せる」という事でもあります。
  


Posted by misterkei0918 at 11:11Comments(0)

2011年01月21日

満月と大寒と記録的な寒さ

満月と大寒と記録的な寒さ

昨日、1月20日は大寒で日本中が凍りつくような気温で寒さに震えた一日でした。

おまけに満月だったのを気付かれましたか?

まん丸で見事なお月さまでした。
雲のない夜を迎えた事、澄み切っていた事・・・等が重なったせいでしょうか。
気持ちが悪いほど、綺麗な満月が印象的でした。

東京では雨の降らない日々が続いているようですし、沖縄や奄美大島でも10度以下の気温の日があったようです。

しかも奄美大島でも雪が降ったとか。
一番高い山・湯湾岳での話ですが。

ちなみに20日は旧暦の12月17日。

大寒は二十四節気の一つで、寒さが最も厳しくなるころのことで大寒の最後の日が節分という事のようです。

一年で最も寒い時期と古来言われていたのですが最近の異常気象の影響でしょうか、大寒の時期が最も寒い時期とは言えなくなっていました。

でも今年はズバリですね。
季節が暦通りに進んでいる感じで嬉しくもなります。

昔から大寒の頃に汲んだ水は長持ちがするといわれ、酒の仕込みが盛んにされる時期でもあるようです。

私どもの体も心も、宇宙や地球環境、自然のリズムとともに進化してきたものの一部ですから、そのリズムを私ども人間が狂わしているとしたら多分、そのうち私ども自身がその影響を激しく受けることになるのではないでしょうか。

昨日は、満月と大寒とを見たり感じたりしながら自然の働きに思いが馳せたものでした。
  


Posted by misterkei0918 at 09:52Comments(0)

2011年01月17日

人を好きになろうよ

人を好きになろうよ

人を好きになる事が大事な事だとは十分に分かっていても、行動に出せないとか気が進まない事があります。

本来的に人間は人間が好きなように出来ているような気がします。

だからこそ、その裏腹な状況が生じると思っています。

人は人との関係性の中にあってこそ、人であるように出来ていると思いますし、より高度な人間性を確保できるように仕組まれていると思うのです。

高度というのは、より優れているというのではなく、今まで持ち合わせていない人間性を確保するという意味合いであります。

世の中を見渡してみますと、本当に人間としてより望まれる知性や能力を備えて行く人がいる半面、反社会的というか、本来人間として持ち合わせてはいけないと思われる能力や知識まで高度化していくものです。

でも一般的には、人は人との交わりの深まりを望むものであって、それこそが極めて人間らしい在り方であろうと思います。

若いころの私はどちらかと言うと、人との関係の大切さを重要視することなく、むしろ自分から避けていたような気がします。

避けようとする理由はここでは触れませんが。

かと言ってそれが自己の向上や満足に繋がっていたかと言えば、全く逆であり、その頃の時間が今思えば大変もったいない事をしたと反省をしております。

その事に気づいていれば、今の自分はもっと存在や意義深い人生を送っているかもしれません。

ある時、その事の大切さに気付いたわけですが、
まずは「人間ありき」
「人との関わりの大切さ」
「人は人と交わってこそ人」

それを、小さいころから身を以って教えてくれる人の存在が欲しかったものです。

結局は、本来教えてくれる人が傍にいなかった事、
それ自体が、人と交わる事を消極的にする人にしてしまったのでしょうね。

「人を好きになろうよ」
実は好きになってみるとこんなに素晴らしい存在はないのですが。


『人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。瀬戸内寂聴(宗教家)』
  


Posted by misterkei0918 at 17:30Comments(0)

2011年01月17日

好奇心の功罪

好奇心の功罪

何にでも興味を持つ人がいるかと思えば、
全く物事に興味を示さない自己陶酔というか他人無視なのか、

はたまた自分の事だけで頭がいっぱいなのか、
もしかすると興味は在りながら敢えてそのような態度を取るのか。

貴方はどのような好奇心をお持ちですか、
或いは好奇心に対してどのような行動を取りますか。

一般的には好奇心は歓迎されるもの、持つべきものと思いがちですが。

ある方のメルマガから、

その方の奥さまは好奇心の強い方で、しかも行動派のようです。
ある時、スピード違反で白バイにつかまってしまいました。

さしづめ私であれば、
『違反するほどのスピードは出していないはず』
「かれこれこういう事情で、スピードを出さざるを得なかった。だから何とかならないのか」

こんな言い訳をして、許してくれるわけがないのですが。

その奥さまは、そこでも好奇心を発揮します。
「おまわりさん、どうして白バイは白いの?」

そのおまわりさんとはその話で終始。
最後は、親しくなって笑顔で別れたとか。

私にはとても出来ない芸当ですが、そんな時には諦めて、折角なら楽しい話題で盛り上がって、しかも仲良しになって「さよなら」した方がいいのでしょうね。

逆な事もあります。

好奇心の余り、その発露が相手にとって嫌な印象になってしまう。
そんな経験は私だけではないでしょう。

余りにも好奇心が強くて、相手のプライベートの細部にまで及ぶ事、
しかも根掘り葉掘り、しつこく・・・・・

会社の事を余りにも立ち入って聞きすぎる事。
どうして、そこまで言わなければいけないのか?
何故、そこまで聞くの?

挙句は嫌悪感に包まれ、「この人とはこれ以上付き合えない」という所まで行きついてしまいます。

好奇心の発露が、相手を心地良くさせるのか、
或いは毛嫌いされるのか。

自分が常に相手の立場に立って、そんな事も考えてみる事も面白いものです。

自分にとっては、行きすぎと思っていても相手はそうでなかったり、遠慮の余りが逆に関係を遠ざけてしまう結果になるやもしれませんし、

それは、人としての多くの関係ややり取りの中で学んでいくものなんでしょうね。
  


Posted by misterkei0918 at 16:34Comments(0)

2011年01月17日

出会いは最大の創造

出会いは最大の創造

想像と言えば、物つくりとかアイディア、ビジネスモデル・・・・・を思いがちですが最大の想像に繋がるものは人との出会いではないでしょうか。

人に遭い、
人にもまれ、
人から叱咤され、激励され、
人から勇気を頂き、
人から叡智を授かる・・・・・

ノーベル賞を取られた方々が、まず言われるのは「良き師に恵まれた」事を良く強調されます。

一番は永い年月におけるご自分の努力である事は誰しも認めるところですが、その前に「自分に刺激を与えてくれた人」、「自分に努力を継続的にすることを教えてくれた人」の存在がある事を必ず口にされます。

それと大事なのは、「自分自身の新たな創造」の大切さを自らが気付いたり、良き師から示唆を頂く事の大切さだと思うのです。

長い人生の道のりで、旧態とした自分ではなく、自分とは一味も二味も事なった自分の創造が出来るのか否か。

人生は、常に新しい自分を創造できるかが楽しく豊かな人生を創造できるかに掛っているような気がするのです。

人との交わりは必ずしも有益な情報の提供や交わりのみが存在するわけではありませんが、様々な分野において刺激的で、悩ましい問題も大いに提供してくれます。

それが実は大事なもののようです。

ぬるま湯的な状態に甘んじる人生や日常は決して生産的でもありませんし、創造的でもありません。

様々な考えや人間性、言動によって、常に影響を受け、試行錯誤を強いられ、珠には驚きであったり、侮蔑の対象であったりするものです。

全ての人々がそれぞれに刺激的、感動的、示唆的であります。

創造を考えるなら、真っ先に人との交わりにこそ創造の端緒や引き金が存在することを認識していた方が早道のようです。


『人生とは出会いであり、その招待は二度と繰り返されることはない。カロッサ』


『二人の人間の出会いとは、二つの化学物質が接触するようなものです。
もし、何かの反応が生ずれば、両方とも変わってしまいます。ユング(心理学者)』


『人間は自己の運命を創造するのであって、これを迎えるものではない。ヴィルマン』


『人間は意欲すること、そして創造することによってのみ幸福である。アラン』
  


Posted by misterkei0918 at 16:03Comments(0)

2011年01月15日

何で泣いたか分からない

何で泣いたか分からない

何かしら、涙が溢れてついホロッとする事はありませんか。

青春の頃にも経験したような気もしますし、馬齢を重ねると涙腺が緩んだ精にもよるのかもしれませんね。

でも「男は涙を流すな」、「人に涙を見せるな」などと言われて育ちましたので余程でないと涙を見せる事はありません。

かと言って、涙そのものに功罪があるわけではなく、流す涙には心を清めたり、落ち着かせたりする精神作用が伴う事は分かっていますから、人知れず流す涙はそれはそれでいいと思っています。

昨年だったか、一昨年だったか記憶は定かではありません。

イチロー選手が、
大リーグで首位打者を争っていたけど負けた事が決定的になった次の守備のときに涙を見せた事がありました。

緊張の糸が解けたのでしょうね。

素晴らしい事だと思うのです。
涙を見せた事が。

後で「何で泣いたか分からない」とコメントをしていました。

やはりなんで泣いたかわからない涙があるのです。
涙は理由があって流すのが全てではないのです。

流した後の清涼感というか、解放感、解き放たれた、わだかまりから離れた気持ちはそれは快感とでも評せる事のような気がします。

あの超人、イチローはこんな事も言っています。
私のような凡人にしてみたら、人間を超えてしまったといっても過言ではなさそうです。


『他人のバットには触らない。
なぜなら、他人の感覚が残ってしまう。

自分のバットは自分の体化しており、他人のバットを触ると自分でなくなってしまう。
50歳で4割打って引退する。・・・イチロー』
  


Posted by misterkei0918 at 18:08Comments(0)

2011年01月14日

日本人は偉い

日本人は偉い

今まで極めて自虐的と言われてきた日本人、
私自身もそのような例に漏れないような気もします。

所が最近、マスコミの報道などを見ても少し変化が出てきたような気がしませんか。

「むしろ、日本人はこんな所が優れている」とか、
「日本人の優れた特性を表面に出していった方が良い」

また、日本の文化や文明が如何に優れているかや
日本人そのものの感性の鋭さ、思いやり、季節感、やさしさ・・・・・

素晴らしい事だと思います。
自分を卑下することや自虐的でいい結果を生む事は殆どないでしょう。

大きい災害を被った時の日本人の落ち着いた姿や行動は、外国の人々から見たらいい意味で奇異に映るようです。

特に中国の方々から見れば。

グローバルだからと、国民性や大事なものまでかなぐり捨てて、迎合する事は要らない事のように思えます。

経済優先にするがあまり、自国の大切なものまでも失ってはいけないと思うのです。

今日はこんな事に遭遇しました。
これも小さな事ではありますが、日本人らしい、共同の行動に思えます。

車に乗っている私の後方、信号二つ先位から救急車のサイレンが聞こえます。

だいぶ遠くですから、信号で曲がるかも知れませんし、途中で止まるかもしれません。

車線は狭い片側1車線ですから、余程両方の車が左右に寄らない限り真中を救急車が通り抜けるのは大変なことです。

やがて後ろに近付いてきました。

当然、そのままの位置でただ路肩に寄っただけでは通過できません。

そこで、誰が合図したわけでもありませんが、それぞれが車間を開けて、しかも左右の同じ場所に車が止まらないように工夫を始めたのです。

それこそ阿吽の呼吸とでも言いますか。
誰が指図したのでもないのですが。

救急車はその間を縫うように、ジグサグで通り抜けて行ったのでした。

とっさの日本人の知恵、譲り合い、優しさなんでしょうね。

こちらの方が「ありがとう」とつい口ずさんでしまいました。
  


Posted by misterkei0918 at 23:03Comments(0)

2011年01月14日

母と子の情愛を垣間見て

母と子の情愛を垣間見て

垣間見てと書くと「垣根の間から覗いた」的な解釈になってしまわないか危惧してしまいます。

「垣間見る」とは、言葉的にはのぞき見る事ですが日常的に使う意味としては、「それとなく」、とか「意識せずに見てしまう」、「それとなく目に入る」そんな意味合いで使います。

或いは間違っていたら、このように言い変えましょう。
「母と子の情愛を目にして」

車で通りすがる斜め前に、幼い子供を抱いた母親が立っています。

銀行の支店の窓口が閉じていますから、時間的には、多分3時以降。
バス停の前ですから、到着するバスを待っているのか、
あるいは、タクシー待ちか?

私は、赤信号で止まっている時です。

子供は、生まれて3~4カ月位と見えます。

抱きかかえた子供を、自分の顔と同じ位まで両手で数度上げたり下ろしたり。

子供はそれに答えるように、或いは怖さからでしょうか、母親にしがみつくしぐさを繰り返します。

まさしく母親と子供が一体化しているような、
睦まじい姿です。

父親ではこのようにはいかないものです。
遠目でそれとなく見ている私までがつい微笑んでしまうような。

以前、関東の埼京線に乗った時も、目の前に座っている母子の姿に感銘を受けてブログに書いてしまった事がありますが、母親と子供の愛情の交換はいつ見ても微笑ましく、胸打つものがあります。

出来れば私自身も幼いころに、母親とこのような経験もしたかったものだと思わずにはおれません。

母親の持つ母性は、幼い子供にとって史上この上ない、かけがえのないものであって誰でもそうなければいけない欠かす事の出来ない体験であろうと私は思うのです。

それが、正常に人を愛する事の大切さを学び、的確に実践できるのではないでしょうかね。

適切な母親の愛情に恵まれない、或いは心ない処遇や扱いの為に人生を棒に振る人間もいますし、屈折した取り返しの使いない人生を送る結果を招くことだってあるものです。

人の人生は一様でないのもわかりますし、あり得ない事も重々承知していますが、幼いころの母親との愛情にまみれた行動は誰にでもそれだけは共通の体験であって欲しいものです。

あの母と子の姿にほんのりとした思いを感じると同時に自分の幼いころをつい重ねてしまいました。


『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』


『子どもが変わる魔法の言葉
「お母さんは、あなたが大好きよ」
「あなたは、お母さんの宝ものよ」
「どんなことがあっても、お母さんはあなたの味方よ」。山崎房一』

  


Posted by misterkei0918 at 22:23Comments(0)

2011年01月12日

嘘をついてもいいと教えてしまう世の中

嘘をついてもいいと教えてしまう世の中

子供にはさんざん嘘をついてはいけないと云いながら、片方の口では平気で嘘をつく。

人の嘘にはさんざんの文句を言うくせに自分は平気で嘘をつく。

「嘘も方便」などと逃げ口上を言い、自己弁護だけはしっかりする大人たち。

権力を握った途端に、約束事の全てを反故にし、時間が足りない、お金が足りない、出来なかった理由だけはしっかり探し出す。

嘘をついた事を咎められると、逆切れをし、逆恨みをする癖・・・・・・

世の中の構造が、嘘をついても構わないと如何にも教えているようです。

「正直者が馬鹿を見る」とは、昔の事ではなくまさしく現代の事であるよう。

「嘘は泥棒の始まり」などとうそぶいて、嘘をつける時代にもなってしまいました。

悪びれることなく、平気で嘘のつける世の中、正直であることが馬鹿と称される世の中、悲しい気がします。

全てが正直であれば良いとは考えてはいませんが、嘘のまかり通る世の中が果たして希望や夢の持てる社会と言えるのでしょうか。

「騙し合い」
「化かし合い」

純粋無垢等の言葉さえ、何処かへ置き忘れてきたような世の中になってしまいました。

何処かで、貧しくても物に恵まれなくても心優しい、思いやりの社会が訪れてほしいものですね。

「嘘に塗(まみ)れた」社会などいずれは砂上の楼閣と化すのかもしれませんね。


『人々がいつでも、正直なことをいうのはなぜか。
神が嘘を禁じたからではない。
それは、嘘をつかないほうが気が楽だからである。ニーチェ(独 哲学者)』


『よほど巧みに嘘をつけない限り、真実を語るに越したことはない。Jジェローム』
  


Posted by misterkei0918 at 21:44Comments(0)

2011年01月12日

知りませんでした。守・破・離

知りませんでした。守・破・離

初めてこの言葉に触れたのは、4年ほど前でした。

多分、剣道や柔道などの日本古来の武道に勤しんだ方々、或いはお茶やお花などの伝統的な作法や修練を重ねた方々は先生方から、多分一度や二度はお聞きになったのではないでしょうか。

私は武道では、剣道を小学校の頃に遊びのようにして教えて頂いた事はありましたが、正式に教えを請うたことはありませんでしたので、全くこの言葉を耳にする事はありませんでした。

多分、多くの皆さんはご存じだったかも知れませんね。

調べてみましたら、極めて日本らしい言葉ですね。

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およそ600年前、室町の三代将軍足利義満の時代に、「能」を育て上げた観阿弥、世阿弥親子が「風姿花伝」(「花伝書」ともいう。)のなかで展開した芸能論の一部のようです。

現在は能だけでなく、歌舞伎や狂言といった日本の伝統芸能、剣道や居合道、空手など武道の世界でも守破離という言葉が広く使われています。

守・・・ひたすら教えを守り、学ぶ。

ひたすら師の教えを守り、多くの話を聞き、師の行動を見習って、自分のものへとします。全てを習得できたと感じるまで、師の指導を繰り返します。

破・・・教えの言葉から抜け出し、真意を会得する。

既存の概念を破る事。疑問解決の為に、師の教えを守るだけではなく独自の工夫を重ね、師の教えにはなかった方法などを試していきます。意識的に師の教えを崩し、次第に発展し…独自の方法を築き上げていく事になります。

離・・・型に一切とらわれず、自在の境地に入ること。

この境地まで達すると、師のもとを離れていきます。破と違うのは、「一切のこだわりを捨て、自由に、思うままに考え、自然に身を置いて行えば、言わば合理の極致としておのずから至芸の境地に至る」事です。離はいわば理想の段階ですが、その「道」を学ぶ者ならば、離の段階に入っていかねばならないのです。

******************************

人の成長もそうかもしれませんね。
親や周りのしつけや教育をひたすら学ぶ時期、
その教えを基本として、より人間らしい姿へ移り、
年齢を重ねるとともに、他人とは違う自分らしさを会得する。

企業経営でもそうです。
最初は先代の見よう見まね、
そのうちほぼ一人前と化し、
年月とともに、新しい事業形態であったり、
全く新しいビジネスモデルとなったり、独自性が滲み出てくるものです。

修練とでも言うのでしょうかね。
或いは、悟りの境地?
或いは達観?

まだまだですが、そんな世界へいつか辿り着く事を夢見て精進したいものですね。
  


Posted by misterkei0918 at 18:18Comments(0)

2011年01月11日

「礼を尽くす」と言います

「礼を尽くす」と言います

「あいつは礼儀知らずな奴」、
「挨拶の仕方も知らないのか」、
などと言われます。

逆に「過ぎる礼儀」もわざとらしく感じてしまいますし、嫌なものです。

たかが礼儀と言われそうですが難しいものですね。

不足は不足でいけませんし、過ぎるは過ぎるで顰蹙ものですし。

爽やかに心置きなく、わだかまりなく、優しく言えるお礼が良いですよね。

困ったことにお礼や礼儀は、早過ぎるのもいけませんし、
遅くて時期を失すると、人間関係を損なう事もあり得ます。

「機を損なうことなく」という事も頭に置かないといけませんからやはり訓練なんでしょうね。

自分がお礼を言われる立場になって考えてみたら、どのようにする事が相手の気持ちを損なうことなく、むしろ関係を深めるお礼の仕方や方法も思いつくかもしれません。


調べてみました。
お礼の旧字は「禮」

左のネは本来は「示」・・・神にいけにえを捧げる台の象形。
人に現わして見せる、教える、告げる、指図する、

旧字の右の「豊」は、あまざけの意味、
甘酒を神に捧げて幸福の到来を祈る儀式の意味。

人のふみ行うべきのり。
心の敬意を抱き、それを行動として、外に現わすみち。
作法、礼儀作法、儀式、国家や社会の秩序を維持する組織や掟。
贈り物、敬意を現わすための贈り物。


お礼を尽くす事は、杓子定規なものではなく、
心から滲み出る思いの発露ですから単純なものではなさそうですが、経験や訓練を小さいころから重ねる事が、大人としてそれとなく上手に関係を構築できる最も近く大事な所作です。

難しく考えないで、単純で純粋である事でしょうか。


『礼儀正しさはひとを飾り、しかも金はかからない。イギリスのことわざ』


『どのような防御も礼を尽くすことには及ばない。エドワードルーカス(作家)』


『人はくだらないとして礼儀作法をおざなりにするが、善人か悪人かを礼儀作法で決められることがよくある。ラブリュイエール』


『礼儀正しさが人の本性に訴えかける働きは、熱がロウに伝える働きのごとし。ショーペンハウエル(哲学者)』
  


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2011年01月08日

人は本当に変われるの?

人は本当に変われるの?

現状から変わりたい、脱皮を図りたいと思う人、
そんなことを考えた事のない人、

全く変わる必要性を感じない人、
変わりたいと思いながら、行動に移せない人、

行動には移せても結果が見えてこない人、
過去、様々な努力をしたが結果が出ず、悶々としている人、

努力した結果が、結実し見事に変化を経験した人、
元の黙阿弥に戻ってしまった人・・・・・

人は様々、人はそれぞれですから周りからとやかく言う事でも、逆に言われる事でもありませんが世の中にはどうにかして自分を変えたいと思っている人は多いものです。

自分の現状に満足していて、変わる事の必要性が全くない、
或いは傍から見ていてもそのように感じさせる人もいますが、実は本人は変わりたがっているなどという事もあるものです。

変わった原因も、

家族のお陰、
友人知人の影響、
良き師との出会い、
学校、学業のお陰、
就職先、仕事のお陰、
偶然の産物、
結婚相手、
子供のお陰、
宗教、
お金、
発奮材料の出現(例:人前で大恥をかいた・・・)



明らかに変わった人を大勢知っていますがやはり自らが変わろうと意思を固めて辛抱して行動、努力した人が殆どですし、それが永続的に維持できるのも変わった事の喜びを実感し、体験の全てが体の一部として埋め込まれた人々のようです。

一時凌ぎ、その場限り、その場逃れの一過性ではなく心底から変わりたいと思う事、実践を真剣に真摯に取り組んでいる人のこそ、素晴らしい結実をわが物としているようです。

それと、人が変わった暁には新しい世界が待ち受けている事を信じ、行動し実感する事も大事な事のようです。

そして、人間ですからそう安々と変わるものではない事を最初から頭に入れておく事でしょう。

結果が出ないから、すぐ諦めるというような事では変われるものではありませんしそんな簡単なことでは変われるものでもありませんし、あるいは人間と言えないかもしれませんね。

人は変わる事の喜びや実感が出来る経験を重ねると、努力の楽しさや常に明るい未来志向に捕らわれますから歯車の回転スピードが上がっていくものです。

ですから、そのような意欲を以って努力する人とほどほどで満足してしまっている人、身近にある結実を見る事もなく挫折を繰り返す人では、長い人生においては大きな差となって現れてくるものです。

何も急ぐ事はなさそうです。
自分のペースに合わせて、他人と競う事もいらないと私は思っています。

人生は競争でもなく、自分自身をかなぐり捨てて生きていくものでもないと思うからです。

自分の変化のあり方、ペース・・・それを探索する事も人生の楽しみでもあって、自分の個性をより高める方策でもあるような気がするのです。

出ないと、人間が金太郎飴のようになってしまいます。
面白くない人間関係となって、結局は意味のない変化に終始する事にもなってしまいます。

変わるなら、自分らしい変わり方、自分らしい生き方に通じる変化にしたいものですね。
  


Posted by misterkei0918 at 09:44Comments(0)

2011年01月07日

おもてなし(ホスピタリティ)を求めて・・・大晦日と元旦

おもてなし(ホスピタリティ)を求めて・・・大晦日と元旦

おもてなし(ホスピタリティ)と言えば、世界のリッツカールトンをすぐ頭に浮かべます。

一度、日本法人の支配人さんの話を直にお聞きする機会がありましたが、それはそれは「そこまでやるか」という感じでした。

何しろ世界一ですから、ちょっとやそっとのおもてなしでは話になりませんよね。

私どもの企業でも、その付近への配慮が働いてお客様から「あの会社は、他とどこかが違うよね」などと囁かれると嬉しいものです。

お店や会社へ一歩足を踏み入れた途端に、その違いは感じるものです。
という事は、俄かづくりや表向きだけのおもてなしなどすぐ化けの皮が剥げてしまいます。

不思議なものです。
人間の感覚というものは。

大晦日から元旦にかけて毎年同じ宿に宿泊することにしています。
それもやはり一年間のご褒美の意味もありますが、一番は「おもてなし」の心地よい雰囲気に浸るのが目的です。

温泉も雰囲気がありますし、食事の美味しさや細かい配慮、部屋の面持ち・・・・・

自宅で大晦日や新年を迎える事になると、当然それなりの準備も必要ですし、おせちも造ることになってしまいますから家内に大いに負担をかける事にもなってしまいますから、それからの解放の意味もありますが。

場所は、大分県中津市、福沢諭吉の故郷ですし、黒田長政の父親・黒田如水が藩主であり中津城主(日本三大水城の一つ)であった所でもあります。

中津市の山間部、六面山ふところ。
金色温泉・こがね山荘。

隣には、地域の方々も入れる温泉地。

福岡から九州縦貫道を経由し、東九州道路を利用して約2時間程度の道程です。

また、今年の大晦日から元旦にかけて再び訪れる事になります。
  


Posted by misterkei0918 at 23:07Comments(0)

2011年01月07日

一日一笑、一日一善、一日一役、一日一褒

一日一笑、一日一善、一日一役、一日一褒

今日1日、何か心に残るような出来事はありましたか?

今日1日、お腹から笑う事がありましたか?

今日1日、人に喜んで貰う事が出来ましたか?

今日1日、家族や周りの人々、社会に何か良い事をしてあげられましたか?

今日1日、自信を以って「良くやった」と言えるような事がありましたか?

今日1日、最後に自分を褒めてあげましょう。

いつも走り回る1日に終始してしまいます。
そしていつも反省です。


小さな事でもいいのです、
一日の終わりには心地よい達成感に酔いしれて、

腹に一物を持つことなく、大きな声で笑ってみたいものですね。

人の為に何をしたのか、自己犠牲とまではいかなくても、
或いは感謝はされないかもしれませんが、果たしてお役に立てた事があったのでしょうか。

「最善を尽くして、天命を待つ」という言葉がありますが、最善ではなかったかもしれませんが自分が為し得る努力を怠る事はなかったでしょうか。

褒められなくてもいいのです、素晴らしい評価など必要はありません。
第3者が見ても、確かな結果が残せたのでしょうか。

今日の自分は、心の鏡に照らしてみて、美しく輝いているのでしょうか。
曇ってはいませんか。
眉間に皺寄せるような事はなかったですよね。

最後に、心地よい疲れとともに、体を横たえるとき、自らに「良く頑張ったね」と優しく囁いてあげたいものです。

人は、悲しいかな、
反省などという習性を本能的に備えてしまいました。
生きて行くからには、せめて明日の為に心地よい反省で一日を終わりたいものです。


『多くの人は皆、成功を夢見、望んでいますが、私は「成功は、99パーセントの失敗に支えられた1パーセントだ」と思っています。
開拓精神によって自ら新しい世界に挑み、失敗反省勇気という3つの道具を繰り返して使うことによってのみ、最後の成功という結果に達することができると私は信じています。本田宗一郎』


『進歩とは反省のきびしさに正比例する。本田宗一郎』


『反省とは悔やむことではない。前進するための土台である。』
  


Posted by misterkei0918 at 21:36Comments(0)

2011年01月07日

突然の七草粥を頂きました

突然の七草粥を頂きました

今日の夕刻と明日の賀詞交歓会で、所謂「新年会」が終わります。

ある意味、大人の踏み絵のような、体力気力を試されているような、そんな集まりのような気がします。

それは多分、私だけの感情ではなく参加する多くの方々の偽わざる思いではないでしょうか。

中には、好きなお酒が好きなだけ飲めるという期待を以って臨む人も多いのも事実ですが。

今日のお昼の賀詞交歓会の来賓の方のご挨拶で今日が「七草粥」の日である事を気付きました。

昔は、「今日は七草粥だね」などと口々に話したものです。
また、社内でも七草をスーパー等で買い求めて、みんなで頂いた時もあったものです。

本来大事な、季節を感じる行事ですのでみんなで語り合ったり、出来れば頂いたりしたいものですね。
その付近が日本人の素晴らしい所だった筈です。

調べてみました。(ネットからの拝借です)


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七草(ななくさ)は、人日(じんじつ:五節句の一つ)の節句(1月7日)の朝に、7種の野菜が入った羮を食べる風習のこと。

本来は七草と書いた場合は秋の七草を指し、小正月1月15日のものも七種と書いて「ななくさ」と読むが、一般には7日正月のものが七草と書かれる。

芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう・現在名:母子草)、
繁縷(はこべら・現在名:ハコベ)、
仏の座(ほとけのざ・現在名:コオニタビラコ)
菘(すずな・現在名:カブ)、蘿蔔(すずしろ・現在名:大根)

この7種の野菜を刻んで入れたかゆを七種がゆといい、邪気を払い万病を除く占いとして食べる。呪術的な意味ばかりでなく、御節料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能もある。
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実は、ご挨拶の言葉に登場したのみでまさか七草粥が出てくるとは思わなかったのです。
いつものパーティでしたら、お蕎麦がお椀に継がれて出てくる事はいつもの事ですが。

いずれにしても、旬の季節の食べ物に触れただけでも嬉しい気分になっています。
今年は何か良い事が。

そういえば、昨夜の賀詞交歓会で実は景品が当たったのですが、これも幸先(さいさき)を暗示しているようで喜びのひと時でした。

でも、当たっていない同僚たちのまなざしが痛かった!!

そういう事でもありましたので、喜びは自分だけが占有してはいけませんから、博多駅に迎えに来てくれた社員の家族にお礼を兼ねて差し上げることにしました。
  


Posted by misterkei0918 at 14:55Comments(0)

2011年01月07日

過去の栄光の亡霊に心奪われては駄目

過去の栄光の亡霊に心奪われては駄目

新年を迎えた早々に、過去の話に終始するのはどうかとも思います。
或いは新年を迎えた時期だからこそ、自戒を込めて考えてみるのもいいかもしれませんね。

私自身に過去の栄光などと言われるものが存在するかも疑問ですが、それは私個人の胸の内で「あのときがそうだった」位の判断でいいのではないかと思っています。

例えば、

大企業に就職できたこと、
恋愛が成就し結婚まで辿り着いたこと、

首尾よく起業出来た事、
ここまで数十年に亘って経営できた事、

難しい時代にも関わらず、そこそこの事業として確立できたこと、
孫も順調に育ち、親族仲良く過ごせている事、


確かに人生は波乱万丈、さまざまな事がありました。
眠れない日を幾度となく迎えた事もありますし、自己否定をしてみたり、涙をぬぐってみたり・・・・・

でも、そのそれぞれが現在を構築するための踏み台であって、どうしても必要なものであったような気がします。

そして数少ない栄光も存在するものです。

「良くもここまで頑張ったとか」
「若しかすると奇跡じゃないの」

こんな時も存在するものです。

でも栄光に浮かれていても、殆ど得るものはありませんでしたしむしろそれが為に足かせになって身動きが取れないときが多いものです。

しかも喜びの絶頂期は、栄光に浸っている時ではなく苦難を克服した時や悲しみを乗り越えたときであったのです。

安堵感や充実感に浸れる時は、苦難を克服した時や悲しみを乗り越えたときであって、栄光の時ではないようです。

栄光は過去の遺産や亡霊ぐらいに思って、むしろ苦難を経験した道程こそ大事にし、かつ振り返る価値がありそうです。

経営をしていて、「柳の下にドジョウが2匹」いたためしは殆どありませんでしたが、そんな時に限って過去に執着し旨い話に心を奪われ、迷いや失敗を招いていたような気がします。

経験、特に成功体験や栄光に心を奪われることなく、謙虚に常に初心を見つめ、自分を戒め厳しく、嗜(たしな)めながらの生涯にしたいものです。

心休まる時はなかなか見いだせませんが、そんな厳しさの中に時々垣間見せる至福の時を大切にしながら・・・・・


『小生の最大の栄光は、一度も失敗しなかったことにあるのではなく、倒れるたびに起き上がることにある。ゴールドスミス』
  


Posted by misterkei0918 at 10:16Comments(0)