しーまブログ 日記/一般福岡県 ブログがホームページに!しーま新機能のお知らせ! さばくる~イベント情報受付中!~

2011年02月14日

ブログも絵手紙の極意にも似て

ブログも絵手紙の極意にも似て

話題や興味深いテーマを見つけて、ブログを継続的に続けるのも難しいものです。

何か続けないといけない理由とか、
束縛、
続けることで相応の利益がある、
義務感、
脅迫、


私のブログは、大よそ6年は続いているような気がします。
その続ける理由は、自分への戒めや反省、
明日への勇気づけや励ましと思って書いています。

多くの方々に読んでほしいとか、利益誘導したいとか、認知してほしいとかの想いがあったとしたら多分、途中で挫折していたものと思っています。

書くために、十分な時間も取れませんし整理も出来ませんのである意味書きなぐり状態、垂れ流しと言っても過言ではないでしょう。

先日、ラジオを聞いていましたら絵手紙の開発をされた代表の方のお話がありました。

絵手紙を書く上で大事なこと、

綺麗に書こうと思わない、
下書きなど書かない、
はがきからはみ出す位に・・・・・

リアルとバーチャルの違いはあれど、やはり基本は同じですよね。

ビジネスブログや広告宣伝を兼ねたブログ、多くの人々に正確な情報を知らしめるブログなら別ですが、
続けようと思うなら、

ブログでも、立派な文章や人を唸らせる文章など必要ありません。
また、下書きをしたり、研究、調査なども必要ないものです。
想いはしっかり膨らませて、文章からはみ出すような思いをぶつけた方がいいかも。

かっこいい文章にしようとか、人に訴えたいとか思いだすと途端に肩に力が入って、1ヶ月もいい方ではないでしょうか。

少なくとも私はそうです。

場合によっては、誤字脱字もよし、文脈も素人でいいと思っています。

書いている事が、自分に跳ね返ってくれば。
  


Posted by misterkei0918 at 16:23Comments(0)

2011年02月13日

正しい事は他人の中にこそある

正しい事は他人の中にこそある

最近富にそんな事の感を強めています。
或いは私自身の自信のなさや、弱さがそのように言わせているような気もしますが。

自分は物事を正しく知っている、
正しい結論を導き出す能力を持っている、

知識、知恵を問題解決に集中して傾けられる、
その前に十分な知識、知恵を自らが有している


こんな自信がどうしても持てないのです。

社会が複雑化すればするほど、そんな思いがしてなりません。

色んな事の結論を導き出すには、やはり様々な立場の方に聞いてみる、投げかけてみる。
他人依存と思われそうですが、実はこれこそ情報が溢れ、心身ともにかき乱される現代の生き方のような気がします。・・・・・

この事の大切さを痛感する日々です。
一人の人間が持つ能力は極めてか細いものですし、どんなに努力をしてもその全てをわが物には出来ないものです。

であれば、他人に力を借りる。

となると今度は見極める力が必要かもしれませんね。

正しいことを見極める目。

これこそ難しい事ですが、これから生きる人間に最も要求される大切なことやも知れません。

マスコミを見ている、読んでいても要求されるのは見極める目、能力ですよね。

それがないと、ただ人の意見に迎合し受け入れているに過ぎません。

基本は、自らが正しい心や物事の本質を持っているのではないけど、見極める目。

これからの子供達は、難しい時代を生きてゆきますが周りの大人がそんな事も教えてあげる事が必要かもしれません。

特に心の問題は。
自分が正しい心を持っているのではなく、むしろ他人の中にこそ正しい心や真実が潜んでいることを。

それとこれからは努力を怠る人、傾注できない人はますます置き去りになる世の中になってしまう事だけは間違いなさそうですね。
  


Posted by misterkei0918 at 08:18Comments(0)

2011年02月10日

避けれない苦しみは?満たされない欲望は?

避けれない苦しみは?満たされない欲望は?

先日は、明治維新時の詩人、野村望東尼さんの事を学んできました。

野村望東尼さんは、明治維新に活躍した高杉晋作や平野次郎國臣等に加担し、そういう意味で貴重な方かとばかり思っておりましたが、ご自分の境涯としてはどちらかと言うと詩人として想いが勝っていたようなことでありました。

詩人としての思いを貫こうとする行動が、勤皇の志士たちの志と共通する部分があって関わりを持たれた様な気がしてきました。

そういう意味では積極的な関わりではなかったのでしょうか。

まだ引き続き勉強してみたいものです。

当日、野村望東尼さんが道元禅師を極めて尊敬されていたという事で和尚の言葉を教えて頂きました。


『避けることの出来ない苦しみを
避けようと思わないこと。

満たされることのない欲望を
満たそうと思わないこと。

四苦八苦を そのまま受け入れる覚悟が大事。

まずは現実をしっかり受けとめて
前向きに生きる。

現実は避けるのではなく
解決方法を見出してゆく。』


『道元(どうげん)は、正治2年(1200年)の生まれで3歳で父を、8歳で母を失う。鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。同宗旨では高祖と尊称される。一般には道元禅師と呼ばれる。

徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。

成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。』

人生は、逃げる事より勇敢に立ち向かおうとする姿勢こそが心の安らぎに繋がるものであって、安易に逃げてはいけませんと言う事なんでしょうね。

道を開くという事は、自らの努力なしではいけません。
まずはしっかり受け止めて冷静に前向きに判断を加え、自分で解決の道を見つけましょうと説いておられるようです。

歴史を学ぶ事は、自らの心を鏡に映すようだと教えて頂いた事もあります。

先達が営々として教えて頂いた事を、学ぶことなく、触れることなく人生を終わる事は自分を真に見つめる努力を怠っていた事になるのかもしれません。

日常に追われるだけでなく、過去や歴史に振り返るゆとりこそ現代のわれわれに要求されていることかもしれませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 09:09Comments(0)

2011年02月06日

やはりご先祖様を大切にしないとね

やはりご先祖様を大切にしないとね

昨年は私にとって良くも悪くも大切な一年になってしまいました。

多分、ある意味試練の一年だったのでしょうね。

多分、試されているような、
何処まで耐えられるか、

どんな結論を導くのか、
人、(家族や社員を含めて)何処まで大切にしているのか、


難しい問題も潜んでいますので全てを具体的に記す事は控えますが、その中でふと気付いた事があるんです。

私は1月26日水曜日、早朝からの勉強会の望みました。
7時からの会でしたが少々時間がありましたので、昔から存じ上げている歯科医先生を雑談を始めました。

私を悩ました事の一つに「帯状発疹」があります。
12月30日の日赤の救急に駆け込んだものです。

実は昨年は11月から12月に掛けて4回も救急に飛び込んでしまいました。
その一つです。

確か12月25日の日曜日の6時頃からいつもウォーキングへ大濠公園公園へ出かけたのですが、どうも左肩が可笑しいのです。

神経の痛みである事は間違いなさそうです。
数年前に50肩の痛みを約3年間くらい経験していますから、神経の痛みは専門家になっていたのでしょうね。

痛みは酷かったのですが、家族や社員にはそんなそぶりを見せるのは嫌なものです。

その痛みがおおよそ和らいだ頃の1月26日でした。

「先生、年末から帯状発疹に掛って大変でした」
普通でしたら、私は人にはこんな事は言わないのですが、やはり何かしら導きがあったのでしょう。

私の心の中に、昨年の春位からお仏壇にお線香を殆ど上げていない事が気掛かりでしたし、いいのかという不安はありました。
それも忙しさやそのほかの事でそうなってしまったのですが。

それが今年になって、思いが表面化してきたのです。
その事もあって、かの先生にそれとなく口を開いたのです。

今まで母のマンションの一室(私のマンションの下の部屋)に位牌も置いていましたのでそれを私どもの部屋に持ってくる決断をする機会にしたかったのです。

後押しが欲しかったのでしょう。

色んな症状を話した後の事です。
その先生が「左肩にはご先祖様の気持ちが映るようよ」

先生の口から、しかも西洋医療の先生からこんな言葉が飛び出すとは。
はっとしたんです。

やはりそうだったのかと。
数日後には、私どもの一室に持って参りました。

ご先祖様が私どもに具体的に何をして頂けるとかではありませんが、やはり「一番の心の拠り所」ですよね。

今まででも、不思議な経験をした私にしてみればお線香を手向けない行為自体があり得ない事だったのです。

やはりご先祖様は大切にしましょうね。
実は先ほどお墓にも行って参りました。
  


Posted by misterkei0918 at 12:44Comments(0)

2011年02月05日

自分の能力の限界が見えると有難い?

自分の能力の限界が見えると有難い?

自分の能力が無限などと思っている人は殆どいないかもしれません。

無限な能力など、誰も持ち合わせてはいませんし若しそんなことを真剣に思っている人がいるとしたら、とんでもない思い上がりか、自信過剰かもしれませんね。

或いは無知かも。

人間はあらゆる可能性は秘めている動物でしょうが、それは無限ではありません。

何処かで行き詰まりや限界が存在するものです。

また、私は自分の能力の限界が見えると面白いとも思ったのですが、人間の能力は有限であっても実は見えないから面白いんですよね。

限界が見えると、そこで努力を怠ってしまいますし諦めの境地に至ってしまいます。

人間はそこはかとない掴みどころのない側面や何処までやれるかわからない所が又、人間の所以でしょうから。

苦しみも「苦しみ抜く」という言葉があるように、その先には幸せが待っているとか、一筋の灯りが指して来る事を本能的に知っているような気がするのです。

悲しみも「悲しみ抜く」、ぞの暁には、解放されることを知っているんだと思うのです。

幸せの絶頂にいても「何かしら一抹の不安」を感じるものです。
それは、幸せがいつまで続くか誰にも分からないという事を知っている筈です。

それでも人間は、歩む、努力することを怠らないのです。

その先に、自分が望む境地や状態が待ち受けている事を分かっているかのようです。

人生が徒労に終わらない為に、仕組まれているような気がします。
  


Posted by misterkei0918 at 13:34Comments(0)

2011年02月05日

来るものを拒んでいませんか?

来るものを拒んでいませんか?

いつも思う事があります。

会社の受付に、突然の訪問があります。

営業活動の一環です。
あなたの会社の取引先ではありません。
お客様でもありません。
これからお客様になる方、見込み客でもないのです。

あなたならどうしますか。

突然の訪問ですから、長い会議中なら、仕方ありません、断りますよね。
長くなくても大事な会議でしたら中座も勿体ないですから。

もう、出かける時間が迫っています。会いますか、会いませんか。

昼休みです、社内での食事の最中です。
どうします?

電話の最中です。もう終わりそうです。
パソコンの入力作業中です。
資料作りや見積書の作成中です。


私の極めて個人的な意見としてお聞きくださいませ。

私なら、出ます。
しかも名刺を持って。

初めての人にお会いする機会はそうそうあるものではないですよね。

日常的に会議に出ていても、いつも同じ顔ぶれ。
ましてや買い物をするときなどに、親しげに話すのも出来ませんし、却って怪しまれてしまいます。

その点、訪ねてきてくれた方は何かを伝えようとしてお見えになります。
それも当社や私にターゲットを絞って。

情報は、時として大変な価値や意味をもたらしてくれます。

特に人が言葉や行動を持って伝える情報は、重みが違う事を知る事が大切なように思えます。

そこに意図があり、力が備わっており、練られていますし。

或いは、新しい人間関係が出来る事もありますし、ふとまわり回って人の繋がりを発見したりするものです。

「多くの人を知っていますね」と良く言われます。

多くの人を知る事が大切なのではなく、人から得られる情報や知識、或いは志だって感じる事が出来ると思うのです。

だから、仕事がうまくいくとか、注文が増えるとか、そんな単純は事ではないという事を知っておいた方がいいかもしれません。

打算で考えて行けません。

人間関係の構築はそんな事ではありませんから。

出来れば心を込めて応対したのですが。

時には、そこそこに応対を済ませてしまう事もありますが勿体ない事をしてしまったと後悔する事がないではありませんし、或いは、申し訳ない事をしたとお詫びを申し上げたい時も。
  


Posted by misterkei0918 at 12:08Comments(0)

2011年02月05日

あなたは自分が好き?

あなたは自分が好き?

「世の中で一番何が嫌いか」と問われれば、私は「自分」と答えるでしょう。

と言うのは、若い頃の話です。

今は、多分一番好きなのは自分かもしれませんね。

でも、時々は
「もう少し何とかならないか」とか、
「どうして、そんな事が人並みに出来ないの」とか、
「なぜ、そんなに頭が悪いのか」、


などなど、呟いてはいます。

色んな事象や事柄、難題に出会ったとき、
その全てが自分の力や知識、知恵、行動が人より勝るという事があり得ない、あるいは自分の力の大凡の限界を認識し始めた、万全、完全な解決方法は一つではないとか、自らを慰めたり、なだめたりするゆとりが出てきたのでしょうね。

若い頃のように、自分を全面否定したり、自分の傷跡を舐めるような事はしなくなりましたし、その事が決して生産的ではない事、前向きでない事を様々な経験を経る中で自然に体得をしたのでしょうね。

「人は年を重ねると丸くなる」と言いますが、どうも丸くなったというより自分をなだめすかしたり、達観出来たり、諦め等で自己抑制が感情を自然とコントロールしてくれているような気がします。

その証拠に、妙にこだわりが出たり、意地を張ったり、頑固であったりする事もあるものです。

根本的な所では変わってはいないのでしょうが、様々な経験や苦悩、葛藤を重ねるうちに極めて自然に学んでいるのでしょう。

逆に考えますと、安寧な日々や余生を送るためにはむしろ火の中に飛び込んだり、火中の栗を拾ったり、時には取り越し苦労の経験も大切なようです。

そして、そんな自分を好きになる事でしょうかね。
他人は「あなたが好き」等とは滅多に口にしてくれませんから、せめて自分からでも「好き」の一言を。

この体とともに、終生付き合っていく自分ですから、折角なら好きになって上げて時には褒めたり、なだめすかしたり、励ましたりする事が大事だと思われます。

せめて寝床につくときにでも、「良く頑張ったな」位の言葉は掛けてあげたいものです。
どうもそんなことを考えていましたら、明日が楽しいものになりそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 11:25Comments(0)

2011年02月04日

世界が混沌、混迷へと?

世界が混沌、混迷へと?

国内では、政治の混迷、混乱、相撲の八百長事件・・・・・
国外では、一番はエジプト問題でしょうね。

おそらく中東の国々は、自国へ及んで来ないかと戦々恐々ではないでしょうかね。

今までとは様相が異なった民主化運動を言っていいでしょう。

またたく間に広がるネット社会の恐ろしさがまざまざ表面化してきたと言っても過言ではないでしょう。

北朝鮮でも、携帯電話からの情報が国内へ入っているとの事です。
今頃、政府が遮断をしているに違いありません。

中国もネットには大変な神経を尖らせている国ですので、そのままには出来ないですし、広がったらスピードは加速度的に広がりますから大変な事態になってしまいます。

日本のように、政権与党がくるくるとめまぐるしく変わるのも困ったものですが、長期的に同じ政党、ましてや一人の人間が権力を握り、振りかざす時代ではありませんよね。

何処かで腐敗や、不満、行き詰まりが来るものです。

これだけ開かれた、グローバルな世界で自国の国民を閉鎖的にしかも抑圧できる筈がないのです。

情勢は刻一刻と変化します。

チュニジア、アルジェリア、エジプトの問題は、このままでは終わらないでしょう。

また、日本の国債の格下げがありましたがいまだにユーロ圏では燻り続けています。

何処かで爆発しないとも限りません。

そんなことを言っていますが、日本だって危ない橋を渡っている事には間違いありません。

混沌としてきました。
国内外とも、ますます混迷してきそうな気がします。

日本の政治だって何かきな臭い感じがしませんか。

経済界がしっかりしているからまだ良さそうなものですが。
  


Posted by misterkei0918 at 19:26Comments(0)

2011年02月03日

八百長と談合

八百長と談合

昔から大相撲では「八百長」が行われていると言われながら、真実が分からないままに今に至っているようですが、どうも今回ばかりは完全に証拠が把握された様ですね。

国技としての相撲がこんなことでは、相撲ファンだけでなくスポーツ、引いては様々な所でその影響は出てくるでしょうし悲しい事です。

これから相撲を見るときは、八百長ではないかと訝りながら観戦することになってしまいます。

まじめにしっかり相撲を取っている力士が可哀想ですね。

調べてみました。

『八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。
八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。

囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)ともいう。
対戦者の一方のみ敗退行為[1]をおこなう場合は「片八百長」と呼ばれることがある』


官公庁の受注では「談合」と言う言葉が良く飛び出します。

談合は、
『国や地方自治体の公共事業などの入札の際に,入札業者同士で事前に話し合って落札させたい業者を決め,その業者が落札できるように入札内容を調整すること』

どのように違うのでしょうかね。

八百長は負ける方を決める、
談合は落札者を決める。

八百長は勝負の世界、
談合は事業、商売の世界。

話し合いによって、結果を決めるのですから同じ?

いずれにしても、好まれる事ではありませんし、お金が動いたり、良心的な人の目を欺いたり、無駄に税金を蝕んだり、暴利を貪ったりするのですから反社会的の行為であることには間違いありません。

談合には、肯定する意見もあって、

若し談合がないとしたら、異常な価格競争に陥って結果的には品質やサービスの低下を招き、劣悪な結果を招く等も考えもありますが、結局は適正な価格で落札が出来ればいいわけですから、知恵を出し合って解決の方法はあるかもしれません。

また、談合の場合は裏での力学が働いて偏った落札になったり、新規参入が難しい事もありますからその付近が改善されないといけませんね。
  


Posted by misterkei0918 at 23:30Comments(0)

2011年02月03日

誰が福をもたらし、誰が鬼なのか?

誰が福をもたらし、誰が鬼なのか?

貧しい私の家庭では、滅多に節分の豆まきなど行われた事はありません。

隣近所から聞こえる「鬼は外、福は内」の家族の入り混じる声は、私にとっては悲しい寂しい思い出のひとこまにしか映りませんでした。

何が鬼で何が福なのかも、分かりませんでしたが父親を鬼に仕立てた子供たちが笑い興じながら、戯れる姿は、如何にも幸せの象徴に見えて指を咥えていたものです。

豆まきのために開け放たれて外へ向かう灯りは、どちらかと言うと「これ見よがし」で嫌なものでした。

明くる日は学校での友達の話題は、当然昨夜の豆まきです。

輪に入れず遠巻きに耳を傍(そば)立てる自分はいじけていたのかもしれませんね。

節分を調べてみました。


『節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い』


今は、家族は核家族化し、距離は離れ、親密さの度合いも薄れたような気がします。

高度経済成長がもたらした陰の部分かもしれませんね。

人口の都市集中、
競争の激化、
ネット社会の到来、
拝金主義の横行、
旺盛な物欲、
産業構造の劇的な変化、
物つくりよりもサービスの優先、
過度、過激すぎる嗜好、エンターテイメント、
思想信条の多様化、
履き違えた自由思想、


家庭内や企業内でも、誰が鬼で誰が福なのか、判別、区別のつかない時代になりました。

何を考え、何をしようと目論んでいるのか、掴めない時代です。
昔は、表情や言葉の端々で人間性や心の在り方が大凡理解できたものです。

以心伝心等の言葉も死語になりつつあります。

節分は一つの家族の共同作業です。
力を合わせて、家庭や社会を守ろうとする一つの機会に出来ればいいですね。
  


Posted by misterkei0918 at 11:38Comments(0)

2011年02月01日

戦いは終わらない

戦いは終わらない

平和そうに見えていたチュニジアやエジプト。
内情は混乱の火種が燻っていたのでしょうね。

人類の戦いの終息はどうしても果てしない歴史の彼方のあるのでしょうか。
どうも果てしないどころか、終わるところを知らないのではないでしょうか。

それが人類の社会なんでしょうね。

宗教や政治、領土問題、人種や領土拡張主義、資源の取り合い・・・・・

人間である以上、存在そのものが戦いの連続かもしれませんね。

私どもの日常でも、そうです。
戦いとは言わなくても、諍(いさか)いや混乱、葛藤はとどまることを知らないようです。

それを全く避ける手立てはないのかもしれませんが、
出来れば、心穏やかに保とうとする意識を常に持つ事のような気がします。

穏やかさを保つには、人との関わりを常に感謝し、様々な自然や事象に逃げずに正面から真摯に取り組む努力を続ける事のような気がします。

むき出しな競争心や、そんざいな態度や行動、不遜、高邁や思いや言動は敵を作る事はあっても相応しい人間関係の構築には繋がらないようです。

上手は世渡りは、自然とその人に備わってくるようですし、日頃からの精進の賜物なのでしょうね。

私などがそこに行きつくには、まだまだ時間が足りませんし生涯到達できるとも思えませんが、かといって努力を忘れたら、心の安寧はいつまで経っても取得できないような気がします。

問題や葛藤、戦いを上手に乗り越える能力も、人間の知恵でしょうからやはり経験を積み上げて行く以外になさそうですね。


『生きるとは、死と直面して戦うことである。そこに真の生きがいがある。岡本太郎』

『敵と戦う時間は短いものです。自分との戦いこそが明暗を分けるのです。王貞治』

『よく戦う者は、勝ちやすきに勝つ者なり。孫子』

『艱難は真理に向かう第一歩である。
戦争であれ、嵐であれ、女の怒りであれ、艱難を見事に耐え抜いた者は、たとえ18才であろうと80才になっていようと、非常に貴重な体験をしたことになる。バイロン』
  


Posted by misterkei0918 at 12:08Comments(0)

2011年02月01日

働いた手は美しい

働いた手は美しい

昨日、テレビを観ていましたら老人の手がクローズアップされています。

手の甲も汚れていますが、爪の中まで油でまみれています。
手の皺の中まで、入り込んでいて年季を感じますし、労働の過酷さや厳しさを感じます。

でも、嬉しいです。
何も臆することなく、人前に出された手。

私であれば、多分人前に出すことを嫌がるでしょうし、ましてやテレビ撮影事態を嫌がるでしょうね。

労働をしていると、当然油まみれ、泥まみれが当たり前ですし、手足が汚れても仕方ありません。

ましてやそんなことを嫌がっていては、世の中の働く場所、環境に偏りができ、国民の生活を維持する事さえ出来なくなるものです。

労働の尊さをみんなで噛みしめなくてはいけませんね。

昔は「職業に貴賎はない」と言ったものです。

現代は歪な社会ですから、社会悪的な仕事も多く存在しますし、明らかに人を騙し欺く仕事や人間が存在します。

昔のように「職業に貴賎はない」などとも言えない時代になりましたが、大方の仕事や職業は貴賎がなくそれぞれに貴重なものであると思っています。

特に永い年月を掛けて、労働にまみれた手足や体、節くれだった手指、黒光りの顔・・・・・

それに尊敬すべきは、春夏秋冬、猛暑、厳寒に鍛え抜かれた強靭な体と心意気でしょうね。

綺麗に磨かれた建物や汚れを知らない職場環境で育った人々は、そういう多くの方々の存在に感謝をすべきであって、実は我々の生活の根幹を支えて頂いているという認識を持たねばいけませんよね。

世の中、知識集約型の産業が余りにももてはやされた結果が今の混迷です。

お天道様の下で、雨風に打たれ、季節を読みながら、自然の懐で労働する事の貴さを忘れてしまっています。

そうでした。
そのような方々の存在を日頃から感じないといけません。
大いなる反省です。
  


Posted by misterkei0918 at 11:18Comments(0)

2011年01月31日

一球入魂、そして一言入魂

一球入魂、そして一言入魂

命を掛けるほどに、魂の限りを打ち込む人は人並み外れた能力を備えるものです。

野球のイチローがそうです。
彼は極度の緊張に囲まれながらも、目的達成のために命の限り、やれる事の全てを人並み以上に努力をしていると言います。

その事を自慢げに言う事は決してありません。
しかも、そんな姿など人の目に晒すことなどないのです。
私どもがマスコミで垣間見るイチローは、只の一般選手を演じているに過ぎないのです。

人知れず、目に触れることなく、時間を惜しんで自らを奮い立たせているのです。

ノーベル賞を貰った方々が、寝る時間を惜しんでまで研究に没頭し、365日研究の現場から離れる事はないと言います。
例え体は違う場所にあっても、神経の大半は研究の場に残っているものです。

中には「偶然の産物ですよ」などと、自らを揶揄中傷する人もいますが決してそんな事はないのです。
そのように言わせるほどに真剣さが鋭くなるものです。

際立った人でなくても、物事を上手に成就させる人は人知れず、目に触れることなく、あくせくとおしみなくあらゆるものに挑戦的で勤しんでいるものです。

魂を傾ける。
一意専心とも言います。
一心不乱とも。

どうも物事に魂を傾ける人は、心も一途であり、比較的無垢で、人として尊敬すべき心をお持ちのようにも見えます。

そして、一言入魂。
言葉は「ことのは」。

そして、口をついて出る刃(やいば)です。
人の心をまで、切り開き、砕き、狂わせる力を持っています。
一言が人生を断ち切り、路頭に迷わせることだってしばしばです。

言葉は、出す前に一度は自分の胸に戻して反響させ、響きを確かめてから相手に捧げる物のようです。

魂を込めた言葉は、美しい響きを伴って相手の心に共鳴を呼ぶもの。

目が心の窓であるように、
言葉は、お互いの心を響かせる寄せては返す波長のようなものかも。

私自身も多くの方々に、言葉による暴力も幾多と奮って来たような気がしないでもありません。

ここいらで、魂を入れ替えて「一言入魂」の思いを改めて問い返す必要がありそうです。


『あらあらしい毒づいた言葉は、根拠の弱いものであることが多い。ビクトルユーゴー』

『最も大切なことはこころのもち方よりも、言葉の使い方です。山崎房一』

『桶の水より、親切な言葉をかけるほうが、火はよく消える。セルバンテス』

『優しい言葉一つで冬中暖かい。ことわざ』

『言葉に打たれぬ者は、杖で打っても効き目がない。ギリシアのことわざ』
  


Posted by misterkei0918 at 23:13Comments(0)

2011年01月31日

世界は果たして大丈夫?

世界は果たして大丈夫?

中東の国々で何かしら、見過ごせない事態が進展しています。
私どもにとっては、まさかの事態です。

チュニジアで始まった政府への抗議活動は、アルジェリア、そしてエジプトと。

どうも政府に不満を持つ人々のネット上の動きが、「民主化を求める」というリアルな暴動へと発展したようですが、何処の国にとっては見過ごせない、神経を尖らす問題です。

ピラミッドやスフィンクスのイメージで観光立国に見えたエジプトがまさかこんな事態になろうとは想像もできませんでした。

明らかに現政権の転覆を謀ったもので、これに宗教的な過激な集団が加わったら、収集のつかない事態を招きそうです。

多分、ネットをある意味封鎖したり、閲覧を禁止したり、削除している中国などにとっては神経を逆なでする事態ではないでしょうか。

世界は果たして大丈夫なのでしょうか。

新興国はバブルが進行していると聞きますし、日本の国債は格下げになるし。

軍事力を恐ろしい程に増強している国、
核開発を公然と豪語する国、

明らかな他国の領土に足を踏み込もうとする国、
自国の資源を、脅しに使う国、

国民の貧困をひた隠しにする国、
自国の貿易の利益優先だけを考えている国、

人権に配慮が足らない国、
破たん寸前の国を抱えるユーロ圏、


どうも世界や世の中はあらぬ方向に進んでいるような気がしてたまらないのです。

ネット全盛、万能の社会もいつか破たんがきそうな気がするのです。

インターネットやクラウドの世界が、いつまで維持できるか、或いは自然現象や大きな環境の瞬時の変化で全てが機能しなくなったり、壊滅的な破壊を受けたりするような事態はないのでしょうか。

或いは、そんなことを意図的に目論んで行動を起こそうと考えている人間がいないとは言えません。

便利さとは裏腹に、何処かに潜んでいる悪魔がいるような気がします。

そうでない事を祈るばかりですが。
  


Posted by misterkei0918 at 18:17Comments(0)

2011年01月31日

学習意欲は旺盛でも、時間がね

学習意欲は旺盛でも、時間がね

最近、学ぶ事の楽しさを知ってしまいました。
人から教えて頂くことに若干の抵抗があったりもするものです。

「そんな事教えて頂かなくても分かっている!!」
「時間を割くほどの事ではない!!」
「自分の方が分かっている!!」


などなど。

所が人は色んな知識を持っているものです。
或いは私どもの知らない知識を持っている人がいるものです。

また、知っておいた方がいいと思われる事はどうも山ほど存在することに気づいてしまいました。

人から、知らない知識を教えて頂く事の心地良さと言うか、
自らが素直な気持ちで対処する事が大事な事も知ってしまいました。

知り得た知識は、自慢するものでもなく、ひけらかすものでもなく、ただ自分の胸の内に大事にしまっておく事が大事ですよね。

一旦緩急あった時や、人間関係の潤滑材として役立ちそうな時や必要な時に、必要なだけ捻り出す程度で良さそうです。

これ見よがしは鼻について嫌なもの。

所が、知識の習得の思いや学習意欲は盛んになっても問題は時間なんです。

従来の行事や会議は、そのままでその上に余分に載せる訳ですから大変です。

時間を効率よく使う工夫を編み出すか、新しい時間を作るか、従来の時間を削減するか。

新しい時間を作りだす以外にありませんから、当然長時間労働ではありませんが、早朝から動き出すか、夜半まで頑張るか。

新しい知識が頂けるなら、その程度の苦労は厭わない気持ちが働かないといけません。

そんな思いが先走らないと、新しい時間の創造や知識の習得は難しいかもしれませんね。

特に、私のような馬齢を重ねた人間には。

また、不思議なもので漠然と学ぶよりは多忙な中から捻出時間を割いて学んだ方が知識がより実践的で有用なものとなるようにも思えます。

遅きに失したような気がしないでもないけど、今日も何か学ばないとね。


『我々は学校のためにではなく人生のために学習すべきである。セネカ』


『僕が冒険を好むのは事実だけど、冒険をやる前の学習が一番魅力的なんだ。リチャードブランソン』
  


Posted by misterkei0918 at 16:12Comments(0)

2011年01月31日

人には鏡が必要、特に歴史的な鏡が!!

人には鏡が必要、特に歴史的な鏡が!!

いつかぜひ機会を作ってお話を聞きたい方がおられたのですが、29日にやっと実現いたしました。

やはり期待以上のお話で感激を致しました。

現役の高等学校の先生で歴史を教えておられる方です。

そのように申し上げたら、或いは福岡の方でしたらご存じの方が多いかもしれませんね。

話が、歴史にまつわる事ではありますが、
歴史を紐とく事の大切さや学ぶ事の重要性を教えて下さいました。

よく「経験から学ぶな。歴史から学べ」とは言われるものです。

経験から学ぶものがないという訳ではなく、歴史からはより多くのものをより深く、真実に近い形で学べるといういうことではないでしょうか。

歴史は長い年月の中で、大切な部分だけがエキスのように残されたものであり、或いは中にはより重要さや大切さを強調する意味で付加された部分や言葉がちりばめられているものです。

私どもの経験は、まだ生々しさが残っており、洗練されているものでもありませんし、より綺麗に美化されている部分が如何にも真実ものように残っているものです。

また、自分の都合にいいように、修飾されたりもするものです。

私どもは、
特に「私は」と言い変えた方がいいかもしれませんが、歴史を勉強する事の大切さや必要性を意識していませんでしたので、殆ど知識がなかったというのが正直なところです。

今頃になって慌てて勉強しても頭に残る事は少ないでしょうが、歴史を鏡にして精進する事は出来そうです。

特に歴史に残る偉人。
足元にも及びませんが、学ぶところは山のように存在するようですね。
  


Posted by misterkei0918 at 14:59Comments(0)

2011年01月28日

今年の一字は?「激」

今年の一字は?「激」

昨夜は、気の置けない仲間たちとの心休まるひと時を過ごしました。

いいものです。
遠慮がなくて、それでいて少しは言いたい事が言えて。

胸襟を開くという言葉がありますが、それは昨夜のような集まりにそれこそ無理をすることなく、自発的に足を運んでくれる友人たちに対する態度がそうですよね。

心を開くという事は、自らが開こうとする思いと、誘い水のように自然発生的に開かそうとする、或いは開くことを自然に誘う相手の気持ちが合致しないといけません。

一方的な思いは、時によっては耳障りですし、迷惑だったりするものです。

お互いの思いが、共鳴する事が必要なようです。

気の置けない仲間と、心置きなく交わせる会話には通い合うリズムが生じるものです。

有難いことです。

場を一層盛り上げたいとする進行役の方の思いつきで、
「渡した一枚の紙に出来るだけ大きく、今年の自分の一字を!!」

日本漢字検定協会が毎年、清水寺で発表する「今年の漢字」に習ったものですが素晴らしい発想です。

あれは確か、清水寺の管主様が揮毫をされているんです。

私の周りでは、「成」「愛」「信」「起」「誠」・・・・・

当の私は「激」

昨年は公私とも激しい一年でした。
自分では少しもそんな感覚はありませんでしたが、やはり体は疲れていたんですね。

疲れたとか、忙しいとか、痛いとか、負けたとか口に出すのが嫌なんです。
気が勝っているとでも言うのでしょうね。

でも決して人と競う事はしません。
しかも表面切って。

お陰で、11月、12月の2カ月で日赤の救急に4回も飛び込んでしまいました。

お医者さんからは「少しは体を休めなさい」
「今度、病院に来たら入院だよ」って言われてしまいました。

だけど、昨年がそうだったからと言って気を緩めたくはないのです。

出来れば「激しく、激しく」行きたいとも思っています。
体が一時的にそうあったからと言って、気持ちまで萎えてしまうのが許せないのです。

実は激しい動きの中で、確かな成果や実績、私自身の成長が目に見えたような気がいたしました。

出来れば、あと少し成長する自分の姿を目の当たりにしたいものです。

そのためにも今年も出来れば「激」

激しくても苦痛ではありませんし、むしろ躍動的で充実している姿が好きなんです。
  


Posted by misterkei0918 at 19:06Comments(0)

2011年01月27日

リーダーはどんな資質を持てばいいの?

リーダーはどんな資質を持てばいいの?

組織の中の人でなくても、リーダーとしての役割を果たす時があったり、望まなくてもリーダー的能力を要求されたり、能力や存在を要求されるときは多いものです。

組織人であれば、避けては通れない道です。

組織でなくても、家庭でもそうですよね。
父親として、母親として、或いは兄弟の長としてリーダーでなくてはいけない、あるいはその手腕を求められるものです。

ではリーダーシップは何?と問われると答えに窮しますが、ただ実行力があるとか、勇気があるとか、知識が豊富だとかだけでは、リーダーシップを発揮する、若しくは人を惹き付ける事は難しいものです。

ましてや、継続となると。

そこで教えて頂きました。
大同生命創業100周年記念のビデオ講座・中国文学者、守屋洋先生「中国古典に学ぶリーダーの条件」の中から。

******************************

リーダーの徳・・・リーダーとして備えるべき資質
謙・寛・仁・信・勤・義
徳者事業之基(徳は事業の基なり)という言葉がある。徳の主な要素として

◆1、謙・・・謙虚、腰が低い、人を見下さない、偉ぶらない。
逆に傲慢な人は勢いのある時はいいが○周りの反発を買いやすい○お山の大将になって自分の進歩を止めてしまう。
力のある人、上り調子のときほど謙虚に。
謙虚が過ぎると卑屈となる。
謙虚でありながら毅然とした態度も必要。

◆2、寛・・・寛容、寛大、人間としての大きさ。
「自分に厳しく、他人には寛容」

◆3、仁・・・思いやりの心、心の暖かさ。部下への配慮。
商談の断り方にも納得をさせ、恨みつらみを買わない配慮。

◆4、信・・・うそをつかない、約束は必ず守る。信は人間の願望である。
人を見る目を養う。信は上に立つものの統率力に関わる。
綸言」如汗(りんげんあせのごとし)トップの発言は汗の様な物、一旦外に出ると訂正は利かない。
普段は慎重に大事なときは筋道をたてて話せるようにする。

◆5、勤・・・勤勉、部下のやる気を引き出す。自分が頑張るのは当たり前。

◆6、義・・・元々は正しいの意、人間として当然守らねばならない道。
見利思義(利を見ては義を思う)利益を求めても人の道を踏み外さないようにする。
失った信用の回復は難しい。
義だけはいくら持ちすぎても過ぎることはない。

◆最後に「胆大心小」たんだいしんしょう
肝っ玉は大きく心は小さく、大胆にかつ慎重に。
日常業務は慎重に。

******************************


難しそうに感じますが、日頃から念頭に置いて精進を重ねる事なんでしょうね。
不可能、あり得ない、無理・・・などと言っているうちは徳など備わらないのでしょう。

今日もそんな思いを抱きながら。
  


Posted by misterkei0918 at 12:45Comments(0)

2011年01月26日

「むきだしだが不快でない好奇心」・・・江戸の日本人

「むきだしだが不快でない好奇心」・・・江戸の日本人

先日、ブログで「好奇心の功罪」を書いたばかりだったのですが、再び好奇心について書きたくなりました。

というのも、ある方の勧めで「逝きし世の面影」という本に出会い、その中に極めて興味深い事が記載されていたものですから、再び触れてみる事にしました。

好奇心という言葉は、奇異なものを好きになる、興味を傾ける、日常でないものに触れたいという思い・・・などと私自身は解釈をするのですがどうも日本人の独特な好奇心を、江戸末期に訪れた外国人の目でみて記載している部分をその本の中に発見しました。

この本の著者は、渡辺京二さん。
初版が2005年9月9日。

江戸幕府末期に多くの外国人が、日本を訪れましたがこの方々がつぶさに見た日本や日本人の姿を細かく記載している本です。

この本を手にすることで、日本人としての思いを改めて思い浮かべるとともに古き日本の素晴らしさを再認識させてくれます。

その中で、日本人の好奇心について記載している部分です。

1860年代の初めに来日し、15年にもわたって日本に在住したブラック(John Reddie Black)が、


『彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思は、われわれを気持ち良くした。

一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。
さらに、通りがかりに休もうとする外国人は殆んど例外なく歓待され、「おはよう」と気持ちの良い挨拶を受けた。

この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった』


このように日本人を評しています。

海軍将校・商人・ジャーナリストであるブラックは、羽をついて顔に墨を塗り合っている日本の大人たちを、

『そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。
笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。

彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人たちは、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見ても嬉しがる』

私どもは、幕末と言うとさぞかし江戸時代が人々にとって住みにくい時代であったろうと創造しますし、理解していますが、当時来日していた外国人が口を揃えて、日本人、日本文化の称賛をしている事を学ばないといけないようです。

その目で、明治維新を眺めてみるとまた新しい視点が生まれそうです。

機会がありましたら、この本を手にしてくださいませ。
  


Posted by misterkei0918 at 18:03Comments(0)

2011年01月26日

感激が多いほどいい死に方をする?

感激が多いほどいい死に方をする?

今朝は7時から経営者団体の勉強会でした。

経営者団体の勉強会だから、経営に関わる事の勉強と思われるかもしれませんが、実はそうではなく、歴史とか偉人とか、精神性とか、文化とか。

引いては経営に繋がっていくのですが。

その中で「感激が多いほどいい死に方をする」という言葉が耳に残りました。

決してそれだけではないのですが、際立って頭に残ったと言った方がいいかもしれませんね。

この世から離れるときは、

出来れば苦しむことなく、
出来れば家族や周りに心を残すことなく、
悲しませることなく、
後々、問題を残すことなく、
災いや恨み辛みを消し去って、
見事にこの世に精算をして・・・・・

そうありたいものです。

所がそうはいきませんよね。

未練を残し、
悲しみや苦しみを残し、
或いは問題まで残しているやもしれません。

出来る事なら、折角残すなら、役に立つ多くの財産でも残せるといいのですが。

そうです、
感激が多い程、いい死に方をするらしいです。

自分自身も多くの数え切れないほどの感激の場面を経験したいものですが、

出来れば、多くの方々に多くの感激を与えられる人生が送れると最高ですね。

それもいい意味での感激を。

感激、感動は「激しく心が動く」事ですから、中途半端ではいけませんよね。

いつまでも心に残って、しかも十分な刺激になって、相手を行動にかき立てる位の。

今日もそんな思いを胸に秘めて!!
  


Posted by misterkei0918 at 11:52Comments(0)