2010年07月27日
お世話になったあの方へ・・・恩返しの話
お世話になったあの方へ・・・恩返しの話
お中元の時期です。
「お世話になったあの方へ」の言葉を思い出しました。
お世話にも様々。
植村花菜「トイレの神様」という歌を拝聴しました。
今時の歌は私にとっては、オーバーな言い方を許してもらえるなら雑音にも近いものです。
確かテレビだったと思います。
端麗な美しい方でした。
しかも情の深そうな。
彼女を育ててくれたおばあさんの事を唄った歌です。
旅立たれたあばあさんへの恩返しの出来なかった自責の念を歌っている歌詞です。
著作権が絡んでいますから、ここに掲載は出来ませんが。
一度お聞きくださいませ、きっと感動されます。
そうですね。
恩返しをしなくてはいけない方、恩返しを忘れてしまった人・・・・・
人の人生は他人に寄り添って、しかも支えられて全うできるものです。
実は支えているつもりが、相手に支えられている事を気付かずにいるものです。
私も多くの方々の恩を頂き、支えていただいた人生です。
恩返しを怠っている事の多さは周囲の方々よりも多分ピカいちかもしれません。
恩は返してもらおうと思ってするものでもありませんし、それを期待することは打算であって、決して関心のできることではありません。
仏教的なことで言えば、恩を与える事は徳を積むための施しであって決して報いを求めるものではないのではないでしょうか。
仏教を詳しい私でもありませんから、間違っていたらお許し下さい。
私どもが日常的に使う「無償の愛」などがそれに当たるのではないでしょうか。
無償の愛を受けるものにとっては、それが「恩」と言う事でしょう。
物の貸し借りやお金の貸借には、比較的シビアな人間でも、恩愛、恩情を返す事には比較的頓着が無いものです。
特に私は。
『一般にわれわれは、人の怒りを買おうとしてよりも、人に恩を売ろうとして、いっそう多くの罪を犯すのである。タキトゥス』
『あまりにも性急に恩返しをしようとするのは、一種の忘恩行為だ。ラロシュフコー』
『恩人は善行を隠し、恩恵を受けた者がそれを外に示さなければならぬ。ギリシア、キロン。前6世紀』
『人に施したる利益を記憶するなかれ、人より受けたる恩恵は忘るるなかれ。バイロン』
お中元の時期です。
「お世話になったあの方へ」の言葉を思い出しました。
お世話にも様々。
植村花菜「トイレの神様」という歌を拝聴しました。
今時の歌は私にとっては、オーバーな言い方を許してもらえるなら雑音にも近いものです。
確かテレビだったと思います。
端麗な美しい方でした。
しかも情の深そうな。
彼女を育ててくれたおばあさんの事を唄った歌です。
旅立たれたあばあさんへの恩返しの出来なかった自責の念を歌っている歌詞です。
著作権が絡んでいますから、ここに掲載は出来ませんが。
一度お聞きくださいませ、きっと感動されます。
そうですね。
恩返しをしなくてはいけない方、恩返しを忘れてしまった人・・・・・
人の人生は他人に寄り添って、しかも支えられて全うできるものです。
実は支えているつもりが、相手に支えられている事を気付かずにいるものです。
私も多くの方々の恩を頂き、支えていただいた人生です。
恩返しを怠っている事の多さは周囲の方々よりも多分ピカいちかもしれません。
恩は返してもらおうと思ってするものでもありませんし、それを期待することは打算であって、決して関心のできることではありません。
仏教的なことで言えば、恩を与える事は徳を積むための施しであって決して報いを求めるものではないのではないでしょうか。
仏教を詳しい私でもありませんから、間違っていたらお許し下さい。
私どもが日常的に使う「無償の愛」などがそれに当たるのではないでしょうか。
無償の愛を受けるものにとっては、それが「恩」と言う事でしょう。
物の貸し借りやお金の貸借には、比較的シビアな人間でも、恩愛、恩情を返す事には比較的頓着が無いものです。
特に私は。
『一般にわれわれは、人の怒りを買おうとしてよりも、人に恩を売ろうとして、いっそう多くの罪を犯すのである。タキトゥス』
『あまりにも性急に恩返しをしようとするのは、一種の忘恩行為だ。ラロシュフコー』
『恩人は善行を隠し、恩恵を受けた者がそれを外に示さなければならぬ。ギリシア、キロン。前6世紀』
『人に施したる利益を記憶するなかれ、人より受けたる恩恵は忘るるなかれ。バイロン』
Posted by misterkei0918 at
14:32
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2010年07月27日
人はそれぞれに感動的な人生を送っている
人はそれぞれに感動的な人生を送っている
際立った経験や顕著な業績、異質な過去を持つ人、
極まった行動や
歴史的、文化的、文明的な功績を残した人の人生は私どもに多くの感動を与え、強烈なインパクトをもたらします。
世の中はそのような方々の行き方や残してくれたもので進歩をし、人々の心もより高まっていくものです。
でも、多くの人々はそのような感動的な人生を送っていないのでしょうか。
そうではないですよね。
あなた自身が、既に「私だって感動的な人生だ」って叫びたくなるものです。
色んなところでいろんな方にお会いします。
歴史を作る、あるいは文明を発展させるのにはそんなに貢献はしていないけど、そんな人々に遜色が無いほど感動的な人生をそれぞれが歩んでいるものです。
多くの人々は自らの人生を誇らしげに多くを語りませんし、
その必要性も感じない人生を送っているものです。
秀でた人々は、秀でる理由そのものは、際立った事なのでしょうが私どもと比較してそんなに感動的でないのかもしれません。
ただそんな方々は、周りが物語を作ってくれますし、自然発生的に或いは意識的、策動的に如何にも感動的な人生で在るかのごとき劇場、演出をしてくれるのが一般的です。
本当は、名も無い、日陰的な存在の人々、社会の片隅でひそやかに暮らしている人々の中にこそ、真の感動的な人生の持ち主がいるものです。
ですから、自信を持って「私自身が既に感動的なんだ」と思う事が大事なのではないでしょうか。
普通の方々の感動は人の心を討ち震わせ、勇気と共有する事の喜び、素晴らしさを与えてくれます。
感動の和を広げるには、自らが持ち合わせている悲喜こもごもの経験を胸襟を開いて語り合うことが大切なようです。
『一生悟れなくてもいいから感動いっぱい、感激いっぱいのいのちを生きたいと思います。相田みつを「生きていてよかった」(ダイヤモンド社)より』
『他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。ミレー(フランスの画家)』
際立った経験や顕著な業績、異質な過去を持つ人、
極まった行動や
歴史的、文化的、文明的な功績を残した人の人生は私どもに多くの感動を与え、強烈なインパクトをもたらします。
世の中はそのような方々の行き方や残してくれたもので進歩をし、人々の心もより高まっていくものです。
でも、多くの人々はそのような感動的な人生を送っていないのでしょうか。
そうではないですよね。
あなた自身が、既に「私だって感動的な人生だ」って叫びたくなるものです。
色んなところでいろんな方にお会いします。
歴史を作る、あるいは文明を発展させるのにはそんなに貢献はしていないけど、そんな人々に遜色が無いほど感動的な人生をそれぞれが歩んでいるものです。
多くの人々は自らの人生を誇らしげに多くを語りませんし、
その必要性も感じない人生を送っているものです。
秀でた人々は、秀でる理由そのものは、際立った事なのでしょうが私どもと比較してそんなに感動的でないのかもしれません。
ただそんな方々は、周りが物語を作ってくれますし、自然発生的に或いは意識的、策動的に如何にも感動的な人生で在るかのごとき劇場、演出をしてくれるのが一般的です。
本当は、名も無い、日陰的な存在の人々、社会の片隅でひそやかに暮らしている人々の中にこそ、真の感動的な人生の持ち主がいるものです。
ですから、自信を持って「私自身が既に感動的なんだ」と思う事が大事なのではないでしょうか。
普通の方々の感動は人の心を討ち震わせ、勇気と共有する事の喜び、素晴らしさを与えてくれます。
感動の和を広げるには、自らが持ち合わせている悲喜こもごもの経験を胸襟を開いて語り合うことが大切なようです。
『一生悟れなくてもいいから感動いっぱい、感激いっぱいのいのちを生きたいと思います。相田みつを「生きていてよかった」(ダイヤモンド社)より』
『他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。ミレー(フランスの画家)』
Posted by misterkei0918 at
13:07
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2010年07月27日
少しは冒険をしないとね
少しは冒険をしないとね
無難な人生は、勇敢に生きようとする若者には怠惰なもので自らの人生のあり方にいつも疑問や自己批判の何ものでも無いような気がします。
人生を勇敢に生きるのか、
「何とかなる」と高(たか)をくくって生きるのか、
「どうでもいい」と投げやりになるのか、
「誰かがどうにかしてくれる」と他人依存で過ごすのか・・・・・
それぞれの生き方ですが、どうせ同じ人生を生きるなら少しは冒険をして見ませんか。
人は自己過信が過ぎるところが欠点です。
能力も人並みにも係わらず、他人が見る以上に過大な評価を下し、後に嘆きの日々を過ごしたりするものです。
自らの能力評価は少し低めにして、その分努力に重きを置く位が良さそうです。
その為には常に謙虚、しかも人前に出しゃばらず、一歩下がって物事に対処する癖が必要と思われます。
過ぎて引っ込み思案でも、どうかと思いますが要は内心、秘めた強さを持ちながら、信じる道を人並み以上の努力が出来る人。
それにプラスして、少しの冒険を出来る人。
そんな人に限って、信頼も厚く、周りの方々が協力を惜しまず、応援をしてくれます。
それが一番ですよね。
黙々、コツコツ。
少しの冒険は、自らが求め、自らにとって未知の世界への出で立ちです。
そこに少しの危険も伴い、不安も付き纏うものです。
でも、それは普段からの備えによって十分に克服できるものであって、産みの苦しみであって、明るい自分の世界を切り開くための胎動なのです。
人生を無難に、無難に遣り過ごそうとする思いは、行動する事を忘れさせ、人との繋がりをないがしろにし、むしろ後退させるものといっても過言ではないでしょう。
折角のこの世を生きるなら、少しの冒険に勇気を出してみて必ず見えてくる明るい展望に触れてみようではありませんか。
多くがそうですが、危惧は結局、取り越し苦労だったり、後悔の源泉だったりもします。
「そうはいっても」と躊躇するのは良く分かります。
だって私がそうでしたから。
最初の少しの冒険は、やがてその膨らみを見せ、他人から見たら「とんでもない冒険」に発展したりするものです。
何事も積み重ねですよね。
最初は極めて小さな、しかも取るに足らない冒険だったのにいつの間にか自分でも驚くような冒険だったり。
まさか自分に一軒家が作れると思ってもいなかったのに、
まさかあの彼女が自分の結婚相手になるなんて・・・・・
こんな事も、結局は身近な小さな、少しの冒険が発端だったのではないでしょうか。
『危険を冒すことなく、成し遂げられるものは何もない。リイドバーグ』
無難な人生は、勇敢に生きようとする若者には怠惰なもので自らの人生のあり方にいつも疑問や自己批判の何ものでも無いような気がします。
人生を勇敢に生きるのか、
「何とかなる」と高(たか)をくくって生きるのか、
「どうでもいい」と投げやりになるのか、
「誰かがどうにかしてくれる」と他人依存で過ごすのか・・・・・
それぞれの生き方ですが、どうせ同じ人生を生きるなら少しは冒険をして見ませんか。
人は自己過信が過ぎるところが欠点です。
能力も人並みにも係わらず、他人が見る以上に過大な評価を下し、後に嘆きの日々を過ごしたりするものです。
自らの能力評価は少し低めにして、その分努力に重きを置く位が良さそうです。
その為には常に謙虚、しかも人前に出しゃばらず、一歩下がって物事に対処する癖が必要と思われます。
過ぎて引っ込み思案でも、どうかと思いますが要は内心、秘めた強さを持ちながら、信じる道を人並み以上の努力が出来る人。
それにプラスして、少しの冒険を出来る人。
そんな人に限って、信頼も厚く、周りの方々が協力を惜しまず、応援をしてくれます。
それが一番ですよね。
黙々、コツコツ。
少しの冒険は、自らが求め、自らにとって未知の世界への出で立ちです。
そこに少しの危険も伴い、不安も付き纏うものです。
でも、それは普段からの備えによって十分に克服できるものであって、産みの苦しみであって、明るい自分の世界を切り開くための胎動なのです。
人生を無難に、無難に遣り過ごそうとする思いは、行動する事を忘れさせ、人との繋がりをないがしろにし、むしろ後退させるものといっても過言ではないでしょう。
折角のこの世を生きるなら、少しの冒険に勇気を出してみて必ず見えてくる明るい展望に触れてみようではありませんか。
多くがそうですが、危惧は結局、取り越し苦労だったり、後悔の源泉だったりもします。
「そうはいっても」と躊躇するのは良く分かります。
だって私がそうでしたから。
最初の少しの冒険は、やがてその膨らみを見せ、他人から見たら「とんでもない冒険」に発展したりするものです。
何事も積み重ねですよね。
最初は極めて小さな、しかも取るに足らない冒険だったのにいつの間にか自分でも驚くような冒険だったり。
まさか自分に一軒家が作れると思ってもいなかったのに、
まさかあの彼女が自分の結婚相手になるなんて・・・・・
こんな事も、結局は身近な小さな、少しの冒険が発端だったのではないでしょうか。
『危険を冒すことなく、成し遂げられるものは何もない。リイドバーグ』
Posted by misterkei0918 at
09:52
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