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2011年04月02日

幸福を感じるのにもコツがいる

幸福を感じるのにもコツがいる

「幸せは何処から来るのだろう」や、
「なぜ幸せが人間には必要なのか」、
「どうしたら幸せになれるのか」、
「幸せは永く留まってくれるにはどうしたらいいのか」
「若しかしたら幸せになるコツがあるのではないか」



幸せに関わる様々な疑問は尽きる事がありません。

それだけ、人々が幸せを望んでいる証拠ですし、人間には幸せの存在が極めて大きいものだと言う事が理解できます。

「あなたは今が幸せな時ですか」と聞かれても、自分本来の幸せは別の所に在りそうな気もしますし、今ではなくて今以上の幸せが他に在りそうな気もしますし、人が幸せを感じる気持ちは複雑で求めは留まる所がありません。

それだからこそ、幸せを求める想いは際限がないように出来ているのでしょうね。

十分な幸せが眼前に在るにも関わらず、それを幸せと感じない人もいますし、極めて些細な事にも大きな幸せを感じる人もいます。

幸せを感じるにもコツがあるような気がします。
幼い頃から、そんな感性を備えている人もいますし、後天的に学ぶ人もいるものです。

いずれにしても、幸せは感じないことには幸せになりませんし受け散る心によって大きくもなり小さいものでもあり、或いは幸せと感じない、逆につまらない怠惰なものとしか映らない人もいるものです。

幸せはこんなものとする定義は、その人それぞれですから出来ませんが大よそ人はどんなことに幸せを感じるかは想像できます。

個人的に考えるには、人はこんなことには幸せを感じるものだと言う事を数多く認知する事が大切な事のように思えます。

認知し、自分がそのような状況に置かれた時には素直に幸せを感じるコツを掴む。

幸せである筈なのに、感じない、認知できない、悲しい事です。
小さな幸せでも、つかの間でも、子供のように振る舞いたいものです。

どうも訓練が必要な気ががします。
家族や友人、周囲とわだかまりなく接する、屈託ない言動を繰り返す・・・・・

他人のちょっとした喜びを自分のものとして感じる事が出来るなどなど・・・


『幸福を感じるのには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である。武者小路実篤』


『幸福とは、旅の目的地のことではなく、旅のしかたのことである。ランベック』
  


Posted by misterkei0918 at 14:08Comments(0)

2011年04月02日

あなたの父は何を遺してくれましたか

あなたの父は何を遺してくれましたか

今朝のある方のメルマガが「父が遺したもの」でした。
はっとしたんです。

私は今まで父の事をどれだけ語ったのかと。

父との大恋愛の末、戦争の犠牲となって結婚できない体になった母親は身ごもった私を抱えて途方に暮れる日々だった筈です。

父方の祖父母から「内の長男には結婚する相手がいる」、
「そんな体の人とは結婚させられない」

そこから私の母の苦難の日々が始まりました。
私自身も翻弄され、境涯の儚さに悔やむ青春を過ごすことに。

でも、決して恨んではいません。
それは母とて同じ。

だって、人生は自らが作ったものであり、導いたものであるからです。

先ほど、筈とした理由は、92歳になった母の口からその事について聞く事が殆どなかったからです。

語りたくなかったのか、私に知って欲しくなかったのか、あるいは恥ずかしいとか思い出したくない、今更と言う思いが交錯したのか。

でも、いつかはしっかり母の口から聞く事も必要かもしれませんね。
私の為にも。
その時間も今となっては少なくなってしまいました。

父の遺したもの。

私の体。
知人に言わせると、私はことのほか父に似ていると言われました。
それが、母の喜びでもあったようです。
だって、自分の最愛の男性との激しい戦時中の恋愛の証ですから。
顔立ちや体つきが似ている事が、自分の過去を実証する手立てでもあったでしょうからね。

私の性格の半分。
半分と言ったのは、母方の祖父母と生まれたからの7年間、母と過ごしたのが約10年。
父からはDNA、遺伝子を受け継いだのですから良く見て半分でしょうか。
或いはもう少し少ないかも。父のお陰ですから半分にしておきます。

一本のマフラー。
いつだったか忘れてしまいましたが、父から頂いたマフラーが一本、今でも手元に残っています。
当時の父の家庭も生活は苦しかったと思います。
子供が5人(私の異母兄弟)の世帯でしたし、不安定な沖仲仕(おきなかし)の仕事ですから楽な生活ではなかった筈です。
これを頂いたのが最後の別れでした。

就職の時に御餞別。
幾らかは記録を見れば分かりますが、当時の知人の方々から頂いた御餞別より多い金額だった事は間違いありませんでした。
上記のように貧しい生活であった事は否めませんが、多分自分ができる最後の事と考えたのでしょうね。

急に「父の遺したもの」を記載するには本来はもっとじっくり回顧する事が必要でしょうが、

私は自分の父親について、子供達に語った事は全くと言ってもいいくらいに語る事はありませんでした。

子供たちに対する遠慮もありましたし、父親と育っていないことで私自身の弱みや辛みを子供達に知られたくない想いも交錯しましたし、何よりも父親がいないこと、父親から教育を受けていないことで周囲の父親たちと比べると確かに劣っている部分がある事を私自身が認識していましたので、それを口にして語る事で子供達に知られるのが嫌だった事もあるものです。

大切な父親の事を、こんなに短い文章に纏める事は大変に失礼なことですが、いつか機会を捉えてあと少し詳細に纏めてみたいものです。

生涯、一緒に暮らす事のなかった父ですが、私自身を語る事は即ち父を語る事に等しいような気がします。  


Posted by misterkei0918 at 10:50Comments(0)