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2011年04月09日

人が眠っている時間に努力する

人が眠っている時間に努力する

学生時代にも、そんな男がいました。
昼間の部活はしっかりするし。適当に遊んでもいるし、だけどすこぶる成績がいいのです。

先天的な頭の精かと思ったりもしますが、どうもそれだけではなさそうです。
経営者仲間でも、知識豊かな男がいたりします。
仕事の出来る人がいます。

彼らはやはり人が努力をしていない時間や休んでいる時に頑張っているような気がするのです。

凡人の私どもは、人が遊んでいる姿を見ると自分も遊んでいいものと自己都合に判断し、人が寝ているとそれでいいものだと決め込んでいますが、万人を見るとそのように見えてしまいますが、実は一人ひとりの人間はそれぞれに努力を重ねているものです。

表向き勉強をしてそうに見える人ほどそれほどでもなさそうです。
表面的な行動だけでは人を推し量る事は出来ませんし、ジェスチャーである事も大いにあるものです。

案外、「人の為にしてますよ」などと公言している人に限って大したことはしていなかったり、むしろ逆だったりすることだってあり得ます。

これ見よがしに行動する人など、代表的な人間ですよね。

本当に頑張っている人、尽くしている人ほど口に出さず行動には見えなかったりするものです。

見えない所でこつこつとする努力ほど大切なことかもしれませんね。
  


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2011年04月09日

役人は嫉妬するな。聖徳太子の「十七条の憲法」その3

役人は嫉妬するな。聖徳太子の「十七条の憲法」その3

私ども教わった公務員は、憲法第15条にて「国民全体の奉仕者」、「公共の利益・福祉の為に働く」とされ、第99条では「憲法を尊重し、擁護する義務がある」と定められています。

果たして私どもが接する公務員は、どうなのでしょうか。
粉骨細心、頑張っている公務員も知っていますが。

第十一条 功罪をはっきり見分けて、それに応じた賞罰を行え。
近頃、功績に賞を与えず、罪科(ざいか)に罪を科さないことがある。
政事(まつりごと)を執る役人は、賞罰を明確に行わなければならない。

第十二条 知事は人民を搾取してはならない。
国に二人の君はなく、民に二人の主(あるじ)はない。
万民は、王を主(あるじ)とする。
任命された役人は、みな王の臣である。
どうして、公然と人民を搾取できよう。

第十三条 諸々(もろもろ)の官に任用された者はみな、職掌(しょくしょう)を理解せよ。
病気や私用で勤めを休むこともある。
しかし職務をよく知ることのできる時には、昔から、熟知しているように対応せよ。
自分が関知しないことを理由に、公務の邪魔するな。

第十四条 役人は嫉妬するな。
自分が人を妬めば、人もまた自分を妬む。
嫉妬の弊害は限りがない。
よって知識が自分より勝っている人を喜ばず、才能が自分より、優れている人を嫉妬する。
それゆえ五百年に一人の賢人に今、遭遇しても、千年に一人の聖人の出現を待つような態度をとるようなことはするな。
賢人、聖人を得なければ、一体、何によって国を治めればよいのか。

第十五条 私心に背いて公事(くじ)に従うことが、臣としての道である。
およそ人に私心があれば、必ず恨みが生じる。
恨みがあれば、協調ができず、協調がなければ、私心によって公事を妨げることになる。
また恨みがあれば、制度に背いて(そむいて)法を犯すことになる。
それゆえ、初章に上と下は和み(なごみ)睦み合って合意せよと述べたのは、それも、この事を言うのである。

第十六条 民を使うのには時節を考慮せよというのは、古(いにしえ)の良い教えである。
冬の月に時間に余裕があれば、民を使役してもよい。
春から秋までは、農耕や養蚕(ようさん)の季節であり、民を使役してはならない。
農作しなければ、一体、何を食べればよいのか。
養蚕しなければ一体、何を着るのか。

第十七条 物事を独断で決めるな。
必ず人々と相談せよ。
小事は些細であるから、必ずしも人々と相談しなくてもよい。
ただし大事を論じる時には、もしや、自分一人の判断では過失があるかもしれない。
それゆえ、人々とともに検討する時、事は道理にかなうものとなろう。
  


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2011年04月08日

勧善懲悪についても。聖徳太子の「十七条の憲法」その2

勧善懲悪についても。聖徳太子の「十七条の憲法」その2

7世紀初め頃の公務員向けの憲法ですが、今でも十分役に立ちますね。
歴史が長くても人間の本質は殆ど変わらないと言う事でしょうか。

第六条 勧善懲悪(かんぜんちょうあく)は、昔からの良い教訓である。
それゆえ人の善は隠すことなく、悪を見れば必ず正せ、おもねり偽る者は、国家を覆す利器であり人民を絶つ鋭い剣である。
また媚び(こび)へつらう者は、上に対して好んで下の過失を告げ、下に向かっては上の失敗を誹謗(ひぼう)する。
このような人はみな、君に対する忠心がなく、民に対する仁(めぐみ)の念(こころ)がない。 これが大乱の元になるのである。

第七条 人にはそれぞれの任務がある。
役職に乱れがあってはならない。
賢人を官(つかさ)に任じれば、称賛の声が起こるが、妖人(かんじん)が官(つかさ)になれば、頻繁に災いや混乱が起こる。
生まれつき、分別のある人は少ない。
よく思慮して聖人となるのである。
事の大小にかかわらず、適切な人事によって必ず治まる。
時の緩急にかかわらず賢人を迎えれば自然に鎮まる。
そうすれば国家は永久で、社会も安泰である。
それゆえ古(いにしえ)の聖王は官(つかさ)のために人を求めたのであり、
人にために、官(つかさ)を求めることはなかった。

第八条 役人は早く出仕して遅く退出せよ。
公務には暇がない。
終日やってもやり尽くせない。
それゆえ遅い出仕は急用に間に合わず、早い退出は必ず仕事をやり残す。

第九条 信(まこと)は道義の根本である。
あらゆる事に信(まこと)がなければならない。
善と悪、成功と失敗の要は、必ず信(まこと)にある。
群臣ともに信(まこと)があれば、何事であれ、成就しないものはなく、群臣に信(まこと)がなければ、万事に失敗する。

第十条 心に恨みを抱かず、顔に憤りを表さず、人が自分と違うからといって怒ってはならない。
人にはみな心があり、心にはそれぞれの考えがある。
相手が正しいと思っても、自分は間違っていると思い、自分が正しいと思っても、相手は間違っていると思う。
自分は聖人でなく、相手が愚人(ぐにん)でもない、共に凡夫(ぼんぷ)なのである。
是非の理(ことわり)をいったい誰が定めることができようか。
お互いが賢人であり愚者であり、端がない指輪と同じでどこが境界か、区別がつかない。
それゆえ、相手が怒ったら、省みて自分の過失を恐れよ、自分一人が良いと思っても、衆人の考えに従って、同じように行動せよ。
  


Posted by misterkei0918 at 09:58Comments(0)

2011年04月07日

背私向公の想い

背私向公の想い

今日、ある会議で「背私向公」を教えて頂きました。
経営者団体のある会長のご挨拶の中に出てきた言葉です。

聖徳太子の「十七条憲法」の第15条に出てくる言葉のようです。
今選挙の真っ只中ですが、公務員の方々に改めて読み直して頂きたいものですね。

長すぎますので、全文を三日に分けてブログ上に残すことにしました。


聖徳太子の「十七条の憲法」

第一条 和をもって、貴し(とうとし)とする 逆らわないようにせよ。人はみな党類を組むが賢者は少ない。それゆえ、父たる君主に従わず、あるいは近隣の人といさかう。
しかし上下の者が、和み(なごみ)睦みあい、事を論じて合意に至れば、事の道理は自然に通る。何事であれ、成就しないものはない。

第二条 篤く(あつく)三宝(さんぽう)を敬え 三宝とは仏(ほとけ)、法(のり)、僧(ほうし)である。すなわち一切の生類の行き着くところであり、すべての国の究極の教えである。
どういう世であれ、どのような人であれ、この法(のり)を尊ばないことはない。
人は極悪である者は少なく、よく教えると従うものである。三宝(さんぽう)によらずして、一体、何で邪悪を正せようか。

第三条 詔(みことのり)を承ったら、必ず謹んで(つつしんで)従え。君主は天であり、臣は地である 天は覆い、地は載せる。
そうして四季がめぐり、万気(ばんき)が通じるのである。
地が天を覆おうとすれば、万気(ばんき)は通じなくなる。
そこで君主は命じ、臣は承る。
上が行えば、下は従う。
それゆえ詔(みことのり)を承ったら、必ず慎んで従え。
謹んで(つつしんで)従わないならば、必ず自滅する。

第四条 群卿(ぐんきょう)や百官(ひゃっかん)は礼をすべての根本とせよ。
人民を治める根本は必ず礼にある。
上に礼なければ、下は乱れ、下が礼を失えば、必ず罪を犯す者が現れる。
それゆえ群臣に礼があれば、位の序列は乱れない。
人民に礼があれば、国家は自然に治まる。

第五条 接待を絶ち、私欲を捨てて、訴訟(そしょう)を公正にせよ。
人民の訴えは一日に千件ある。
一日でさえこうであるから、まして年を重ねると、なおさら多くなる。
近頃、訴訟を裁く者は、私利を得るのが普通になり、賄賂を得てから申し立てを聞く。
財ある者の訴えは、石を水に投げ込むようなもので必ず通り、貧しい者の訴えは、水を石に投げかけるようなもので、受け入れられることはない。
それでは、貧しい民はなすすべもなく、臣としての道もまた欠けることになる。
  


Posted by misterkei0918 at 19:31Comments(0)

2011年04月06日

「ありがとう」を求めてはダメ

「ありがとう」を求めてはダメ

「ありがとう」百万遍を始めてますが、様々な現象を垣間見ることになりました。

物事が好転し始めたり、些細な事を気にしなくなりましたし、何よりも葛藤が少なくなりました。

それが為に始めた訳ではありませんが、不思議な事に色んな事を感じ始めました。

でも。その見返りを要求するようではいけないと思うようになってきました。

例えば、私が先に扉を開けました。
後ろから誰かが、ついてきています。
私は、扉を閉まらないように手で押さえています。

普通でしたら、ありがとうの言葉が返ってきて当然と思うでしょう。

エレベーターに乗りました。
後から数名の方々が乗ってきます。
扉が閉まりそうです。
私は、「開」のボタンを押しています。

その方々から、ありがとうの言葉が返ってきて当たり前と思っていました。

でも、そうは考えないようにしました。
自分が「ありがとう」百万遍を実践し恩恵を頂いているのですから、相手から見返りを求めているのはどうも可笑しいと思い始めたのです。

これも不思議ですが、相手から戻ってこなくても心の動揺も求める思いもなくなってきたのです。

恩愛は、見返りを求め始めた途端に恩愛ではなくなります。

慈しみは相手からの見返りを求め始めた途端に慈しみではなくなるのです。

貢献は、見返りを求めた途端に貢献とは言わないでしょう。

愛情は、見返りを求め過ぎると憎しみにさえ変化するものです。

日本人の得意とする、見返りを求めない心を私の心の中にも醸成しようと必死にもがいているのです。

「ありがとう」を求めない心、出来ればそのようにわだかまりのない心の状態になれると嬉しいですね。
  


Posted by misterkei0918 at 14:11Comments(1)

2011年04月05日

選抜の高校生は偉かった

選抜の高校生は偉かった

今回の選抜高校野球の開催に当たっては、主催者側も大いに悩まれたことと存じます。

今回の記録的、衝撃的な震災の状況を目の当たりにした時、

私どもが主催する小さな花見であれば、酒席ですから止めるのが当然のような気がしますが高校生の野球はその為に精魂を傾け様々なものも犠牲にし、家族や周辺の期待や応援を背負っての事ですから簡単に結論が出せるものではなかったと思います。

プレーをする彼らも大いに悩んだ事でしょう。

今回の選抜はいつにもまして素晴らしい高校野球だったと私は素人ながら感じ入りました。

試合そのものは断片的にしか拝見していませんのでその中でも色んなところで配慮の跡が垣間見れました。

或いはそれは配慮ではなく自然派性的に生み出されてものかもしれませんね。

鳴り物入りでなかった事、
余りにも御祭騒ぎでは困りますよね。

冒頭の選手宣誓には驚きました。
高校生でそこまで配慮が出来るのかと。

彼の心底からの想いが宣誓となってほとばしったのでしょう。

それと優勝した東海大相模高校の佐藤主将の優勝の弁。
これも感動モノでしたね・。

私ども大人でもなかなか言えない素晴らしい発言でした。

最近にテレビ広告ではありませんが、
「心は見えないけど、心遣いは見える。
思いは見えないけど思い遣りは見える。」

彼の場合は、「心配り」でしょうね。

まさしく被災者の方々の十分な心の癒しになったのではないでしょうか。
若い青年たちがこのような思いで成長してくれる日本は、捨てたものではありませんね。
大いに期待したいものです。

高校生たちよ、ありがとう!!
  


Posted by misterkei0918 at 16:26Comments(1)

2011年04月05日

人の目を気にするより、人の事をどう考えているのか

人の目を気にするより、人の事をどう考えているのか

私などの性格は、人の目を気にしすぎるきらいがあって物事の殆どがそんな視点で回っているような気がします。

他人が、自分をどのように見ているのか、どんな評価をしてくれるのかを神経質なまでに気にしてしまいます。

それが自分を引き上げる原動力になっている事は否めませんが、気にするあまり本来の自分を脱ぎ捨ててしまう恐れだって生じてしまいます。

人に良く思われたいが為に、自己表現が過ぎてしまったり、打算であったり、ジェスチャーであったり。

悲しいかな、本来人間は他人からの評価を高めたいために懸命に努力をし、競争を続けるものです。

勉強などでもそうですが、本来の勉強の必要性よりも友人たちとの競争に負けたくないとか、親や周りからの評価を期待しがちであります。
スポーツでもそうです。
普段の行動でもそうです。

人からの見てくれに神経を尖らし過ぎるが為に、自己本位になったり、人の事よりも自分優先の想いが先走るのかもしれませんね。

でも、大変に難しい事ですね。
バランス感覚でしょうかね。
それを人生経験と言うのかも知れません。

或いは修錬、精進・・・・・


『自分にとって大切なことは、他人が自分のことをどう考えているかということではなく、自分が彼らのことをどう考えているかということだ。ブリヤン』
  


Posted by misterkei0918 at 12:54Comments(1)

2011年04月02日

幸福を感じるのにもコツがいる

幸福を感じるのにもコツがいる

「幸せは何処から来るのだろう」や、
「なぜ幸せが人間には必要なのか」、
「どうしたら幸せになれるのか」、
「幸せは永く留まってくれるにはどうしたらいいのか」
「若しかしたら幸せになるコツがあるのではないか」



幸せに関わる様々な疑問は尽きる事がありません。

それだけ、人々が幸せを望んでいる証拠ですし、人間には幸せの存在が極めて大きいものだと言う事が理解できます。

「あなたは今が幸せな時ですか」と聞かれても、自分本来の幸せは別の所に在りそうな気もしますし、今ではなくて今以上の幸せが他に在りそうな気もしますし、人が幸せを感じる気持ちは複雑で求めは留まる所がありません。

それだからこそ、幸せを求める想いは際限がないように出来ているのでしょうね。

十分な幸せが眼前に在るにも関わらず、それを幸せと感じない人もいますし、極めて些細な事にも大きな幸せを感じる人もいます。

幸せを感じるにもコツがあるような気がします。
幼い頃から、そんな感性を備えている人もいますし、後天的に学ぶ人もいるものです。

いずれにしても、幸せは感じないことには幸せになりませんし受け散る心によって大きくもなり小さいものでもあり、或いは幸せと感じない、逆につまらない怠惰なものとしか映らない人もいるものです。

幸せはこんなものとする定義は、その人それぞれですから出来ませんが大よそ人はどんなことに幸せを感じるかは想像できます。

個人的に考えるには、人はこんなことには幸せを感じるものだと言う事を数多く認知する事が大切な事のように思えます。

認知し、自分がそのような状況に置かれた時には素直に幸せを感じるコツを掴む。

幸せである筈なのに、感じない、認知できない、悲しい事です。
小さな幸せでも、つかの間でも、子供のように振る舞いたいものです。

どうも訓練が必要な気ががします。
家族や友人、周囲とわだかまりなく接する、屈託ない言動を繰り返す・・・・・

他人のちょっとした喜びを自分のものとして感じる事が出来るなどなど・・・


『幸福を感じるのには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である。武者小路実篤』


『幸福とは、旅の目的地のことではなく、旅のしかたのことである。ランベック』
  


Posted by misterkei0918 at 14:08Comments(0)

2011年04月02日

あなたの父は何を遺してくれましたか

あなたの父は何を遺してくれましたか

今朝のある方のメルマガが「父が遺したもの」でした。
はっとしたんです。

私は今まで父の事をどれだけ語ったのかと。

父との大恋愛の末、戦争の犠牲となって結婚できない体になった母親は身ごもった私を抱えて途方に暮れる日々だった筈です。

父方の祖父母から「内の長男には結婚する相手がいる」、
「そんな体の人とは結婚させられない」

そこから私の母の苦難の日々が始まりました。
私自身も翻弄され、境涯の儚さに悔やむ青春を過ごすことに。

でも、決して恨んではいません。
それは母とて同じ。

だって、人生は自らが作ったものであり、導いたものであるからです。

先ほど、筈とした理由は、92歳になった母の口からその事について聞く事が殆どなかったからです。

語りたくなかったのか、私に知って欲しくなかったのか、あるいは恥ずかしいとか思い出したくない、今更と言う思いが交錯したのか。

でも、いつかはしっかり母の口から聞く事も必要かもしれませんね。
私の為にも。
その時間も今となっては少なくなってしまいました。

父の遺したもの。

私の体。
知人に言わせると、私はことのほか父に似ていると言われました。
それが、母の喜びでもあったようです。
だって、自分の最愛の男性との激しい戦時中の恋愛の証ですから。
顔立ちや体つきが似ている事が、自分の過去を実証する手立てでもあったでしょうからね。

私の性格の半分。
半分と言ったのは、母方の祖父母と生まれたからの7年間、母と過ごしたのが約10年。
父からはDNA、遺伝子を受け継いだのですから良く見て半分でしょうか。
或いはもう少し少ないかも。父のお陰ですから半分にしておきます。

一本のマフラー。
いつだったか忘れてしまいましたが、父から頂いたマフラーが一本、今でも手元に残っています。
当時の父の家庭も生活は苦しかったと思います。
子供が5人(私の異母兄弟)の世帯でしたし、不安定な沖仲仕(おきなかし)の仕事ですから楽な生活ではなかった筈です。
これを頂いたのが最後の別れでした。

就職の時に御餞別。
幾らかは記録を見れば分かりますが、当時の知人の方々から頂いた御餞別より多い金額だった事は間違いありませんでした。
上記のように貧しい生活であった事は否めませんが、多分自分ができる最後の事と考えたのでしょうね。

急に「父の遺したもの」を記載するには本来はもっとじっくり回顧する事が必要でしょうが、

私は自分の父親について、子供達に語った事は全くと言ってもいいくらいに語る事はありませんでした。

子供たちに対する遠慮もありましたし、父親と育っていないことで私自身の弱みや辛みを子供達に知られたくない想いも交錯しましたし、何よりも父親がいないこと、父親から教育を受けていないことで周囲の父親たちと比べると確かに劣っている部分がある事を私自身が認識していましたので、それを口にして語る事で子供達に知られるのが嫌だった事もあるものです。

大切な父親の事を、こんなに短い文章に纏める事は大変に失礼なことですが、いつか機会を捉えてあと少し詳細に纏めてみたいものです。

生涯、一緒に暮らす事のなかった父ですが、私自身を語る事は即ち父を語る事に等しいような気がします。  


Posted by misterkei0918 at 10:50Comments(0)

2011年04月01日

みんなが応援している、みんなが感動の渦に巻き込まれている


みんなが応援している、みんなが感動の渦に巻き込まれている

この度の震災は、言葉に尽くせないほど大変なことになってしまいました。

私ども被災していない日本人にとっても、悲しい出来事ですが、様々な場面で、涙を誘うドラマが展開されています。

日本人の素晴らしさや際立った特長が世界中の人々の感動を誘った事も印象深い事でした。

ある方のメルマガに、この度の震災での感動をつづったくだりがありましたので拝借いたしました。

ご寛容くださいませ。


『昨日の夜中、大学から徒歩で帰宅する道すがら、とっくに閉店したパン屋のおばちゃんが無料でパン配給していた。
こんな喧噪のなかでも自分にできること見つけて実践している人に感動。
心温まった。東京も捨てたもんじゃないな。
@ayakishimoto』

『国連からのコメント「日本は今まで世界中に援助をしてきた援助大国だ。今回は国連が全力で日本を援助する。」
@akitosk』

『一回の青信号で1台しか前に進めないなんてザラだったけど、誰もが譲り合い穏やかに運転している姿に感動した。
複雑な交差点で交通が5分以上完全マヒするシーンもあったけど、10時間の間お礼以外のクラクションの音を耳にしなかった。
恐怖と同時に心温まる時間で、日本がますます好きになった。
@micakom』

『物が散乱しているスーパーで、落ちているものを律儀に拾い、そして列に黙って並んでお金を払って買い物をする。
運転再開した電車で混んでるのに妊婦に席を譲るお年寄り。
この光景を見て外国人は絶句したようだ。
本当だろう、この話。
すごいよ日本。
@kiritansu』

『ディズニーランドでは、ショップのお菓子なども配給された。
ちょっと派手目な女子高生たちが必要以上にたくさんもらってて「何だ?」って一瞬思ったけど、その後その子たちが、避難所の子供たちにお菓子を配っていたところ見て感動。
子供連れは動けない状況だったから、本当にありがたい心配りだった
@unosuke』

『駅員さんに「昨日一生懸命電車を走らせてくれてありがとう」って言ってる小さい子達を見た。
駅員さん泣いてた。俺は号泣してた。
@oka_0829』

皆様方もこれに負けないほどの感動に出会ったことと存じます。
いつまでもこの感動を忘れないことですよね。
  


Posted by misterkei0918 at 17:40Comments(0)

2011年04月01日

高慢はもう破滅に等しい

高慢はもう破滅に等しい

こんな言葉を発見しました。

『高慢は常に破滅の一歩手前であらわれる。高慢になる人はもう勝負に負けている。ヒルティ』

何事もそうですが、
高慢、
傲慢、
満心の類(たぐい)は既に破滅、破綻への階段を下りていると思っても良さそうです。

私自身も細心の注意を払わないといけません。

「稲は実る程に頭(こうべ)を垂れる」と言います。

逆に胸を反らせ始めたら下り坂が待っている事を認識しないといけませんね。

また、社員や周囲、関係企業などにぞんざいな言葉使いが目立ち始めると、満心が始まったと考えて間違いはなさそうです。

人は、油断が重なるとつい人を見下してみたり、鼻や顎で指示する行動が出たり、声のトーンが低くなったり或いは高くなったりするものです。

また、何処か偉そうな態度が目についたり、都合にいいことには笑顔が出るものの、見下す相手には消えたりするもの。

常に自分の心に、感謝を忘れることなく、笑顔を絶やさず、心穏やかで、人に尽くす事を旨としなくてはいけませんね。

自らに繰り返し、繰り返し、囁く事が良さそうです。
  


Posted by misterkei0918 at 17:14Comments(2)

2011年04月01日

嘘であって欲しい、夢であって欲しい

嘘であって欲しい、夢であって欲しい

今日は4月1日。
子供の頃は、お互いに騙し合って喜んだものですが大人の世界では許されないことが多いものです。

実業の世界で嘘や可能性のない夢、空事は許されませんし、相手にしてもらえません。

「本音と建前」を履き違えて、嘘をついた事がとんでもない事態に発展したり、人の命までも危うくするものです。

「嘘も方便」と言いますが、連発し過ぎると人間性を疑われますし、相手から避けられる存在にもなってしまいます。

方便は有効に使えば、人間関係の潤滑油になるものですが。

今回の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は大変な事態を引き起こしてしまいました。

1000年に一度とも言われ、私どもの叡智を遥かに越えた避けがたい震災だと思われます。
被災された方々にお見舞いを申し上げますとともに、お亡くなりになられた方々に安らかにお眠りになられますようにお祈りを申し上げます。

また行方が定かでない方々が多くおられますが一日も早くお元気なお姿で発見出来て欲しいと願っております。

何処かの避難所などで連絡がつかない状態でおられる方も多いのではないでしょうか。

今日は4月1日。
4月馬鹿とかエイプリルフールといいます。

今回の震災が出来れば嘘であって欲しい、夢での出来事であって欲しいと願うのは当然の事ですが、もうここまで来ますと、そんなうわ言は言えない現実が眼前に立ちふさがっています。

明日をどうするか、過去をどう精算するか・・・・・

財産の問題や身の振り方、子供や孫の将来、お金の事、当面の山積する課題の多い中で悲しい現実とも向き合わねばなりません。

当事者でなければ、この痛みは分かりませんがその万分の一でも私どもが背負っていけるようにならねばいけません。

本当に、「嘘であって欲しい、夢であって欲しい」そのように思うのは私だけではないでしょう。
  


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2011年03月31日

義と利

義と利

任侠の世界のことの様に思えますが、実は私どもの日常でも義と利は深く係わっていますよね。

鹿児島では「義を言うな」と良く言います。

義は、象形で言うと「羊をいけにえとして刃物で殺すさま。厳粛な作法にかなったふるまい」

正しい、
道にかなっている、
人のふみ行うべき正しい道、
五常の一つ(仁・義・礼・智・信)
実物の代わり(本物ではないけど同じとみなす。義父、義足・・・)

義理人情の義が代表的なものかもしれませんね。
人間としての根源的な話ですよね。

人に言わせると、義は相手や他人に対する行動の規範と言う人もいます。


孔子は、義について
『子曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり、義を見て為(せ)ざるは勇なきなり)
「自分の先祖でも無いのに祭るのは媚諂う事だ、正義を行うべき時に行動しないのは臆病者だ。」


『子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る』
「人格者は正しさを求め、つまらない人間は利益を求める。」


利は、調べてみましたら
象形としては、稲に手をかけ、鋭いすきで土をすき起こすさま。
するどいとか、
役に立つ、
こうじて、為になる、切れる、儲け、賢い・・・・・
自分が周りに対してどういうスタンスなのか。
利己、利他と言う言葉もあります。

孔子は、利について
『子曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し』
「もし自分の利益のためだけに行動すれば、人々の恨みを買うだろう。」


『利を見ては義を思い、危うきを見ては命(いのち)を授(さず)く、久要(きゅうよう)、平生(へいせい)の言を忘れざる、亦以て成人と為すべし』

「もし利益より正義を優先し、危険に身命をなげうつ覚悟があり、昔交わした小さな約束までも忘れないようにするならば、完成された人物と言って良いだろう。」


義は、社会や他人、周囲を優先する想い、
利はどちらかと言うと自らの事を優先する想い。

両方とも、象形としては鋭い刃物が出てくるから不思議です。
日本の漢字に対する想いがますますつのりそうですね。
  


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2011年03月31日

お星様への誘(いざな)い

お星様への誘(いざな)い

最近、月や星への関心が強くなってきました。
その分、お日様・太陽への興味が薄れてきた?

むしろ、天照大神や仏教、古寺・・・等に興味が移ってきました。
これも年の精なのでしょうかね。

お日様への関心が薄れたというよりも興味の対象が変化してきたというのが本当でしょう。
お日様と言えば、中でも気を引くのは日の出ですよね。

一日の始めに拝むお日様は何か特別なものが存在します。
所謂、神道的な精神構造が働いているのでしょう。

或いは、私が勝手に守護神として尊敬している母方の祖父が毎朝、お天道様に両手を合わせている後ろ姿を拝見していた事にも由来するものでしょう。

初日の出を見るとつい両手を合わせて頭を垂れてしまいます。

月や星への関心の始まりは、一つには夜のウォーキングが多くなったことも一つの原因でしょうし、毎年大晦日に家族で出かける温泉宿での想いでも大きな要因の一つのようです。

ウォーキングの時には何故かしら天上を仰ぐ癖があります。
幼い頃、南国で生まれ育った私は、今にも落ちてきそうな星々を眺めながら過ごした記憶があります。

また、年の瀬の慌ただしさから解放される大晦日。

大分県の山間の温泉宿が毎年恒例の年越しになっていますが、ここで見た夜空の星の多さに圧倒された経験がどうもそんな関心を呼び起こしているようです。

そうですね、馬齢を重ねてセンチメンタルな気分、或いは少し精神的に衰えを見せてきたのか、はたまた挙句の果ては夜空のお星様にでもなろうとでも思っているのか。

近いうち、星やの天体の観測もしたいとも思いますし、福岡市中央区の福岡市立少年科学文化館でも訪ねてプラネタリュームの見学の実現をしたいとも思います。

多分、子供たちが殆どでしょうがそれでも賑やかな勉強の方が楽しいでしょう。

以前、福岡県星野村の天文台を訪ねた事がありますが、この時には天気に恵まれず空振りになってしまいました。

いずれにしても私どもの生活だけではなく、体のリズムを始め或いは構造的にも天体の影響なしでは存在しないでしょうから、少し勉強を始めるのもいいかなと思っております。

それで、少しでも人としての深みや幅が出てくれると、もっと嬉しい事ではありますが。

  


Posted by misterkei0918 at 10:23Comments(0)

2011年03月30日

「ありがとう」の言葉に心は入っているのか

「ありがとう」の言葉に心は入っているのか

「ありがとう百万遍」の旅を始めてから、そうですね、6年位にはなったでしょうかね。

尊敬する名古屋のある方からご指導を頂いて始めたことですが、不思議や不思議、人生が好転するのを実感いたします。

出来れば皆さんにも実践して頂きたいものです。

声を発しての「ありがとう」だけではなく、メールや他人のメッセージのコメント等あらゆる所で「ありがとう」の連発です。

「ありがとう百万遍」ですから、中途半端な気持ちでは生涯実現は不可能ですし、或いは心が伴わなくては何にもなりませんよね。

ただの繰り返しでは却って実践しない方がいいかもしれません。

下心や利益誘導の「ありがとう」は当然見透かされてしまいますし、却って心を疑われる結果を招き自身の人間関係を損なう結果を招くことは言わずともがなです。

「ありがとう百万遍」を続けていると、惰性になることだってありますよね。

心の伴わないありがとう、
口先三寸のありがとう、
出まかせのありがとうになってしまいます。

出来れば笑顔を添えてあげられるといいですよね。

自分の心にいつも問い直す必要があります。
お前は本当に心の底からありがとうの言葉を発しているのか?

気持ちの乗らない日もありますし、体調の悪い時・・・・・
或いは「ありがとう」どころではない時だってあるものです。

「ありがとう」の全てがそうでなくても大半は心のこもった「ありがとう」を発したいものですし、常に自分の胸に問い直す必要がありそうです。

こんな文章を頂きました。

『高知県に「ありがとう駅」ができました。ちなみに隣の駅は「ごめん(後免)駅」。「ありがとう」と「ごめんなさい」。何気ない言葉ですが、相手が分かっていると思っても言わなくてはいけない言葉です。しかも繰り返し言わなくてはならない言葉です。家族が仲良くなるコツは、この大切な言葉をお互いに口にし合うことです』


『大規模な災害がおこりました。夜の12時過ぎ、避難所にわずかですがおにぎりが届きました。二人に一つ。ある夫婦は「こんな中、ありがとうございます。二人で半分ずついただきます」。でもある夫婦は「ワシら、朝から何も食っておらん。こんな夜更けに握り飯一個だけか」。試練の時こそ、どう生きてきたかが試されます』
  


Posted by misterkei0918 at 18:06Comments(1)

2011年03月30日

今年の桜は何故かしら悲しく見える

今年の桜は何故かしら悲しく見える

とんでもない震災が起きたものです。
悲しい限りです。

直接ではなくても身近に、震災に遭遇された方々がおられたのではないでしょうか。

今は気付かなくても或いは過去に関わった方、若しくは存じ上げている方が犠牲になっている事もありますよね。

将来になって、ある時音信が途絶えている事を知ることになるやもしれません。

福岡地方は桜の開花宣言が日本で3番目になされました。

確か高知が一番、2番目が熊本。

今年は桜が悲しげに見えます。

いつもでしたら、華やかで躍動的で自然の摂理の有難さを噛みしめ、心も体もうきうきと沸き立つものを感じるものです。

しだれ桜も何かしら、気分が落ち込んでうなじを垂れている乙女のような、物悲しさを伝えます。

咲きかけたソメイヨシノのつぼみも遠慮がちで、躊躇っているようなそんな感じです。

ほろと落ちる花びらを見るにつけ、こちらまでついほろりと目に涙さえ浮かべてしまいます。

震災に遭われた方々の目に、桜の花はどのように映る事でしょうか。

いつもでしたら、花に誘われて浮かれ気分になるのですが。

そうですね、
今はただ悲しみの中ではありますが、輝かしい春は必ず再び戻ってくる事を信じて、力強い歩みを始めて欲しいものです。

日本の国民、一人残らず皆様の為に心を一つにしている事を信じて欲しいものです。

今年の桜の姿は確かに、物悲しい姿に見えます。
私どもの心の姿が鏡のように映っているかのようです。

再び、以前のように心浮き立つ季節の花として蘇ってくれることを信じています。

それは私どもの心の中にこそ潜んでいるようです。
頑張りましょう。
  


Posted by misterkei0918 at 17:26Comments(0)

2011年03月30日

心穏やかな日々が過ごせますように

心穏やかな日々が過ごせますように

余りにも喜怒哀楽の激しい人生は嫌なものです。

出来れば、穏やかな平穏な日々でありたいと望みます。
所が人生にそんな穏やかさをなかなか与えてはくれません。

御釈迦様も一生は「生病老死」と説き、苦しみから逃れる事の出来ないこと、厳しい人生である事を教えておられます。

授けて頂いたのは、そんな中にあっても穏やかな心を持てる瞬間を作る知恵を人間に授けて頂きました。

喜怒哀楽のない人生は、どちらかと言うと怠惰で退屈極まりない人生であって、喜楽だけを選んで人生を歩むことは難しいですし、怒哀だけでは悲しい人生になってしまいます。

その全てを享受することで、人生は意義深く、満足するように出来ているようです。

怒哀は喜楽を得るための助走位に考えてもいいのではないでしょうか。

穏やかな日々を過ごすという事は、怒哀の日々を乗り越えた証であって、それなしには訪れないもののように思えます。

逆に喜楽は、次に或いは交互に訪れるであろう怒哀の為のつかの間であって、心の充電期間のような気がします。

喜楽の時に、安堵することなく修練を積み重ね、自己鍛錬に勤しむ事が出来る人にのみ喜楽に繋がる怒哀を準備してくれているようです。

心穏やかな日々を過ごすという事は、次なる怒哀に向けての歩みが既に始まっている事でもあります。

それは決して恐れる事でもなく、悲しむべき事でもないようです。

人生の機微はそのようにして幾度も幾度も繰り返しながら、より深い穏やかさや安堵の日々を享受できるように造られているような気がします。


『心を平にし、気を和やかにす。これ身を養い、徳を養うの工夫。貝原益軒』
  


Posted by misterkei0918 at 00:09Comments(1)

2011年03月29日

何でも出来そうな気がする

何でも出来そうな気がする

最近、なんでも出来そうな気がします。
今までが、自信喪失の年月でしたから。

だからと言って自信がみなぎっている訳でもありませんし、奢り高ぶっている訳でもありませんが今ここまで来たら、全てが旨く出来そうな気がするのです。

それは積み重ねの結果であったり、経験の賜物のような気がします。

自分には出来そうもないことや無理だと考えていた事を少しづつ、少しづつ実践、経験をしてきましたのでそんな気持ち、境地になったのかもしれませんね。

言わば、馬齢をかさねてきたということに尽きるのでしょう。

人は自信過剰でもいけませんし、かといって委縮した人生も悲しいものです。
中庸を求めるのですが、そんなに旨くは出来ていないのです。

殆どの人が中庸の人生でしょうが、私のように歪(いびつ)で卑屈で、引っ込み思案な人生を送っている方は多いものです。

でも、人生は旨く出来ているものです。
自らの人生をより新しい展開を求めて、能動的に働き掛ける人には味方をしてくれるものです。

良く「天が味方をしてくれる」
「天が運を授けてくれる」等がそうですよね。

努力や行動が伴う事によって、引き寄せられるのかもしれません。
人生はそんなものです。

回り始めた歯車には、常に回転しようとする動力と潤滑剤が必要なように、人生の歯車は好転を始めると何かしら全てが引きずられて望む方向に進み始めるものです。

時として「好事魔多し」などと言う事もありますし、突発的な災いも飛び込んでくるもの。

そんなときでも、慌てることなく冷静な心を保ちながら対応する事が大事なようです。

また、有頂天や偉ぶった態度は坂道を下り始める原因であって、慎まないといけませんよね。
謙虚で、穏やかの心持こそ大事でしょう。

人生は訓練そのもの。

今が過酷であっても、人を大切にし、希望や夢を失うことなく真摯な行動に終始することで人としての修練の道筋を歩むことになるのでしょうから天から与えられた使命を全うすることになると思われます。

何処か窮屈な怠惰な人生と思えがちですが、それが決してそうではないことに気づくことこそが重要と思われます。
  


Posted by misterkei0918 at 16:21Comments(0)

2011年03月26日

今、この瞬間が大事

今、この瞬間が大事

歴史も大事、過去も大事ですが、その時の流れの話の中で最も大事なのは今なのではないでしょうか。

過去、現在、未来の話で言えば、現在でしょう。

今の自分の考え方、行動や実践、努力が自分の未来を作っているであろうとする想い。

オーバーな言い方をすれば、未来は今の自分の在り方が決める、
今の自分の行動が未来の自分を決定づけていると。

そのように考えて自分の過去を振り返ってみるとどうも確実な理論のような気がするのです。

途中には想像もしない出来事や突発的な現象で、過去の自分の結果でないような事態が生じる事もないではありませんが、それとて若しかするとそうであるかもしれませんよね。

でも、どうも今が大事だとか、
今、真摯に人生を捉えるとか、
社会が求める自分を作るために努力するとか、
そんな想いが大事だと思われます。

日々の一生懸命さが、将来に繁栄すると言う事なのでしょう。

例え、涙の今日であっても明日を信じて乗り切ろうとする想いは通じるものです。

因果応報等も言葉を使わなくても、自らの過去を振り返ってみたら何故かしら不思議と理解できるものです。


『現在の自分は、今までやってきたことの結果であり、将来の自分は今やっていることの結果である。ブッダ』
  


Posted by misterkei0918 at 12:02Comments(0)

2011年03月26日

経営とは「心の在り方の追及」

経営とは「心の在り方の追及」

あるベンチャ企業のカリスマ的な存在のトップが、「人の心はお金で買える?、お金でどうにでもなる?」と発言したことが話題になったものです。

確かに、そんな側面がないとは言えませんが、実際にお金で人の心を揺り動かす、或いは惑わすことはいけませんよね。

じゃ、ヘッドハンティングはどうなるかと言われそうですが、経済は馬の目を抜くような側面もないではありませんのでお互いの合意の上で、そんな割り切った関係が存在する事も仕方がない側面もあるような気はします。

でも経営は、経営する人の「心の在り方の追及」のような気がするのです。

ただ、数字並べに終始するのでもなく、

社会にどのように対峙するのか、
向き合うのか、
お客様、ユーザーとの繋がり、
社員の幸せ、福利厚生、希望、夢をどうして実現するのか、
社員の人間性を高めるためにどうするか、」
関係業者との関わり方をどうするのか、


色んな事が想い浮かびますが、一言でいえば、
経営は経営者自身の「心の在り方の追及」のだと私は解釈します。

企業は適正な利潤追求の場ではありますが、こと経営は?と自分に問いかけてみるとそんな答えが返ってきます。

経営学、経営理論とか言うと、それは学問的な裏付けの事であって、明らかに経営とは異なる事のような気がするのです。

経営の「経」の字は、私自身の勝手な解釈としては「まっすぐな心」であって、
経営の「営」は、その具現化、実践化であろうと。

そういう意味で言えば、経営者にとっての経営は、一種の修行、練磨、修錬、精進と言う言葉を羅列しても可笑しくはないのではないでしょうか。

人によると、それは考えすぎとか、そんなことまで考えなくてもいいとか、利益追求、売上至上主義、企業拡大こそが経営と言う言い方をする人もいるかもしれませんね。

それはそれで、その人の経営の在り方でしょうから私がとやかく言う事ではありませんが。

経営は色んな事を教えてくれます。
多くの気付きを頂けます。
それに答える勇気や叡智、多くの人との関わりの大切さを教えてくれます。

「心の在り方の追及」、この事を忘れずに頑張らばないといけませんね。
きつい時もありますが。


『経営者がなさねばならぬ仕事は学ぶ事が出来る。
しかし、経営者が学び得ないが、どうしても身につけていなければならない資格が一つある。
それは天才的な才能ではなく、実にその人の品性である。ピーター・F・ドラッカー』
  


Posted by misterkei0918 at 11:38Comments(0)