2010年12月17日
「愛の欲求」について語る
「愛の欲求」について語る
私にとって愛について語るほど、難しく感じることはありません。
それは、私の幼児体験がそうであり、また幼児時代の生育の過程がそうであったようにどちらかというと歪(いびつ)でねじ曲がった精神の在り方がそのようにさせているような気がします。
ある方のメルマガを拝見していましたら、十分に頷ける内容でしたので引用をさせていただきました。
読んでいただけば、残念ながら頷けるところが殆どであることに気づきます。
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◆『三つの愛の欲求』を満たすことが心身のバランスを保つコツ
宗像恒次教授(筑波大学大学院)
私たちが心身ともに健康であるためには、この世に生まれ、生きていることの幸福を実感できることが大前提となり、そのためには、欲求の充足・不充足のバランスが取れていることが不可欠なのだ。
問題は、多くの人が根本にある「三つの愛の欲求」の存在に気づいていないことにある。
人は、例えば「愛してもらえない」あるいは「愛してもらえそうもない」といった状況に遭遇すると、本人がその理由に気づいていても、腹が立ったり不安になったりする。
なかには、衝動を抑えることができず、パニック状態に陥ってしまう人もいる。
そのような抑えがたい怒りや悲しみ、みじめさといった否定的な情動(身体的・生理的変化をともなう感情の動き)は、愛の欲求が充足されないときに生じる生体反応である。
多くの人は、自分のなかにそのような情動が生じることはあっても、そんな思いがどこから、なぜ湧き上がってくるのかという本当の理由を知らない。
しかし、その「知らない」ということが、身体疾患や精神疾患をつくり出す重大なストレスとなりうるのである。
がんやうつ病をはじめ、糖尿病、高血圧などの生活習慣病のほとんどは、不健康な行動習慣をつくり出す「ストレス性格病」である。
だが、その根元になるものは、こうした愛の欲求が満たされない飢餓感の持続が生み出した愛のストレス病であると、私はみている。
愛の渇望感が生まれるとき三つの愛の欲求についてもう少し詳しく見ていこう。
●一つ目の愛の欲求「慈愛願望欲求」
他人に評価されることによって自分を認めようとする「人から認められたい、愛されたい」欲求である。 だいたい10歳頃までの生育過程で、両親や周囲の大人たちに十分に認められ愛されていれば、この欲求は十分に満たされ、渇望感は、大人になってまで尾を引くことはない。
しかし、両親の仲がよくなかった、あるいは片親が早くに死んだなどという過去の記憶があると、大人になってからも、「私を愛して!」「私を認めて!」という心の衝動に振り回されることになる。
●二つ目の愛の欲求「自己信頼欲求」
他人の評価にかかわらず、自分自身を信じて認めようとする欲求である。
一つ目の慈愛願望欲求が適切に満たされた環境のなかで育つと、次に人は、自分に自信を持ちたいと欲求が強まる。
そして、自分を信じて自分の意思で行動するようになり、行動することによって目標を達成する喜びを知り、自分に対する信頼感を深めていく。
ところが、自己信頼欲求を充足しようとする子どもの行動は、親から発せられる「~してはだめ」「~しなさい」という禁止・指示・命令語でしばしば阻まれる。あなたも自分の子ども時代や、あるいは子育て時代を振り返ってみると思い当たるのではないだろうか。
自己信頼欲求を充足させるような理想の生育環境など、現実にはなかなかありえないことなのだ。
何かをするにしても親の監視のもとであったり、やりたいことをやらせてもらえなかったり、反対にやりたくないことを強制されたりと、ほとんどの人が、自己信頼欲求を十分に満たすことがないまま大人になっているというのが現状だろう。
他人の評価に一喜一憂し「誰がどう評価しようが、自分は自分」というふうに考えられないのは、自分を信頼するために必要な行動体験を子どもの頃にしていないからにほかならない。
●三つ目の欲求「慈愛欲求」
最後に、自分を信じることができて始めて強まってくる欲求である。
他人の評価はどうあれ、自分の損得はどうあれ、他人を無条件に認め、愛したいという欲求である。この欲求は、自己信頼欲求がある程度満たされていないと生まれてはこない。
自分に自信がなく、他人に認めてもらうだけで精一杯という人に、他人を思いやるゆとりがあろうはずもない。
ただ、「人を愛したい」という慈愛欲求は、一つ目の「人に愛されたい」という慈愛願望欲求と勘違いされやすく、本人でさえそのすり替えに気がつかないことがある。
世の中にはやたらに人の面倒を見たがるおせっかい焼きや、善意の押し付けをして自己満足している人が、けっこういるようだ。
本人は人のためにしているつもりでも、はたからは自己満足でやっているとしか見えない。
こういった人たちの行動は、一見すると慈愛欲求から出ていると思うかもしれないが、実は「必要とされたい」という慈愛願望欲求を満たす行動である場合がほとんどである。
「人に必要とされている」「人の役に立っている」そう思えるような行動をとることにより、「自分を認めてほしい、愛してほしい」という慈愛願望欲求を満たそうとしているのだ。
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私にとって愛について語るほど、難しく感じることはありません。
それは、私の幼児体験がそうであり、また幼児時代の生育の過程がそうであったようにどちらかというと歪(いびつ)でねじ曲がった精神の在り方がそのようにさせているような気がします。
ある方のメルマガを拝見していましたら、十分に頷ける内容でしたので引用をさせていただきました。
読んでいただけば、残念ながら頷けるところが殆どであることに気づきます。
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◆『三つの愛の欲求』を満たすことが心身のバランスを保つコツ
宗像恒次教授(筑波大学大学院)
私たちが心身ともに健康であるためには、この世に生まれ、生きていることの幸福を実感できることが大前提となり、そのためには、欲求の充足・不充足のバランスが取れていることが不可欠なのだ。
問題は、多くの人が根本にある「三つの愛の欲求」の存在に気づいていないことにある。
人は、例えば「愛してもらえない」あるいは「愛してもらえそうもない」といった状況に遭遇すると、本人がその理由に気づいていても、腹が立ったり不安になったりする。
なかには、衝動を抑えることができず、パニック状態に陥ってしまう人もいる。
そのような抑えがたい怒りや悲しみ、みじめさといった否定的な情動(身体的・生理的変化をともなう感情の動き)は、愛の欲求が充足されないときに生じる生体反応である。
多くの人は、自分のなかにそのような情動が生じることはあっても、そんな思いがどこから、なぜ湧き上がってくるのかという本当の理由を知らない。
しかし、その「知らない」ということが、身体疾患や精神疾患をつくり出す重大なストレスとなりうるのである。
がんやうつ病をはじめ、糖尿病、高血圧などの生活習慣病のほとんどは、不健康な行動習慣をつくり出す「ストレス性格病」である。
だが、その根元になるものは、こうした愛の欲求が満たされない飢餓感の持続が生み出した愛のストレス病であると、私はみている。
愛の渇望感が生まれるとき三つの愛の欲求についてもう少し詳しく見ていこう。
●一つ目の愛の欲求「慈愛願望欲求」
他人に評価されることによって自分を認めようとする「人から認められたい、愛されたい」欲求である。 だいたい10歳頃までの生育過程で、両親や周囲の大人たちに十分に認められ愛されていれば、この欲求は十分に満たされ、渇望感は、大人になってまで尾を引くことはない。
しかし、両親の仲がよくなかった、あるいは片親が早くに死んだなどという過去の記憶があると、大人になってからも、「私を愛して!」「私を認めて!」という心の衝動に振り回されることになる。
●二つ目の愛の欲求「自己信頼欲求」
他人の評価にかかわらず、自分自身を信じて認めようとする欲求である。
一つ目の慈愛願望欲求が適切に満たされた環境のなかで育つと、次に人は、自分に自信を持ちたいと欲求が強まる。
そして、自分を信じて自分の意思で行動するようになり、行動することによって目標を達成する喜びを知り、自分に対する信頼感を深めていく。
ところが、自己信頼欲求を充足しようとする子どもの行動は、親から発せられる「~してはだめ」「~しなさい」という禁止・指示・命令語でしばしば阻まれる。あなたも自分の子ども時代や、あるいは子育て時代を振り返ってみると思い当たるのではないだろうか。
自己信頼欲求を充足させるような理想の生育環境など、現実にはなかなかありえないことなのだ。
何かをするにしても親の監視のもとであったり、やりたいことをやらせてもらえなかったり、反対にやりたくないことを強制されたりと、ほとんどの人が、自己信頼欲求を十分に満たすことがないまま大人になっているというのが現状だろう。
他人の評価に一喜一憂し「誰がどう評価しようが、自分は自分」というふうに考えられないのは、自分を信頼するために必要な行動体験を子どもの頃にしていないからにほかならない。
●三つ目の欲求「慈愛欲求」
最後に、自分を信じることができて始めて強まってくる欲求である。
他人の評価はどうあれ、自分の損得はどうあれ、他人を無条件に認め、愛したいという欲求である。この欲求は、自己信頼欲求がある程度満たされていないと生まれてはこない。
自分に自信がなく、他人に認めてもらうだけで精一杯という人に、他人を思いやるゆとりがあろうはずもない。
ただ、「人を愛したい」という慈愛欲求は、一つ目の「人に愛されたい」という慈愛願望欲求と勘違いされやすく、本人でさえそのすり替えに気がつかないことがある。
世の中にはやたらに人の面倒を見たがるおせっかい焼きや、善意の押し付けをして自己満足している人が、けっこういるようだ。
本人は人のためにしているつもりでも、はたからは自己満足でやっているとしか見えない。
こういった人たちの行動は、一見すると慈愛欲求から出ていると思うかもしれないが、実は「必要とされたい」という慈愛願望欲求を満たす行動である場合がほとんどである。
「人に必要とされている」「人の役に立っている」そう思えるような行動をとることにより、「自分を認めてほしい、愛してほしい」という慈愛願望欲求を満たそうとしているのだ。
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Posted by misterkei0918 at 23:28│Comments(0)