2010年03月11日
自分が分かりますか?
自分が分かりますか?
何時まで経っても、幾ら年齢を重ねても掴みどころの無い自分があります。
むしろ他人の方が分かっていたりするものです。
私に接する他人は、私向けの態度や言葉、アプローチの仕方で接してくるものです。
余程で無い限り、全く違う姿や素振り、言葉を発することはないものです。
私に見せる姿は私様であり、私以外の人に見せる姿とは違うものです。
ですから、他人の事は案外と理解も出来ますし、大よそ想像の範囲です。
所が自分は、この人に対する姿や態度、あの人に対する姿や態度を自ら眺めるわけですから時には全く違う様子を見せることがあるものです。
だから、案外自分の事は分かりませんし、分かっているつもりでも本来の自分は何処にあるのかなかなか掴めないものです。
分かっていると言われる人がいるとすれば、
余程穏やかな人間なのか、
人間が出来ていて、万人に平等に接する事が出来るのか、
或いは鈍感で、自分の変化が掴めないのか、
精神的なゆとりが余程無いのか
・
・
私などは余程精進がたり無いと見えて、どれが本当の自分なのかをつかみとることが出来ません。
自分の本来はこれなんだと、時には言ってみたいものです。
右に対する自分があるかと思えば、
左に対する自分がいて、
上に対する自分がいると思えば、
下に対する自分がいたりして。
出来れば、終始一貫した自分が確立出来ればいいのでしょうけど。
『自分自身の感情には、気を許すな。新約聖書、聖パウロ「ローマ人への手紙」』
『自分のことより人のことのほうが、はっきり見きわめがつく。
ラテン、テレンティウス「自責」前2世紀』
『他人を知る者は利口で、自分自身を知る者は明敏である。
他人を克服するものは力を持ち、自分自身を克服する者は勇敢である。老子』
何時まで経っても、幾ら年齢を重ねても掴みどころの無い自分があります。
むしろ他人の方が分かっていたりするものです。
私に接する他人は、私向けの態度や言葉、アプローチの仕方で接してくるものです。
余程で無い限り、全く違う姿や素振り、言葉を発することはないものです。
私に見せる姿は私様であり、私以外の人に見せる姿とは違うものです。
ですから、他人の事は案外と理解も出来ますし、大よそ想像の範囲です。
所が自分は、この人に対する姿や態度、あの人に対する姿や態度を自ら眺めるわけですから時には全く違う様子を見せることがあるものです。
だから、案外自分の事は分かりませんし、分かっているつもりでも本来の自分は何処にあるのかなかなか掴めないものです。
分かっていると言われる人がいるとすれば、
余程穏やかな人間なのか、
人間が出来ていて、万人に平等に接する事が出来るのか、
或いは鈍感で、自分の変化が掴めないのか、
精神的なゆとりが余程無いのか
・
・
私などは余程精進がたり無いと見えて、どれが本当の自分なのかをつかみとることが出来ません。
自分の本来はこれなんだと、時には言ってみたいものです。
右に対する自分があるかと思えば、
左に対する自分がいて、
上に対する自分がいると思えば、
下に対する自分がいたりして。
出来れば、終始一貫した自分が確立出来ればいいのでしょうけど。
『自分自身の感情には、気を許すな。新約聖書、聖パウロ「ローマ人への手紙」』
『自分のことより人のことのほうが、はっきり見きわめがつく。
ラテン、テレンティウス「自責」前2世紀』
『他人を知る者は利口で、自分自身を知る者は明敏である。
他人を克服するものは力を持ち、自分自身を克服する者は勇敢である。老子』
Posted by misterkei0918 at 23:04│Comments(0)