2010年05月10日
来世も、又自分に生まれ変わってみたい
来世も、又自分に生まれ変わってみたい
生まれ変わるとしたら、どうしますか。
よく聞かれますし自分でも考えることがあります。
この世は前世からの繋がりだとも言います。
「犬畜生も人間も、草花も前世の因果を引きずってこの世に来ている」と。
果たして前世は何であったのでしょうか。
犬畜生、魚介類・・・だったのか、或いは路傍の草木、花だったのか
或いはこの世で人間になっている人は、前世で善行をした人、穏やかに過ごした人だとも言いますから、人間だったのかも知れませんね。
若しかするとそんな事は全く有り得ない事かも知れませんし、私の能力では推測さえ可笑しいのですが。
例え話として、
「若し、来世に生まれ変われるとしたら何になりたいですか?」と問われたら、私は「今と同じ自分になってみたい」と答えます。
様々な苦労もしましたし、経験しなくても良さそうなことも随分としてきました。
どうして私だけこんな境遇なのかと親を恨んでみたり、自分を卑下してみたり。
時には、この世を儚く、恨んでも見たり、捨て去ることも考えたりしたものです。
今は違いますが。
所が、世の中は捨てたものではないとも言います。
捨てる神あれば、拾う神ありとも言います。
生まれ変われるとしたら、もっと上手な生き方がしたいのです。
上手に生きると言うと、人を誑(たぶら)かすとか、楽をしたいとか、人を差し置いて等に象徴されるような「上手に生きる」ではありません。
望むなら、人生のスタートだけはこの世のようであって欲しくありません。
恵まれる必要もありませんし、際立って目立事も要りません。
普通の状態で、平均的な状態であればそれで満足なんです。
マイナスからのスタートでは無く、一般的な家庭で、平均的な家族で始まると有り難いと思っています。
その状況で、人生が始まり、どこまで到達できるかが興味深いところなのです。
所が、疑念も存在します。
今の私は実は、マイナスの人生のスタートを切ったからこそ今の私が存在するのであって、若しかするとそうでない私は違う私である事が予想されるのです。
来世で例え、私として生まれてきたとしても今の私ではない可能性があるということです。
考えてみましたら、今を大切に真摯に生きることが大切ということになるのでしょうか。
生まれ変わるとしたら、どうしますか。
よく聞かれますし自分でも考えることがあります。
この世は前世からの繋がりだとも言います。
「犬畜生も人間も、草花も前世の因果を引きずってこの世に来ている」と。
果たして前世は何であったのでしょうか。
犬畜生、魚介類・・・だったのか、或いは路傍の草木、花だったのか
或いはこの世で人間になっている人は、前世で善行をした人、穏やかに過ごした人だとも言いますから、人間だったのかも知れませんね。
若しかするとそんな事は全く有り得ない事かも知れませんし、私の能力では推測さえ可笑しいのですが。
例え話として、
「若し、来世に生まれ変われるとしたら何になりたいですか?」と問われたら、私は「今と同じ自分になってみたい」と答えます。
様々な苦労もしましたし、経験しなくても良さそうなことも随分としてきました。
どうして私だけこんな境遇なのかと親を恨んでみたり、自分を卑下してみたり。
時には、この世を儚く、恨んでも見たり、捨て去ることも考えたりしたものです。
今は違いますが。
所が、世の中は捨てたものではないとも言います。
捨てる神あれば、拾う神ありとも言います。
生まれ変われるとしたら、もっと上手な生き方がしたいのです。
上手に生きると言うと、人を誑(たぶら)かすとか、楽をしたいとか、人を差し置いて等に象徴されるような「上手に生きる」ではありません。
望むなら、人生のスタートだけはこの世のようであって欲しくありません。
恵まれる必要もありませんし、際立って目立事も要りません。
普通の状態で、平均的な状態であればそれで満足なんです。
マイナスからのスタートでは無く、一般的な家庭で、平均的な家族で始まると有り難いと思っています。
その状況で、人生が始まり、どこまで到達できるかが興味深いところなのです。
所が、疑念も存在します。
今の私は実は、マイナスの人生のスタートを切ったからこそ今の私が存在するのであって、若しかするとそうでない私は違う私である事が予想されるのです。
来世で例え、私として生まれてきたとしても今の私ではない可能性があるということです。
考えてみましたら、今を大切に真摯に生きることが大切ということになるのでしょうか。
Posted by misterkei0918 at 13:18│Comments(0)